>現代ビジネス >国家が崩壊するとき…「この国は外圧がないと変わらない」という人が「誤解していること」 >岩尾俊兵 (慶応義塾大学商学部准教授) の意見・ >9時間・
>わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。
>ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。
>※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
>悪法の栄え:社会制度には耐用年数がある
>政権が「国民が生き生きとして幸せになれる共同体を作る」という本来の目的を忘れると、一時期に権力を握った勢力も徐々に民心を失っていく。
>政治的腐敗が進み、民心を得られない政権下では、市民も真面目に働くのが馬鹿らしくなる。
>こうして、一時期に権勢を誇った王国や文明は軍事力と経済力の両方をみずから手放す。
>その結果として、常日頃から存在していた危機に対処できなくなり、国家は崩壊するのだ。
>国家が崩壊するときの悲喜劇は世界中で同じである。
>特定の王国や文明が稚拙な国家経営によって弱体化したとき、まるで狙ったかのように危機(異民族の侵略、大災害と飢饉、内乱と革命などなど)がやってくる。
>これは当たり前の話である。
>常に危機は存在していて、政権が弱体化しないと危機は危機にならないだけだ。
>こうした特徴から、「この国は外圧がないと変わらない」などと言い出す人も世界中で見られる。
>すべての国にとって外圧は今この瞬間も存在しているのにである。
>弱体化した末期症状の政権は、さまざまな危機に対する無為無策無能ぶりをさらけ出す。
>それもそのはずで、世の中が変化し続けていて、危機への適切な対処法も変化しているのに、政権内で権力を得る人を選抜する方法は変わっていないためだ。
そうですね。権力者の選抜方法も変えないといけませんね。
>たとえば、歴史のある時代、ある場所では、ラテン語をマスターした人、聖書に通じた人、四書五経を丸暗記した人、字の綺麗な人、詩作が上手い人などが、当代最高のエリートとして処遇された。
>もちろん、こうした能力が通用した時代もあったのだろう。
>しかし、もしも現代の公務員の選抜基準が変わらず、ラテン語や四書五経だったらどうだろうか。
>パソコンも使えない頭でっかちの人ばかりが公務員になるという恐ろしい結末が待っている。
>日本の幕末においても儒学・朱子学を究めた幕僚たちは黒船来航に右往左往するばかりだった。
>むしろ黒船来航から続く外圧の危機に対処できたのは、当時最高の教養を誇っていた旗本・御家人ではなく、伝統的教養から比較的自由だった下級武士たちだった。
>こうしたことから分かるように、制度と行政には耐用年数がある。
そうですね。
現実は時々刻々と変化しますからね。対処の仕方も変化させないと社会は破綻しますね。
憲法改正も必要になるでしょうね。
>たとえば共和制ローマにおける元老院制度は、各氏族の意向を反映できるという意味で部分的に民主政治を実現していた。
>しかし、元老院制度は国内での絶えざる政治闘争を生み出すため、外征が頻繁になる時代には向かなかった。
>だからこそ、カエサル、オクタウィアヌス(アウグストゥス)といった独裁者が台頭し、徐々に帝政に移行していった。
>現代では江戸時代の愚策の代表のように扱われる鎖国体制も同様である。
>当時の江戸幕府にとっては、戦国時代を終結させて太平の世を実現することが最優先だった。
>そのため、キリスト教の流入と国際政治の影響による内政の混乱を避け、再び戦国の世に戻ってしまわないために、鎖国を決めたと考えられる。
>しかし、鎖国による太平の世は、同時に、日本が外交に疎くなる原因を作った。
そうですね。
民 (たみ) 信 (しん) 無 (な) くば 立たず。(政治は民衆の信頼無くして成り立つものではない) 論語・顔淵
日本人には哲学がなく、政治家には政治哲学がない。 だから、わが国では政治家は信頼を得ることができない。それで政治屋になる。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
政治屋の個人的な努力目標点は三バンと呼ばれている。 三バンとは 地盤:選挙区と後援会・ 看板:知名度・ 鞄:資金力 である。
政治屋の社会的な努力は派閥形成に協力することである。議員は序列社会の一員になることである。内容の無い人間には印半纏の様なものが必要になる。派閥の領袖は無哲学の議員を十把ひとからげにして選挙戦の数合わせに利用する。そして自分はキング・メーカーになる。
このようにして派閥の序列は崩れることなく老人の世界になっている。若い人も無哲学で蚊帳の外であるから、政界の世代交代は難しい。わが国は衰退途上国になる。
(略)
日本人は思考を停止している。それで、自分自身の意見を持たない。マスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら情報を流しても、それが社会の木鐸 (世人を教え導く人) の役割を果すことはない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)