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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

国語力

2018-05-27 00:46:56 | 教育


>■国語力とは「生活力」である >(略) 本書から印象的な部分を取り上げよう。>橋本さんは「国語力イコール“生活力”」であると述べている。

そうでしょうね。

>長い間国語教師を務め、ユニークな授業を展開してきた橋本さんは、国語力がすべての学問の基礎になると気付いた。

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

>説明や設問などの文章を理解できる力、そして、自分のことを相手に理解してもらうために必要な力が、国語力であり、読解力であるのだと。

そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>「言ったことが伝っていない」ということが、その後に大きな問題を起こす原因になることはしばしばある。

現実の内容は、頭の外にある。現実は見ることができる。見ればわかる。
しかし、考え (非現実) の内容は、頭の中にある。見ることができない。単なる話 (文章) である。だから、理解が必要である。
日本人は、ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) を発して用を足すことが多い。これは、以心伝心・不立文字というのであろう。だから、日本人は、文章を理解していないことが多い。
日常生活において、片言隻句をとらえて忖度 (推察) で応ずることが多い。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話者に責任はない。だから、文章の理解には関係がない。我々の生活が言語機能の外にある。だから、伝達に齟齬を生ずるのは不思議ではない。

>お互いが伝えた、理解したつもりでも、そこに齟齬があると「言った/言わない」という不毛な議論に陥ってしまう。

日本語による混乱ですね。混乱する原因を正しく理解していないからでしょうね。何事も、文章の理解が基本ですね。

>一つの小説を通して、そこにおける人間模様を追いかけながら、必要な国語の力、そして生活の力を得ていく。

片言隻語の発言と、忖度による対応を小説を通して追いかけていては、文章の理解にはなりませんね。

>挨拶や礼儀というものも学ぶことができる。

日本人の礼儀作法は、序列作法になっている。’上とみるか、下とみるか’ の判断なくして、礼儀正しい日本人になることはできない。序列なきところに、礼儀なしです。
‘人を見損なってはいけない’ ということで、日本人は上下判断に敏感になっています。序列判断は、脅迫観念の域にまで達しています。だから、世俗の上下関係に拘泥して人間平等の精神は普及しません。非常に、残念なことです。

>登場人物が何気なく発した言葉や行動にも理由がある。

非言語の芸術は、’忖度’ (推察) により鑑賞される。ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) には、意味がない。言語 (文章) の内容は、’理解’ により意義を持つ。

>そうしたことを学び、自分の人格形成に反映していくのが、この授業がもたらす大きな効果の一つではないだろうか。

我々日本人は、何をおいても文章と理解の関係を重視する必要がありますね。そうでなければ、国会の混乱も避けられません。



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違反タックル

2018-05-26 02:39:45 | 政治

>違反タックルをした宮川泰介選手の記者会見を心待ちにしていた私は、そのすべてを実況中継で見た。>本当のことを話すと報道で伝えられていたからだ。

日本人で、本当のことを話す人は、まれですね。たいていは、本音と建て前を話します。本音は恣意 (私意・わがまま・身勝手) で、建て前は言い訳です。無哲学・能天気ですからどうしようもない。

>これはすごい記者会見になると思っていた。>そしてその通り凄かった。>冒頭陳述がすべてだ。>これ以上ない告発だ。

本当のことを話せば、本人も気が楽になるでしょう。

>わずか20歳そこそこの若者が、ここまで冷静に、勇気ある発言をした事に驚いた。>更に、記者の質問に答えた内容とその態度が立派だった。>私がここまで人を褒める事はまれだ。>それほど感動した。

そうですね。同感です。見栄と外聞がない。

>それにくらべて記者たちの質問は何だ。>同じ様な質問をあまりにも執拗に、傷口に塩をすり込む様に聞いていた。>書きたい事を本人の口から喋らせたかったのだ。>記者失格だ。

自分の考えの内容を文章にすることは難しい。それは、内容が非現実だからであります。非現実の内容は、日本語では ‘嘘・本当’ の ‘嘘’ にあたりますね。
書きたいことを他人の口から喋らせたら、それを文章にすることは可能です。内容の嘘・本当には、かかわりなく書くことができます。記者失格かな。

>本人の告白を聞くまでもなく、記者であれば、今度の事件の核心はわかっていたはずだ。>独自の取材でそれを報じ、真の責任者をとっくに明らかにして吊し上げるべきだったのだ。

責任者は、現実の内容ではありませんね。’あるべき姿’ (非現実) の内容ですね。だから、記者は彼を見ることができません。ただの話である。それで、教養のない人たちには、責任者を明らかにできません。
現実の内容は、頭の外にある。だから、見ることができる。考え (非現実) の内容は、頭の中にある。だから、見ることができません。考えは、ただの話の内容になっています。だから、内容の把握には理解が必要です。
日本人は、通常、話の意味を理解しようとはしません。片言隻句を捉えて忖度 (推察) します。すると、自分の勝手な解釈が脳裏に浮かんで、基準があやふやになって結論が出ません。優柔不断・意志薄弱に見えます。頭脳明晰ではありません。
子供には、現実があって、非現実 (考え) がない。だから、非現実の問題は、非常に難しいのです。

>それをすることなく、記者会見までも報道のネタにする。>そして、その事は今朝も続いている。>今後当分の間、同じ事が続くだろう。>問題の核心と追及すべき責任者はとっくにわかっているのに、ああでもない、こうでもないと、愚にもつかない評論を並べ立てて報道のネタにする。

愚にもつかない評論は、実況放送・現状報告の内容ですね。これらは、現実の内容ですから書くことが可能です。

>それはそっくりそのまま安倍首相の加計・森友疑惑を報じるメディアの姿と瓜二つだ。>問題の本質も責任の所在ももはやはっきりしているのに、それを書かない。

そうですね。でも、わが国のメディアにはその知力と胆力があるのでしょうかね。

>いいだろう。>もはやアメフト事件の結末は見えた。>もはや内田監督も日大もその責任を認めて社会的制裁を受ける事になる。

そうでしょうね。

>残るは安倍首相の責任追及と辞任である。>アメフト事件ですら、責任者がその責任を認め社会的制裁を受けるのに、一国の首相がだれの目にも明らかなウソを続けて居直り続ける事はあり得ない。>メディアはその事を率先して書かなければいけない。

そうですね。でも、わが国のメディアにはその知力と胆力があるのでしょうかね。

>それを書けないメディアと、居直り続ける安倍首相こそ、今度のアメフト事件があぶりだした本当の敗者である(了)

書けないメディアと居直る安倍首相は、互いに補完関係にあるのでしょうね。敗者となるか、ながらえるか、それがわが国の問題です。


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フットボールの衝撃

2018-05-24 11:59:46 | 文化


>米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は22日、悪質タックル問題を詳細に報じた。>日大選手が謝罪会見を行った様子や談話も盛り込んだ。>「日本中に広がるフットボールの衝撃」と見出しをつけた。>野球、サッカー、相撲が人気の日本でアメリカンフットボールが注目されることはほぼないと紹介。

そうですね。アメリカンフットボールがわが国で注目されることは、ほとんどありませんね。それが、どうして今回浮かび上がったのか。奥深いものがありますね。

>ただ、この問題はパワハラや、権力者への従順とチームへの忠誠が高く評価される日本の特殊性が浮かび上がったことで関心を集めたとした。

アメリカンフットボールは、日本の特殊性により、今回浮かび上がったのですね。その特殊性は、どこから来るのか。
‘パワハラ’ は、上位の者のいじめですね。出る釘は打たれるということでしょう。序列社会において、上位の者が生殺与奪の権を握るということでしょう。上位の者に睨まれたら序列社会においては望みなしですね。
‘権力者への従順’ は、上意下達ですね。上意は、上位の者の意思ではなくて、上位の者の恣意 (私意・我儘・身勝手) ですね。ばらばら単語 (片言・小言・独り言) で文章にならないから、意味をなさない。矛盾も指摘できない。したがって、議論にもならない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。日本人の使う ‘理解’ は、英米の理解 (understanding) ではなくて、忖度 (推察) の要請ですね。だから、国際的な相互理解にはなりません。
‘チームへの忠誠’ は、自己の序列に対する滅私奉公ですね。滅私奉公ができなければ、非国民・外人と名指しされます。戦時中の尽忠報国 (国恩に報いるために働くこと) のようなものか。日本語を話し敬語を使えば、序列観念は脅迫観念のようなものになりますね。相手を見損なってはいけないからです。相手を呼び捨てにするような社会でないと、人間平等の感覚は生まれてこないでしょう。
‘日本の特殊性’ は、日本語により生み出されていますね。この道は、いつか来た道ですね。ああ、そうだよ、平和の中の軍国調。歴史は繰り返すか。過ちは繰り返しませぬか。



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勝利至上主義

2018-05-23 22:24:11 | 教育
>世間では日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボールの定期戦での日本大学の選手が行った悪質なタックルが話題を呼んでいる。>明確な背景は当事者の監督から語られることはないが「試合に出たければ相手の選手を壊してこい。」などの指示があったとの証言も出ている。>この事件は一例に過ぎないが学校教育においてこういった強制圧力は横行している。

そうですね。わが国は、序列社会の国ですからね。上意下達の強制圧力があります。
上意の ‘意’ は ‘意思’ のことではなく、’恣意’ (私意・我儘・身勝手) のことです。
意思は、未来時制の文章内容であり、意味もあれば、矛盾があれば指摘もできます。ですから、議論にもなります。
しかし、日本語文法には時制 (tense) というものがありませんので、未来時制もありません。ですから、日本人には、意思 (will) がない。優柔不断・意志薄弱に見えます。
意思のない日本人にも、恣意 (self-will) はあります。ところが、恣意は文章にならず、バラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在します。意味もなければ、矛盾も指摘できません。議論にもなりません。ですから、自分の言動に対する説明責任が取れません。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任の元凶となっています。

>そういった点から見えてくるのは日本の学校教育の偏った勝利至上主義だ。

そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか、下とみるか’ の世俗的判断ができなければ、日本人の日常生活は成り立たちません。
ですから、人を見損なってはいけない。日本人の礼儀作法は、序列作法になっていて、上下判断が正しくできなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。
ですから、日本人の上下判断は、脅迫観念の域にまで達しています。勝利至上主義は、極上の喜びを得るための手段であることがわかります。

>部活動にしても学校のテストにしても常に順位がつき優劣がつくことが下位に位置する生徒への強制圧力となり、他の生徒にも下位に落ちてはいけないという強迫観念になっている。

そうですね。人々は、常に上下判断にとらわれていますね。だから、’頑張って’ といつも声を掛け合っています。

>勝利至上主義が蔓延している現在の教育の場において生徒個人個人が自由に選択するという場は残されていない。

そうですね。学校は、我利我利の社会になっていますね。
自由とは、意思の自由のことですね。意思のない日本人にとっては、自由は宝の山の持ち腐れです。そして、恣意の自由は、’自由のはき違え’ になるから認められるものではありません。ですから、昔通りに、’不自由を常と思えば不足なし’ が正しいことになります。

>脱学校しなければ本来与えられるはずの選択の自由さえ得られない制度や風潮がどうにかならなければ学校教育の未来はない。

そうですね。日本語には時制がありませんが、英語には時制があります。ですから、英米式の高等教育を受けると、意思の内容を表現できます。
意思のあるところには、方法 (仕方) があります。Where there’s a will, there’s a way. 制度や風習の打開策を見つけて、それを実行に移すことも可能になります。
ですから、わが国の明るい未来への道も開けます。


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道徳の教科

2018-05-23 16:57:41 | 教育
>「道徳の教科化」は、2020年を目処に進む学習指導要領の改訂のなかで、2018年度から先行して始まった(小学生のみ、中学校は2019年度から)。授業時間数は1年生から6年生まで週1時間であることに変わりはないが、道徳が「特別の教科」になることによる大きな変化は2つある。>第一に、道徳の授業で文部科学省の検定が必須の「教科書」が用いられるようになること。第二に「評価」が行われるようになることだ。この2つの変化が子どもたちにどのような影響をもたらすか、今回は考えていきたいと思う。

修身の教科書は、戦前もありましたけれどもね。立派な軍人の話が出ていました。

>□「道徳の教科化」の本当の目的とは?>文科省は道徳の教科化の目的として、第一に「いじめ問題の対応」を挙げている。

人間もアニマルも、恣意 (私意・わがまま・身勝手) による ‘いじめ’ の勝敗結果により序列の順位を定めます。人間が、アニマルを超えることができるかどうかですね。

>しかしその裏には、政府の別の思惑が見てとれる。

政治家が、教育を指導するのですね。

>「学習指導要領解説 特別の教科道徳編」の第1章の1改定の経緯には、学校教育における道徳教育の使命として下記のことが掲げられている。>我が国の教育は、教育基本法第1条に示されているとおり「人格の完成を目指し、 平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われる」ものである。

そうですね。でも、政治家が教育に関与するのはよくないですね。教育が、政治家のご都合主義に流れるでしょう。皇民化教育の前例もあります。

>人格の完成及び国民の育成の基盤となるものが道徳性であり、その道徳性を育てることが学校教育における道徳教育の使命である。

無哲学・能天気な国民性では、道徳性も高くはならないでしょうね。紋切型になる。

>以上をお読みいただき、それのなにが問題なのか?と思う方も少なくないだろう。

そうですね。わが国には、個人主義が浸透していませんからね。

>道徳で指導される中身を見てみても、小学校で習ったこと、あるいは家庭で親御さんがお子さんに伝えていることと重なる、そう思われる方も少なくないだろう。

どこに行っても話の内容は同じになりますね。没個性的ですね。

>しかし問題なのはこれを「国」が「制度」として導入しているというところなのである。>「人格の完成」や「道徳性」とは何かを、はたして国が上から定めるべきものなのだろうか。

そうですね。ロボットの設計図のようなものになるでしょうね。

>それを行き過ぎた行為と思うかそう思わないかはおそらくそれぞれの方々の価値観による部分が大きいだろう。

個人に教育の焦点が当たっていないから、時代遅れでしょうね。

>しかしぜひ一度、立ち止まって考えてみてほしいのだ。>こうした動きが今この時代、この国で起こっているということに目を向ける必要があるのだ 。>変化の激しい時代、多様性や自由、人権が重んじられる時代に、この動きにはやはり違和感を持たざるをえない。

修身は、昔ながらの発想法によるものですね。’格物致知・修身斉家・治国平天下’ ですか。
お仕着せの判断基準には、違和感を持ちますね。

>主権が国民になかった戦前の日本で、修身科が授業として行われたのとはわけが違う。

日本人には、個人的な考えがなく、判断力もないので、外部から判断基準を授けるのが適当であると考えられているのでしょうね。
話を免疫に例えれば、自然免疫のない人は獲得免疫で病気の予防をするようなことになりますね。

>自由と民主主義が標榜される国において、国が国民の価値に規範を示したときに起こることは、戦前のそれよりもっと悲惨だ。

自然免疫のない国民には、獲得免疫が必要であると、為政者は考えるのでしょうね。
国民が信用されていないことは無理もないことです。民信なくば立たず。(論語・顔淵)

>つまり、現代では自己の意思決定の下、自分自身も気づかないうちにコントロールされる危険性が高いのだ。

無哲学・能天気の国民には、危険ですね。優柔不断の状態でコントロールされますね。

>正解のない時代と言われ、未来に潜むリスクは個人にとっても社会にとっても挙げていけばキリがない。

そうですね。’考える人’ にならなくてはならないですね。そして、個人・社会のリスクを軽減して行かなければならない。

>それでも今日の日本では、自由と平等の下、それぞれの意思決定の先にある結果の責任は自分で取るべきであるという考えが浸透している。

残念ながら、日本人には意思がありませんね。それで、責任者は責任を取りません。
意思は、未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制がありませんから、日本人には未来時制がありません。それで、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。
日本人には意思がなくても、恣意がある。それで、意思決定の代わりに恣意決定をする。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。意思は文章内容であるから、意味もある。矛盾もあれば、指摘できる。議論が可能である。
恣意は、ばらばらな単語のままで文章にはならないから、意味がない。だから、恣意による行為には、説明責任が取れない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>社会構造なども踏まえて論理的に考えれば、個人の決断や行為の結果のほとんどは、さまざまな要因の影響を大きく受けている。>それにもかかわらずすべてが「自己責任」に回収される、そんな現代の状態を筆者は「自己責任化社会」と呼ぶ。

社会の状態が悪ければ、国民の生活も悪くなりますね。

(略)


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