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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学校

2017-08-15 03:43:30 | 教育
>学校は、作られた世界に過ぎない。>現実の世界とは違う。

学校も現実の中にあるでしょう。学校は現実の内容ですね。

>ところが、学校にいる人間は、そのことを自覚していない。>それ故に、現実と虚構の世界が混同してしまい、作られた世界が真実であり、現実が、あたかも虚構の世界のように、子供達に錯覚せてしまう。

現実の内容は頭の外にある。非現実・虚構の内容は頭の中にある。二者は所在が違います。ですから、同じにはならない。

>学校にあるのは、現実の世界の標本のようなものである。一見、現実を模倣しているが、現実とは、まったく違うものだ。>偽物である。>だから、なおさらたちが悪い。>子供達は、偽物を本物と教えられて、あたかも現実を理解したかのごとく信じ込んでしまう。

学校の内外で、模型・偽物を使って現実の理解を助けていますね。だから、我々にも原子の世界を見ることができます。

>偽物を本物、本物を偽物と教え込まれたら、正しいものを見極める眼は養われない。

偽物を偽物、本物を本物と教えたらよいでしょう。これは、子供には難しいでしょうね。

>子供達の純真な、眼を潰して盲目にしているようなものだ。>正しい眼が養われなければ、正しい行いもされない。

ペテン師が学校を開設しているように表現するのは、良くないですね。大人になれば、目覚める人も多いでしょう。

>実際の世界を観察し、新しい発見をすることは、学校では許されない。

そうですね。新発見は無視される傾向にありますね。’個人の意見は通らない’ などと言っていますね。

>しかし、学問というのは違う。>現実の世界を観察し、新しいものを発見するのが、学問である。

そうですね。我々は、考える人にならなくてはなりませんね。

>学校で教えているのは、もう学問ではない。>では、学校で教えているのは、何なのか。

そうですね。詰め込み教育は良くないですね。

>教師は、万能の神のごとく存在している。

子供から見た大人はそのようなものでしょう。

>答えは、常に、教師が用意するのであり、その答えは絶対である。

弟子が師に教えを乞うのは、昔のことでしょう。

>用意した答え以外の答えをすることは、許されない。

暗記力のテストですね。

>神である教師は、生徒、一人一人の運命をすら握っている。

それは、テストの成績を序列形成の根拠として利用するからでしょう。

>彼等の作り出す問題によって、生徒一人一人の人生すら決められてしまう。

序列社会においては、序列順位で事柄が決められますからね。

>学校では、この世の全ては、教科書によって決められていることになる。

暗記ものの学校ですか。正誤判定には便利だが、実利が無い。

>教科書に書かれていることだけが正解であり、教科書に書かれていないことは、それが世間一般では、常識、正しいこととされていることでも間違いになる。

正解を求めることは、難しいですね。矛盾のない考えは、全て正解ですね。だから、正しい考え方の習得が必要です。自主独立した人間が育成されます。

>子供達にとって教科書の中の世界が、現実なのである。

子供たちには、非現実はないでしょうからね。

>しかも、学校の世界の住人は、自分たちが作り出した現実以外を認めようとはしない。

恣意的な教育ですね。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章内容にはなりませんから意味が無く、矛盾も指摘できません。独りよがりになる。

>教科書に決められたこと以外正しくないとされれば、教科書がなければ何もできなくなるのは当然である。

そうですね。それは困ったことですね。戦前は国定本を使用して、金太郎あめのような人間を作りました。

>しかし、現実の社会には、教科書などない。>自分で判断し、解答は生み出さなければならない。

そうですね。我々は ‘考える人’ になる必要がありますね。

>これでは、学校の作り出した現実と本当の現実とが乖離し、世界観そのものが歪められてしまう。

世界観 (非現実) は、現実とは別のものになりますね。現実は一つ、世界観は多数。個人個人で違っている。

>このような教育を受けた者は、あらかじめ用意された答え、指示されたことしか答えられない。

それは残念なことですね。詰め込み教育ですね。

>しかし、現実の世界に用意された答えはない。>条件や環境が変われば、答えは毎日のように変わる。

そうですね。現実界は千変万化しますね。しかし、日の下に新しきものなし。人は考え直すから、新しいものを発見する。

>変化する環境や状況に即応し、適切な判断を下せる力をつけさせることが、本当の教育の目的である。

同感です。我々は ‘考える人’ になる必要があります。

>人生の悩みや大切な価値観は、教えられない。

聖人・君子の話を聞くのも良いでしょう。自力で行きましょう。

>人生の岐路に立ち、苦しんでいる生徒達に対し、教師は無力である。>学校では、何もかもが、決められている。>しかし、現実の世界では、そのようなことは希有な事である。

そうですね。我々は自由の世界に住んでいますからね。個人の発想が必要ですね。

>決められたことだけが正しくて、それ以外のことは、間違いになる。>用意された答えの中から正解を選ばなければならない。

野球のルールのようなものですね。外の世界は考えられない。

>そこには、創造性はかけらもない。

創造性 (非現実) は現実の問題とは別次元ですからね。現実の内容は頭の外にある。創造 (非現実) の内容は、頭の中にある。

>こんな環境に長くおかれれば、決められたこと以外できなくなるのが、当然の帰結である。>そして、決められた答えがないと不安になる。

そうですね。だれもが異口同音を期待していますね。

>逆に、どんな困難なことにぶつかっても、その事実を認識できず。誰かが、正解を出す事を期待するか。

他力本願・神頼みですか。無為無策でいて座して死を待つ。覚悟はできている。

>どこかに決まった答えがあると、現実を常になめてかかるようになる。>予期せぬ答えは、許されない。

想定外の内容は、存在しないことに決め込んで安心することを意味するのですね。

>しかし、現実の世界は予期せぬ出来事ばかりである。>だから、学校は、現実の適合できない人間を多く生み出すのである。

意思と哲学が必要ですね。どちらも非現実の内容です。非現実の取り扱いは、日本人には難しい。

>ただ、それが大きな問題にならないのは、まだ、戦後の教育を受けた者が、決定を下さなければならない立場に立っていないからである。>しかし、兆候は、すでにある。

昔から、意思決定に関しては問題があるのではないでしょうか。日本人には意思が無い。誰も個人の意思を求めない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>試験に受かること以外、目的が、ない世界。>学校とは、そういう世界である。

受験校のことですか。試験さえなければ、学生生活は楽しい?

>生きていくために必要な知識や技術は、何も学校では教えない。>なぜならば、学校生活には、それらの知識や技術は、不必要だし、かえって弊害になると思われているからである。

この世の中には人手不足はあっても、頭脳不足の話は聞かれませんからね。無為無策で大学4年間を過ごせますね。


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神国日本

2017-08-13 21:47:47 | 政治

>戦前、戦後における神国日本について紹介します。
>戦前には、国体の本義という書物が生み出され、第二次世界大戦中の国民を鼓舞する指導原理として利用されていました。

>◆戦前の神国日本リンク
>>明治維新により天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びついた。日本の帝国主義・軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行った。

国粋主義 (超国家主義) は、自己慶賀の内容ですからね。いつの時代にも日本人にとって楽しい話になりますね。米国における、白人至上主義のようなものか。帝国主義・軍国主義路線でどこまでも行けると思ったのでしょうね。その態度も尊大になる。

>日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、「神州不滅」の主張の元に玉砕・神風特攻隊・本土決戦論などの、“臣民全て滅びようとも天皇家だけは厳然と残らねば・残されねばならない、そして日本が勝つのだ”という思想が横行し、多くの生命が失われた。大戦末期には、敗北が目に見えても、民衆の中には“いずれ神風が吹いて、敵艦隊をまとめて沈めてくれる”と本気で考えていた者がいたという。

我々の得意な神頼みですね。’大吉’ と出れば、良いのですがね。一途の信仰あるのみでしたね。洗脳には抵抗力のない日本人ですからね。ただ、信仰あるのみ。国がひっくり返らなければ、目も覚めないでしょうね。なにしろ、人道主義がなくて、天皇家だけがある。恣意 (私意・我がまま・身勝手) による暴走ですね。

>◆国体の本義は、戦争の指導原理に利用リンク
>>ABCD包囲陣によって「窮鼠猫をかむ」の状況において無謀な日米戦争(1941年12月8日から1945年8月15日)を戦うにあたっても、日本は、天壌無窮の神勅により立てられた天皇を戴く神国だから負けるはずがない。必ず神風が吹き、日本が勝利すると国民を鼓舞する指導原理として「国体の本義」が利用され、神州不滅が喧伝さることとなる。
この自己中心的で偏狭なナショナリズムは、日本の敗北によって否定された。

日本人は、感情的な恣意決定をしますからね。ただただ恣意的な内容に酔いに酔う。恣意は文章内容にならないから、意味が無い。矛盾すらない。塗炭の苦しみを味わわなければ、我々の目も覚めない。また、いつ恣意が盛り上がるかも予測できない。何しろ日本人には意思が無い。意思の内容を文章にすることが出来ない。だから、自分が自分の内容を把握できない。つかみどころのない人間です。そして、平和憲法が唯一の頼りとなっている。この国では、人間が自然の中に埋没しています。’窮鼠猫をかむ’ のは、きわめて自然ということになるのかな。アニマルには責任が無い。だから、日本人にも責任が無いということか。近隣諸国もこの国民性を危険視しています。

>◆国体の本義とはリンク
>>1937年に「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂されたようで、神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなっていたと紹介されていました。

‘上とみるか、下とみるか’ を判断すれば、’上’ は ‘神’ となる。上とみるか、下とみるかを考えれば、上下判断に基づく ‘序列’ ができる。だから、’万世一系’ も無理なく考えられます。ただし、これもこの国内だけのこと。日本人には世界観 (world view) が無いので、彼の内容は世界につながっていない。
日本語には、階称 (言葉遣い) がある。言葉遣いも礼儀作法 (序列作法) も序列判断なしには正しく行えない。世俗的な判断がなければ、礼儀正しい日本人にはなれない。序列なきところに礼儀なし。貴方は非国民になりますか。
対人関係において、人を見損なってはいけない。だから、日本人は、無礼講でないときには、いつも対人関係で緊張している。日本人の序列観念は、強迫観念の域にまで達しています。だから、堅苦しくて、肩がこる。世俗の序列メンタリティが問題です。

>◆戦後の神国日本リンク
>>戦前の「神国思想」が多くの生命を奪った経緯から、戦後になると、日本国憲法が制定され、政治の場から神国思想を排除するために、政教分離原則の厳格化と信教の自由の導入が行われ、日本社会の表舞台から神国思想は衰微した。

階称に基づく考え方は、日本語に基づく考え方の基本ですね。こうした国語教育の問題を解決しないと、根本的な神国思想の解決にはなりませんね。

>しかし、2000年5月15日に、時の首相・森喜朗が、「日本は天皇を中心とした神の国」等発言した。

彼は、戦前の生まれです。国民学校 (今の小学校) に入学した生徒でした。洗脳されているのかな。それにしても、日本語が全国に浸透しているように、神の国はこの国の津々浦々に根を下ろしています。人々は、日本の神の意思を求めない。人々は、日本人個人の意思を求めない。人々は、確たる内容の指導者に導かれることもない。我々自身には精神的な持病のあることを常日頃から理解すべきですね。さもないと、また無理をして倒れることになるでしょうね。それは、愚かなことです。


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思想

2017-08-12 12:55:44 | 文化
>■思想は身体訓練で伝承される

>日本人に思想が無いわけでなく、わざ、習慣、身体訓練として伝承され、言語化されないわけです。>実は思想の在り方としてはこちらが一般的です。

そうでしょうね。しかし、英米人は、’全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない’ と考えています。アニマルなどは、言語化されていませんね。

>太古から民族はそうして思想を伝承してきたわけです。

そうですね。思想と言うのかどうかは、知りませんけれども、これが我々の伝統ですね。

>まず理解しないといけないことは、言葉は思想伝達法としてほぼ使いものにならないということです。

そういうことも、考えられますね。日本語のような曖昧な言語では、思想の伝達はできないですね。
日本人の精神活動は、文章・言動では表すことが出来ません。我々の活動は心から心へと直接伝えられています。以心伝心・不立文字ということです。日本人には、これは当たり前の事柄で、西洋人には理解不可解なことになります。

>たとえば会ったことも見たこともない民族がいて彼らの思想について書いた本を読んで何がわかるでしょうか。>実際に一緒に生活してみないとなにもわかりません。

心のこもった音声は、国際間の言語障壁を乗り越えて外国人に伝えられています。非言語による国際交流は可能です。学会は無理。

>言語信仰に毒された現代人にはこれを理解することがまずできない。まさに「馬鹿の壁」が目の前にある。

アニマルには忖度・推察できるが、現代人にはできない。日本人には、英米流の高等教育は難しいようです。

>たとえば旨いザーサイを食べたリボーターはいかに読者にその旨さを伝えるか。>日本人同士は親しげに「食べてみなよ」と勧めます。

そうですね。よくあることですね。食品の宣伝文句ですね。

>西洋哲学者はそれをメタファーや造語を駆使して伝えるわけです。>それは実際に食べるより素晴らしくみなを魅了するわけですが、正確な伝達とは別です。

そうですね。同感です。哲学 (非現実) は感覚 (現実) とは違いますね。現実の内容は頭の外にある。非現実の内容は頭の中にある。内容の所在が違います。

>■言語思想の暴力性

>言語で思想を伝えなければならない状況はとても極限的な状況です。>その状況とは多民族に自らの思想の正当性を訴えかける弁論述です。

英米などの低文脈文化においては、正確性が必要とされる言語を使用する。伝達される情報は言葉の中で全て提示されています。

>日本人が日本人論を書き始めたのは明治入り知識人が留学を始めてからです。>島国日本では思想は、わざ、習慣、身体訓練であり、他者に自らの思想を訴えた経験もなく、当然、うまく言語化できない。

日本の高文脈文化においては、曖昧な言語を使用する。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。これでは、雄弁になれない。

>それが近代日本知識人の劣等感だったわけです。

‘上とみるか、下とみるか’ の上下判断によれば、下は恥になりますね。

>いまでもよく、日本人は明確な言語思想をもち外国に主張しなければならないといいますが、本当でしょうか。>言語思想を語りあえばわかりあえるのでしょうか。

相互の理解は難しいでしょうね。それは日本人が、英米流の高等教育を受けるようなものでしょうね。第二言語を習得して、大同を得るように努力しなければなれませんね。さすれば、大同団結による国際協調が可能となり、未来社会の建設が加速されます。

>そもそも西洋の近代思想はいかに発展したか。>世界の資本主義化と密接な関係があるわけです。>すなわち西洋の貿易先(資本主義)を広めるために、海外に向けては植民地化の正当性を巧みに訴えるためです。

広い市場が欲しかったのですね。今でも、植民地が消滅しても、市場は広いほうが良いですね。

>たとえば日本人もアジアへ侵略した時は珍しくその思想を懸命にしゃべりましたね。

我が国も外国に市場を閉ざされては、食べていけませんからね。これは哲学ではなくて、処世術です。大義名分はその口実になります。




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マスコミ

2017-08-11 04:49:46 | 文化
(略)

>最近は、その誘導があまりにも売国的かつ反日的で、おまけに世論操作にもアラが目立つようになったので、マスコミに不信感を持つ人たちが少しずつ増えてきている。

マスコミは最近、人気が落ちたようですね。

>しかし、それでも「マスコミの言うことは正しい、マスコミの取り上げる主張は天の声だ」と思い込んでいる人たちが高齢者を中心にまだまだ数千万人以上もいて、巨大な同調圧力に従っている。

天の声に従うのが、真人間の証となると信じているからでしょう。

>日本人は学校教育からして、「自分の意見を殺して他人に合わせる」という意識を徹底的に行う場所である。

学校は、仲間外れにならないように努力する所ですね。没個性の教育ですね。

>学校教育が「自分の意見を殺して他人に合わせろ」と教育している。

滅私奉公の始まりですかな。

>そして、もはや「他人に従う」という意識は日本人の無意識にまで刷り込まれていて、それが日本人気質にまで昇華してしまっている。

自分に考えが無いのだから、相手に従うしかないでしょう。これでは、アメリカのポチの様なものになるのかな。

>日本人が意見を言わないのはなぜか。

それは、考えが無いからです。

>それは、その意見が他人と違ったものであれば恥ずかしいからである。

現実の内容は唯一である。だがしかし、個人の考えは多種多様である。個人主義のない国では、全ての人は唯一の正解を示さなければ恥になるのでしょう。

>多数意見に同調するために多数意見がはっきりするまで黙っている。

沈黙しているのなら、自己の脳裏は空っぽでも困らないですね。そのうちに、自然と決まるのかな。

>そして、「みんながこう考えている」というのが分かれば、安心して、その方向に沿った意見を言い始める。

‘みんなで渡れば怖くない’ と言ったものですね。付和雷同の始まりか。力が入る。

>これが同調圧力をますます強いものにしていく。

無哲学・能天気でいると、他に選択肢はありませんからね。

>現場では「こんなところに店を作っても失敗する」と分かっていても、社長が鶴の一声を出したら新規開店に向けて進み始めて玉砕するというのはよく聞く話だ。>社長が断言し、役員がみんな同調したら、もはや誰ひとりとしてこの無謀な計画を止めることができない。>崖から飛び降りるレミングの群れと同じで、先頭に従って一緒に死ぬ。

先頭のものに従うことは、あまり難しいことではありませんからね。自爆攻撃に続く自爆攻撃、玉砕に続く玉砕。これでは相手に勝てるはずもありませんが、安心して死ねるか。

>同調圧力にさらされるというのは、そういうことだ。

一億総玉砕もあり得ますね。

>日本ではマスコミが「こうだ」と断言したら、みんなが「そうかもしれない」と思い込んでマスコミが言うがまま信じて同調してしまう。

他に選択肢が無いですからね。自分自身で選択肢を作ることが出来るほど賢くない。

>社会で生きるには、常識としてある程度の同調は必要だ。>しかし、それが行きすぎると、人は自分を見失う。

自分自身の ‘あるべき姿’ の内容が存在しないと、人は自分を見失いますね。

>人生の終わりまで自分を見失ったまま生きた人もいる。

きっと、‘私は、貝になりたい’ と思うでしょう。

>同調圧力というのは「無言の圧力」のことである。>無言の圧力を無意識に感じ取って、無意識にそれに従ってしまう。

空気の圧力のことですね。日本人は、忖度 (推察) を得意としますからね。歌詠みの習慣のようなものですね。

>この同調圧力を利用して、仕掛けてくるのがマスコミだ。>マスコミは、朝から晩まで、私たちに同調圧力をかけている。

無哲学・能天気の人たちには、同調圧力は期待の星だからですね。

>「これが多数意見だ」「これが国際社会の意見だ」「大勢がこう考えている」「大勢がこれに賛成している」「アンケートの結果、多数意見はこうなのでそうしなければならない」「多数派に支持されている」という同調圧力を絶対正義のように振りかざして、マスコミは私たちに襲いかかる。

同調圧力により、我々は代弁者としての役割を果たすことが出来ます。それで、一応面目が立ちますね。

>私たちが異論も持っても、それは個人攻撃やレッテル貼りや完全無視や歪曲で対処されて、結果的に沈黙せざるを得なくなってしまう。

個人攻撃は、同調圧力に対する異分子を攻撃するときの常套手段ですね。論点のすり替えですね。

>マスコミの報じる記事、報じるニュースが中立ではなくなって、あまりにも偏っていると言われて久しい。>それは、マスコミが自分たちの利害を優先して、無理やりひとつの方向に国民を誘導しようとしている姿勢から生まれてきているのである。

処世術 (現実) に従えば、どうしてもそうなりますね。今だけ、金だけ、自分だけですからね。哲学 (非現実) がないので、現実に流されます。

>これに多くの日本人が誘導されている。

日本人には世界観が無いから、自分がどこの世界に誘導されるかを考えることが出来ませんね。行方も知らぬ日本人の道かな。いつまでこの状態が続くことやら。

(略)



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丸山真男

2017-08-08 09:22:36 | 政治
>戦後を代表する政治学者、丸山真男の論理と精神は、東大を始め日本でもっとも有力な知識人とマスメディアに受け継がれているはずです。

日本語を掘り下げて考察しなければ、丸山の理論と精神は、知識人とマスメディアに受け継がれることはないでしょうね。

>現代の日本に関係の深い彼の思想は、次のようにまとめられるでしょう。

日本語を話す日本人は、今も昔も変わらないでしょうね。

> 1)誰も戦争をするつもりがなく、大東亜戦争に突入したのは、論理で社会が動かずに空気で動くからだ。誰が主張し、誰が言っているのかわからないような空気を支持するな、

そうですね。日本人には空気の研究が必要ですね。個人主義が無いのだから、誰が主張し、誰が言っているのかわからないのも当然ですね。個人主義は利己主義と誤解されることも多いです。何やら雲行きが怪しくなって、それから大東亜戦争に突入したのでしょうね。
我が国には、政治家がいない。責任を持って民を指導する人物がいない。日本人には理論が無い。日本人には理論を受け入れる余地もない。だから、指導者には説得力が無い。民は烏合の衆にとどまります。
曖昧な言語である日本語で情報交換をして、お互いに忖度 (推察) に基づいて行動する。忖度は聞き手の勝手な解釈であるから、その内容に話者の責任はない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

> 2)考えの違う他者を許さず、日本だけが特殊で一歩外国に行くと全く通用しない事実や論理を崩さない日本社会の欠陥は修正されなければならない、

日本社会の欠陥は、日本語脳の欠陥でしょうね。考え (非現実) の内容は、一人ひとり違っていますが、それにも関わらず、暗記力ばかりを鍛えていては、自己の正解から離れることはできませんね。相手を抹殺するしかないと考えるのですね。単純で情けない人間ですね。その原因は、日本人には現実があって、非現実 (考えの内容) が無いからです。現実は一つですが、非現実は多数あります。だから英米人は個人の違いを議論出来ます。現実の内容は、頭の外にあります。非現実の内容は頭の中に存在します。両者は所在が違いますから、内容は同じになりません。
非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要です。が、時制は英語にあって、日本語にはありません。ですから、日本人には非現実が無くて、皆がみながら現実肯定主義者になります。自分の考え (非現実) を述べるものには、’そんなこと (非現実) 言っても駄目だぞ、現実はそうなってはいない’ と言って対抗する。彼は、唯一の正解 (現実) を求めているようです。これは、師から教えを乞う昔からの形式なのでしょうね。
英米人は、自分の理論 (非現実) に合う事実 (現実) を選んで話に取り込んでいますからね。話 (非現実) に矛盾が含まれていなければ、それは話として通用します。矛盾さえなければ、話の数はいくらあっても、それらはすべて ‘正しい考え’ であります。相手に否定できるはずもありません。その規則を守るのが個人主義です。話の内容に個人的な好き嫌いはあっても、それは趣味の問題ですから、議論はしません。趣味は論拠になりませんからね。(There is no accounting for tastes).

> 3)民主主義が機能するのは、個人が自立し、尊厳を守り、本質的に矛盾する関係にある権力に対して自立することだ、

その通りですね。権威主義という非理性に抵抗することは大切ですね。個人主義が理解されない社会であるから、個人が自立することはできませんね。上の ‘もの’ と下の ‘もの’ が存在して、価値が序列の方についているので、 ‘人’ 自体の本質的な価値が無い。だから、我が国には、個人の尊厳もない。

日本語の特質を強調するだけでなく、英語の考え方にも習熟しましょう。雄弁になろう。彼を知り己を知れば、百戦危からず。


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