日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

歌手のプロとアマの違い

2013年02月11日 | Weblog
歌手のプロとアマの違い

近頃の歌謡教室では単に聞き覚えではなく、楽譜をきっちり学び、覚えのいい人は初見がきくと言うのには驚いた。
その表現力の豊かさも、プロと比べて遜色がない。
歌唱の声質や、声のコントロールの巧みさ、感情表現の巧みさなど、いろんな角度から検討してみても、ブロと遜色がない。いやそれ以上の人もいる。
実力から言うとプロと上手なアマの歌唱力の差は無い。しかしプロとアマの差は厳然として存在する。
歌謡界は歌唱実力だけで勝負が決まるというほど単純ではない。
技量は言うまでもないことだが、社会での生き方や、運などによって、ブロの地位が保てるか、アマに堕するかが決まる。
この業界では、歌唱力以外に厳しい生き方が求められている。
それはプロもアマも同じことである。



歌を観る

2013年02月10日 | Weblog

歌を観る

今まで歌は聴くものだとばかり思っていたが、今日歌謡祭に参加して目かける情報が、歌の出来栄えの善し悪しを左右することに大いに関係ありということがわかった。

声もいい。聞いている限り感情もこめられている。にもかかわらず感情が伝わってこない。おや?これは変だぞ、どうして満点をつけることができないのかと考えたときに、 ハタッと気がついた。

歌を聞くときは、歌い手の表情に視線は1点集中である。
ところが上手いはずのこの人の表情が、舞台の上では一本のマグロである。
そこで思いに至ったのは歌は耳で聴くと言う情報の受け止め方以外に
目から得る情報にも大いに左右されていることを知った。
今後歌唱指導をするときに、この点をよく教えておかなければと思った。



商品相場の取引

2013年02月09日 | Weblog
商品相場の取引

現場では糸埃も工場の中ではらいおとして、再利用するほどまで、ケチケチしてコスト削減して絹糸を生産している。
絹糸を製品に仕立てるまでに、いろいろな工程があるが、蚕の繭のかけらがくっついてる絹糸の束を発酵させる部署の臭さと言うものは尋常ではない。
タンパク質の腐敗する悪臭がむっと鼻をつぐ。
鼻だけならまだいい。胃まで届いてムカムカしてくる。
ヘドを吐きそうな強烈な匂いである。工場実習としてそのような現場の体験したが、これが毎日の職場だと思ったら、退職していたであろう。
しかし誰かがこの部署を担当してくれないと絹糸は仕上がらない。
特殊勤務手当がつくが金じゃないとつくづく思った。
そんな苦労の塊の製品が、コストに関係なく、時の相場で赤字になったり、黒字になったりするの見ると悲しくなる。
絹糸は相場商品であるから人の苦労など超越して、損をしたり得をしたりするのだと思うと、相場商品取引とは一体なんだろう考え込んでしまう。

腐敗臭の現場から見ると相場は悪魔に見える。絹糸を担当した部署の責任者が売買に失敗して首をつったという話も聞いた。
相場というのは一面では恐ろしいシステムである。マーケットに左右される商品は個人の商品に対する思いを超越している。



キリスト教の神

2013年02月08日 | Weblog
キリスト教の神

西洋のキリスト信仰と日本の神々とでは大きな違いがある。
「真実の愛」とは神に向かってん誓える愛であって、恋愛の愛よりももっともっと深い本質的な愛ある。
昨日映画、レ、ミゼラブル、を見てそう思った。
おそらく日本人はジャンバルジャンが神々に誓って示したような愛をしめすことができないのではないか。と言うのは、日本とは神という概念が違うから。
西洋の場合、聖書に誓ってと言う事があるが、日本の場合、祝詞に誓ってとか、お経に誓っていう事は日常見慣れないことである。
神に対する考え方の相違がある。西洋は縛りがきついが、日本の場合
多少束縛するものもあるが数は多くないし、神に束縛される事はそんなにない。神と人間の関係は曖昧でいいかげんである。



小椋さんの歌作り

2013年02月06日 | Weblog
小椋さんの歌作り

謙遜もあるだろうが、彼は音楽が、天から降ってくると言う。
机や楽器に向かって作曲をあるいは作詞しようと強い意志を働かせて歌を作るというよりは、どこからともなく彼の胸に響いてくる言葉とメロディーをそのまま歌にした。と言うことであろう。
自然に聞こえてくるとか、歌が降ってくるとか言われたって、素人には何のことやらさっぱりわからないことである。
おそらくこれは経験したものでないとわからない実感だろう。

彼はおそらくなぜ自分に歌が聞こえてくるのか、天から降ってくるのかということについてその源を訪ねたいと思ったことだろう。

勤めていた銀行をやめて作詞作曲に専念したときに、彼らそのことを考えて、彼に起こる歌作りという不思議現象について何かを知りたかったのであろう。
彼は銀行を退職すると東大の哲学科に入った。一旦社会に出て20年も勤め上げてから再度勉強したい目的は何だったのであろうか。
おそらく彼はどういうことが原因で自分が歌作りをするようになったのかそれを極めたいと思って哲学を勉強しようとしたのではあるまいか。
作曲家あるいは作詞家に限らず人は誰でも、何もない時にふっと頭をよぎるフレーズがある事を体験する。自分自身無意識でそーゆーことがひらめくわけだから、おそらく彼は自分の強い意志でそれができたとは思っていないだろう。
科学はある現象をテーマにしてその基本原理を学問的に追求して成り立つものである。つまり科学以前には、哲学の領域に存在しているのである。
そういうことを考えながら彼は哲学を再度勉強したのではあるまいか。
それにしても流行歌とはまた一味違った非常に美しい歌謡曲である。
僕は天与の作品だと思っている。
もちろん、それなりの音楽の勉強やスタッフのアシストなどが歌を完成するまでには大きな役割を果たしている事は言うまでもないが。




3兆2430億円

2013年02月05日 | Weblog
3兆2430億円

東電福島第1原発事故の被災者に対して東電が支払う賠償金が増加しており、同社は原賠機構から6968億円の追加支援を受け、賠償に対応する。追加支援は3回目で、支援総額は計3兆2430億円に膨らむ。(時事通信)

この現状からして規制委員会が怪しきは国民を守る側にたつのは当然のことである。

関電の社長は原発再稼働に向けて国民輿論とは反対の方向に走り続けているが、人間的良心に立ち返ることはないのであろうか。まだ最終処分場も決まっていないのに、使用済み燃料の始末をどう考えているのであろうか。納得のいく説明を聞きたい。現段階では説明などできないはずだ。しかし最後のつけは国民負担になることは見え見えである。
電力業界とは本当に恐ろしい集団だ。
原油の値段ばかりを気にしているが、シエールガスの開発研究に資金を投じたらどうだ 。原発をなくすというより、この国から危険なものをなくすと前向きに考えて、それに資源をつぎ込んで貰いたい。

中韓の歴史問題

2013年02月04日 | Weblog
中韓の歴史問題

会談では、中国も韓国も歴史問題を持ち出してきた。と言うことは未来志向と言うことではないことだ。何か都合の悪いことが起こると、歴史問題を出してきて、歴史に鑑みという。
歴史認識ほど曖昧なものはない。日本は村山談話や、河野談話をお詫びとして発表したにもかかわらず、歴史を鑑みてと言う言葉を持ち出して、未来志向という言葉とは裏腹に、日本に釘を刺す。これじゃ村山談話も河野談話も真摯に受け止める気持ちがないのと同然である。有り体に言えば、いったいどこまでお詫びをすれば気が済むのか、と言う開き直りの気持ちがわいてくる。
歴史認識は交わることはない。加害者の立場と被害者の立場が一致を見ると言うことは未来永劫にない話である。
未来志向とは少なくとも、過去の過ちの反省の上にたって、現時点から出発すると言うことであって、過去の過ちに重点が置かれるべきではない。乱暴な言い方をすれば、過去の過ちはわきえおいて未来志向に重点を置いて、関係改善を図ろうという前提がある。
前提条件ばかりに立ち返ることが、外交上の得策か。どうにもならない過去にこだわってどうして未来志向が出来るのか。つまり中韓の言う歴史問題は所詮外交の武器として使っているだけのことで、ご都合主義の未来志向である。それを日本人はもっと認識しなくてはならない。弱腰ばかりが外交のとるべき姿ではない。歴史認識の問題はお詫びの2談話で済ますべきで、それ以上要求されたところで、突っぱねるほかはあるまい。
同然である。有り体に言えば、いったいどこまでお詫びをすれば気が済むのか、と言う開き直りの気持ちがわいてくる。
歴史認識は交わることはない。加害者の立場と被害者の立場が一致を見ると言うことは未来永劫にない話である。
図ろうという前提がある。
前提条件ばかりに立ち返ることが、外交上の得策か。どうにもならない去にこだわってどうして未来志向が出来るのか。つまり中韓の言う歴史問題は所詮外交の武器として使っているだけのことで、ご都合主義の未来志向である。それを日本人はもっと認識しなくてはならない。弱腰ばかりが外交のとるべき姿ではない。歴史認識の問題はお詫びの2談話で済ますべきで、それ以上要求されたところで、突っぱねるほかはあるまい。


原発安全基準

2013年02月03日 | Weblog
原発安全基準

自民党は安全性が確認された原発は動かす方針だ。

原発はコストの安いというこれも安全神話と同じ位国民を欺いている。
まだ使用済み核燃料や高レベル廃棄物の処分が未だが決まっていない。使用済み燃料をどこに、最終処分場をどう確保するのか。それに伴うコストはどうなるのかなどが全然わかっていない。どうして原発が安いと言えるのであろうか。
どうして福島事故の反省がないのだろうか。ずさんな安全神話で国民を欺いた責任は大きいはずだ。
今後安全対策をすることによって、いったいどのくらいの費用がかかり電気料金にはね返るのか。これらを総合して原価は決めるべきものである。この辺が決まらないのに、安価であると、どうしていえるのか。

大多数の国民の原発再稼働に反対する姿勢に対して、どうしてこうも反省がないのだろうか。
原発を安易に取り扱う電力会社の考えの中には、総括原価方式の考え方が根強く残っているのだろう。しかし先ほど指摘したものが全て正確に上乗せされたら、決して原発が安価とは言えないと思える

安全性が確認された原発を動かすよりは、むしろ原発は0の方向に持っていかないと、いつも危険性が残るが。

安全基準が確立されたらそれで良いと言う事は絶対に無い。
どんなに完璧を期しても、人間がやることにはミスがあるからだ。
原発に関してはミスは一切許されないことなのである。
原発事故を起こさないという事は、原発をなくすということにつながる

テレビ事情

2013年02月02日 | Weblog
テレビ事情

どうしてこうも見たくなる番組が少ないのか
毒舌のゲストや、しょうもないお笑い芸人、若いタレントを眺めて番組を作って、どこがうけると思っているのだろうか。
そう思う人がドンドン広がって、テレビを見なくなっている。
なぜそこに気がつかないのだろうか。

特にNHKは民放と似た様な番組を作り、その上に番組の宣伝ばかりが目立つ。NHKがそんなことをやりだしたらテレビ業界は一体どうなるのか。
現在のNHKの番組を見ていると腹が立ってくる。
いったい何を考えて、こんなつまらない番組に金かけて作っているのか。
なぜだ?。
見るべきものは、ニュースぐらいではないのか。我々から金を徴収して作られた番組の質の悪さ、お粗末さよ。これは作り手の質の悪さを意味する。
一般試聴者がテレビを見たくなるような番組が出来ないのか。
視聴率にとらわれず質の高いいいいい番組を作って欲しいものである。


いじめ報告

2013年02月01日 | Weblog
いじめ報告

いじめの現場から、どのようにして、教育委員会まで、報告が上がってくるか。
1,生徒の問題
  加害者と被害者の意見が、違う。いじめを受けた被害者が、届け出る ことが出発点である。
2,担任教師の問題
  いじめをいじめと認識するかどうか。担任の判断が問われる。
3,学年集団
  もし、担任が、いじめだと、認識して、学年会議を開いた場合,ここでの認識の判断が、どちらに傾くか分からない。
4,校長及び、生徒指導部長
  いじめ事案が上がってきたとき、ここでもまたいじめかどうかの判断がなされる。果たしていじめをいじめとしてとらえることができるのであろうか。責任者は担任であるが、基本的には担任や、校長の判断は、隠ぺい体質である。事勿れ主義、意識がまかり通る
5,報告を受けた教育委員会
ここでもまた判断が分かれる。いじめを積極的にとらえる人と、そうでない人。事勿れ主義は、教育委員会の基本的な体質である。
以上のような事情が重なって、現場で起こっているいじめが、改善されることなく、一人の生徒の命を失うという結果を生んだ。、
教育委員会という責任者が、自覚がなくて、事勿れ主義の上にあぐらをかいている。
大阪の橋本首相は、教育委員会は腐っている。と、発言した。これは現実の実態を率直にいい表したものである。
早急にこのような体質を全国的に改善しない場合、相変わらずいじめによる被害者が、出ることになる。
教師一人ひとりの認識と、責任ある立場の校長。ならびに教育委員会が、いじめについて、敏感に反応しなくては、いじめは防げない。