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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

宇野仙氏  

2024-12-27 18:52:04 | 文化

>東洋経済オンライン   >「クリスマスも正月も祝う」日本の不思議な価値観 神道、仏教、キリスト教と受け入れられた背景   >宇野仙の意見・   >1時間・   

>日本史と地理は、別々の科目として学びますが、多くの接点があります。   

>『日本史と地理は同時に学べ!』を上梓した駿台予備校地理科講師の宇野仙氏が日本で多様な宗教が受け入れられている背景を解説します。   

>多様な宗教が生活に根付く   

>多くの日本人は、年末年始にキリスト教の行事であるクリスマスを祝います。   

>テレビでは「クリスマス特番!」と題し、クリスマスプレゼントを渡し合う光景が流れます。   

>その数日後の正月になると、今度は神社に「初詣」という形でお参りに行きます。   

>「神様、今年も良い年でありますように」と祈るわけです。   

>一方で、葬式の際にはお坊さんを呼び、お寺にお墓を作ってもらう人がほとんどです。   

>もっと言うのであれば、「結婚」と聞くと多くの日本人は「ウェディングドレスを着て教会で式を挙げる」イメージを抱くのではないでしょうか。   

>教会で式を挙げるのも、クリスマスと同じくキリスト教の文化ですよね。   

>日本人の日常生活には、なぜたくさんの宗教が受け入れられているのでしょうか?    

 

日本人は見たもの乞食でしょう。考えも無く見たものを次から次へと受け入れる。   

 

>地理と日本史の両方の観点から、このような不思議な状況が発生することになった原因をお話ししていきたいと思います。   

>そもそも、宗教はどのようにして生まれ、どうして人々の間で信仰されるようになったのでしょうか?    

>いちばんの要因として挙げられるのは、共同体を維持するうえで有効だからです。   

>人口が増えると、人々が仲良く暮らす必要性が自然と高まります。   

>例えば、飢えで苦しんでいる人がいるとしましょう。   

>そして、その人の前をちょうど通りかかったあなたの手には、パンがあります。   

>あなたもお腹が空いているので、自分のパンを分け与えるかどうか少し悩みます。   

>そんなときに、神様を信じている人であれば、パンを分け与える選択を取りやすいでしょう。   

>「もし死後の世界があったとして、『あのとき、どうしてあの人を助けなかったのだ?』と聞かれたらどうしよう」と思えば、自分のパンを分け与える選択をするわけです。   

>神様を信じていれば、人々は助け合うことができるようになる。   

>だから宗教は、国を統治するために必要なものとして機能します。   

>これが、全世界的に宗教が発生し、それが広まった理由なのではないかと言われています。    

 

為政者の権威付けには宗教が役立ちますね。   

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることができる。見れば理解できる。Seeing is believing.

非現実の内容は脳裏にある。見ることができない。それは考えの内容だからである。考えを理解するためには文を文法に従って忠実に解釈する必要がある。  

非現実の内容は三つの世界に分かれている。過去・現在・未来とか前世・現世・来世とかである。それぞれの世界は文法の時制により異なる時制の文になっている。だから、内容が混じりあって混乱することが無い。これは考えの世界であって、考えは印欧語族の言葉の中にある。

日本語文法には時制がないので、考えの内容は日本人には作れない。だから、日本人は思考を停止しているといえる。考えの内容は、哲学と呼ばれている。考えから出て来る悩みは加害者意識という強烈な苦しみを与えることがある。だから病める魂の持ち主の為に救済を目的とした活動が宗教である。贖罪とか涅槃とか呼ばれるものが人を救う。だからキリスト教・仏教は大きな宗教になった。 

宗教もそれ以外の考えも哲学である。日本語文法に時制というものが無く、思考を停止している日本人は宗教 (スコラ哲学・インド哲学) もそれ以外の哲学も消化できない。哲学は修道院で発達し近代的な学問となった。   

日本の文化には形があって内容 (哲学) が無い。儀式があって教義がない。この流儀に従って生活していると、生まれた時には宮参り、結婚式にはキリスト教会、死んだときには葬式仏教の厄介になる。良い気分・雰囲気を求めてやまない日本人の生活になる。理由を考えたりしなければ、何らおかしなこともない。      

リーズン (理性・理由・適当) があれば、非現実の内容は哲学になる。英米流の高等教育の成果が出る。それがない発言は、意味も無い空想・妄想になる。無哲学・能天気のわが国は、お陰様で漫画・アニメの大国 (サブカルチャーの国) になりました。    

アドビシステムズ、マイクロソフト、グーグルというアメリカの3社のCEOはインド人だそうである。アメリカ人はインド人の頭の良さを認めることにやぶさかではないですね。その評価の力はアメリカの国力になっている。  

 

>稲作文化の日本でも宗教は不可欠   

>日本においても、宗教は不可欠でした。   

>日本は稲作文化なので、共同で農業をする必要があり、手と手を取り合って稲作を行わないと、全国民が飢えてしまうリスクがあったのです。   

>米は栄養価が高く、非常に優れた食糧です。   

>一方で、戦乱の元になってしまうリスクが大きい食糧であるとも言えます。   

>また、川から水を引いて稲作をするためには、大規模な灌漑工事や関係者の利害調整のコミュニケーションが必須になります。   

>水源や水路を決めなければなりませんし、上流で水を取りすぎてしまうと下流でなかなか取れなくなってしまうので、場所ごとに引く水の量に対する取り決めを設けることも必要です。   

>水路の整備に付随する作業を滞りなく進めるには、全体の指揮を執るリーダーの存在が不可欠です。   

>リーダーの指揮のもと、灌漑工事をしたり、水の配分を決めたりする必要が生まれたことが、身分の差をつくることにつながった1つの要因ではないかとされています。   

>そして、そうしたリーダーの誕生や身分の差は、不満や怒りの感情を生みやすいため、当然ながら戦乱をもたらすことになります。   

>稲作文化がある中国やインドでも同様の現象は発生していたのですが、日本の場合は特に顕著でした。   

>日本は、山の多い地形で、川もほかの国に比べて多くの急流があります。   

>急流である分、灌漑の整備も大規模になりがちです。また、山が多いということは平地も少なく、農業に適した土地と、そうでない土地で差が出てしまいます。   

>そうすると、農業に適した土地を人々の間で奪い合う状況が発生するわけです。   

>それが、日本の数々の騒乱につながった、と考えられます。   

>そしてそんな日本において、宗教は必要不可欠なものだったと考えられます。   

>さて、そもそも昔から日本人の多くは、日本古来の考え方であり八百万の神を祀る「神道」と、ブッダを開祖として輪廻転生と解脱を説く宗教である「仏教」の2つを同時に信仰していました。   

>このような状況が発生したのは、6世紀のこと。   

>大陸から伝えられた仏教の扱いをめぐり、当時の日本の有力者の意見は2つに分かれました。   

>「仏教を広めるべきだ」という蘇我氏と、「広めるべきではない」という物部氏の対立です。   

>神道も仏教も日本の統治に必要だった   

>この対立こそ、いわゆる「崇仏論争」と呼ばれる争いです。   

>最終的には蘇我氏が勝利し、先にも触れた通り、現在の仏教と神道が結び付いた日本の不思議な宗教観になったというわけです。   

>神道と仏教は、両方とも日本の統治に向いていました。   

>神道は、天皇の威光を示すために必要でした。   

>そして、人々が規律を守って生きるために、「不殺生(生き物を殺してはならない)」という仏教の考え方も必要だったのです。   

>このように、必要なもの同士が手を取り合うことで、現在の日本の独特の宗教観が形成されたと考えることができます。   

>少し時代が飛んで、戦国時代から江戸時代にかけて、今度はキリスト教が日本に到来しました。   

>イエズス会のフランシスコ・ザビエルをはじめとして、宣教師たちによってキリスト教が広められたのです。   

>ところが、キリスト教の場合、仏教とは違って神道と融合することはありませんでした。   

>神道だけでなく、キリスト教は仏教とも融合していません。   

>その理由は、いろいろと考えられますが、有力な説としては、「仏教と神道が共に多神教なのに対して、キリスト教は一神教だった」ということです。    

>仏教も、神道も、複数の神様を信仰しています。   

>日本において仏教と神道、ともに信じる人が多かった理由の1つは、「(多神教であるため)仏教を信じるからと言って、神道を捨てることにはならなかったから」と考えられるのです。   

>それができたからこそ、仏教と神道は両方日本で受け入れられてきたわけです。   

>1つの神を信じるキリスト教   

>ところが、キリスト教を信じることは、複数の神様ではなく、1つの神様のみを信じなければならないことを意味します。   

>つまり、神道や仏教は捨てなければならないということです。   

>そのため、キリスト教は日本の宗教との融合は進まなかったと言われています。   

>しかし、逆に言えば、日本人は多様な宗教を受け入れてきたからからこそ、同時に「キリスト教も受け入れる」ということができたのではないかと言われています。    

>今、キリスト教のしきたりも日本人の文化として受け入れられているのは、こうした理由からなのではないかとされています。   

>いかがでしょうか? 年末年始のシーズンは、さまざまな宗教に触れることが多い時期です。   

>こんな時期だからこそぜひ、改めて歴史を学んでみてもいいのではないでしょうか。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 


相澤冬樹氏  

2024-12-27 16:13:59 | 文化

>文春オンライン   >《世界が驚いた日本の公立小学校》 密着ドキュメンタリーが映し出す「日本人の作り方」に感じる納得と違和感【『小学校~それは小さな社会~』】   >相澤冬樹によるストーリー・   >6時間・   

(   

>◆◆◆   

>小学校や家庭を自然に映し出すカメラ   

>「私たちは心臓のかけらで、みんながそろったらこんな形になる(両手でハート形)。   

>で、一人こんな風にずれたら、もう心臓はできない」 とある小学校での一コマ。   

>新入生を歓迎する器楽演奏を前に、2年生の女の子の一人が「私たちって何なんだろうねえ」と問いかけたのに、別の子が答えた。   

>そのやりとりが実に自然だ。   

>誰一人カメラ目線にならず、撮影者の存在を意識していないように見える。   

>こうした空気感が全編にあふれている。   

> 映画の冒頭、家庭の玄関にある足形のマークがアップで映し出される。   

>何だろうと思っていると男の子が走ってきて靴をマークの上にそろえて並べる。   

>新入生が学校生活に備えて脱いだ靴をそろえる練習をする場面だ。   

>給食を食器についで机に運ぶ練習では、ゆっくり傾かないように運び終わって「できた!」と笑顔で母親とハイタッチ。   

>家庭内の様子を生き生きと捉えている。   

>これほど学校や家庭に入り込むことができたのはなぜだろう?   

>学校探しに6年、撮影に1年、現場に4000時間   

> 責任感や勤勉さなど、日本人らしさとして語られる特質の多くは小学校時代に形作られるのでは?    

>山崎エマ監督が日米双方で過ごした経験からそう感じたことが映画の出発点だという。   

>まず6年をかけて取材可能な小学校を探した。   

>事前に新入生の家庭に通ってなじんでもらう努力を重ね、教室でテスト撮影を繰り返した。   

>休み時間に子どもたちと一緒に遊び、教師とも信頼関係を築いた。   

>学校の一員であるかのような雰囲気を作った上で1年をかけて撮影。   

>山崎監督が現場で過ごした時間は4000時間に達したという。   

> 新1年生は手を挙げる時、腕を耳にくっつけてまっすぐ挙げるよう習う。   

>教室の机はまっすぐそろえて並べる。   

>靴も靴箱にぴったりそろえて置く。   

>あとで係りの子どもがチェックし、ゆがんでいたら位置を直して評価のマークを付ける。   

>教室の掃除では、ほこりがたたないようほうきは膝より上に振り上げない。   

>給食も自分たちで配膳する。   

>教室の一角に大きな時計が置かれ、制限時間内に食べる。   

>随所に感じる学校への違和感   

> こうした姿がすべてナレーションなしで描かれる。   

>いわゆる「ノーナレ」の作品だ。   

>それほど撮影された映像と音声に力があるということだろう。   

>日本の小学校のあるがままの姿を浮き彫りにすることに成功している。   

>それは監督が意図した通り、多くの日本人の基礎を形作り、清潔で治安がいいという日本社会の特質を表していることは間違いない。   

>映画の中で教師が6年生にこう語っている。   

>「小学校でいろんな決まりがあります。   

>それは社会に出た時にこの学校で学んだ生活面を生かして生きていくっていうためにみんなは生活をしている」   

> 生活面での指導に重きが置かれていることをよく表している。   

>子どもたち自身が掃除や給食の準備をする狙いもそこにあるだろう。   

>しかし、この作品は単純に「日本の小学校は素晴らしい」というものではない。   

>随所に学校への違和感を感じる部分も描かれる。   

>例えば、教師が自らを「先生」と呼ぶこと。   

>私が小学生の時もそうだったが、今見るとやはりおかしい。   

>先生と呼ばれる職種は医師、弁護士、政治家などもあるが、これは相手を尊敬して使う呼称だ。   

>一人称で尊敬語を使うってどうなんだろう。   

> 卒業を前にした6年生に教師が語りかける。   

>「6年生として自分の殻を破ってほしいなあと先生は思ってます。   

>口だけで殻を破るって言ってても、みんなには伝わらない」   

> ここで教師は大きな卵の模型を取り出し、自分の頭にぶつけて割った。   

>子どもたちにはバカウケだ。   

>しかしその続きを見ると、結局「殻は破るものではない」という“教訓”が子どもたちに残ったのではないかと思う。   

>教師も子どもも殻に収まることが求められているのだろう。   

>そこに私は小学校のある種の「息苦しさ」を感じた。   

>気持ちって一つにならなきゃいけないの?   

> 運動会で6年生が縄跳びの集団演技をする。   

>その練習に集合するのが4分ほど遅れた。   

>それを注意する教師の言葉。   

>「誰かが遅れた時点で先生は気持ちが一つになっていないなあというふうに思ってます」   

> 気持ちって一つにならなきゃいけないもんなのかなあ。   

>続けて、「運動会の練習は、その過程で自分ができないことの壁をどうやって乗り越えようとしている過程でみんなは成長していくんです」   

> 言ってることはわかるんだけど、乗り越えようとする課題は子どもたちが自ら選んだものではなく教師から一方的に与えられたものだ。   

>できる子はできるし、できない子はできないということもある。   

>私自身、小学校では体育が苦手で運動会は苦痛だった。   

>映画の中の子のように逆上がりができなかった。   

>それを助ける友だちの姿は救いだが、できない子にとって「できるように努力するのが大切」と言われても苦行でしかない。   

 

そうですね。   

 

> 新入生を歓迎する新2年生の器楽演奏。   

>その練習でタイミングが合わないシンバルの女の子に教師が「楽譜を見ないでもできるように練習しているんですか」とみんなの前で問いただす。   

>ほかの児童は練習していると言われ女の子は泣き出してしまう。   

>記事の冒頭で「私たちって何なんだろうねえ」と問いかけたのはこの子だ。   

>そこに共通するのは、みんなに合わせるのがいいことだという同調圧力。   

>こうして上の人の言うことに従うべきだという感覚が刷り込まれ、そこになじまない人間を排除するという空気が生まれると感じる。   

 

そうですね。その状況は国際会議においても同じですね。   

 

>小学校と日本人の「光と影」     

> それを映画の中で的確に指摘しているのが、國學院大学の杉田洋教授だ。   

>給食や運動会など特別活動が専門で、この小学校で教師を対象に講演を行った。   

>日本が戦時中、学校で軍事教練をして戦争に駆り立てていたこと。    

>今も子どもたちに連帯責任を負わせるような教育が行われ、いじめを生む元になっていると指摘した上で、「日本の集団性の強さ、協調性の高さは世界がまねたいことの一つでありますけど、これは実は諸刃の剣であることをよく知っておく必要があります。   

 

日本語の文法には時制 (tense) というものが無い。だから日本人には未来時制の構文がなく、日本人には意思 (will) がない。   

意思の無い人間には責任 (responsibility) がなく、日本人は意思決定に往生している。一旦事が起これば関係者は責任者捜しで混乱し、日本残酷物語の様相を呈することもある。   

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

 

>日本のやり方は果たして本当にいいのか」   

> 教師たちはメモを取りながら真剣なまなざしで聴いている。   

>この場面をあえて配したところに山崎監督の問題意識が表れているように感じた。   

>英語でのタイトルもそうだろう。   

>「THE MAKING OF A JAPANESE」(日本人の作り方)   

> 日本の子どもたちは小学校で「日本人」になる。   

>小学校と私たち日本人の「光と影」を見事に描き切ったドキュメンタリーだ。    

>『小学校~それは小さな社会~』   

>監督・編集:山崎エマ/2023年/日本・アメリカ・フィンランド・フランス/99分/配給:ハピネットファントム・スタジオ/©Cineric Creative / NHK / Pystymetsä / Point du Jour/全国順次公開中   

>(相澤 冬樹/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。

「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)    

 

日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)          

 

 

 

 

 

 

 


日本被団協  

2024-12-25 17:18:17 | 文化

>TBS NEWS   >ノーベル平和賞の日本被団協が会見 「核兵器廃絶」へ決意語る 「最初は来年受賞させようと思っていたと」オスロ開催の晩餐会で聞いた“裏話”も   >TBS NEWS DIG_Microsoftによるストーリー・   >4時間・   

>ノーベル平和賞を受賞した日本被団協が24日午後、東京都内で会見し、来年の原爆投下80年を前に「運動を強めていきたい」と決意を語りました。   

>日本被団協 田中熙巳 代表委員   「これまでやってきたことを、より一層取り組んでいかなくちゃいけないなと。   

>(来年は原爆投下)80年というのはひとつの区切りですから、80年を大事にして運動を強めていきたいなと思っております」   

>24日午後、日本記者クラブで行われた会見で、日本被団協の代表委員・田中熙巳さん(92)はこのように述べ、核兵器廃絶への決意を改めて語りました。   

>日本被団協の代表団は128日から13日までの日程でノルウェーの首都・オスロを訪れ、ノーベル平和賞の授賞式や晩餐会のほか、各国メディアの取材や地元の高校生への講演などを通じて広く核兵器の廃絶を訴えました。   

 

日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしくありませんか。   

こうした奇異に感じる人に対する答えも関係者の皆さんは明らかにした方が良いですね。   

 

>田中さんは会見で、滞在最終日の夜に催された晩餐会での“裏話”も明かしました。   

>日本被団協 田中熙巳 代表委員   「最後の晩に審査員の皆さんとお食事をすることができましたのでいろんな裏話を聞きましたけど、(日本被団協には)来年受賞させようかなと思っていたと、最初は。   

>だけど、いろいろ議論をしていたら『来年じゃもう遅いんじゃないか』と。   

>来年の運動のためには、今年授賞して世界の世論を大きくしてほしいという思いがしたから、今年に決心しましたと」   

>来年は広島と長崎に原爆が投下されてから80年になります。   

>田中さんは、こうしたなかでの授賞に「すごい判断を感じた」と語りました。   

>一方、今回のオスロ訪問にあたり、代表団らの渡航費などを募るクラウドファンディングを行い、最終的に目標額の1000万円をはるかに上回る44735000円の支援がおよそ5300人から寄せられました。   

>これについて、日本被団協は「いただいたご寄付は渡航費に支出し、残りはみなさまの思いに沿って被団協の活動に充てさせていただきます。   

>多くのみなさまのご支援に感謝とお礼を申し上げます」とコメントしています。   

 

「アメリカがあのタイミングで原爆投下して、どれだけ破壊力があるかを世界中に知らしめられたことで、冷戦中の核兵器使用が防がれた。世界の滅亡を避けられたじゃないか。大体、日本は被害者なのか。  

ユダヤ人大虐殺をしたドイツと連盟を組んで、他のアジアの国にもひどいことをしたじゃないか。それでいて第二次世界大戦といったら原爆投下の被害ばかり語るのっておかしくない?  そもそも戦争中っていろんな国がめちゃくちゃひどいことをしたわけだから、日本が、日本が、って核兵器についてばかり言うのはおかしいと思う」 (あるアメリカの学生

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には加害者意識がない。罪の意識もない。だから悪びれる態度がない。ただ被害者意識のみがある。それが奇妙な態度の根源である。

高橋史朗氏 (1950- )は米国の戦後の日本占領政策について、米国が「日本が二度と立ち上がれないような政策」を行ったとしており、それがその後の日本人の「自虐意識」を育てることになったと主張しています。  

意思がなければどうなるか。受動があって能動がない。だから、被害者意識があって加害者意識がない。罪の意識もない。これはアニマルも同じである。罪の意識のある人たちにとって、罪を知らない人たちの立ち上がりは恐ろしい。

‘罪悪感を国民に植え付けるプログラム’ (WGIP: War Guilt Information Program とは、大東亜戦争後の昭和20(1945)年からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として行った、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画ですが見事に失敗しました。カエルの面に水でした。わが国からは戦争犯罪人は一人も出していません。意思の無い人間に罪の存在を理解させるのは難しいからです。従ってわが国の全ての宗教は罪と離れたところに存在します。罪の意識に苛まれる病める魂の持ち主を救済する必要がないからです。     

 

米大統領トルーマンは、極め付きの反日、侮日主義者で、原爆投下については、「獣を扱うには、獣にふさわしい方法でやった」と、日本人を獣扱いしていたと言われています。 

‘あいつ [J. ロバート オッペンハイマー] の手が血塗られているだって? 冗談じゃない。あいつには私の手についている血の半分もついていないさ。泣き言を言うなんて、けしからん。’ (ハリー・トルーマン大統領)     

オッペンハイマーは原爆の父であり、トルーマンは原爆投下の張本人である。彼らには加害者意識があり、罪の意識もある。彼らのお陰で多くの日本人が一億総玉砕を免れた。   

好きで好きで大好きで死ぬほど好きな戦でも原爆投下にゃ勝てはせぬ、泣いて崩れた敗戦日。わが国は原爆開発において米国に遅れをとった。 

日本人以外のアジア人でアメリカの原爆投下を非難する者はいない。   

「歴史の皮肉の一つは、自国の人々に尊敬された裕仁が1989年に安らかに亡くなった一方、殺戮を終結させた英雄ハリー・トルーマンには今もなお道徳的な汚点がついていることだ。 ロバート・オッペンハイマーにもクレジットが与えられるべきだ。 ピースメーカー(平和をもたらす人)に祝福あれ」  (提供:The National Archives/ロイター/アフロ)    

あくまでも裕仁が自国民に尊敬されるのは日本人の序列メンタリティによる得点ですね。これは我が国民の島国根性の根源にも成っていて贔屓の引き倒しでしょうね。    

 

 

 

 

 


山崎エマ氏  

2024-12-23 01:54:27 | 文化

>めざましmedia   >日本の小学校教育に世界が注目!「靴は揃える」「教室は自分で掃除する」…学校生活を通して学ぶ「社会の仕組み」   >めざましmediaの意見・   >6時間・   

>世界で高い評価を受けている映画『小学校〜それは小さな社会〜』の山崎エマ監督と、日本の小学校教育について考えました。   

>女性が気になる話題について、スタジオで生討論を繰り広げるフジテレビ『ノンストップ!』の金曜恒例コーナー「ノンストップ!サミット」。   

>今回は、アメリカアカデミー賞「短編ドキュメンタリー部門」の最終候補に選出された映画『小学校〜それは小さな社会〜』の山崎エマ監督がスタジオに生出演。   

>「世界でイマ話題!日本の小学校教育」というテーマでMCの設楽統さんと三上真奈フジテレビアナウンサー、千秋さん、カンニング竹山さん、虻川美穂子さん、國學院大學教授の杉田洋先生と話し合いました。   

>「靴を揃える」「掃除をする」など…生活を通した日本の教育に世界が注目!   

>イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、大阪の小学校からインターナショナルスクールに進み、アメリカの大学で学んだ山崎監督。   

>自分の基礎であり、強さとなっている部分が6年間の日本の小学校生活で育まれたことに気付き、今回のドキュメンタリー作品を作ることを決めたといいます。   

>映画を観た虻川さんは、「小学生が全力で物事に取り組む姿は涙なしには観られなかったし、靴を揃えるなど自分にとって当たり前のことを小学校で学んだことに改めて気付いた」と語り、竹山さんも「小学校をどう変えていくか議論する中で、何か足りないと思っていたのだが、(映画を観て)大事なことに気付いた」と感心した様子。   

>世田谷区の公立小学校に密着した山崎監督が今回の映画で改めて着目したのは、日本の小学校の「学校生活を通した教育」だったそうです。   

>映画で描かれるのは、「靴を揃える」「自分の使った教室は自分で掃除する」「きちんと挙手や返事をする」など、日本の小学校教育を受けた人にとっては「当たり前」の日常。   

>しかし小学校で身につけた「何事もきちんとする」という習慣こそが、社会に出る準備ともなり、災害に備える心構えにもつながっていると山崎監督は感じたのだそうです。   

 

日本人には意思がない。だから意思決定 (理性判断) の機会に遭遇するのは避けなければならない。作法をあらかじめ定めておけば、意思決定の手間 (時間) が省ける。恣意決定 (盲目の判断) は危険だから、極力避けたい。太平洋戦争の様な結果は避けたい。        

 

>「社会の仕組みを学ぶ」という日本の教育には利点もあるが「同調圧力」を生むという課題も    

>山崎監督が「国語や算数だけでなく、生活面を小学校で教えるというのが海外の人から見ると画期的に感じられるようだ」と語ると、杉田先生は「そもそも学校教育の考え方が、海外と日本は異なっている」と解説。   

>杉田先生によると、「海外では学校は『授業を受ける場所』だが、日本では『社会の仕組みを学べる場所』」で、学活などの集団活動を通して教育を行う「特別活動」が学習指導要領に盛り込まれているのは、世界的に見ても非常に珍しいのだとか。   

>千秋さんは「日本の教育は『個人の主張ができない』などマイナス面が語られることが多いが、ダメなばかりではなかった」と安心した表情を浮かべ、コロナ禍の中で撮影を行った山崎監督は「海外では1年半学校を閉鎖した場所もある中で、日本は3ヵ月休校しただけで学校を開けた。   

 

個人の主張ができないことは日本人の大問題ですね。日本では英米の高等教育が成り立ちません。   

 

>生活に制限がある中でも子どもたちは自分の役割を果たそうとしていたし、楽しみも見つけていてすごいと感じた」と、撮影を振り返りました。   

>一方で、「みんなが同じことを同じようにできるようにする」ことを突き詰めてしまい、結果として「同調圧力」が生まれてしまうのではないかという課題もあるといいます。   

 

そうですね。日本人は同調圧力なしでは生きていられませんね。   

 

>杉田先生は「確かにそれは悩みの一つではある」と語りましたが、竹山さんは「難しいところだとは思うけれど、ルールを学んでこその自由なのでは?」と持論を展開しました。   

>「組織での役割」を学ぶことができる「委員会」「係活動」は意義がある?   

>教科教育時間を増やすべき?   

>「放送委員」「給食当番」といった「委員会」や「当番」の活動を通して、「組織の中でどう役割を果たすか」を学んでいくという小学校の取り組みも、海外では評価されているといいます。   

>「掃除は大人がやるもの、という環境で育った海外の人から見たら、子供に責任を与えて、任せるだけでもすごいこと」と山崎監督が語る通り、この映画はギリシャでは「子供の責任感もすごいし、信頼して任せる先生も素晴らしい」と受け止められているそうです。   

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。蛸壺の中にこもる日本兵に成ります。      

 

>杉田先生によると、給食には「仲良く食べることも学ぶ」「栄養教員による食育」「当番を通して『役割のない社会はない』ということを小さいうちから学ぶ」などの教育効果があるのだとか。   

>しかし一方で、「係活動などの時間が多すぎるので、教科教育の時間を増やせないか」という声も挙がっているといいます。   

>杉田先生は、「小学校で過ごす時間の約3割が『人づくり』に充てられているので、数値で測れる学力を伸ばしたほうがいいのではという声が出る。   

>しかし学力を伸ばすことが、人の幸せにつながるかを考えることも大切。   

>数値で測れる『勉強』は、人を不幸せにすることにも使うことができる」と問題を提起。

 

数値は日本人の序列化の基ですね。数値がなければ序列社会は崩壊しますね。数値は没個性の基である。      

 

>千秋さんは「お鍋の中の食材を均等に分けるなど、みんなのことを考えて動くことを学べる」と係活動の時間を肯定的に捉え、三上アナも「係活動を通して一体感を感じることができて、友だちも増えた」と同意しました。   

>欧米に比べて圧倒的に仕事量が多い日本の教員…働き方改革はどう進めるべき?   

>映画では先生方の働きぶりも丁寧に紹介。   

>山崎監督は「先生も人間で、悩んだりしながら成長している。   

>正解のない仕事に挑んでいる先生方のやりがいや生きがいも取り上げたかった」とその意図を語りました。   

>一方で日本の教員に課せられている「仕事」は、「授業」だけでなく「カウンセリング」「広報」など多岐に渡り、欧米と比較すると格段に多いことが問題となっています。   

>杉田先生は「働き改革は解決しなければいけない問題。   

 

我が国には、人手不足はあっても頭脳不足はない。日本人の仕事は人手を強く要求します。人海戦術ですね。   

 

>小学校の教員には、子どもの成長を感じることで、仕事が大変でも許せてしまう人が集まっている。   

>そこが難しいところなのだが、先生にとってのやりがいも必要ではある」と現状を語りました。   

>三上アナは「先生方も日本の教育を受けてきているから、できてしまうのでは?」と意見を述べ、「そもそも、グローバルスタンダードこそが“正解”なのか?」と疑問を呈した竹山さんは「働き方改革を検討する必要はあるが、現場の気持ちをしっかり考えて議論しないと危険」と主張。   

 

日本の教育には礼儀作法が入っていますからね。忙しい。  

 

>山崎監督は「日本の先生方には自信を持ってもらいたいし、この映画がより深い議論のきっかけになれば」と訴えました。   

>「運動会で順位をつけない」風潮に山崎監督「112以上になる経験こそ大切」   

 

序列人間の日本人は順位アレルギーになっていますね。オリンピック競技や競馬を見れば順位が大切なことが分かります。      

 

>視聴者の54歳男性からは、「運動会で順位を付けないことが増えているが、ライバルと競い合う中で社会性を学ぶのも大事なのでは?」という意見も寄せられました。   

 

そうですね。   

 

>「“共創”の中に“競争”がある」と語る杉田先生は、「運動会は『同調圧力』を生みやすいとも言われるが、手をつないでゴールするのはそれこそ『同調圧力』。   

>他者との共創=競争の過程を成長できる場として捉えられる人もいる」と、運動会の練習の大切さを指摘。    

 

自由競争で社会は成長する。規制社会は衰退する。ソ連は崩壊した。     

 

>山崎監督は「自分も小学校を振り返ると、行事のことばかり思い出す。   

>課題を乗り越える経験や、112以上になるという経験が、その後の成長につながるのでは?」と行事の役割を語りました。   

>『ノンストップ!』(フジテレビ)20241220日放送より   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

我が国は未成年者の学習成績に基づいて作られる人間の序列により非常に便利な不便な国になっていますね。  

日本では子供が熱心に勉強する。子供の勉強は他人の受け売りとその後追いである。学習に成功して子供は日本で通じる序列順位を獲得することができる。   

アメリカでは大人が熱心に勉強する。大人の勉強は自己の個人的見解を明らかにすることにある。高等教育機関で学ぶことにより学習に成功して世界に通じる学位 (博士号など) を得ることができる。      

このような事情で、日米が戦争をすると子供と大人の戦争になる。   

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り

 

 

 

 

 


学歴マウント

2024-12-21 09:29:24 | 文化

>プレジデントオンライン   >「国家公務員試験トップよりも「予備校模試1位」の方が尊敬される元経産省官僚が目撃した霞が関の謎文化   >じゅそうけん、宇佐美典也、西岡壱誠の意見・   >5時間・   

 ()   

>霞が関で行われている「学歴マウント」の実態   

>宇佐美典也 制度アナリスト   

1981年生まれ。   

>東京大学経済学部卒業後、経済産業省に入省。   

2012年に退職し現職。   

>西岡壱誠 東大生作家   

1996年生まれ。   

>東大合格のノウハウを全国の学生や学校の教師たちに伝えるため、株式会社カルペ・ディエムを設立し、代表に就任。   

>【じゅそうけん】宇佐美さんにぜひお伺いしたかったのは官僚の世界における「受験天才」のリアルについてです。   

>大蔵省(現・財務省)出身の片山さつきさんが、鳩山邦夫さんに対して「私は全国模試1位でした」とマウントを取ったという学歴厨エピソードは有名ですよね。   

 

[「マウント」とは、人類を含めた哺乳類が、相手の上に向かい合った状態で馬乗りになる、乗りかかる行為を指す。登る、乗る、またがるを意味する“mount”が由来。マウントを取る行為は、自分の優位性をアピールすることを意味する。その延長で、容姿や仕事、お金や恋愛について話す様々な場面で、互いに“格付け”し合い、相手よりも上に立とうとする言動や行為の全般を表す。]      

 

>ほかにも、僕たちのまだ知らない「受験天才エピソード」や「学歴厨エピソード」が、霞が関に眠っているのではないでしょうか。   

 

日本人の好きそうな話ですね。   

 

>【宇佐美】まさに「模試の成績」は語り継がれますね。    

>「模試1位同士でナンバーワン・ツー争いをずっとやってる」みたいなこともありました。   

>自分は予備校に行っていなかったからその手の情報に疎くて、大学入学時にも入省時にも事情に詳しくなかったのですが、「予備校勢」みたいな連中が「あれが模試上位の○○か」みたいなことを言い合っているのを目にしてきました。   

>【じゅそうけん】「模試の成績」は、学歴好きが最もテンションが上がる話題の一つです。   

>昭和の頃からずっと変わらない組織文化といわれます。   

 

序列メンタリィティの賜物ですね。   

 

>予備校模試の成績優秀者はずっと語り継がれる   

>【宇佐美】ヤンキーみたいなんですよ。   

>「あれが関西の雄!」みたいに一目置き合っている。   

>もちろん模試の成績だけじゃなく「学歴」が話題になることもありますよ。   

>【じゅそうけん】国家公務員採用総合職試験(旧I種)の試験の順位よりも「模試」の点数のほうが幅を利かせるんでしょうか。   

>【宇佐美】はい、総合職試験よりも、明らかに「予備校模試の1番・2番」のほうが格式が高いんです。   

 

身分・格式の話は昔からありましたね。   

 

>もちろんI種の試験で1番とか2番みたいな飛び抜けた成績の人は目立つし、財務省は採用試験の点数にもある程度こだわるかもしれませんが、それ以外の省庁はそこまでこだわらない。   

>人事担当者にとっても、採用試験での点数は「横並びになったときにどちらを優先するか」くらいの限定された意味しか持たないですから、多くの人は「受かっているわけだから、とりあえずいいよね」くらいの感覚だと思います。   

>それに比べれば、予備校模試の成績優秀者はずっと語り継がれるし、格式が高い。   

 

予備校模試の結果は人間価値のバロメーターですか。   

 

>【じゅそうけん】そこまで格式が高いとは、驚きです。   

>模試の順位表は、上位者だけの名前が開示されるから、特異な文化を生み出しやすい仕組みでしたよね。   

 

特異な文化ですね。   

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。そうでなければ不公平になる。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

 

>SAPIX1位から5位が理三で再会   

>【西岡】ちなみに、いまは氏名が見られる模試の順位表はなくなっているんです。   

>かつては1番から100番ぐらいまで名前が出る模試がありましたが。   

>【宇佐美】なんと、なくなったんですか!    

>時代の流れに合わせてということですか。   

>【西岡】はい、個人情報漏洩の観点からなくなったんですよ。   

>でも僕の頃にはまだありましたし、名前が出てたひとは「伝説」とまではいかないまでも、やはり一目置かれていました。   

>受験から半年ぐらい経った頃の大学一年生のクラスの中で、誰かが模試の順位表を持ち出してきて「あ、あいつの名前あるぞ!」みたいなことをやりはじめる。   

>世の中、誰しも「数字」とか「順位」が大好きなんだなと内心すこし呆れました。   

 

そうですね。結果を数値化しますと序列順位がはっきりしますね。日本人は序列を見ると、それが守るべき尊いものであると信じる傾向がある。だから、皇民化教育もやりやすい。         

 

>小学6年生ぐらいの時のSAPIX模試で名前が出てたやつがそのまま東大入っている、なんていうのもよく聞く話です。   

>【じゅそうけん】SAPIX模試の1位から5位の方々が理科三類(東大の最難関)で「再会」したという話も聞いたことがあります。   

>名前だけはお互い長年知り合っているのに、本当に出会うのは大学だというのが面白い。   

 

出会いに何か意義があると良いのですがね。   

 

>「とりあえず理科三類」の大問題   

>【宇佐美】ただ、優秀な人が揃いも揃って理科三類に入るということが、その人たちの人生にとってよいことなのかどうかはわかりません。   

 

個性の大切さを忘れていますね。   

 

>達成感がもの凄いからか、入学後にスポイルされてしまう人も一定数いる。   

>そして理科三類に行かなかった人のほうが、案外大成したりもする。   

 

日本では子供が熱心に勉強する。子供の勉強は他人の受け売りとその後追いである。成功して日本で通じる序列順位を獲得する。   

アメリカでは大人が熱心に勉強する。大人の勉強は自己の個人的見解を明らかにすることにある。成功して高等教育機関より世界に通じる学位 (博士号など) を得る。      

だから、日米が戦争をすると子供と大人の戦争になる。   

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)  

 

>【西岡】そこは大問題です。   

>「理科三類」にはとてつもないブランド力がある。   

>ですが、たとえば「海外の大学に行く」といった他の選択肢を見えにくくする側面もある。   

>その人にとって一番よい選択肢は他にあるかもしれないにもかかわらずです。   

>【宇佐美】同期を思い浮かべても、そういう印象はあります。   

>小学校の時から優秀で、絶対理三に行くだろうと思っていた人がいるのですが、意外なことに慶應医学部に入りました。   

>そして今『ネイチャー』に論文を掲載している。   

>そういう方の人生を見る一方で、理三でスポイルされた人たちも沢山見てきました。   

>合格で燃え尽きるのを見るのはつらいことです。   

>【じゅそうけん】灘高校などには「とりあえず理科三類」みたいな流れさえもがあるそうですね。   

>しかしせっかく優秀な若い方々であればこそ、視野を広く保っていただくのが大事だと感じさせられます。   

 

それは無理ですね。学力試験は没個性でなくてはならない。だが視野を広く保つには個性的な教育をしなければならない。     

 

>なぜ東大生の官僚離れが起きているのか   

>【じゅそうけん】「東大文一」から「霞が関」というルートもかつては鉄板でした。   

>「東大至上主義」が官庁の中にあったともいわれます。   

 

井の中の蛙ですね。難関出身者が閥 (序列) を作って自己利益を確保する。地方色ですかね。東大よりましな大学は世界に一杯あるのに。その意味が分かっていない。         

 

>しかし近年は「東大生の官僚離れ」がしきりに言われて、時折ニュースでも取り上げられていますよね。   

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>組織は「志がある人」ばかりでなく、「志がない人」や「斜に構えた奴」がいるというのが大事なのだと思うのですが、「志がある人」にとっても「斜に構えた奴」にとっても居づらい職場になってきている。    

>【じゅそうけん】そして、官僚養成学校としての東大文一だからこそ、それを古くからひっそりと支えてきた「先輩と後輩の関係」を通じて「綻び」が波及していくというわけですね。   

 

人間序列に付きまとう禍ですね。   

 

>優秀な人材をまかえなくなってきている   

>【西岡】正直にいえば、官僚になった先輩に話を聞いてみて「官僚なんていいことないよ」という評判を耳にする頻度は少なくないように思います。   

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>「真面目に勉強すればこの国を動かせるんだ、そういう風に世の中はできているんだ」と心に深く刷り込まれているから、30代半ばから後半ぐらいになって、なんとなく「お国のために」モードに変わるようなケースも目にはします。   

 

そういう人は政治家にならなくてはなりませんね。   

 

>しかしそういった人たちだけで、「もうこのシステムではやっていけない」と思って辞めてしまった人の欠員を埋められるか。   

>もはや法律の条文を書く、税率をいじる。   

>そういった「官僚にしかできない仕事」への職能人気だけでは、必要最低限の法学的知識を備えた人材すらまかなえなくなるかもしれません。   

 

官僚の生活はあくまでも従属的ですからね。  

 

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