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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

繊細表現

2017-08-04 10:56:32 | 教育
>日本語を日常的に使っていると気づかないが、海外の人から見れば非常に不思議な面がある。
>「3月1日は日曜日で祝日、晴れの日でした」
>おそらく日本語を使う皆さんほとんど読めたと思いますが実はこの文、海外の日本語学校では超難問です。
> 気づかれましたか?「日」の字の読み方全部違うのです。

そうですね。1日は一日(たち)、日曜日(び)、祝日(じつ)、晴れの日(ひ) ですね。
ローマ字表記にすれば、この超難問は立ちどころに解消しますね。海外でも日本語はローマ字表記にはできませんかね。日本語を国際的な第二言語とするために思慮ある国家的な支援が必要ですね。
漢字を使わなければ、このような面倒なことにはなりませんね。
海外だけでなく、漢字の読みは国内の超難問でもありますね。でも、問題は放置されています。だから、我々日本人も振り仮名から逃れられない。
‘城’ という字は、宮城 (みやギ)、中城 (なかグスク)、与那城 (よなシロ)、新城 (しんジョウ) といろいろに読む。
漢字の本家から来た中国の留学生が、このことを指摘する。彼らのルールでは、漢字の読みは一字一音が原則ですから。
それでも漢字の見える社会は、中国人にとって居心地が良い。東京はドンジン、大阪はダーバンと読んで覚えている。お互いに発音の通じないことは、中国国内でも同じことだから、特に気にはならない。彼らは漢字で記憶している。
だが、日本のカナ文字には、嫌悪感を持っている。中国人は表音文字をどのように理解したらよいのかわからない。
この地球上に中国語を母語として話す人は多いが、中国語は国際的な第二言語とはなっていません。つまり、中国語は、国際的な情報交換の手段としての利用価値は低いのです。これは、漢字のせいかもしれませんね。

>また日本語は対象が生命(動くもの?)であるかどうかも使い分ける。
> 日本語:虫がいる。(動くものをいる)
    花瓶がある(動かないもの)
> 英語:虫がある。(日本語訳にする時には変なので、いるとやくしているだけ)
   花瓶がある。  
> 英語は存在があることをいっているので、「いる」も「ある」も同じあつかい。

そうですね。同感です。

>状況の繊細な表現も可能な言語の可能性は、今後また『 理詰型 』の言語であり、『 繊細表現言語 』でもある。> 日本語はやはり面白い。

そうですね。日本語は繊細ですね。1,2,3,4ではなくて、1匹、2人、3本、4羽ですからね。
それでも日本語は、曖昧な言語であります。感情的な恣意決定をします。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章にはならないので、責任者は説明責任が取れない。だから、とかくこの世は無責任となります。
日本文化のような高文脈文化においては、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。だから、言ったか・言わなかったかの議論だけでは、なかなか決着がつきません。
万機公論に決すべしと信ずるならば、論理的に意思決定が可能な、正確性が必要とされる言語 (英語) を使う必要があるでしょう。
しかし、繊細さを生かすためには、日本語が必要です。日本人の繊細さを世界に広く伝えるためには、日本語を国際社会の第二言語とすることが大きな力となる事でしょう。これをわが国民の国際貢献の道となすべきでしょう。さすれば、さらに付加価値の高い製品が各国からこの世の中に出回り人々の暮らしは豊かになることでしょう。



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デンマーク

2017-08-03 23:03:52 | 政治

>聡明で笑顔を絶やさない。>私[蟹瀬誠一]が蓮舫とテレビ朝日夕方ニュースのキャスターとして働いた時の印象である。>だが政党党首としての包容力が欠けていた。

彼女には、どこかヒステリックなところがありますね。

>拳を突き上げ歯をむき出して相手を追い込むだけでは周りは敵ばかりになる。

女は愛嬌ですか。

>(中略)
>もっと深刻なのは稲田防衛大臣だ。>南スーダン情勢が緊迫している最中、銀座の高級和食店内でばったり稲田大臣と遭遇した。>さすがにバツが悪るそうで目を伏せていたが、その程度の危機感しか持っていない人物が防衛大臣を務めていることに驚いた。

驚くのが遅かったようですね。

>どんな友達関係かは知らないけれど、この人を国防の要に就けた安倍総理の罪は重い。>任命責任が自身にあるというのならその責任をきちんととるのが筋だろうが、その気はさらさらない。>本当の保守政治も民主主義も理解できないまま宰相になった短気なお坊ちゃんの姿があるだけだ。

我が国には、人材不足ですね。

>こんな日本に誰がしたと問えば、こんな輩を政治家にした国民の無責任という返事が返ってくる。

その通りですね。国民はどこの国でも、自分の身の丈に合った政治家を選出しますね。

>「日本人は外野からやじを飛ばすだけで主権在民という権利を放棄している」と、あるデンマーク人の知人から厳しい指摘を受けた。その通りだと思う。

日本人は野次馬根性ですからね。無哲学・能天気では自己判断は難しい。

>デンマークの国会議員の年収は国民平均所得の750万(日本は3200万円)。>大卒で働いている人の給与よりも低い。

無給で働いてくれる人がいたらよいですね。

>地方議員に至っては無給のボランティアだ。>かつて二院制だった議会も無駄な経費を削って一院制にした。>この例にならえば日本の国会議員の年収は450万にすべきだ。>そうすれば庶民の気持ちも分かるようになる。

そうですね。

>デンマークでは個人も企業も登録番号制度で収入・支出が透明化されているため汚職や脱税が極めて難しい。>つまり税の使い道が明確にされているのだ。>だから国民負担率が7割を超えていても不満の声が少なく「世界一幸せな国」が実現しているのである。

我が国も世界一幸せな国にしたいですね。処世術ばかりでは疲れます。

>その背景には「国を守るのは自国民しかいない」という国民の共生意識がある。>デンマークの歴史はナチスドイツとの国土争奪戦の歴史だったからだ。>今日のお互いを守りあうデンマークの社会福祉制度もそんな中から生まれた。

北国は、国民が助け合わなければ冬季には冷凍人間が出来ますからね。それに対する備えが必要です。相互扶助は欠かせませんね。

>デンマーク憲法では18歳から32歳までの徴兵制度が定められているが、軍人志望の若者が増えているため徴兵の必要がないという。>自分だけが良ければいいという若者で溢れている日本とは雲泥の差だ。

日本人は現実の中に生きていますからね。処世術を使って、今だけ、金だけ、自分だけの生活をしています。あるべき姿の非現実には、近寄りがたいですね。

>移民受け入れの前にいっそデンマークから政治家を受け入れたらどうか。

我が国には、人手不足の話はあるが、頭脳不足の話は聞いたことがありませんね。我々は、頭を使うのが苦手なようです。その性質に気づくのも、また苦手の様です。



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貝になりたい

2017-08-02 14:35:28 | 政治
>第二次世界大戦中の昭和19年。高知県幡多郡清水在住の清水豊松(しみず とよまつ)は、気の弱い平凡な理髪師。戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、応召することになる。
>内地のある部隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍B-29の搭乗員が裏山に降下。司令官の「搭乗員を確保、適当(2008年の映画版では「適切」)な処分をせよ」という命令が豊松の中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は、隊長から搭乗員を銃剣で刺殺するよう命じられた。しかし生来の気の弱さから、実際には怪我をさせただけに終わる。
>終戦後、豊松は除隊。無事に帰郷し、妻と営んでいた理髪店で再び腕を振るっていた。しかしある日、特殊警察がやってきて捕虜を殺害したBC級戦犯として彼を逮捕し、豊松は理不尽な裁判で死刑を宣告される。彼は処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺書を残すのだった。

司令官の命令である ‘適当・適切な処分’ とはどういうものであろうか。’銃剣で刺殺すること’ であろうか。いやいや、そんなことはないであろう。そんな極端なことは考えられないであろう。
適当・適切とは、不適当・不適切でも構わないという意味であろうか。リーズン (理性・理由・適当) などは、どこかに飛んでいるのであろうから、隊長にリーズナブルな答えなど出るはずが無い。感情的恣意決定であれば、それは、’銃剣で刺殺すること’ になるであろう。現実はその通りになって、司令官の ‘適当・適切’ は、いわゆる ‘きれいごと’ になる。だから、責任を取る司令官は存在しない。
日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容である。日本語には時制というものがないので、日本人には意思が無い。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。
意思は、文章になる。文章には意味がある。伝達される情報は言葉の中で全て提示される欧米文化においては、’言ったか・言わなかったか’ は問題になる。
恣意は、文章にならない。バラバラな単語には意味も無く責任もない。小言・片言・独り言には何の意味もない。重要な情報でも言葉に表現されないことがある日本文化においては、’言ったか・言わなかったか’ では物事は決着しない。
官庁においても政治指導者の曖昧な言語に対して、官僚たちは忖度 (推察) で応じている。いったん責任追及の火の手が上がれば、意思もなく責任感もない政治指導者に ’言ったか・言わなかったか’ と欧米流の勝負を挑まれて、官僚たちは路頭に迷う。だから、彼らは貝になりたいと想うであろう。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」



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他者回避

2017-08-01 06:28:43 | 日本語脳


>■「若者の~離れ」は日本人特有の他者依存に基づく>しかし最近、内需が閉塞しているのはなぜか。

金が目的に対する手段となっていないからでしょう。

>経済の停滞だけでは説明できないだろう。

無哲学・能天気では、新しい社会の建設目的などないでしょうね。

>その特徴の一つが「若者の~離れ」に現れてるのだろう。>日本の「若者の~離れ」のポイントは、他者回避にあると思う。

他者との付き合いは、日本人には難しいでしょうからね。

>社会的な他者と交わることからくる束縛=拘束を回避したい。

社会性が無いですね。世界観が無いから、自己の構想を説明できない。期待できるものは何もない。だから、他者との交わりは、束縛・拘束でしかない。

>他者と向き合うことで生じる社会的な責任を回避したい。

日本人には責任感 (sense of responsibility) が無いですからね。この国がひっくり返った時にも、責任者 (responsible person) は出なかった。とかく、この世は無責任。
日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。意思のない人には責任を任せられない。責任者は社会的な意思決定を行わなくてはならないから。他人のせいにする人ばかりで、我々の社会には責任者が見当たらない。
意思があれば、加害者意識もある。罪の意識が有れば、改心できる。進歩もある。被害者意識ばかりでは、どうにもならない。アニマルと同じでしょうか。

>一人でコンビニエンスな生活、ネット上のコンビニエンスな他者との会話を気楽に楽しみたい。

恣意的ですね。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、小言・片言・独り言で発せられる。精神的に成長していない幼児症ですかね。

>このような他者回避がとても日本人的であるのは、まったく他者を回避しているわけではなく、逆に社会に依存していることで可能になっているためである。

そうですね。ゲットウ住まいの様なものですね。そこから脱出したくても方法がない。文化の違いを克服できない。

>西洋のように、異文化の「他者」が身近にいて習慣が分断されている社会で、他者を回避することは、他者がなにを考えているかわからず、とても恐ろしいものになる。

そうでしょうね。突然、隣人が殺しにやってくるということも、無きにしも非らず。

>たとえば日本人は黒人がそばにいるだけで違和感を感じる。

そうですね。我々は、黒人に慣れていませんからね。

>安心するためには積極的に社交するしかない。

同感です。

>解り合えるということではなく、社交として安心を確認しあう。

安全が第一ですね。

>たとえば米国でエレベーターで一緒になると笑顔を交わし合うようなことだ。

そうですね。自分に敵意の無いことを相手に示す必要がありますね。

>逆に日本人のように無表情でいるのは西洋人には恐怖に感じる。

相手は何を考えているのか、分かりませんからね。奥ゆかしいとは言えませんね。

>だから多民族の西洋では日本的な他者回避は難しい。

そうですね。西洋は国際社会の様なものですね。

>日本人の若者の他者回避、必要以上に干渉しないで欲しいという関係は、真に他者と関係を絶つことでは不可能である。

問題の解決にはなりませんね。鎖国政策の様なものか。開国もやむなしということになる。

>日本人のハイコンテクスト、高い習慣の同期性によって可能になる。

井の中に住む蛙の様なものですね。心地は良いが、世界が狭い。国際社会に移行できません。

>そしてそこにはある程度のお金さえあれば一人でいけるほどに十分に成熟した資本主義の消費文化がある。

物質文化があって、精神文化がない。まともな人間が育たない。


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