>■国語力とは「生活力」である >(略) 本書から印象的な部分を取り上げよう。>橋本さんは「国語力イコール“生活力”」であると述べている。
そうでしょうね。
>長い間国語教師を務め、ユニークな授業を展開してきた橋本さんは、国語力がすべての学問の基礎になると気付いた。
そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
>説明や設問などの文章を理解できる力、そして、自分のことを相手に理解してもらうために必要な力が、国語力であり、読解力であるのだと。
そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>「言ったことが伝っていない」ということが、その後に大きな問題を起こす原因になることはしばしばある。
現実の内容は、頭の外にある。現実は見ることができる。見ればわかる。
しかし、考え (非現実) の内容は、頭の中にある。見ることができない。単なる話 (文章) である。だから、理解が必要である。
日本人は、ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) を発して用を足すことが多い。これは、以心伝心・不立文字というのであろう。だから、日本人は、文章を理解していないことが多い。
日常生活において、片言隻句をとらえて忖度 (推察) で応ずることが多い。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話者に責任はない。だから、文章の理解には関係がない。我々の生活が言語機能の外にある。だから、伝達に齟齬を生ずるのは不思議ではない。
>お互いが伝えた、理解したつもりでも、そこに齟齬があると「言った/言わない」という不毛な議論に陥ってしまう。
日本語による混乱ですね。混乱する原因を正しく理解していないからでしょうね。何事も、文章の理解が基本ですね。
>一つの小説を通して、そこにおける人間模様を追いかけながら、必要な国語の力、そして生活の力を得ていく。
片言隻語の発言と、忖度による対応を小説を通して追いかけていては、文章の理解にはなりませんね。
>挨拶や礼儀というものも学ぶことができる。
日本人の礼儀作法は、序列作法になっている。’上とみるか、下とみるか’ の判断なくして、礼儀正しい日本人になることはできない。序列なきところに、礼儀なしです。
‘人を見損なってはいけない’ ということで、日本人は上下判断に敏感になっています。序列判断は、脅迫観念の域にまで達しています。だから、世俗の上下関係に拘泥して人間平等の精神は普及しません。非常に、残念なことです。
>登場人物が何気なく発した言葉や行動にも理由がある。
非言語の芸術は、’忖度’ (推察) により鑑賞される。ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) には、意味がない。言語 (文章) の内容は、’理解’ により意義を持つ。
>そうしたことを学び、自分の人格形成に反映していくのが、この授業がもたらす大きな効果の一つではないだろうか。
我々日本人は、何をおいても文章と理解の関係を重視する必要がありますね。そうでなければ、国会の混乱も避けられません。
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