>現代ビジネス >大学生が勉強しないのだから日本経済の基礎体力低下は当然のこと 特に最近10年の凋落は著しい > 野口 悠紀雄 2022/11/13 06:00
(略)
>大学ランキングでもそうだ。
>10月に発表されたTHE(Times Higher Education)による世界大学ランキング2023では、上位100校に入る日本の大学は、前年と同じくわずか2校だ。
>しかも、東大は、前年の36位から第39位に、京大は61位から68位に、それぞれ順位を落とした。
>最近では、論文数が減少している。
>「注目度が高い科学論文の数」で、日本は、前回の調査(17~19年平均)では10位だったが、18~20年平均では、スペインと韓国に抜かれて、12位になった(「科学技術指標2022」2022年10月9日)。
>1997~99年には、日本は世界第4位だった。2007~09年でも第5位だった。最近10年間の日本の凋落ぶりは、誠に著しい
>こうした状況は、日本の大学・大学院のレベルに深刻な問題があることを示している。
そうですね。日本の高等教育機関では大人の教育が成り立たない。
>大学生が勉強しなければ、企業が新しい技術を開発したり、新しいビジネスモデルを作ったりすることはできない。
>とくに、インターネット時代の激しい変化に追いつくことはできない。
>日本の経済力が低下するのは、当然だ。
日本の大学では、皆さん合格・卒業ですね。
>こうした状況を挽回しようと、岸田文雄首相は、大学ランキングの上位100位に日本の大学が10校入ることを目指すとした。
見上げた心がけですね。
>しかし、実現できるだろうか?
無理でしょうね。
>10兆円の大学ファンドの設立が決定されたことに見られるように、資金面の手当だけが論じられているのだが、それで問題が解決できるとは、到底思えない。
そうですね。哲学と宗教に弱い日本人の体質ですからね。
>すでに、国立大学には多額の財政資金が投じられており、私立にも助成金が出ている。
>むしろ、それらが正当化できるのか、という議論が出ても、しようがないだろう。
根本原因を突き止めて正す必要がありますね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
>ジョブ型雇用を導入できるか? >なぜこうした状況になってしまうのか?
>その基本的な原因は、「勉強しない日本の大学生と、死に物狂いで勉強するアメリカの大学生」で指摘したように、日本企業が、高等教育機関大学や大学院での教育成果を、賃金という形で評価しないことだ。
日本人の学生は思考を停止していますからね。日本の高等教育機関でも失敗しますね。英米の教育機関でも授業に付いて行けませんね。だから、英米留学もわが国では流行らない。
>こうした状況では、大学生が勉強せず、バイトや交友に精を出しても、やむを得ない。
我が国の外国人研修制度のようなものですね。
>結局のところ、日本企業の給与体制が日本の人材の高度化を妨げ、それが日本の経済体質の弱化を招いていると言うことができる。
思考停止による無哲学・能天気が原因でしょうね。給与の低迷はその結果ということになるでしょうね。
>日本の雇用体制は、「先進国という明確な目標に向けて社員が全員一致して協力する」というキャッチアップ過程には適したものだった。
他人・他国の受け売りと後追いに専念していましたね。知識は尊ばれたが、知恵は見過ごされていました。 だから、福一原発のような事故 (メルトダウン) が起こる。
>しかし、新しいビジネスモデルを探り、技術開発を行なうという先進国型のものには進化できていないのだ。
日本人には世界観がない。だから、来るべき世界の内容は日本人の想定外になっている。
>岸田首相は、こうした状況を変えるべく、「ジョブ型雇用体制の導入を企業に促す」としている。
>これは、先進国では、ごく普通の雇用形態だ。
>だから、これを目指すのは、望ましい方向だと思う。
>しかし、これを実施するのは企業であって、政府ではない。
>政府は、企業に強制することはできない。
何事も法律によりますね。
>それをどのように行なうかが、考えられなければならない。
政治は大変ですね。ノンポリ・能天気の国民がついていますからね。国民に対する懇切丁寧な説明が必要でしょうね。
>岸田首相は、また、「リスキリング」の重要性も強調している。
>これも必要なことだ。しかし、リスキリングは、基礎学力がなければ成功しない。
>例えば、統計学の基礎に習熟していなければ、データサイエンスやファイナンス理論を学ぶことは難しい。
>これを実現するには、大学・大学院の抜本的な改革が必要とされる。
危険を犯すことが無謀な企てに成らぬよう国民の監視が必要ですね。
わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。
我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。
わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。
日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。
非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。
矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。
体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.
日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。
私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。
政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。
我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。
、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
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