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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

言葉にできない  

2021-11-19 00:29:56 | 文化

 

>公開日 2017-05-23   >言えないのは、考えていないから。 >「言葉にできない」に逃げない、言語化トレーニング  >コラム 思考法・発想法 スキルアップ・仕事 小川桜子

>自分の感情を適切に表現できる言葉を見つけられなくて、とりあえず安易な言葉で済ませてしまったことはありませんか? >極端な例では、綺麗な景色を見て「やばい」、美味しいものを食べて「やばい」、仕事が忙しくて「やばい」、というようなものです。>しかし、さまざまな状況で生まれたさまざまな感情は、決して同じ言葉だけでまかなえるものではありません。>自分の感情をうまく表現できないと、言いたいことがあるのにまとまらない、もやもやした気持ちを言葉にできない、どうしてむしゃくしゃしているのかわからない……という風にうっぷんを抱えてしまうのではないでしょうか。

 

そうですね。そういうことはありますね。

 

>その悩みは「言語化」のトレーニングで改善できるはずです。  

 

そう簡単にゆく良いのですがね。   

 

>さっそくご紹介しましょう。>言葉にできないのはなぜ? 言語化とは   >「言語化」とは、その名の通り自分の頭の中にある考えを言葉にすること。>アウトプットとも言いますね。>案外この「言語化」ができていない人は多いようです。>「言語化」ができないと、対話する相手の言葉になんとなく不満を覚えてもはっきりと言い返せなかったり、感動してもうまく言葉にできなかったり、どうしてイライラしているのか言葉を用いて明確にできなかったりといった状況に陥ってしまいます。

 

そうですね。日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)

 

>では、頭の中にあるイメージを言葉にできないのはなぜなのでしょう。>その理由は、端的に言ってしまうと「考えていない」から。>思考が整理できていないまま、考えることを放棄してしまっているのです。

 

そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。   

 

>例えば難しい議題について話し合っているうちに、だんだんと自分の考えがまとまってきたり、観た映画のレビューを書いているうちに、自分の感想がはっきりとわかってきたりした経験はありませんか?  >他の人に勉強を教えているうちに、自分の理解度も深まったという経験をした方もいるかもしれません。 >つまりアウトプットは、思考の整理につながるのです。

 

そうですね。英米の高等教育は (卒業) 論文・(修士) 論文・(博士) 論文ですね。教育の最初から最後まで論文ですね。       

 

>脳科学者として著名な茂木健一郎氏は、アウトプットに関して次のように述べています。 >脳にとっては、言語も一つの運動です。 >とにかく一度出力しないことには、自分が本当に考えていることや、潜在的な可能性も見えてきません。

 

そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

 

>情報のインプットとともに、アウトプットも恒常的に行わないことには、その考えが真に自分のものとなることはないのです。

 

そうですね。丸暗記と受け売りを専門とする人間だけでは人類の進歩はありませんね。

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」アルトゥル・ショーペンハウエル   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

>(引用元:起業tv|【アウトプットとは?】アウトプットの意味とポイントを簡単に解説!) >では、「言語化」を習慣付けるには何をしたら良いのでしょうか。 >言語化トレーニング01  >         STRAIL コンサルタントの的確な課題発見で「いますべきこと」に集中。 >2ヶ月で英語力が大幅にアップ。 >言語化のトレーニング法   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>1.感情を100字以内で述べる >「ドラマが楽しみ」「ランチが美味しかった」「電車内の人に腹が立った」などなど、日常生活の中で抱いたちょっとした感情を100字以内で文章にしてみましょう。 >例えば「ドラマが楽しみ」なら、「ルックスが好みの俳優や演技力の高い女優が出演していて、登場人物のキャラクターや台詞に共感できるものが多かった。 >ストーリーがスリリングで展開の予測がつかないので、来週の放送が待ちきれないほど楽しみだ」という感じ。 >例えば「ランチがおいしかった」なら、「ランチに食べたパスタは濃厚なクリームソースとベーコンの風味が自分好みだった。 >セットのサラダはシャキシャキとした新鮮な野菜に素材の味を引き立てる薄味のドレッシングがかかっていて美味しかった」>あるいは「電車内の人に腹が立った」なら、「知らない人に満員電車で思い切り足を踏まれたのに謝罪がなかった。 >混雑した電車内で体がぶつかったり、足を踏んだりしてしまうのは仕方のないことだが、一言も謝らないのはあまりにも失礼だと思い腹が立った」といった具合です。 >100文字は場合によって短くも長くも感じられます。 >慣れるまでは案外面倒な作業かもしれませんが、習慣化することでコツがわかっていき、思考が整理されていきます。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>2. SNSを有効活用する  >時間を浪費する原因となり、有効な知識のインプットをさまたげると言われるSNS。 >SNSをぼんやりと眺めているよりは書籍などから有意義な情報をインプットしたほうが実用的ですが、実はアウトプットの面においてSNSは非常に適した存在です。>正しい日本語を使い、親しい人間以外にも通じるような文章を心がけたうえで自分の考えを発信する習慣は、「言語化」のトレーニングに最適。 >なかでもTwitterは手軽かつ多くの人の目に入るうえ、140字という文字数制限があり丁度良いのです。 >気軽に自分が発信する側に立つことができるSNSは、「言語化」のトレーニングとして有効活用できる便利なツールというわけです。

 

そうですね。馴れ合いを廃して作文・論文に力を入れましょう。     

馴れ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

 

>3.“なぜ?”を文章にする   >サッカーの指導には「ゲームフリーズ」というものがあります。>ゲーム中、一つ一つの動作をいったん止めて「なぜ今彼にパスを回したのか」「なぜパスを回さなかったのか」等を選手たちにレビューさせるというものです。>それにより、選手自身に課題解決の方法を考えさせるといったアプローチが試みられています。>ゲームフリーズを日々の生活に取り入れてみましょう。>例えば何かの壁にぶつかったとき「“なぜ”進めないのか」、何かの問題が発生したときに「”なぜ”この問題が発生したのか」と徹底的にレビューするのです。 >解決方法を導きだせるだけでなく、「言語化」のトレーニングにも役立てられます。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

日本人の未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことに不便を感じない。 

 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。 

 

>***

>何気なく過ごしてしまうような日常生活の中で「言語化」のトレーニングを心がけて、思考停止状態を脱してみませんか?      

 

そうですね。何よりも国語ですね。無哲学・能天気ではいられない。       

 

 

 

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安全神話  

2021-11-15 08:32:17 | 文化

>次代の活力源は?  >372375         ニッポンの「治療」は始まっている  >大嶋洋一 ( 59 電気・情報設計 )           21/11/14 PM08

>先日、地下鉄内での放火・殺傷事件がありましたが、日本の安全神話が崩壊しつつある。 

 

そうですね。わが国は、以前は水と安全はタダの国でしたがね。   

 

>以下、コモンの再生 内田樹著 文芸春秋 より引用

>*********************************************************************

>安全文化が危険水域に  > 新幹線は本当に危険な話でしたね。 >博多を出て、小倉で異音異臭がして、岡山で保安担当者が乗り込んできて、停車して点検するように言ったのに、総合指令所はそれを無視して、結局名古屋まで走り続けた。

>この事例はJRの安全文化がかなり危険水域に入っていることを示していると思います。 > 新幹線を停めることによって生じるデメリットというのは、ダイヤが乱れるとか特急料金を払い戻すとか代替交通機関を用意するとか、いずれにせよ予測可能&#183;計測可能な被害です。 >でも、もし危険を知りながら走らせて事故を起こした場合、脱線したり、車両が壊れたり、線路が壊れたり、死傷者が出た場合、それによって生じる損害は桁外れの、予測不能の規模のものになる。

 

そうですね。原発事故のメルトダウンのようなものですね。   

 

>1964年から53年間無事故という新幹線の安全神話そのものが崩れる。 >事故が起きたときに失うものの大きさを考えたら、停車して点検するくらいのことから生じるロスなど比較にならないほど軽微なものです。 >でも、なぜか現場ではその比較ができなかった。 >目先のダイヤ通りの運行を優先して、JRが破滅するくらいのリスクを見逃した。 >リスク管理がどうこう言う以前に、ふつうに「算盤」を弾いたら子どもでも下せる判断をJRができなくなっているということに僕は危機的兆候を感じます。

 

そうですね。危機管理が疎かな人たちですね。事故を予測して安全サイドに舵を切ること (fail-safe) を知らない人たちですね。      

 

> 上下水道とか交通網とか通信網とかの基本的な社会的インフラはとにかく安定的に運転することが最優先します。 >採算とか効率とかは基礎的社会的インフラの管理運営においては副次的なことに過ぎません。 >とにかく安定的に機能しなくなったらたいへんな被害が生じるわけですから。

 

そうですね。安全第一ですね。  

 

> にもかかわらず、今回の新幹線トラブルでは目先の定時運行をシステムそのものの保全より優先させた。 >このような「目先の損得にこだわって巨大なリスクを看過する」という傾向が今、日本中の組織を侵しています。

 

そうですね。日本人は、現実・目先ばかりにとらわれる人たちですね。常にやってみなければ結果は分からないと考えている。思慮がない。思慮深い人が見当たらない。      

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、日本人は、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が日本人に高く評価されている。そして、付和雷同する。   

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は思考を停止しており万事受け身で対処するのが基本姿勢となっている。いわゆる指示待ち人間ですね。     

 

> 日産もスバルも三菱マテリアルも神戸製鋼も、目先の納期やコスト削減にこだわって、営々として築き上げてきたブランド&#183;イメージに取り返しのつかない傷をつけてしまいました。

 

そうですね。信頼できない人たちばかりですね。       

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>東芝は上場廃止になると騒がれていたし、神戸製鋼もクライアントの信頼を回復しなければならない。 >守るべき規則を守らず、コストを惜しんだ結果、企業本体が経営危機に陥るというのは、どう考えても「間尺に合わない」話です。

 

そうですね。政治家の太平洋戦争のようなものですね。  

 

>でも、今時の経営者たちはこの「間尺に合わない」という考え方そのものが苦手なようです。  

 

そうですね。思慮のない人たちですからね。    

 

>「尺間というのは要するに「時間意識」のことです。 >どれくらいのタイムスパンでことの損得を計算するか、その長短で適否の判断は変わります。 >10時間で測る人と10年で測る人では判断が逆転することもある。 >余命いくばくもない人が不健康な生活をしているのを見て「そんなことを続けていると早死にするよ」と説教してもさっぱり応えない。 >それは「今気分が良ければ、先のことなんか知るかよ」という判断の方に理があるからです。 > 日本の組織は今それに近い感じです。

 

そうですね。日本人には未来の世界がない。目の前に現れない (非現実・考え) 内容を脳裏に保持することができない。      

 

>「今気分が良ければ、先のことなんか知るかよ」という気分に覆われて、長期的な利害について思量する想像力を失ってしまった。

 

そうですね。宵越しの金は持たぬ’ 気風が昔から永続していますね。  

 

>それはたぶんさまざまな組織の人たちが「余命いくばくもない」ということを無意識のうちに感じ取っているからだと思います。

 

日本人には世界観がありませんからね。過去の事を思い起こし、未来の事を設定する能力に欠けていますね。洞察力のない思考停止の人ですね。ナウな感じのする人たちばかりですね。        

 

>「ありもの」をていねいに  > 国力の消長というのはあらゆる国の宿命ですから、それは仕方がないんです。 >日本の場合は超少子化・高齢化が衰運の主因ですから、誰のせいでもない。 

 

日本人なりたい外国人は大勢居ますけれどもね。

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

> でも、そのときに「落ち目だ」ということを認めないで「絶好調」だと言い立てるのはよした方がいい。

 

そうですね。日本は必ず勝つと言い張る戦時中の日本人のようなものですね。私はそれを聞いて子供ながらにオトナはバカな人たちだと思っていた。      

 

>病気や怪我のときはどこがどう不具合なのかを非情緒的・客観的に報告するところからしか治療は始まりません。 >病気や怪我のときに「絶好調です」と言い張っ て、健康なときと同じ生活をしていたら命に関わります。 >でも、それと同じことが今の日本には起きている。 

 

そうですね。日本人は精神主義が好きですからね。その上、感情的ですね。ドライに割り切ることが嫌いな人たちですね。       

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)    

 

> だから、「落ち目だ」と気がついた人たちから違う生き方を探し始めています。 >それを 「悲観主義」だとか「衰退宿命論」だとか非難する人がいますけれど、違いますよ。 >体調が悪いときには「体調が悪い」ということを認めて、横になって身体を休めて、栄養を摂って、治療法を探すしかないんです。 >「違う生き方」は傷んだ身体に対する治療であり、 気遣いなんです。 >若い人たちの地方移住や帰農や就活からの撤収はそういう流れだと思います。

 

考えは個人個人で違いますからね。ご唱和の時代は終わりつつありますね。   

 

>(中略)> でも、「落ち目」だからと言って、少しも絶望的になる必要はありません。>落ち目の局面ではそれに相応しい「後退戦」の戦い方があります。 >「ありもの」をていねいに使い延ばして、フェアな再分配の仕組みを作れば、まだまだ日本は世界有数の「暮らしやすい国」であり続けることができます。

 

そうですね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観 (world view) と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治音痴にならないために必要なことである。  

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。そした、この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' になる。だから、無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>以上、引用終わり   

 

 

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加谷珪一氏  

2021-11-09 14:08:02 | 文化

>日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか  >国家予算の280倍、今で換算すると…  >加谷 珪一 プロフィール  

>毎年、この時期になると太平洋戦争に関する話題がメディアで取り上げられる。>あの戦争については様々な解釈が存在しているが、そのほとんどが政治的な視点か軍事力によるものであり、経済的な視点での議論は多くない。

 

そうですね。文化人類学からの視点もありませんね。    

 

>だが歴史を振り返ると、戦争と経済は切っても切れない関係にあり、経済力は戦争遂行能力そのものであるというのが現実だ。>経済という切り口で太平洋戦争を振り返った時、何が見えてくるだろうか。 

 

経済は大切な視点ですね。金は命の次に大切なものですからね。   

 

>国家予算の280倍をどう用意したのか   >戦争に多額の費用がかかることは多くの人が認識しているが、実際にどの程度の金額が戦争に費やされるのかについて詳しく知る人は少ない。 >突出して規模の大きかった太平洋戦争には、いったいいくらの戦費が投入されたのだろうか。 >実は、太平洋戦争における戦費の実態はよく分かっていない。

 

戦時中のどさくさに紛れているのでしょうね。     

 

>戦争中といっても、日本政府は毎年予算を組み、記録も存在している。 >それでも金額がはっきりしないのには主に二つの理由がある。 >ひとつは軍部が暴走し、東南アジアの占領地域において軍票(手形の一種)や独自の現地通貨を乱発し、この財源をもとに資金を現地調達したため、その分の金額がはっきりしないことである。>もうひとつは、太平洋戦争が日本経済の基礎体力を完全にオーバーした戦争であり、これによって激しい財政インフレが発生。>戦争期間中からすでに日本円の貨幣価値がかなり毀損してしまったからである。  

 

欲しがりません勝つまではの掛け声だけではインフレは防げませんでしたね。    

 

>戦費の実態はよく分からないと述べたが、ある程度までなら推測することができる。>旧大蔵省が戦後まとめた資料によると、太平洋戦争(日中戦争を含む)における名目上の戦費総額(一般会計と特別会計)は約7600億円となっている。

>金額だけ聞くと意外に少ないと感じるかも知れないが、日中戦争開戦時のGDP(厳密にはGNP)が228億円なので、戦費総額のGDP比率を計算すると何と33倍になる。>また、国家予算(日中戦争開戦当時の一般会計)に対する比率では280倍という天文学的数字である。>もっとも、この数字には少々カラクリがある。>太平洋戦争の戦費はあまりにも膨大で、税金を使って調達することは不可能だった。>このため、戦費のほとんどは日銀による国債の直接引き受けによって賄われた。>現在の量的緩和策にも通じるところがあるが、日銀が無制限に輪転機を回すということなので、当然のことながらインフレが発生する。 >戦争中は価格統制が敷かれていたことからあまり顕在化しなかった(これも現在に通じる)が、それでも戦争が始まると物価水準はどんどん上がっていった。 >この財政インフレは終戦後、準ハイパーインフレとして爆発することになったわけだが、戦費の実態を考える時には、このインフレ率を考慮なければならない。 >さらに、日本軍は占領地域に国策金融機関を設立し、現地通貨や軍票(一種の約束手形)などを乱発して無謀な戦費調達を行った。 >これによって各地域の経済は破壊され、日本国内をはるかに超えるインフレが発生したが、占領地域におけるインフレの実態は、よく分かっていない。>いずれにせよ、占領地域では相当のインフレになっているにもかかわらず、名目上の交換レートは従来のまま据え置かれたので、書類上、日本円ベースの軍事費が膨れ上がる結果となる。

 

>無理にもほどがある   >当時の国内のインフレ率を適用し、さらに現地のインフレ率を国内の1.5倍と仮定した場合、実質的な戦費の総額はおよそ2000億円と計算される。 >仮にこの数字が正しいと仮定すると、GDPとの比率は8.8倍に、国家予算との比率は74倍になる。 >先ほどの比率に比べればかなり小さくなったが、それでも途方もない金額であることに変わりはない。 >現在の価値に置き換えれば、4400兆円もの費用を投入したことになる。 >これらの戦費負担については、最終的には、預金封鎖によって国民から財産を強制徴収する形で埋め合わせが行われた。 >税率が高い人では資産の9割が徴収されており、富裕層の多くはこれによって財産のほとんどを失うことになった。

 

我が国民は、国破れて預金無しですね。   

 

>では、戦争のもう一方の当事者である米国の様子はどうだったのだろうか。

 

彼を知り己を知れば百戦やうからずですね。(孫子・謀攻)     

 

>太平洋戦争は米国にとっても大きな戦争だったが、それでも日本と比べると相対的な負担は軽い。>米国における第2次世界大戦の戦費総額は約3000億ドル。開戦当時の米国のGDP920億ドルなので、GDP比は3.2倍となる。

>米国は太平洋戦争と同時に、欧州では対独戦争を戦っている。>極めて大規模な戦争を2つ遂行しているにもかかわらず、この程度の負担で済んでいることを考えると、米国経済の基礎体力の大きさが分かるだろう。>ちなみに第1次大戦の時に英国が投じた戦費総額も当時のGDP3.8倍程度であった。>国家の存亡をかけた全面戦争であっても、無制限にお金をかけられるわけではない。>GDP3倍から4倍程度というのが、無理なく全面戦争を遂行できる限界値であるとみてよい。

 

そうですね。彼らには節度がありますね。    

 

>その点からすると、太平洋戦争は最初から無理のあった戦争という解釈にならざるを得ない。>ダイエー創業者の中内功氏が徴兵され戦地に赴いた際、日本軍が飢えに苦しむ中、米兵が基地内でアイスクリームを自由に食べているのを見て衝撃を受けたという話は有名だが、数字上の体力差はこうした日常的な光景にも反映されることになる。  

 

日本人には節度がない。   

 

>日露戦争との激しすぎる落差  >これほど無謀な戦争に反対する意見もなかったわけではない。 >当時は、現在のGDPに相当する概念はなく、企業の生産力や輸送力などの統計データから国力を算定していたが、一連のデータから対米戦争の遂行は不可能という分析は行われていた。 >それにもかかわらず、開戦が決断され、全土が焼け野原になるまでそれを止めることはできなかったのは、なんとも残念なことだ。

 

そうですね。何としても改めたい我々の国民性ですね。   

 

>太平洋戦争の特殊性は、明治期に行われた日清戦争・日露戦争と比較するとさらに際立つ。 >日清戦争開戦当時のGDP134000万円で、戦費総額のGDP0.17倍だった。 >現在の日本にあてはめると約85兆円という金額になる。 >一方、日露戦争の開戦当事のGDPは約30億円で、戦費総額のGDP比は0.6倍だった。 >両者ともそれなりに大きい金額だが、決して拠出不可能な水準ではなく、実際に、戦争終了後の日本経済に対して深刻な影響は与えていない。 >ちなみに日露戦争の戦費の多くは、当時、覇権国家であった英国ロンドンのシティ(現在の米国ウォール街に相当)において外債を発行することで調達された。 >外債の発行は難航が予想されたが、英米の投資銀行が積極的に関与したことや、当時の日本側の責任者であった高橋是清(のちに蔵相、首相。二・二六事件で暗殺)が見事なプレゼンテーションを行ったことで、ほぼ全額の調達に成功している。 >世界の投資家を相手に、戦争の目的や合理性をアピールし、十分に納得させた上での外債発行であることを考えると、日露戦争はまさにグローバルな経済・金融システムをフル活用した戦争といってよいだろう。  

 

明治の政治家は実に慎重だったのですね。   

 

>一方、太平洋戦争はグローバル・スタンダードであった英国と米国の両方を敵に回し、親米感情が強い中国(国民党)とも戦争をしてしまった。>日清・日露戦争とは正反対に、グローバルな動きに完全に背を向けた戦争であった。

 

そうですね。わが国の政治家は再び井の中の蛙になったのですね。孤立無援ですね。   

 

>日露戦争当時、シティで調達された英ポンドは、日本には移送されず、そのまま英国の銀行に預金された。 >その理由は、英国から大量の近代兵器を輸入する必要があり(三笠など当時の主力艦船のほとんどは英国製)、その決済がシティで行われるからである。 >大事な国家予算を外国の民間銀行に預けることには抵抗があったと思われるが、当時の指導者はグローバルな金融システムを熟知しており、合理的な決断をしたものと思われる。 >維新という半ばクーデターに近い形で政権を掌握した明治政府の指導者に対する評価は様々であり、筆者も全面的に賛美する立場ではないが、当時の指導者たちに卓越したリーダーシップとリアリズムが存在したことは間違いない。

 

当事の指導者たちは現実直視ができたのですね。  

 

>それと比較した場合、学歴選抜された昭和のエリートが著しく劣っていたことは認めざるを得ないだろう。

 

そうですね。学閥は井の中の蛙ですね。

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)   

 

>歴史は繰り返す

>歴史を知っている今のわたしたちが、現在の目線で当時の決断を批判することはたやすい。 >だが、一方で歴史は繰り返すともいわれる。

 

そうですね。反省も無く何回も失敗していますね。やってみなければ分からない人達が多すぎますね。  

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方を日本人はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る人物が日本人に高く評価されている。

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は思考を停止しており万事受け身で対処するのが基本姿勢となっている。   

 

>「戦争は他の手段を持ってする政治の継続である」というのは、戦争論(クラウゼヴィッツ:1780年~1831年)の有名な一説だが、政治や外交も最終的には経済問題に行き着くことがほとんどである。 >つまり、戦争は日常的な経済活動の延長線上に存在することになる。

 

そうですね。我々の日常生活は国の生命線につながっていますね。   

 

>実際、各国の戦争遂行能力は、GDP(国内総生産)に比例しており、経済体力を超えて戦争を遂行することはできない。  

 

そうですね。GDP無視は自殺行為ですね。一億聡玉砕への道ですね。      

 

>現実を直視せず、結果として日本経済を完全に破綻させてしまった太平洋戦争は、まさに教訓とすべき歴史的事実だが、規模は小さいながらも、わたしたちは今でも同じようなことを繰り返している。

>シャープの液晶投資や東芝の米ウェスティングハウス買収に無理があったことは、当時から何度も指摘されていたが、勇ましい精神論にかき消され、社会で共有されることはなかった。  

 

日本人は勇ましい精神論が好きですね。日本人の精神は意思ではなくて恣意ですね。意地、根性、大和魂などの用語を使って表現されますね。

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても危険であるから権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。無責任でしかない責任者の権力はできるだけ小さいほうが良いので、日本人は権力の所在についての考えがない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。…… どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)  

 

>日の丸液晶メーカーとして多額の国費が投入されたジャパンディスプレイは、大方の予想通り、経営が立ちゆかなくなり、大規模なリストラを余儀なくされている。 >見えない形で太平洋戦争の失敗は今でも続いているのだ。

 

そうですね。まさに歴史は繰り返すですね。   

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)      

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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岡本亮輔氏  

2021-11-07 19:04:22 | 文化

 

>372140        なぜ日本はブッダとイエスをイジれるのか  >森浩平 ( 29 会社員 )           21/11/07 AM00 【印刷用へ】

>仏教と神道では「信じる」ことはさほど重要ではない   >文化庁が毎年『宗教年鑑』という報告書を出している。 >2018年度版によれば、神道系の信者総数は約8616万人、仏教系は約8533万人であり、合わせて17000万人を超える。 >総務省の推計では、日本の総人口は約12631万人(201911日現在)であり、神道と仏教の信者が人口を超えてしまう現象が起きている。  

 

通常、一人の日本人は神道と仏教の掛け持ちですね。神様・仏様とならべて願い事をする。   

そこで子供が生まれた時には宮参りをする、結婚式はキリスト教会で挙げる、葬儀は葬式仏教のご厄介になるということになる。全ての行為は、気分・雰囲気の良さで決められている。内容の無いところが浮世の習いである。 

 

>これには、各宗教団体による報告数をそのまま掲載する『宗教年鑑』の調査法にも問題がある。 >だが、仮に信者数を半分に割り引いたとしても、日本人の2人に1人以上がなんらかの宗教の信者であるというのは、あまりに実感とかけ離れているのではないだろうか。 >私見では、「イエスを救世主と信じる」というのと同じような意味での信仰は、日本の宗教文化にはなじまない。

 

そうですね。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

>日本の伝統宗教である仏教と神道では、そもそも「信じる」ことはそれほど重要ではないからだ。

 

そうですね。日本人の宗教は、儀式 (作法) があって教義 (教え) がない。無哲学・能天気の人間に相応しい宗教です。       

 

>神道には信じるべき明確な“内容”がない  >たとえば神道国際学会のウェブサイトには「神道とは何か?」を説明するページがある。 >要点を抜き書きすると、下記の通りだ。 >・神道は古代から現代まで続く土着の民族宗教であり、アニミズム的な自然崇拝の性格が強い。 >・各地にさまざまな慣習はあるが、宗教的体系はない。 >・教祖もおらず、聖書のような教典もない。 >・神道に神学はなく、氏子は信者ではない。 >要するに、神道は信じるか信じないかという以前に、そもそも信じるべき明確な内容を有していない。 

 

そうですね。信じるべき内容は考え (非現実) の内容ですからね。見れども見えない。これは日本人にとって嘘である証拠になる。   

 

>だからこそ、明治維新以降の王政復古では、「神道は宗教ではない」というレトリックが可能になったのだ。>そして現在でも、ある神社の信者数(=氏子)は、その地域の住民数として報告されるのである。

 

そうですね。我々の地区でも氏子の数は住民の数と同じですね。     

 

>仏教の場合、神道よりも確固とした教学の伝統がある。 >大ざっぱに言えば、仏教が日本に伝来したことで、それまであった漠然とした自然崇拝があらためて神道という独特の宗教観として、それなりに形成された。 >しかし、高い抽象度と論理性を備えた仏教の教義が一般民衆に浸透しているかというと、それはまた別の話だ。 

 

そうですね。仏教はインド哲学に基づいていますからね。印欧語族の文法が必要ですね。      

 

>曹洞宗は定期的に自宗の調査を行っているが、そこから見えてくるのは、先祖供養という本来は仏教とは無縁の実践の広がりである。

 

祖先供養は中国人の伝統でしょうね。仏教が中国大陸を通過する時に祖先供養を吸収したのでしょう。私はインドを訪問して、インド人には墓がないのに驚きました。死体は(だびに付して) 川に流していました。          

 

>仏教信徒が参加する「行事」は先祖供養と草むしり  >例えば2012年の『曹洞宗檀信徒意識調査報告書』では、寺で行われる各種の行事への参加率が明らかにされている。  >盂蘭盆会(59.3%)、春と秋のお彼岸(それぞれ43.1%と40.1%)といった先祖供養には、多くの信徒が参加している。 >また、草取り・掃除(34.1%)や除夜の鐘(22.6%)といったイベントも、そこそこの参加率である。  

 

そうでしょうね。わが国の風物詩になりますね。   

 

>だが、釈尊降誕会(23.5%)、涅槃会(18.6%)、成道会(9.6%)といった信仰と深く関わる行事、さらには坐禅会(8.8%)という曹洞宗の教えの根幹に関わる行事の参加率は低調なのである。 >要するに、寺の行事にかかわる動機は先祖供養が大半であり、報告書の表現を借りれば、信徒は「それを習慣として位置づけている」のである。 >曹洞宗の掲げる葬儀の意味が浸透していない   

 

日本人には輪廻の苦しみがない。だから、その苦しみから救われる涅槃の必要もありません。日本人は無哲学・能天気であるから無我の境地になっている。      

 

>さらに、相澤秀生・川又俊則(編)『岐路に立つ仏教寺院』(法藏館)は、2015年の調査データも踏まえながら、現代仏教の実態を描き出している。 >ここでは、日本人が最も仏教と関わる局面である葬式について見てみよう。 

 

我が国の仏教は葬式仏教として知られていますからね。   

 

>「葬儀はなんのために行うのか」を信徒に尋ねたところ、「故人を成仏させるため」(58.3%)という回答が最も多く、その次に「遺族が故人を弔うため」(30.2%)が多い。>一方、「残された者の心の救済」「故人の死を世間に知らせるため」「慣例的な人生儀礼だから」といった回答は10%に満たない(第4章「人口減少社会における葬儀と寺檀関係」より)。 >1位の回答には「成仏」という仏教用語が含まれており、宗教的な回答に聞こえなくもない。 >だが他方で、「死者が最終的にどのような存在になるのか」を聞いた質問では、「先祖」が32.3%で最も高く、「ホトケ」は17.7%にとどまる。 >さらに、「何かになることはないけれども存在している」(13%)や、「わからない」(12.1%)という回答もホトケに匹敵する割合を示すのだ。 >こうした状況を分析した仏教研究者の相澤氏は、檀信徒にとっての成仏とは、曹洞宗の教えでいう仏弟子になることではなく、「曹洞宗の掲げる葬儀の意味が檀信徒に広く浸透していない実態が透けてみえてくる」としている。 

 

インド人は我々日本人が仏教徒であると知って、釈迦はヒンズー教徒として生まれ、ヒンズー教徒として葬られたと説明して、我々に親しみを表しました。しかし、無哲学・能天気の日本人にはインド哲学は受け入れられないでしょうね。曹洞宗の教えではどうなるのでしょうかね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

[岡本亮輔 北海道大学准教授] リンクより   

 

 

 

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今後の日本  

2021-11-06 13:23:57 | 文化

 

>日本を守るのに右も左もない  >20211101   >【世界の力を読み解く】~衆議院議員総選挙結果から見える今後の日本の行方~

>先日衆議院議員総選挙が行われました。>芸能人を使っての投票を呼び掛けるyoutube動画やツイッターを使って力を入れて投票を呼びかけましたが、今回の投票率(約54%、前回よりも2%上昇したものの戦後3番目の低さ)もこれまでとは大差ない結果でした。

 

日本人の政治音痴は治りそうにありませんね。   

 

>議席数についてもこれまでとも特に大きな変化はなく自民が過半数の議席を獲得、そこに公明を足しても2/3は超えないという構成は変わりませんでした。 ()  >本来であればコロナ騒動の収束が見えてきており、このタイミングこそ指導力を発揮して“民意を得る絶好のチャンス”であると勝負勘のある経営者であれば考えそうなものですが、総裁選の段階でそういった気概の見えない立候補者の顔ぶれでした。 

 

波風を立てないことが国民の願いですね。    

 

>そもそも知名度と存在感のある安倍首相から一気に菅首相⇒岸田首相(テレビの露出や知名度だけで言えば河野さんの方がましだと思いましたが)と存在感を消す方向に意図的に動いているようにさえ見えます。 

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。  

 

>今回はこのような不可解な日本政府の動きも踏まえて現在の世界での日本の位置づけと今後の日本の行方を考察してきたいと思います。 ()  >〇世界動向を探っている日本  >これまでの記事でも考察している通り現在世界を主導しているのは間違えなく中露だと思われます。 >欧米勢力からの移行期にあり、そのため中露からの旧勢力に対する攻撃(コロナや脱炭素政策、インフレを通して)が見られます。>これまでの日本は主に米国勢力の下に位置していたと思われますが、中東をはじめとするこれまで属国として支配してきた国への米国の影響力が明らかに低下していることがわかります。>これは日本においても例外ではありません。>それにより日本ではこれまでは米国寄りの首相を選定するような指示があったのだと思いますが、現状はそういった支配力がなくある程度日本が判断できる余地があるのではないかと思います。  

 

無哲学・能天気の民が持ち前の処世術 (損得勘定) を発揮する機会が到来したようですね。   

 

>そこで日本がとった策というのは菅首相や岸田首相といった特に存在感の薄い首相を据えることで、世界の勢力争いに応じて柔軟に変えるといったものなのではないでしょうか。 

 

日本が採った策というのは千変万化する現実の世界を泳いで渡る方策ですね。流れに流されるのか。   

 

>〇勢力が大きく変化したのはいつ?  >大きく状況が変わったのはおそらく安倍⇒管にスイッチした段階だと思います。 >この段階で世界の勢力図が欧米勢力と中露のどちらにとって優位になるかわからない状態になったと思われます。>そこで日本は安倍を下げで何かあっても交代させれば済む管にスイッチして様子をうかがうことにしたと思われます。 

 

日本はあいかわらず捉えどころのない人間の状態ですね。    

 

>ちょっと考えれば先月からのコロナの収束の仕方は明らかに不自然なことに気づくし、総選挙の時期にピタリと合わせて自粛も解除されていっています。>そもそもコロナ騒動が騙しなのでいくらでも収束の時期は調整できます。(リンク) >表向きはワクチン接種が進んだことを収束の理由にするのだろうと思いますが、メディア上でもワクチンは感染防止ではなく重症化対策と言っています。 >それなのにここまで極端に収束するのは誰もが疑問を持つはず。 >目的が達成されてからの幕引きが荒いところは中国らしいとも言えます。 

 

コロナ騒動は騙しなのですかね。もしも騙しであるならば、そのことは選挙戦の争点にはならなかったのですかね。       

 

>〇与野党とも親中路線なのか?   >今回の選挙結果では特に注目するべきことはありませんでしたが、公約部分には注目するべき点が1つあったと思います。 >それは与野党の公約に共通して“富の分配”が盛り込まれていたことです。

 

貧富の格差は以前から問題視されていましたからね。   

 

>実際の公約内容は以下のものになります。 >自由民主党:新しい経済のかたちを生み出す、「成長」と「分配」を柱とした政策を  >立憲民主党:富裕層と大企業への税負担を重くし、分配を最優先した政策   

 

そうですね。ぜひ力を合わせて実現させていただきましょう。    

 

>この富の分配政策は、日本より先行してすでに実践に入っている国があります。 >それは中国です。(リンク) >当然日本よりも強力に推進しています。 >与野党ともに親中路線に舵を切っているように見えます。 >〇目的の害にならない存在には寛大な中露   >これまでの欧米支配の時代には、できるだけ多くの属国を作ろうと支配範囲を広げていっていました。 >それに対して中露の動きからは他国の文化に踏み入ってまでの必要以上の支配をするような意図は見えません。  

 

中露は内政不干渉ですね。不自由を常と思えば不足なしですね。      

 

>彼らが目指している実物経済の中で勝ち筋となる、人材力やエネルギーといった資源を持つ国との関係は重視していると思われます。 >それの証拠に中東やインドといった国へ進出しています。 >その観点からすると日本の位置づけはおとなしくしている分には悪いようにはしないといったあたりではないでしょうか?

 

我が国は泰平の眠りに入りますかね。    

 

>〇人々は活力ある生き方を求め始める   >企業にとってはこのような状況で人々の意識がどのように変化していくのかを読むのかが今後生き残っていくためには非常に重要になってきます。>前述したように今の日本はこれまで強力に指示を出していた欧米勢力が衰退し、自らで方針を出していく必要に迫られていますが、日本政府にその覚悟は見られずのらりくらりとどこにもつかずに様子を見ている状況です。>今まで以上に統合者不在の状況です。  

 

そうですね。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

 

>そこにコロナ騒動による生き方や働き方とこれまでの価値観に変化があった上で、このタイミングでの自粛の解除。 >・コロナショックにおける若者意識潮流と消費生産の関係とは?(リンク) >・コロナ自粛により自殺者が急増 コロナ死よりも自殺者数の方が多いという現実(リンク) >・コロナで気づいた日本人、国に従うと不幸になるだけ(リンク) >いろいろと考える(不整合を感じる)機会も増えてきているように思います。

 

思考停止ではいられませんね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 我々は考える人 (the thinking man) にならなければならない。 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が日本人に高く評価されている。

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は思考を停止しており万事受け身で対処するが基本姿勢である。 

 

>そこで、いつもと変わらない選挙結果や皇族であった眞子さまが記者会見でメディアへの不信感を露わにするといった驚きの発言もありましたが、これも日本人のメディア離れ(=脱思考停止)に向かう良い変化を作りだしていくのではないでしょうか?  

 

そうですね。メディアは国民の役に立っていませんからね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>また、そこに拍車をかけるように富の分配(≒ベーシックインカム)が導入されて働かなくても金銭的には生きていける状態になれば確実に人々の意識は大きく変わるでしょう。  

 

そうですね。衣食足りて礼節を知る。       

 

>実生活の変化が迫られる中で行動にも変化が起きているので、メディアによる洗脳での意識変化よりも深い部分での意識の変化が現れることは確実です。  

 

メディアは信頼できませんね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>実は中露が日本を放置する方針をとっている意図は、支配状況から解放された日本人が本来持っていた他国にも負けない追求力(=人材力)を再生し脱グローバリズム→民族自決を推進する仲間となることかもしれません。 

 

民族自決は中国人に理解していただきたい事ですね。

[中華] 中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語「三国志」は、中国人の愛読書となっている。覇者の意気込みは周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。そして独断専行に陥りやすい。中国人が漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]   南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。

 

>by Satoshi    

 

 

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