>「語彙とカバー率」という比較があるそうだ。>「カバー率は、おおまかに言えば、ある語彙数でその言語をどの程度理解できるかを示している」リンク
それが、高文脈文化 (日本) と 低文脈文化 (外国) の違いになるのですかね。
>代表的な言語について理解可能になる必要語彙数は「フランス語では頻度順上位1000語、英語、スペイン語はもとより、ロシア語、中国語、朝鮮語でも2000語を知っていれば約8割理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位5000語が必要になる。上位3000語をマスターすれば、フランス語、英語、スペイン語では約9割が理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位1万語が必要になる。」のだそうだ。>必要語彙数が多いという意味で、日本語が「難しい言語」という外国人は多いという。
日本語の敬語が難しいということを外国人から指摘されたことがありますが、それも関係がありますかね。
> 一方、日本語の特徴は「語らない言語」だ。>古来から多くを語らないことを決してマイナス評価しない。
そうですかね。雄弁は、成り立ちませんね。
>言わずとも通じる事は言う必要がない。>だから言わない。
日本人は、周囲の人たちの忖度 (推察) に期待しすぎてはいませんか。
>この判断に乏しい人は、時に「無粋」とか「空気を読めない」などと評価される。
周囲に気を散らすのは、内面が空虚だからでしょうね。
>逆に、表面的には寡黙だが内面に厚い人情をもつ人(たとえば高倉健)は、その行動から察してプラス評価される。
‘沈黙は金’ ですか。Silence is golden.
>そうなると「多くを語らぬ日本語を理解するのに、多くの語彙力を必要とするのは何故か?」という疑問が生じる。
そうですね。わが国では、文章にならないバラバラな単語 (小言・片言・独り言) と忖度 (推察) の活用が発達しているからでしょう。文章にならなければ、相手の理解を得るために余計に単語の数を増して使わなくてはならなくなります。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>リンクによると、>・外国語を取り入れ易いので語彙が増える(カタカナ語) >・心理内容を表す感情関係の語が非常に豊かである >・擬情語(イライラ、ムシャクシャ、ヤキモキなど)が多い > などがあるそうだ。> 特に、心理内容を表す感情語が多いのが特徴という。>たとえば「悔しい」に相当するフランス語、「もったいない」「さりげなく」「無心に」「あやかりたい」に相当するアメリカ英語、「懐かしい」に相当するドイツ語は、いずれも存在しないといった具合だ。
日本人は、外国から感情語を取り入れたようでもありませんね。特亜三国 (日本・中国・韓国) の間でさえも、感情語が一致しませんでしょう。
>そうなると、日本語を理解するのに多くの語彙力を必要とするのは、他の言語と理解のポイントが異なるから、という仮説が成り立ちそうだ。>すなわち、日本語は、意思疎通の力点が「感情」におかれている。
益々日本人は、感情・情緒の人間になるようですね。
>そのうえで、感情とは「その気持ちわかる~」といった具合に共感することが理解に等しい働きをもっている。
日本人は、理解の上に共感を置くのですね。理解し合えないというのは、困ったことですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
>そして、感情とは“機微”という言葉があるように微妙な変化をもつ。
理解は不変、機微は可変ですね。
>互いに共感=同じ気持ちになるためには、微妙な変化に相当する多くの語彙が必要、ということになるのではないか。
そうですね。理解の方には注意が集中しないようですね。
> 我々日本人にとって、共感が成立しないもしくは拒んだ状態の会話は、どれだけ饒舌に語っても表面的な会話と感じられる。
‘なあなあ主義’ が成立しないからでしょうね。
>他方、言葉は少なくても、共感が成立した会話は深いと感じられ記憶に残る。
‘阿吽の呼吸・つうかあの仲’ の成立ですね。
>このように考えると、日本語を理解するには語彙力は二の次の課題と思えてきた。
そうですね。日本人は、’感情・情緒の人間’ ですね。とらえどころがない。
>最も重要なのは、互いに共感できるか、相手を無条件に肯定視できるか、ということではないか。
そうですね。無防備であっては、相手に騙される。これは、自然界の掟です。
>共感する感情に相当する語彙は必要であるものの、それは共感することを助ける(固定する)ものであって、第一義ではない。
そうですね。語彙の上に忖度が存在するのでしょうね。
>・・・語彙力以前の問題となると、いよいよ欧米人には理解できないかもしれない。
そうですね。語彙力以前の問題は、数値化しにくいでしょうね。文法の問題になるかもしれませんね。
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