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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

失敗の構造

2018-05-22 12:11:32 | 政治


>ご存じの通り「失敗を認めず、失敗を検証せず、失敗を重ねた」というのは大日本帝国戦争指導部の「失敗」の構造そのものです。

そうですね。日本人には、探求の意欲か見られませんね。失敗学などというものが、外国にもあるのでしょうかね。物事を詳しく調べれば、成功もあり失敗もあるでしょうに。

>そのせいで、日本人は国家主権を失い、国土を失い、国民的な誇りを失った。

それも本当ですね。不勉強のせいでも反省はない。いたって呑気ですね。

>その失敗から戦後日本は重要な教訓を得たはずでした。>でも、今の日本を見ていると、この歴史的経験から学んだようには見えません。

同感です。重要な教訓など、どこ吹く風か。価値観が違いますね。我々の価値観は、風流にありか。

>現に、敗戦に至る政治過程の失敗を「失敗」と認めない人たちが政権の中枢を占めている。

そうですね。国民に反省の色はない。相変わらず、無哲学・能天気ですね。
現実直視ができない。日本人の理解というのは、文章の意味を正しくとらえることでない。ばらばらな単語を忖度 (推察) でとらえることである。この奇想天外の意味づけを本人も気づくことなく堂々と述べるから、国際的な相互理解も得られず、わが国は孤立するのである。わが国の常識は、世界の非常識。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

>敗戦という近代日本最大の惨禍を正しく受け止め、なぜこれほどひどい失敗を犯したのかその理由を吟味し、二度と同じ失敗をしないようにシステムを補正するという作業を拒否する人たちが日本の国の方針を決定する立場にある。

残念ながら、それも本当のことですね。真の日本人かな。
日本人には意思がない。意思がない人には、加害者意識もない。加害者意識は罪の意識にもなる。罪の意識が強くて、自分の人生を変えてしまった人も欧米にはいる。
罪の意識のない人には、反省の色もない。子供のようなものである。無理に周りから謝罪をさせようとすると、自虐を強要するものとなる。だから、反省には至らない。
大の大人でありながら、罪の意識のない人を眺めると恨めしくなる。化けて出るのか。
犯罪・謝罪・贖罪など、およそ罪と名の付くものは、日本人生活に縁が遠い。だから、最大の惨禍を正しく受け止めることも難しい。贖罪のための宗教 (キリスト教) など、わが国においては勢力を持つことはない。

>そこに僕は大日本帝国の破局的失敗から何一つ学ぶまいという強固な意思のようなものを感じます。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のないところには、方法がない。仕方がないので、無為無策でいる。その態度が、強固な意志のようなものに見る人には感じられる。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがないので、未来時制もない。それで、日本人には意思がない。優柔不断・意思薄弱に見える。

>僕の考える「国を愛する」というのは、現代日本についてなら、「国家主権を回復する」「国土に外国軍隊を常駐させない」「不平等条約である日米地位協定を平等で双務的なものに改定する」といった散文的な課題を一つひとつこつこつと仕上げてゆくことに他なりません。

自主・独立 (independent) の気風ですね。一人前の大人の気分ですね。

>日本は過去一度も失敗なんかしたことがないし、昔も今も世界中から敬愛されているというような夜郎自大な自己評価にしがみつくことでも、目を血走らせて「非国民」探しをすることでもありません。

そうですね。日本人は、相変わらず ‘気分・雰囲気’ を求めていますね。

>でも、主権国家として当然のこれらの重い政治課題を何よりも先に解決しようという強い意欲を今の日本人からは僕は感じることができません。

そうですね。無哲学・能天気ではね。政治音痴ですね。


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国家主権

2018-05-22 00:19:16 | 政治

>みんなはどうする気なのでしょう。>選ぶことのできる道は二つです。

そうでしょうね。

>一つは「日本はアメリカの属国である」という痛苦な現実をまっすぐ受け止めて、その上で、どうやって国家主権を回復し、国土を回復するかという困難な課題にクールかつリアルに取り組むという道。

哲学の道ですね。無哲学・能天気の我が民族は、現実的な政治音痴を続けるしかないでしょう。

>もう一つは「日本はアメリカの属国である」という現実から眼を背け、国家主権の回復も国土の回復も諦めて、国家主権を持たないのに主権国家のようなふりをし、二流国なのに政治大国のような顔をするというファンタジーと自己欺瞞のうちで眠り込むという道です。

伝統的な泰平の眠りを続けるのですね。

>現代日本を見ていると、どうやら日本人の過半は「ファンタジーと自己欺瞞の道」を選ぼうとしているように見えます。

そうですね。空想・妄想が好きですね。おかげで、漫画・アニメの大国になりました。

>それは「国家主権と国土を回復する」という国家目標があまりに重く、困難であり、とても今の日本の国力では担えそうにないという気がしているからです。

わが国には、人手不足はあっても、頭脳不足はない。

>達成目標があまりに困難なので、「私たちには達成すべき目標なんか、ないよ」というしかたで仕事をニグレクトしようとしている。

どうして言い逃れるかの問題ですね。実のところ、どうしようもない。

>外の世界を直視したくないので、頭からふとんをかぶってふて寝しているような感じです。

文章がない。理解がない。忖度 (推察) がある。現実直視ができない。気分・雰囲気を求めている。

>「主権の回復」という日本の国家的課題は、日本人の代わりに誰かがしてくれるというような仕事ではありません。>僕たちが身銭を切ってやるしかない。

そうですね。

>72年かけてじりじりと失っていった主権なんだから、今さら起死回生の大逆転というようなシンプルで劇的なソリューションがあるはずもない。

日本人には、意思がない。受動があって、能動がない。主体性のない主権など、考えられませんね。これは、我々の民族性です。

>僕たち日本人は長い時間をかけて、日々のたゆみない実践を通じて、こんな「主権のない国」を作りあげてしまった。

そのうち、何とかなるだろうということですね。Happy-go-lucky.

>だから、主権を回復するためには、それと同じだけの時間をかけて、同じような日々のたゆみない実践を通じて働くしかない。

我々の行き着く先は、常に想定外になっている。

>毎日の平凡で、散文的な努力を通じてしか目標は達成されない。

日本人は、無哲学・能天気ですからね。平凡な目標しか達成されない。

>それが面倒だという人たちが「日本はもうとっくの昔から主権国家なのである。だから、主権回復のための努力なんか不要だし、ありえない」という夢想を語っている。

主権回復の話は、持ち出さないことにしている。日本人には、どうしようもないことである。

>彼らの眼には「日本が属国である」という現実がどうしても見えてこないようです。

属国は、上下関係の下にあたるので、触れたくないところです。日本人の恥である。

>自分たちが日米合同委員会や年次改革要望書やジャパン・ハンドラーたちからのレポートを一字一句たがえずに実現していることについても、「これは命令されてやっているんじゃなくて、自分で『そうしたい』から主体的にやっているのだ」というふうに人に説明し、自分にも言い聞かせている。

自己の意思がないのであるから、自己の意思に違える説明になることもない。日本人の態度は、始終一貫している。

>沖縄に米軍基地があるのも、首都上空に米軍主権の空域が広がっているのも「『日本の安全保障のために必要』と日本政府が判断して、こちらからアメリカに要望してそうしてもらっているのだ」というふうに説明し、自分にも言い聞かせている。

日本人は、既成事実を追認する形式で、事の次第を説明する。それを自己の意思であると勘違いしている。

>宗主国から属国に命じられてきたことを、一つひとつ「自分の意思でしていること」に書き換えるという手間のかかる詐術を通じて、彼らは「目覚める」ことを先送りしている。

日本人には、意思がない。だから、意思の内容を把握できない。すべて、事の次第と考えて説明している。日本語脳では、目覚めることは不可能である。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語文法には、時制というものがない。だから、未来時制もない。それで、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。

英語には、時制がある。英語を学び、時制の使い方を覚えて、自己の意思を表明する。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. さすれば、努力次第で問題解決の道は開けて来る。



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欧米

2018-05-21 13:38:51 | 政治

>◇「欧米」というユートピア
>・そもそも「欧米」というのは存在しない。欧州とはユートピアであり、日本人の心に中にしかないもの。

そうですね。文明開化の中にある日本人のあこがれの世界でしたね。

>・日本人は外来的に入ってきたものをすべて「欧米」と呼んで、いろんな分野で各国の方式を組み合わせてきた。

‘欧米’ は、改革・解放の合言葉でしたね。

>・そして、いいとこ取りをしたつもりが、時代の変化によって悪いとこ取りに。

物には、表と裏がありますからね。’見ると聞くでは大違い’ ということもあります。

>・だからこそ、「日本には何が向いていたのか」「これから何が向いているのか」を歴史を振り返りながら考えていかないといけない。

そうですね。我々には、歴史の勉強が必要ですね。江戸時代のほうが、案外日本人には、向いていたのかもしれませんね。時代劇などは、今でも結構流行っています。

>◇西洋的な個人の時代不適合性
>・日本には「近代的個人」という考えは向いていない。

没個性の国では、考えを基本とした個人は浮かばれませんね。我々は、’考える人’ になることが必要ですね。

>・そもそも日本には「個人」よって成り立つ「国民国家」という感覚が薄い。

そうですね。個人主義 (individualism) は、利己主義 (egotism) に間違えられることがありますからね。’個人’ は、わが国では、人気が出ません。

>・基盤がないのに、無理して「個人」を目指した結果、現代では個人に伴う「孤独感」が強くなってきている。

そうですね。考えは、個人個人で違っていますからね。考えがなければ、個人の違いは、考えられませんね。
わが国においては、考えのない人たちが、縦に連なっていますね。縦のきずなが切れると、序列人間は孤独感にさいなまれます。

>・歴史を振り返ると、江戸時代には日本人は長屋に住んで、相互依存的に生きていた。それを自分から切ってしまったことでバラバラになってしまったという事。

序列社会においては、個人は序列でつながっていましたね。序列関係を失った日本人は、非国民か外人になるでしょう。移民なら、棄民ですね。これは、不安このうえもないことです。

>・西洋的思想の根底に流れるものは、個人が神を目指す、全性能に近づいていく思想。

そうですね。西洋人は、’考える人’ ですからね。考えの内容は、頭の中にあって、見ることができない。単なる話で、非現実ですからね。幾らでも理想を盛り込むことが可能です。

>・東洋的思想は、一言で言ったら「自然」日本人はどこまでいっても自然の中にある同質性・均質性に紐づいている。

そうですね。日本人には、意思 (will) がありませんからね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人には、仕方がない。それで、無為無策でいる。これは、アニマルと同じです。自然の中に溶け込んでいる。意思のないアニマルも没個性です。

>・これからの日本人にとっては、西洋的人間性をどうやって超克して、決別し、更新しうるかが非常に重要。

そうですね。英語の文法を学ぶことが必要ですね。
英文法には、時制 (tense) というものがあるので、非現実 (考え) の世界を文章で表現することができます。日本語には、時制がありません。ですから、日本人は、脳裏で考えを展開できません。
現実の内容は、頭の外にありますが、非現実の内容は、頭の中にあります。両者は、所在が異なるので、内容も同じにはなりません。それで、考え (非現実) を基礎にした現実に対する批判精神が獲得できます。
批判精神があれば、国際的な改革運動にも参加して協力できます。日本人が世界の指導者になることも夢でもないでしょう。

>・そのためには、「個人」として判断するのをやめる。個人の為ではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定するのがうまくいく。

はたして、そうでしょうかねえ。’個人’ という考えのない人々は、個人判断ができないから、烏合の衆になります。せっかくの民主主義も、衆愚政治になります。意思のない日本人には、意思決定はできません。意思はなくても、恣意 (私意・わがまま・身勝手) はあります。だから、恣意決定になります。恣意は、文章内容にならないから、意味もありません。それで、説明責任が取れません。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任です。


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日本語事情

2018-05-20 13:58:08 | 政治



司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、ばらばらな単語でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

我々日本人は、単語を使って用事を済ませることが多い。それだけ文章の利用頻度は低いので、文章の重要性も理解されていないし、文章作成のために必要な文法の価値をも一般に認められていない。それで、’文法学校’ (grammar school) の伝統をもつイギリスの言語(English) を習得する時にも苦労することになる。
文章があれば、意味もある。その意味を相手に伝えて、’理解’ してもらうのが学習である。
単語には意味がない。しかし、わが国においては、忖度 (推察) により意味が得られると誤って信じられている。
これは、非言語の芸術である音楽・絵画・彫刻などを鑑賞する時に使う精神活動である。意味のないものには、’理解’ もない。単語による発言の世界とは、おおよそこうしたものである。以心伝心の世界は、アニマルの世界であろうか。
実際には、忖度は聞き手の勝手な解釈であるから、話者には何の責任もない。だから、議論にはならない。とかくこの世は無責任となる。ついでに話せば、責任(responsibility) という単語も日英の間で意味が違っている。その原因は、日本人には意思がないからである。日本語の‘意’ は、意思 (will) ではなくて、恣意(self-will) である。意思は文章になって脳裏に蓄えられるが、恣意は単語のままで腹の底にたまる。腹芸の原動力にはなるが、恣意に基づく行為の説明責任はとれない。
自分の考えた世界の内容を語れば、それは哲学 (philosophy) となる。日本人は、哲学という単語を敬遠する。考えというものがないからである。現実の内容は、頭の外にある。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。現実は、見ることができるが、非現実は見ることができない。ただの話になる。だが学問になる。わが国には、哲学体系ができない。哲学により我々は大同を示すことができる。大同を求めて、小異を預ける。(求大同 存小異) これで、相手と建設的な話し合いが可能になります。
英米人には、一人一人に考えが必要であると考えられている。Everyone needs a philosophy. そうでなければ、我々は烏合の衆になり、民主政治は衆愚政治になる。
日本人は ‘文法と哲学と理解’ を敬遠している。これは、深刻な問題です。だから、我々は国際人になれない。日本人が伝統的な自己の立場を主張して譲らない限り、国際的な相互理解は得られない。
文法に習熟し、作文して自己の意味を述べ、相手に ‘理解’ されなくてはならない。自己の世界観により大同 (非現実) を示し、小異 (現実) を預けることで相手と合意しなくてはならない。考え (非現実) を文章にするためには、英語が必要である。日本語では、現実は本当、非現実は嘘になります。英語ならば、非現実の内容は、考えの内容になります。その内容は、脳裏に内容が刻み込まれます。ですから、我々には、英語の勉強もしなくてはならない。英語を勉強すれば、世界観が得られます。来るべき世界の内容を語ることができます。大同団結の可能性が得られます。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

‘どうしても容認してほしい’ は、恣意ですね。リーズナブルでない。恣意を露呈すれば、英米人から‘恥を知れ’ (Shame on you!) と一喝される。これは、日本人の予期せぬ出来事である。恥の文化の国人の‘恥知らず’ でしょうかね。
文章の意味を ‘理解’ するということは、日本人には難しいようです。’ご理解ください’ は、’忖度 (推察) をお願いします’ といったようなものになるのでしょうね。和歌・俳句の鑑賞のようなものか。



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アジアの非核化

2018-05-19 13:15:56 | 政治

(略)
>C 昨年の核兵器禁止条約を採択した国連の会議に出席した人が、ASEANに加盟する東南アジアが一つに固まって採択に動いたといっていた。

大同があれば、大同団結が可能ですね。

>「アメリカの核の傘」に縛られた日本や韓国を含む北東アジアがバラバラなのとは対照的だったという。

アメリカによる分割統治ですね。自己の意思のない国々ですね。

>アメリカの力の衰退のなかで、アメリカのドル支配、軍事支配からの脱却がアジア全体の大きな課題として動いている。

アジア全体は自己の足で立ち上がらなくてはならない。

>アジアの「非核化」も、北朝鮮の非核化だけで済む問題ではない。

いよいよ日本人が、自己の意思と力を示すときですね。

>2発の原爆を投下しながらそれを正当化し、核を独占して軍事利用してきたアメリカの核も問われなければならない。

力は、正義である。強者の怒りは、抑止力となる。

>被爆国である日本においてその世論をさらに強めることが求められる。

日本人には、批判精神がない。頭にあるのは、世の中は、、、。昔ながらの観点である。

>第2次大戦後のパクスアメリカーナが終焉に向かっているもとで、その残渣(ざんさ)を清算することが求められている。>在韓、在日米軍の存在も焦点になる。

いよいよ日本・韓国の出番か。

>「東アジアを揉ませるな」という力が各国の外交に反映しているし、同列にいなければ日本政府に立ち位置などない。

わが国は、昔ながらの孤高の国か。

>カネをばらまいてどうにかなるものではないし、「どうせアメリカの使い走りだろうが」と思われているようでは相手にされない。

日本人は、’花咲か爺’ の昔話に今でもとらわれているのでしょうね。

>日本社会にとっても、対米従属構造からの脱却が問われている。

従属は、日本人の天性でしょうね。日本人には、意思がない。

>73年にわたる対米従属構造から脱却しようというとき、今や腐敗堕落しきった統治機構の在り方も問題にしないといけない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人の会話は、ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) で成り立つことが多い。文章になっていないから、意味もない。考えがない。大同がない。哲学がない。
忖度 (推察) が幅を利かせる議会では、統治機構に問題を抱えることになる。

>国際社会からは置き去りにされ、国内では「モリカケ」騒動に延延と時間を費やして、嘘つきが跋扈(ばっこ)している。

民信なくば立たず。論語 日本人には、道徳の勉強が不足しているのかな。

>このぶっ壊れた社会の状態も、ある意味で戦後の対米従属政治のなれの果てだ。

従属は、日本人の天性でしょうね。
日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、未来時制もなく、日本人には意思がない。意思のない人には、従属があって、主導がない。建国以来の成れの果て。

>まともな社会を築いていく努力と、東アジアの国国と真に友好関係を切り結んでいく努力は一つのものだ。

そうですね。筋の通った話は、どこでも同じです。主導がなくて、従属がある。他力本願・神頼みじゃ。
意思のあるところに、方法・仕方がある。Where there’s a will, there‘s a way.
意思を持つ練習をしましょう。英語には、時制というものがある。だから、英米人には、意思がある。
我々も、真の友好関係を結ぶ意思を示そう。



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