goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学問

2017-10-25 23:25:59 | 教育

(略)
>昨今の人間は、自分が何をしたいのかが解らない。したいことを見つけさせるのが教育の目的なのに、その根本を教育は見落としてきた。

確かに、意思の自由がありませんね。恣意の自由は認められませんし。

>学問とは決断である。なぜならば、学んだ後の結果は、学ぶ前には、解らないからである。何年もかけて、寝食を忘れて受験勉強をしても合格するとはかぎらない。合格しても自分の望む結果が得られるとはかぎらない。大学に入学できたとしても挫折することは往々にある。また、大学を出たからといって望む仕事に就けるという保障は何処にもない。況や成功するか、しないかは、大学を出たと言うだけでは解らない。

そうですね。決断ですね。しかし、大学は、考える人を作るところであって、処世術を授けるところではないでしょう。望む仕事に就ける保障にはならないですね。

>海の物とも山の物とも解らない。先に何の保障もない事に一生を賭けるのが学問である。故に、学は志すものである。

学問が人生を保障することはないでしょう。考えることのできる人は、暗庽の人よりも人生が有意義であると私は思いますけれども。

>ところが現代は、何の志も持てないうちにいつの間にか、既定の路線にのせられて勉強をさせられている。だから、何のために学んでいるのか、その意味すらわからない。

そうですね。いつのまにか受験戦争の現状に送り込まれていますね。序列昇進の義務が半ば強制的に与えられていますね。序列社会に生きる人間の宿命の様なものでしょうか。

>だから、いくら勉強しても自分が何をしたいのか解らない。解らないと言うより解らなくしているのである。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。だから、自分が何をしたいかわかりません。
日本人には世界観が無い。過去・現在・未来の世界を脳裏に展開するには、時制が必要です。日本語には時制がない。だから、自分の望む世界を想定できません。この国には何でもあるが、ただ、夢と希望だけが無いということになります。

>学は、志すのである。

学は、考える人になる事ですね。 日本人にとって、至難の業ですね。現在の我が国は、人手不足に陥っています。だがしかし、頭脳不足の話は聞いたことがありません。考えを要求する者もいなければ、される者もいません。我が国は、考えというものの未熟な社会です。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。日本人の精神活動は、言動により明らかにすることはできません。直接、人の心から心へと伝えられるものです。以心伝心・不立文字と言われます。言語に依存しない日本人の精神活動は、国際間の言語障壁を問題にしません。物に込められた日本人の心は製品の品質を高め、 直接外国人にも伝えられて高い評価を得ております。開国初期の猿まねの時代を乗り越えて、我が国の偽物・代用品は付加価値を高めて世界の一流品にまで成長しました。日本は、技術立国を足掛かりとして、世界の経済大国にまで成長しました。来日した研修生も、我が国民の心を習得して経済的な発展を手にすることができれば、我が国独自の世界貢献の道が開けることになるでしょう。実学 (技術) も学問のうちに入るのでしょうね。



.





無能者

2017-10-23 22:47:55 | 日本語脳

>自分の胸に手を当てて考えて見ると、どこかで国が助けてくれる、組織が助けてくれるそんな甘えに依存してしまうことがある。

そうですね。日本人には意思が無い。だから、問題解決の方法もない。無為無策でいるので、他力本願・神頼みになりますか。依存心が強い。

>ただ、その状況があると思っていたら変れない、思考停止したまま。

そうですね。思考停止の状態でいますね。

>リンク
>日本人は依存心が強く、生殺与奪の権限を持つ「上の人」が、何もかも「上げ膳・据え膳」で施してくれるものだと思っている。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。日本人は、’上とみるか・下とみるか’ の判断を的確にしないと会話ができません。そして、その想いが序列人間を作ります。その上、意思が無いのですから受動的な人間になりますね。

>だから、「上の人」に従順でさえあれば、あとは「上の人」が何でもやってくれると思っている。

日本人から意思の表明を要求されることはありません。他の者が、忖度 (推察) を使って助けてくれます。ラクチンです。なんとなく、赤ん坊に似たところがあります。

>大多数の凡庸な日本人にとって、「上の人」とは、自身の能力の割にラクで安定したリスクの少ない仕事を与えてくれて、そのワリに能力以上の生活費を支給してくれて、モラルに関する問題さえ起こさなければ、長幼の序に従って年々高い立場と高給を処遇してくれるものだと思っている。>そして、それでも足りない生活費は補助金として賄い、振舞ってくれる。

そうかもしれませんね。一族郎党の助け合いですか。

>社会インフラが足りなければ、いずれ整えてくれるものだと思っている。

他力本願・神頼みですね。’そのうち何とかなるだろう’ ということでしょうか。

>だから、何かを決める時は「上の人」のご意向が起点になり、「上の人」のご意向が無ければ思考停止になる。

上の人のご意向を下々は忖度 (推察) して受けています。

>まるで「上の人」は、神様だ。

序列制度の最上端は神様ですね。現実の世界に住む現人神のようなものに成りますね。

>誰も神様であるとは口にしないが、「上の人」に対してやっている事は神様扱いだ。

日本人の礼儀作法は、序列作法になっていますね。人を見損なってはいけない。序列判断は、日本人の強迫観念にまで高められています。

>だから、「上の人」を盲目的に祭り上げるし、自身の世間に降臨して仕事を共にすることを「天下り」とまで言う。

落下傘部隊の隊員のようなものですね。真価が判明すれば、価値が下がるかもしれません。

>そんな神様が人間臭い行為、特に「人間臭いあやまち」をするのは、神様だと思っているだけに許せない。

頭の中にいる神様ではない。頭の外にいる神様だから、人間臭い。

>日本人にとって、性は「秘め事」であり、不浄な行為であるから、神聖たるべき「上の人」の「性のあやまち」に厳しくなるのは自然なことだ。

畜産業の伝統は我が国の隅々まで行き渡っていませんね。

>私は、こういう矛盾と欺瞞に満ちた日本社会の「お上意識」と「依存心」が大嫌いだ。

上下社会の神頼みですね。世界が小さい。ユニバーサルでもなければ、グローバルでもない。

>そして、カリスマ的リーダーを求める世間の風潮も大嫌いだ。要は、依存心の裏返しである。

日本人には意思が無いので、どうしてもカリスマ的リーダーが欲しい。マッカーサがそれですか。

>自らは主体的に何もしないで指示を待つだけ。

能動的な態度は、難しいですね。もっぱら受け身。待ちの政治ですか。

>下手に本音や立場を表明すると損をする。

本音は恣意で、どんな社会でも受け入れられませんね。立場は党派的で、よそ者・非国民を作ります。

>黙って、オイシイ所だけイタダク事だけを願っている。

処世術ですね。今だけ、金だけ、自分だけですかね。

>「お上」に「強いリーダーシップ」を期待する人々は、自身が思考停止した無能者であることを意思表示するに等しい。

お上にも意思はありません。ですから、先導者にはなれません。
日本人自身は、思考を停止しています。日本語では、自分の考えの内容を時制 (tense) ある文章内容として表現できません。それは、日本語文法に時制というものが無いからです。

>日本には無能者が満ち溢れている。

日本人は、目先・手先を使って、頭を使いません。今、我が国は人手不足に陥っています。ですが、頭脳不足の話は聞いたことがありません。きっと、頭を遊ばせているのでしょうね。


.




 

序列と能天気

2017-10-23 02:21:03 | 政治

>今の学校教育は、奴隷にするための、教育である。

日本人には意思が無い。意思のあるところに方法はあるといわれています。(Where there’s a will, there’s a way.)
方法があれば、責任が果たせます。しかしながら、意思のない人間には責任の遂行は義務だけが残って、無残なものに成ります。そこには、奴隷・牛馬の苦しみがあります。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>純粋な人間ほど道を踏み外しやすい。

処世術を使わなければ、純粋な人間になれます。ですから、天皇は純粋です。純粋な人間の生活を送るには、身分保障が必要でしょう。
処世術を駆使すれば、今だけ、金だけ、自分だけの庶民生活になります。 ‘不適当はであるが、法律違反とは言えない’ という状態は、秀才の極致でしょうね。道を踏み外したということでしょうか。

>まじめに受験勉強を一生懸命やってきて、大学に入学したら、受験勉強でまじめに勉強してきた事は、何の役にも立たない事に、気がつく。

受験勉強は大学の選抜試験のために用意されたものですから、人間の序列形成以外には役立たないものですね。人間序列は役人の好むところですね。責任感を伴わない序列体制を構築していますから、異常に気持ちが良いのです。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>社会へでたら、大学で勉強した事が、役に立たない。

実社会に出て役立つのは実学 (技術) ですね。大学で学んだ教養 (哲学) は、我が国の社会生活では役立ちませんね。
日本人は無哲学・能天気ですから、大学の教養は使い道がないのです。周りのものから尊敬が得られません。外国の大学で学んでも結果は同じになります。ですから、留学にも若者の人気が無いのです。

>むしろ、障害、弊害になるばかりである。

‘教養が邪魔になる’ のですか。よく聞く話ですね。学内の序列は、実社会で通用しませんからね。それで、生活の調子が狂います。
序列があって、教養が無い。これが日本人社会の特徴でしょう。


.




現実

2017-10-22 02:15:28 | 日本語脳
>学校に行けば、勝ち負け、何番で、比較ばかり。

日本人は、序列人間です。序列を作るためには、序列順位決定戦が必要です。この戦いにより’上とみるか・下とみるか’ が決まります。学校は、序列形成のための手段として必要です。

>音楽や美術も、楽しいから、わたしがやってみたいから、という心の内側からのものではなく、比較、競争、コンクール主義。

言語は、考えるための道具です。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがありますから、礼儀作法は序列作法になっています。ですから、世俗の上下を知らなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。このときに、人を見損なってはなりません。日本人の順位を求める想いは、強迫観念の域にまで高められています。

>勝ち負け、うけるか否かの世界。> (中略)> 生きること自体を問う「恋知(哲学)」の文化はなく、学校ではそういう時間はゼロ。

日本人は、’考える人’ にはなれませんね。日本語は現実を写生するための言語ですから、考え (非現実の内容) は表わすことはできません。

>代わりに「道徳教育」とは恐れ入る。

徳目は、処世術の言い訳として利用できますからね。俗世の生活には欠かせません。おまじないのようなものでしょう。

> (中略)
>言葉ではいいことを言う人も、本音(日々の生活仕方・価値観)は、五十歩百歩です。

きっと、’誰かさん’ の受け売りをしているのでしょうね。本音・恣意は文章内容になりませんから、意味もなく矛盾も有りません。自己主張にはなりません。

>「日本に哲学なし」とか「日本人は生まれながらに哲学とは無縁」といわれて久しいですが、目の前主義で「外面人間になる努力」以外は知らないで生きる人の集団が日本人だとしたら、言葉を失うほど悲しいこと。

考え・非現実は、頭の中に在ります。見ることが出来ません。内面的です。現実は、頭の外にあり、見ることが可能です。外面的です。
外面的な人間は、浅薄な人間です。内面的な人間は思慮が深いです。

>日本にあるのは、ただの事実学の累積と技術知だけかもしれません。

日本人は、実学・技術が得意ですね。内面は見ることが出来ない。奥ゆかしいですね。

>哲学までもその延長で、西ヨーロッパの近代哲学(キリスト教化された視点から解釈されたギリシャ哲学も含む)の書物の読解が哲学と思われているようです。

書物の読解も、自分の頭を働かせるものではありませんね。他人の内容を暗記する勉強ですね。

>それでは、大学教授の職業テツガクにすぎません。

これでは、哲学博士 (Doctor of Philosophy; Ph. D.) にはなれませんね。

>自分が感じ想うところから、自分の頭で考えるという人間の人間的な生がフィロソフィー(恋知)なのに、その基盤・土台が脆弱なために「情報」や「書物」に頼り知ったかぶりをするのはヒドイ話です。

非現実の内容を現実の内容にすることが出来れば、それは創造したことになりますね。
現実の内容を現実の内容として再現すれば、それは模倣したことになりますね。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の人々は、模倣が得意で、創造が苦手です。
模倣の競争は没個性的で参入が容易なために、過酷なものになり勝ちです。創造の競争は個性的で、楽しみがあります。 
我が国は今、人手不足に陥っています。しかし、頭脳不足の話は聞かれません。手先の運動を頭脳の活性化につなげたいですね。

>これを読んでいるあなたも要注意! 

そうですね。

>フィロソフィー(恋知)なしに生きるなら、それは人間の人間としての生ではありません。

アニマルと同じですね。元の木阿弥ですね。

>いまの暗記とパターン知のテストで満点を取るような人は、この基盤がない証拠です。

コピー機の様なものでしょうか。

>恋知とは、知識ではなく、誰でもがもつ自分の固有の精神世界を豊かにしていく日々の実践です。

そうですね。誰にでも哲学は必要です。(Everyone needs a philosophy.)

>自分が感じ、想い、考えるのですから、誰でもいつでもできますが、その方向(沈思と自問自答)への教育がなく、個人の努力がありません。

日本語脳の持ち主には、それは無理でしょうね。日本語は、現実描写のための言語です。考えの内容は非現実ですから、日本語では言い表すことが出来ません。日本語脳の判断によると、現実の内容は本当のこと、非現実は嘘になります。’嘘・本当’ の言い争いに負けるようなことは、誰しも支度はありませんからね。

>それなくしては意味のある対話は成立せず、ただ、相手に勝つ話法と部分知識ばかりの不幸な世界。

暗記力ばかりでは、どうにもなりませんね。無哲学・能天気では、議論はできませんね。議論をすれば、喧嘩になります。

> (中略)>それならば、「日本人のやることはすべて嘘」になります。

奇妙な判定ですね。

>心の内から湧き上がるものがないままに「優秀」な人になる!?芸術家になる~???みな「芸を仕込まれたアシカ」になるだけです。

調教が必要ですね。リーズン (理性・理由・適当) が無い。

>なんともヒドイ話ですが、相当程度現実です。

ひどい話 (現実) をまっとうな話 (非現実) にする方法は、ないものですかね。このことを ‘考える人’ に尋ねてみたいものです。


.




言いたいこと

2017-10-19 01:14:28 | 教育
>日本人に対して、私から言いたいことは「現実を直視しよう」ということに尽きる。

日本人に現実直視は難しいでしょうね。常に自分に都合の良い内容の解釈が入ります。戦車は特車に見えている。

>国防についても、外交についても、エネルギーについても、食糧についても、基幹的な政策について日本は自己決定権を持ってないこと、

日本人には、責任感が無い。意思も無い。意思のない人には責任が無い。人は死んでも死刑執行人は殺人罪に問われない。彼らには殺意が無いからである。
意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制 (tense) というものが無い。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。自己決定権を持つ意欲もなければ、能力もない。

>国土を外国の軍隊に占拠されており、この状態がおそらく永久に続くこと、

そのうち、何とか成るだろうと考えている。日本語文法には時制というものがないので、過去の内容は疾く風化する。未来は一寸先が闇。あるのは眼前、目先・手先のことだけである。’まだか、まだか、まだか’ と待っている。他力本願・神頼みか。

>明治維新以来の悲願であったはずの「不平等条約の解消」という主権国家の基礎的目標を政治家たちが忘れたふりをしていること、

日本人は、自主・独立の気風に掛けている。敗戦により、あんにー (兄) ができた。あんにーが頼りではだめである。マッカーサは日本人の父ではない。

>海外の政治学者たちは特段の悪意もなく、日常的に「日本はアメリカの属国である」という前提で国際関係を論じていること、

子供は大人の指示に従わなくてはなりません。日本人には自己の意思決定ができないからです。独立した意思表示のできない国は属国でしょうね。

>そういう事実を直視するところからしか話は始まらない。

事実を直視してもどうにもならないでしょうね。意思の無いところには方法がない。日本人には意思が無い。無為無策でいる。座して死を待つのか。できるのは、死を覚悟することだけ。これは、先の大戦ですでに経験済みである。
日本語には時制が無いが、英語にはある。だから、英米人には意思がある。時制があれば意思があり、実行力が発揮できる。世界観も持てる。過去・現在・未来の三世界をそれぞれ独立して展開して論ずることが可能になる。時制が無ければ、現実の世界一つだけである。
体系のある非現実の内容は、哲学に成る。この種の学習に成功すれば、哲学博士 (Doctor of Philosophy; Ph.D. ) になる事も可能である。誰にも哲学は必要である。(Everyone needs a philosophy.) 捉えどころのない人間は、消えて無くなる。自己の哲学があれば、個人判断ができる。だから、’烏合の衆’ にならないですむ。
我々日本人は、日本語と英語を学ぶべきである。意思ある言語というものを理解することが必要です。さすれば、英米の高等教育機関への留学にも成功します。高等教育は、子供を大人にするためのものである。 我が国が大人の住む国になれば、独立は全うされます。ですから、我が国には教育改革がぜひとも必要です。

ヨースタイン・ゴルデルは、14歳以上の大人のために哲学入門書 <ソフィーの世界>* を著しました。
この本を例にとれば、現実の世界の少女・ヒルデと非現実の世界の少女・ソフィーは鏡像になっているのですね。
ですから、非現実の世界で考えをまとめることが出来れば、現実の世界でもその方針に沿って我々は行動することが出来ます。
非現実の世界の考えは、現実の生活の指針として役に立ちます。
*Jostein Gaarder, Sophie’s World. Berkley 1996 (訳本あり)



.