今月26日で相模原障害者殺傷事件(やまゆり園事件)から4年。
事件発生時は衝撃を受けました。
(その時の書き込みは以下 https://blog.goo.ne.jp/kazuhiko-nakamura/e/a2bef9e45f5300297db706708ee26912)
その後は忙しさにかまけてなかなか事件と向き合うことができませんでしたが、今年1月から始まった公判を契機にでき得る限り理解に努めています。
今月に入って関連本も発売、全て購入し読みました。
月刊『創』編集部 『パンドラの箱は閉じられたのか』 創出版
雨宮処凛 『相模原事件・裁判傍聴記』 太田出版
朝日新聞取材班『相模原障害者殺傷事件』朝日文庫
神奈川新聞取材班『やまゆり園事件』幻冬舎
『福祉労働167 特集・津久井やまゆり園時間が社会に残した宿題』現代書館
『ジャーナリズム7月号 特集・実名と被害者報道 』 朝日新聞社
なかなか整理はつきませんが、以下は、「月刊ニューメディア2020年6月号に寄稿」した原稿で、3月下旬~4月上旬に書いたものですが、掲載しておきます。
津久井やまゆり園の殺傷事件の判決を受けて
事件の真実は?
多くの人が予想したとおり、そして多くの遺族も望んだように、植松聖被告(30)に死刑判決が言い渡された。その後、弁護側が控訴したが、植松本人が控訴を取り下げ一審で死刑が確定した。
同様の事件を繰り返さないためには、二審三審での動機のさらなる解明、施設の問題などを詳しく掘り下げる必要があったように思う。責任能力の有無に終始した一審だけでは絶対時間が足りなかったのではないか。死刑判決にも関わらず、いやだからこそ、植松は自らの“思想”をカッコ良く貫き通し控訴を取り下げた。そのことにより死刑制度そのものが、命を選別し「社会の役に立たない人間」を抹殺した植松の“思想”に飲み込まれた感も否めない。
事件が起きたのは2016年7月26日未明。当時、私は重度身体障害者による電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画『蹴る』を撮り進めており、障害の理解のためもあって介護の資格を取得し、重度の身体障害者や知的障害者、認知症高齢者らの訪問介護の現場にも身を置いていた。それまでも知的障害者サッカーのドキュメンタリー『プライドinブルー』、聴覚障害者サッカー『アイ・コンタクト』の2本を撮り、障害者との関わりも密だった自分にとって、この事件はあまりにも衝撃的だった。最初の一報に触れた時は介護職員による虐待の延長線上にある殺人を想起し、さらに「障害者がいなくなればいいと思った」という供述からナチスの障害者虐殺のことを思い浮かべ、この現代において本当に実行した人間がいたという、驚き、恐怖、憤り、さまざまな思いが駆け巡った。
植松は重度・重複障害者の例として、「歩きながら排尿・排便を漏らす者、穴に指を突っ込み糞で遊ぶ者、ご飯が気に入らずひっくり返す者、水を飲み続けて吐いてしまう者」などを挙げ、接する中で「生きている意味があるのか?」と考えたという。実際、介護の現場では従事した者にしかわからないような葛藤を感じる場面も多々ある。正直、私も同様の考えが頭をよぎったこともある。
ただ「植松は働き始めた当初、利用者のことを「かわいい」と口にしていた。そこからなぜ「この人達を殺したらいいんじゃないですかね」と言うようになり、さらには犯行まで及んでしまったのか。
津久井やまゆり園自体にも問題はなかったのか? 息子さんが入所されていたご家族の行動記録によれば、「生活介護」として日中の支援が、実質的には、あまり実施されておらず、入所者がただリビングに留め置かれていたことも少なくなかったようだ。また、ある利用者が歩けるに関わらず、長い日には1日12時間車椅子に拘束されたこともあったと指摘されている。植松が衆議院議長宛に書いた手紙の「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしています。車いすに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません」の部分は記述通りだったのだろうか。被告人質問では「(先輩職員が利用者を)人として扱っていないと思った」との発言もあった。津久井やまゆり園のみならず、大規模施設ゆえの構造的な問題とともにされに解明されるべきだったが、審理の過程では大きな論点になることはなかった。
植松の生い立ち
植松は、小学校の美術教師の父と漫画家の母の間に一人っ子として生まれた。やまゆり園は自宅から歩いて徒歩10分ほどの場所にあった。しかも小学校の通学途中にあり毎日のように目にしていただろうし、同じ学校の知的障害児もいた。そんな状況の中、植松は低学年の時に「障害者はいらない」という作文を書いたという。両親や地元の空気感の反映なのか、植松は生い立ちを語りたがらず、詳細はわからない。
一方で植松は友人も多く高校時代の交際相手によれば、親との仲も良さそうだったという。その後、教師を目指し大学へ。在学中は危険ドラッグにも手を出し刺青も入れた。教員免許は取得したが教師になることはできず、卒業後は運送業を経て、2012年12月から津久井やまゆり園で働き始めた。友人や交際相手の証言では、犯行の1年前2015年から「障害者は死んだほうがいい」「生きてもいても意味がない」「あいつら人間でない」「生産性ないから」という言葉を吐くようになる。そして、大麻を吸い、イルミナティカードに感化され、ネット空間にのめり込んでいった。差別的な書き込みや、犯行をほのめかす動画も投稿していたようだ。「生産性」「自己責任」「排外主義」といった言葉に代表されるような世界。そこには犯行の賛同者や、あるいは後押しもあったのかもしれない。
その後、安倍首相宛に犯行予告の手紙を書き官邸へ届けようとするが、警備が厳重だったため衆議院議長宛に書き直し手渡した。そして緊急措置入院。入院中に犯行を決意した。
植松の“思想”は、ネットやマンガ、イルミナティカード、米国大統領トランプ氏、テレビなど、いろいろな断片情報で形づくられている。例えば、映画『テッド2』でテディベアが人間として認められるのかという裁判で、弁護士が「人間性の基準は、自己認識と、複合感情を理解する能力と、共感する力にある」と語る。感動的な場面として描かれているが、植松は、逆に、基準に当てはまらない人間(=意思疎通が取れない者)は「殺したほうが社会の役に立つ」と考えた。植松によれば、重度知的障害者に限らず、重度の認知症、脳死状態が長く続いている者も含まれるという。つまり、人間を役に立つ人間と役に立たない人間、役に立つ障害者と役に立たない障害者に分け、役に立たない人間を抹殺し、そのことによって「日本の借金を減らせる」と考えた。そして、植松は「全人類のために」「いいこと」をしようと、犯行に及んだ。その考えは今も変わっていない。
「在ることに、意味なんかいらない」
無念にも殺された人たちは、意思疎通ができなかったのだろうか。一度だけ抽選に当たり公判を傍聴し、遺族などの声を聴くことができた。2名を除き、殺害された人たちは甲、負傷者は乙、職員は丙、殺傷された順にABC……と名付けられた。
「言葉は発することはできなくても、感情はあり意思疎通はできていた」
家族にとって、とても大切でかけがえにない存在であることが繰り返し語られた。だが、その思いは植松には届いていないように見えた。
私は以前、知的障害者サッカーのドキュメンタリー映画を制作した。彼らは障害が軽度故に「なぜ知的障害者として生まれてきたのだろう」という苦悩があった。だが、健常者よりもむしろ優れていると感じる点もあり、健常者と知的障害者を分ける線が引けるのだろうか、もし線を引くとすれば、分断する線ではなく、人と人をつなぐ線なのではないかとも思った。きっと殺された入所者とご家族も太い線でつながっており、とても意味のある存在だったはずだ。植松はその太い線を、自らの勝手な価値観でぶった切ったのだ。
だがどうなのだろう。家族とのつながりもなく、言語以外のコミュニケーションも完全に断たれている存在、人間がいるとしたら、どう考えればよいのだろうか?
この事件に着想を得た辺見庸氏の小説『月』は、ベッド上にひとつの“かたまり”として横たわり続けるきーちゃんの“目線”で物語が紡がれていく。きーちゃんは目も見えず発語もできず、他者との意思疎通もできない。上肢下肢も顔面も動かせない。そのきーちゃんを殺しにきたさと君(植松聖がモデル)に、きーちゃんの意識の分身が訴えかける。
「<ひとではないひと>というのは、かってなきめつけだ」
「あ、あ、在るものを、むりになくすことはない……。あ、在ることに、い、い、意味なんかいらない」
参考文献
辺見庸氏 『月』 角川書店
月刊『創』編集部 『開けられたパンドラの箱』 創出版
堀利和編著 『私たりは津久井やまゆり園の「何」を裁くべきか』 社会評論社
神戸金史『障害を持つ息子へ』 ブックマン社
雨宮処凛編著 『この国の不寛容の果てに』 大月書店
高岡健『いかにして抹殺の<思想>は引き寄せられたか』 ヘウレーカ
藤井克典・池上洋通・石川満・井上英夫『いのちを選ばないで』大月書店
藤井克典・池上洋通・石川満・井上英夫『生きたかった』 大月書店
阿部芳久『障害者排除の論理を超えて』 批評社
渡辺一史『なぜ人と人とは支え合うのか』ちくまプリマー新書
『月刊 創』 創出版
『週刊文春4月2日号』 文藝春秋
『東京新聞』
『神奈川新聞』
『朝日新聞』
『産経新聞』
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