>◆なぜ日本人は高い社会秩序を維持できるのか
>世界的にも日本人ほど秩序の高い社会を営んでいる人々はいないだろう。
何事につけ、他からの指示がなければ行動に出られませんからね。日本人には、意思がない。
>このような高い秩序は、国家などトップダウンの厳格な法と規律訓練により可能になると、個人主義の西洋の文脈では考えられがちだ。
そうですね。
>しかし日本人は、特別、法、規律訓練が厳格化ということはない。
意思がなければ動けない。
>この日本人の秩序を維持しているのは、通俗道徳である。
そうですね。暗記物による教育効果ですね。
>小さい頃から厳しいしつけをしている訳ではなく、日本の通俗道徳は日本社会の慣習に組み込まれていて、日本で生活する中で、そのように振る舞っている面が強い。
同感です。’人の振り見て 我がふり直せ’ ですね。
> 勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従など儒教徳目を基礎とした通俗道徳は、時代遅れになりつつあると言われる。
そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>新たな秩序は、合理的で、個人を尊重する西洋近代的なものである。 >そこには、流れがある。 >通俗道徳から西洋合理性へ向かうことが正しいと。
個人には、個人判断が必要ですね。各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.
>それでも、いまの日本人の秩序は、西洋人のそれとは大きく違う。
日本人は、思考停止をしているところが西洋人と違いますね。
>それは通俗道徳の本質が代わっていないからだ。>確かに儒教的徳目は失われつつあるかもしれないが、本質である慈悲は変わっていない。
空白の脳裏には、詰め込み教育が必要ですね。
>より具体的には他者への配慮である。 >たとえば現代的な例では、空気を読むこと。 >あるいは世間圧。
気配りですね。日本人には自主性がないから、そうなりますね。
>徳目は時代による変化はあっても、他者へ配慮しあう、互いに空気を見合うことにより、秩序を維持する日本人の秩序維持の特性は代わっていない。
そうですね。なあなあ主義ですね。恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) というのかな。
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