サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

再び24時間テレビとバリバラから派生して

2016年08月31日 | 障害一般

 昨日の記事の続き(のようなもの)です。

 以下は『24時間テレビ』と『バリバラ』に関しての、自身も先天性の身体障害がある森田かずよさんへの取材記事。
 24hourtv-or-baribara
 
 そのなかで彼女は次のように語っています。

 「24時間的な感動か、バリバラ的な笑いか。この2つしか障害者の描き方がないと思われるのは、とても、しんどいなぁって思うんです。その両方の間に、多くの当事者がいると思うから」

 まったくその通りだと思います。
 私自身、過去に『知的障害』『聴覚障害』 の映画を制作した際に強く思ったことは、一つの障害のなかだけでいっても、いろいろであり、様々であり、多様性にあふれていること。現在は電動車椅子サッカー選手のドキュメンタリーを撮影していますが、その過程でも常に感じていることです。
 障害の面だけからみても様々ですし、性格や個性といったらてんでバラバラです。 

 映画完成後「この映画で何を伝えたいですか?」という質問をよくされますが、「いろいろ」だと答えます。「いろいろな人がいる、その等身大の姿さえ伝わればそれで良い」といったようなことです。
 何かを伝えたくて映画を作り始めたことは一度もありませんが、結果としてはそこに行きつきます。

 例えば知的障害者サッカーの映画を作ったときのことです。あくまでサッカーを通じてたまたま映画を作ることになったので、知的障害に関する予備知識は皆無でした。映画では知的障害者サッカー日本代表を中心に撮影していましたから、選手たちはほとんどが軽度の知的障害でした。
 そのなかで強く印象に残ったことは、軽度知的障害者の苦悩。
「私はなぜ知的障害者として生まれ、知的障害者として生きていかねばならないのだろう」といったような。

 これは事前には全く想像できなかったことで、同時に映画のテーマというか核心になるものだとも思いました。重度中度の知的障害者からみるとスーパーヒーローである彼らが、健常者とのボーダーライン付近にいるがための苦しみ。
 知的障害といっても幅広く、絶対に一言では語れないということを痛感しました。

 養護学校(特別支援学校に変わる前)にも何日か撮影で通いましたが、狭義の意味での知的障害以外にもダウン症や自閉症、ADHD、さまざまな子供たちがいました。「詐欺にあわないようにしましょう」という授業が行われていましたが、卒業後騙されてお金をだまし取られる人がいる一方、(学校関係者とは別の人から聞いた話ですが)だます側に回る者も少なくない。実際調べてみると犯罪に手を染める知的障害者もかなりいることがわかりました。そのことも映画に盛り込もうと何度も考えましたが、一つの作品で描くことのできる限界を超えていると判断し割愛しました。いわば闇の部分です。 
 闇とは違いますが、障害者の性もなかなか描けない”タブー”化されている点です。記事にもあるように『バリバラ』ではかなり触れていました。自分自身も劇映画(フィクション)にできないかと何度か考えましたが頓挫したままです。 

 ところで映画を作っていく過程で何度も「台本は?」と聞かれました。「えっ!?だってこれドキュメンタリーでしょう。なんでそんなものが必要なの?」と疑問がわきましたが、テレビ等のドキュメンタリーの多くは最初に台本があり必要な映像を撮り進めていくということのようで。

 私はそれまで劇映画(つまりフィクション)の世界で育ってきていたので驚きました。フィクションには(原則として)台本があるがドキュメンタリーにはないと思っていましたから。ただ編集の祭は撮影したインタビュー内容などを書き出して台本のようなもの作り構成を練りました。

 
  次作の「聞こえない、聞こえにくい人たちのサッカー」に関するドキュメンタリー映画はさらに混迷を極めました。知れば知るほどわからないことだらけ、詳しく書くと1冊の本になってしまいます(実際本になって岩波書店から出てます)。

 聞こえの程度も様々、手話を覚えた時期も様々、手話が出来ない人もいて、手話はろう学校で以前禁止されていて、日本手話と日本語対応手話がありろう者内部での意見の対立もあり、もちろん海外には海外の手話があり、ろう学校に通っていた人と一般の学校に通っている人がいて、デジタル化してからの補聴器の進化は凄まじく、人工内耳の子供たちも急増、その点も賛否両論があり…。
「聞こえない、聞こえにくい人々」と他の障害の決定的な違いは、言語、言語獲得の問題が密接にからんでいること。
 何とか理解し整理して1本の映画にまとめましたが、その後各メディアの報道に触れると、ほとんどの場合が理解しないまま垂れ流している間違い原稿、映像だということがわかりました。

 映像の場合は、知らない人が勝手にイメージしたものの再現が多いような気がします。「聞こえない聞こえにくい人」の中にはイメージにたまたま当てはまる人もいて嘘ではなかったりもしますが、かなり偏った描き方が多く「聞こえない聞こえにくい人」の理解になかなかつながらないことが多いわけです。
 聴覚障害に関しては、NHKのバリバラでも、司会やレギュラー陣がいまいち理解しきれず番組が進んでいると感じることも多いです。 NHKには『ろうを生きる 難聴を生きる』という番組がありますから、そっちにお任せ的な側面もあるかもしれません。
 

 24時間テレビの場合は、最初に人ありきでなく感動物語ありきで、そこにあてはまる人をキャスティングするということだったのでしょうか。『感動』という切り口だけでは随分と漏れてしまうものがある気がします。近年は(企画の大きさによるのかもしれませんが)ありのままを伝えるといったように変化している部分もあるようですが詳しくはわかりません。

 自分の場合は最初に人ありきで始まっていますが(一目惚れから始まること多し)、最初に(ガチガチの)企画ありきだと類型に流れてしまいがちです。現実に起こったことを必要ないと無視するといったことも出てきます。
 24時間テレビも今後も続いていくのなら、仮に企画が類型に流れそう、あるいは類型こそがベスト(?)であるのなら、同時にあるいは深夜にでも補足説明的な企画をやると良いのかもしれません。24時間もあるのだから。 
 

 記事の最後で森田さんは次にように述べています。
「問題は、障害者を見えなくすることだと思っています」
「例えば、映画やドラマの中で、身体障害者が取り上げられるときは、主役が多いですよね。でも、リアルな学園ドラマや、街を映すときはどうですか?学校にいたはずの障害者、街を歩いているはずの障害者はそこには写ることはほぼない。障害者がいない、健常者だけの『きれいな世界』がそこにあるだけです」
「障害者を社会からいないことにしちゃいけないし、見えないことにしちゃダメなんですよ」

 現実には、障害者は学校に一人だけ、あるいは0ということも珍しくはありません。もちろん狙って写すということはあり得るかとも思いますが、まずは現実の方から変わっていく必要があるかと思います。ただ街中には障害者はあちこちにいるような気がします。車椅子に乗っている人、脳性麻痺で歩いている人、白杖を使っている人、手話使用者、補聴器をつけている人、ダウン症、おそらく知的障害であろう人など、(東京では)しょっちゅう見かけます。(ちなみに手話か?と思いきや、やたらと身振り手振りをつけて話す人だったりすることもありますが)

 これはおそらく私が当事者を見慣れているので目がいくのではないか、以前は気付いていなかっただけで視界に入っていなかったような気もします。
 ではどうやったら人々に意識のなかに障害者が入ってくるのか?

先日観たドキュメンタリー映画『風は生きよという』の出演者であり電動車椅子使用者の蛯原さん(SMA=脊髄性筋萎縮症)は映画のなかで「私の仕事というか役割は、外に出て人目にふれ障害者という存在を見てもらうこと」(というような意味合いのこと)と話していました。障害者もより多く街へ出る。
しかしスマホから顔を上げないと視界に入ってこないかもしれません。 



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