(略)
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>日本企業は、多くの外資系企業と異なり、「職責」が曖昧である。
職務上の責任は、曖昧にすべきではありませんね。努力して改めるべきです。
>すなわち、「これは私の責任、これはあなたの責任」という境界線がハッキリしていないのである。
考えは一人一人違いますから、責任の境界線はハッキリさせないと混乱が生じますね。
>だから、多くの日本企業の現場で重視されるのが、「これは私の仕事ではない」と、言わないことなのだ。
これは、困ったことですね。責任の境界線がはっきりしていないと、責任感も湧いてきませんね。
>仕事において、「これは私の仕事ではない」と事ある度に言う人は、職場で信用されない。
「これは私の仕事ではない」という論拠があるのなら、それを拝聴すべきですね。そうでなければ、議論が成り立ちませんね。
>「中間に上がったフライ」を声をかけて自分からキャッチしに行くような人物が、日本企業で求められている人材だ。
両者の協力が必要ですね。どちらが主導するか早急に決められないと、選手はぶつかり合って怪我をしますね。
>断っておくが、これが良いことかどうかは、別問題である。
曖昧が多すぎるのは、改めるべきですね。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようである。意思の存在を認められない世の中では、真の責任者を指摘することは難しい。
日本人には、意思がない。これは、アニマルも同じである。だから、日本人には物言わぬ牛馬の苦しみがある。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には未来時制はなく、日本人には意思がない。英語には時制があり、英米人には意思がある。だから、個人主義が理解できる。
>「もらっている給料以上のことを求められる」>「できる人に仕事が集中する」と言った、弊害もあるのかもしれない。
こうした弊害を改めないと、’とかくこの世は無責任’ となりますね。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。
>だが、多くの日本企業がこういった責任感を重視しているのは、間違いない。
日本人には、意思がない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人は、仕方がないので無為無策でいる。この思考停止の状態が、日本企業の問題である。
>だから、前述したように面白いことに、日本で言う「リーダーシップ」とは、人の上に立つことではない。
人の上に立つ人には、指導力が必要ですね。指導力のある人が上に立つ必要がありますね。わが国は、この点が疎かにされていますね。それは、個人の意思が疎かにされていることに関係がありますね。
>「皆がカバーできていない場所をすすんで見つけて、間を繋げる役割」が、「リーダーシップ」と解釈されている。
指導者は、皆がカバーできていない場所を指摘して自分の意思 (指導力) を明らかにすべきですね。
>そのために、「リーダーシップ」という表現を用いて、学生の能力を検証しているのである。
「リーダーシップ」という言葉の使い方に問題がありますね。学生に誤解を生じさせないように単語の使い方に注意すべきでしょう。
>「これは私の仕事ではありません」という人を採りたくない。>これが日本企業の本音だ。
日本企業の責任者は、「これは私の仕事ではありません」という人の論拠に耳を傾ける必要がありますね。リーズン (理性・理由・適当) があれば、議論は可能です。本音 (私意・我儘・身勝手) は、どこに行っても主張できませんね。建前 (言い訳・口実) と本音の世界よさようなら。
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