>348828 もはや学校は終わっている(その4つの理由) >岡田淳三郎 ( 70代 大阪 経営 ) 19/08/26 PM09 【印刷用へ】 >1.もはや「いい生活⇒いい大学」では意欲が湧かない そうですね。‘いい’ の内容が問題でしょうね。 > みんな貧しかった頃は、誰もが「いい生活」を求めて、私権(お金や地位)の獲得に向かいましたが、豊かになり物が有り余る時代になると「いい生活」はもはや目標にならなくなり、私権獲得の活力はどんどん衰弱していきました。 >そうなると、私権を獲得するための地位=学歴の価値もどんどん下がってゆきます。 そうですね。昔は ‘いい生活’ とは、金に余裕のある生活の事でしたね。しかし、今日でも人間には良い生活が無くなった訳ではないでしょう。 >今や学歴を採用や昇進の基準にしているのはよほど古い体質の時代遅れな企業だけで、将来性のある先進的な企業で学歴を基準にしている企業など既にありません。 そうですね。企業活動と学歴は関係がありませんからね。日本の高学歴は教養の指標にもなりませんね。 > 学校や塾は相変わらず学歴・成績第一と脅し続けていますが、騙されてはなりません。 そうですね。わが国は序列社会 (縦社会) の国ですから、それ相応の意味はあるのでしょうね。しかし、外国では通用しないわが国独特の意味でしょうね。 >現実を直視してください。 >子供に必要なのは、何があっても生き抜いていく力であり、成績ではありません。 そうですね。序列順位が成績であっては生き抜く力は得られませんね。絶海の孤島で生き抜く力が必要ですね。 ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) > 2.学校の勉強は役に立たない > それは実社会に出て誰もが思うところですが、なぜ役に立たなくなってしまったのでしょうか? 実社会で役立つのは実学 (技術) ですからね。実業学校を卒業したほうが良いでしょうね。 >日本が豊かさを実現したのは50年前。 そうですね。持ち前の勤勉さと細工物の仕上がりの良さが外国人に認められて日本は豊かな国になりましたね。 >その時同時に、豊かさの実現へと人々を導いてきた西欧観念も見捨てられ、それ以来、無思想・無気力・無関心が広がり続けて、今や日本人の活力はどん底(世界最低ランク)まで下がってしまいました。 日本人は実学の道に自信を得ましたね。西洋観念なしでやっていけることに確信を得ましたね。 >ところが、学校は相変わらずとうに見捨てられ何の役にも立たなくなった西欧観念を教え続けています。 >これでは、勉強意欲がわかないのも当然です。 西洋哲学は、日本人にとっては ‘猫に小判’ ・ ’豚に真珠’ ですからね。無哲学・能天気では勉強意欲は湧きませんね。 >それに対して、遊びや仕事を通じて意欲と追求心を再生していくのが遊学舎、幼小科、探求科や仕事塾、そして究極の形が学校に代わる新しい学び舎:全日制の類学舎です。 成功すると良いですね。 > 2’.西欧科学と西欧思想は狂っている > しかし、西欧観念が見捨てられた真の理由は、西欧観念が孕む重大な欠陥にあります。 それは日本人の誤解でしょうね。日本人は現実の内容しか頭に入りませんからね。心ここにあらざれば視れども見えず。(大学) >例えば、西欧科学が後のことをまったく考えずに作るだけ作って至る所で環境を破壊することになったのは、目先の利益しか考えず、それ故に常に都合の良い(都合の悪い事象は捨象した)公式を頭の中だけで作ってきたからです。 それはありますね。 >また、自由・平等・博愛も、頭の中だけの綺麗ごとです。 そうですね。日本語は現実の内容を ‘考え・伝える’ 為の言葉でしょう。 自由・平等・博愛は、非現実 (考え) の内容ですから、日本人にとっては綺麗ごとでしかありませんね。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) >このように、教科書を貫く西欧科学と西欧思想は、現実から目をそらした架空観念(頭の中だけの綺麗事)に過ぎません。 現実直視は必要です。その上に、非現実 (考え) の内容も必要でしょうね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. 答えはただ一つである。考える必要はない。楽ちんである。 非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るには文法に従って文章を理解しなくてはならない。これは骨の折れる作業である。だから、日本人は、通常、理解はしない。その代わりに忖度 (推察) している。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでいない文章は全て正しい考えを示している。考えの内容は人により違っている。だから、正解は一つではない。幾らでもある。考えのない人は、軽薄である。現実の内容の奥に考えがない。 (2/2に続く) . |
>354874 言葉にすると失われるものがある >匿名希望 20/03/22 PM11 【印刷用へ】
>リンクより引用
> 人間の顔を記憶するある実験において、特徴を言葉にして記憶をすると、記憶の成績が下がってしまうという事例がありました。>言葉を使わずにぼんやりとそのまま記憶した方が、人の顔をよく覚えているのです。
それはそうでしようね。図形とか音声とかは言葉にして記憶すると、記憶の成績が下がるでしょうね。
>同様の現象は他の実験でも認められ、それらは下記のような言葉で表せる「言語隠蔽効果」として知られています。> 課題に対して言葉を用いると妨害的影響が生じる >言葉にするとき捨てている
等高線で示される地図なども言葉で表現するのが難しいですね。
>言葉の豊かさ、という言葉を使うとき、言葉そのものの豊かさよりも、言葉に対して人間が働かせる想像力の豊かさを指している場合が多いと思います。
気分・雰囲気のことですね。
>言葉には、それだけ想像の余地があります。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではありません。想像は勝手な解釈によるものですね。
>しかし、それは一方で、アイデアやぼんやりした概念を言葉に落としこむ時に多くのものを捨て去っていることを意味しています。
そうですね。
>捨てた部分を人間の想像力で補っています。
忖度 (推察) の内容は、聞き手・読者の勝手な解釈によるものです。話者・筆者には何の責任もありませんね。
>しかしそれは元のアイデアとは残念ながら別のものかもしれません。
そうでしょうね。何しろ勝手な解釈ですからね。
> 捨てずに表現するにはポンチ絵を使う
それは便利な方法ですね。
>言葉にするときに捨て去る部分に、実は人間の顔の認識に必要な部分があるのかもしれません。 >同じように、アイデアを発想するときに、すべてを言葉にしようとすると、やはり失うものが多いように思うのです。>だから、言葉に頼らずに発想したいのです。
そうですね。芸術家 (音楽・絵画・造形美術など) は、非言語の活動に専念していますね。彼らの表現したいものは、実物・実音 そのものずばり。それ以上のものでもなく、それ以下のものでもない。
>例えばブレインストーミングなどでアイデアを検討するとき、言葉ではなくポンチ絵を書いて共有するほうが面白い企画ができあがることがあります。
忖度の活用ですね。
>実際にやってみるとわかりますが、誰かの絵に刺激されて新たな発想が湧いてきます。
新たな着想が言語活動を促進しますね。
>そういった感化の度合いも言語よりもビジュアルのほうが優れているように感じています。> 言語化をしすぎずに、ビジュアルでアイデアを残したり伝えたりすることに慣れておくと、より面白い発想が浮かびやすくなると思いますよ。
そういう事もあるでしょうね。
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>299738 人の話を聴かない若い人の登場 >雲渓 14/12/31 PM00 【印刷用へ】 >お上・・政治家、官僚、教授、マスコミの連中が意識的に捏造する様々な情報に接して・・若者は脅え活力を衰弱させています。
> 武田教授のブログ引用リンク
> かつて、私が若い頃の日本社会では「人の話をよく聴かない」というのは、決まって年配の男性だった。 >自信が強く、頑固で、自分が国会であり、裁判官だという意識があり、パターナリズム(家のことも自分が決める)という意識が強かったので、人の話を聞かなくてもさして困らなかったからだ。
そうですね。権威主義 (authoritarianism) でしたね。
>ところが、最近、若い人が人の話をよく聴かなくなった。>20年ほど前に学生と話をしていて気がついたのだが、それがだんだん、年齢が高くなって最近では40歳ぐらいまでの人、男女の区別なく、人の話を聴かない。
伝達の障害ですね。
> 具体的なことはここでは省略するけれど、その原因は二つあるように思う。
>一つが「マニュアル人間」で、きわめて視野が狭く、「自分が言ったり、したりすることはこれだけだ」と決めてかかっていて、何を言っても同じ返事が返ってくるケースである。
思考停止の状態ですね。洗脳される一歩手前の状態ですね。
>もう一つが、「仲間人間」で、いつも仲間内だけで話をしているので、始めて会う人や年齢が違う人の言うことが理解できないタイプだ。
そうですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>こちらは正しく日本語で話しているつもりなので、「落ち着いてよく聞いてください」と言ってしまうことがある。 >「最初から話しますね」とか、「ゆっくり聞いてください」といっても、上の空で聞いている。 >おそらく私とあった瞬間に自分の頭の中に浮かんだ「この人はこういうはずだ」という直感から逃れることができないように見える。
そうですね。理解はせずに忖度 (推察) を使っていますね。理解が早いのではないですね。
>それはちょうど、現在の日本を覆う錯覚、「タバコを吸うと肺がんになる」、「副流煙は危険だ」、「減塩食はヘルシーだ」、「脂っこいものは避ける」、「コラーゲンの食事をとるとお肌や関節に良い」、「石油は枯渇する」、「地球は温暖化している」、「大麻は麻薬だ」などと同じで、情報が多岐にわたり、悪い専門家がいて、短絡的な情報を流し、それを咀嚼できない社会の縮図でもあるように思う。
同感ですね。暗記物の勉強による祟りのようなものですね。
> 仲間内だけの暗号のような日本語、考えずにやることだけを教えてくれという人たち、環境の国家試験では未だにリサイクルが資源を節約できるという回答をしないと正解にならないというウソの世界・・・その中で若者は「俺たちの世界以外は知りたくない。
そうですね。思考停止が何よりの状態と考えられているでしょうね。
>知るとバッシングを受ける」とおびえているように見える。
そうですね。彼らはご唱和の世界に埋没して危険を避けようとしていますね。
> 日本は民主主義であり、言論の自由が保証されていて、さらに誠実で礼儀正しい日本文化という宝を持っている。
人々は、個人として自分の頭を使うのを避けていますね。すべてを没個性の作法で切り抜けようとしていますね。ですから、個性の表現が存在しない社会となっています。不自由を常と思えば不足なしか。
>でも、それもお上に類する大臣、高級官僚、東大教授、NHKなどが次々と破っていては若者が怯えるのも止むを得ないかも知れない。
わが国は、相変わらずの序列社会 (上下社会・縦社会) ですからね。思考停止と上意下達でことを済ませる傾向が強いですね。
> 基本的な道徳が守られず、村の中の小さな「モラル」というものが過度に強調されるなか、若者はまた怯えて社会から遠ざかろうとしているように感じる。
そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的序列判断に全ての日本人が煩わされています。特に若い人はこの陋習を敬遠して伝達そのものを遮断しているのでしょうね。
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>田野健 HP ( 58 設計業 ) 19/05/04 PM08 【印刷用へ】 >内田樹氏と池上六郎氏の対談集「身体の言い分」という著書の中に言葉に関して書かれている部分があったので紹介したい。>内田先生が語られている言葉の本質の部分。
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> コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。
お言葉ですが、話が ‘ぶれる’ のは良くないでしょう。
>「互いの声が届く」ということです。
言語は思考と伝達の道具ですから、お互いに声が届く必要はありますね。
>でもこういうことって、なかなか理解してくれる人がいないんですよ。
そうでしょうね。首尾一貫を否定したのでは、私にも理解できませんね。
>むしろそれとは反対に、どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方の方が、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。>どんな局面でも、どんな相手でも、つねに「自分らしさ」を貫き通せ、と。
そうですね。人格変化を起こすのは困りものですね。’ジーキル博士とハイド氏’ であっては困ります。
>親に対しても教師に対しても目上の人間に対しても庇護しなければいけない人間に対しても、同じメッセージを同じ言葉使いで語り続けろ、と。
そうですね。日本人には難しい会話法ですね。だが、欧米人には一般的ですね。
日本語には階称 (言葉遣い) というものがあります。これは、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断なしでは、日常会話にも差支えが出るほど重要な判断です。また、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人にもなれません。日本人社会においては、序列なきところに礼儀なしです。
>そういうことを言う人がいるんですよね。>知識人たちの中にも。
そうですね。これは欧米流の話し方ですね。国際的な話し方ということもできるでしょう。
> (中略)
> 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的にいうと「うるさい」ということですね。
‘うるさい’ は、お互い様ですね。人間に個性は必要ですね。没個性は、アニマルと同じ状態でしょう。
>そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「私が語る」ということそのものの不快さなんです。
自己がない人間では困りますね。人間に、自己主張・自己実現は必要ですね。それが不愉快であると主張する人は前途多難ではないでしょうか。
> 言葉というのは、本来「わたし以外のだれか」が「わたし」の口を通して語るのを「わたし」が聴く、という屈折した経験なわけですよね。
そうは思いませんね。屈折は良くないですね。単純が良いですね。
>自分の言いたいことがあらかじめあって、それを告知するわけじゃない。
発言には、自己主張を伝達するという意思の存在が必要ですね。意思のあるところに方法 (仕方) があります。Where there’s a will, there’s a way.
>今自分が何を話しているのか、これから何を話すのかを自分は「知らない」。
それは問題ですね。自分が話す内容は、あらかじめ吟味しておくべきですね。そうでなければ、話者はつかみどころのない人間になりますね。
>だから自分の声に耳を傾ける・・・・というかたちで言葉に対する最初の「敬意」は生まれるんです。
敬意は人格に基づくものではないですか。
>そうやって自分自身の口から出てくる言葉の「静けさ」を聴く修練を積むわけですよね。
それは、気分・雰囲気の問題ですね。思考でもなく伝達でもないでしょう。
> だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語るときに「うるさい」ものになる。
お互いに私自身が語る内容でなければ、対話・議論はできませんね。実りある議論にはならないでしょう。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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>237171 『人権』『自由』『平等』の矛盾 >S・M ( 24 東京 会社員 ) 10/09/02 AM02 【印刷用へ】
>>実際、そのような「思想と運動」は、何を残し得たのか?
それは、空理空論と空騒ぎですかね。
>>残された彼らの真実は、受験戦争に勝ち抜いて大企業に入り、そして今ではその体制に寄りかかって、ひたすら身の安定を求めているという現実ひとつ以外に何もない。
そうですね。処世術が有効に作用する現実ばかりですね。
>>その現実は、彼らの頭の中の「人間主義」や「社会変革」と、どう結びつくというのか?
現実は頭の外の内容であり、人間主義や社会変革は頭の中の内容ですから結びつかないでしょうね。両者の内容の所在が違います。
>>自ら否定している現実と、自分自身の現実とは同一ではないか!
同一ですね。
>いくら『人権』『自由』『平等』を謳ったところで、それらは決して相容れず、腹背の関係となっている。
お互いに遠慮して腹背の関係にならぬようにしたらよいでしょう。それが理想の世界ですね。
>人権を主張すれば、自由、平等は成り立たず、自由を主張すれば、人権、平等は成立しない。
‘不自由を常と思えば不足なし’ ですね。昔の現実に戻りますか。
>このような単純な矛盾を孕ませているにも係らず、なぜか日本において最も重要とされている、憲法で謳っているのには驚きを隠せない。
日本人には世界観が無いので、人権・自由・平等の成り立つ世界は想定できないのでしょうね。哲学 (非現実) の世界は日本人にとって想像を絶する世界になっているのでしょうね。
>この現実社会で、この言葉と真剣に向き合い、使っている人は少なく、それは現実を生きていく中で不要であることを意味している。
不要は、無哲学・能天気の証拠でしょうね。
> 逆にそれらを盾に主張する輩はテレビなどでよく見るが、彼らが私たちの求めている姿には見えない。
‘人権・自由・平等’ は非現実 (考え) の内容ですからね。見ることはできない。ただの話です。その話の内容を知るには文章を文法に従って逐一理解する必要があります。これは骨の折れる作業です。だから、日本人は通常理解はしない。その代わりに忖度 (推察) をつかいます。忖度と理解は似て非なるものであるから、気を付けなければならない。忖度は聞き手・読者の勝手な解釈であるから、話者・著者には何の責任もない。内容の不一致はひとえに忖度の主にある。彼は現実直視ができていない。そのことを当人に告げると、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発して譲らない。だから、そこで物別れになる。
>むしろその不満に満ちた顔には、正反対の評価が妥当かと思われる。
彼らは、現実と非現実 (考え) の内容が一致しないのが不満なのでしょうね。両者はその所在が違うから一致することは無いでしょう。
> 残念なことに、今の社会の構造はそのような主張派を包括したものになっており、一般大衆にはとても生活しにくい状況を作り出している。
頭の中の内容と頭の外の内容が今の社会の中で併存しますね。それは、両者を頭の外の内容と誤って考えるからでしょう。内容が二つで生活がしにくい。
> 彼らに『自ら否定している現実と、自分自身の現実とは同一ではないか!』と再考を仰ぎたい。
‘自ら否定している現実’ は真の現実である。’自分自身の現実’ は非現実 (考え) の内容である。そして、両者は頭の内外の内容であるから同じにはならない。
日本語は、現実描写 (スケッチ) の為の言語である。見ることのできない内容は ‘嘘’ になる。だから、日本人には非現実 (考え) の内容は想定外になっている。
欧米人の考えでは、現実も非現実 (考え) の内容も存在する。だから、
日本人が欧米人の考えを理解するのは難しい。
'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
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