日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

私の音楽活動

2019年05月07日 | Weblog

芸術文化というと多岐に亘るが、私の専門は音楽分野。 具体的には、歌を中心にして、名曲を選び、 プログラムに取り入れる。

 芸術性を味わってもらうことを主眼にして活動をはじめた。

 20年を超える活動を通じて、実感したことは、我々普通の庶民は良い歌、本物の歌に触れる機会が殆ど無く、また日常生活に追いまくられている状態だから、芸術に触れる以前の問題がある。

つまり人の心に眠る純粋な感覚を良い歌、本物の歌を現場で実演して、人々の心に横たわる感性の呼び覚ましを、主目的に 選曲して、その解説と日常生活の安らぎを、如何にマッチングさせるかという問題に取り組んだ。

 総括すると、

真の芸術作品を通して、日常生活で降り積もる心の垢を取り除き、リフレッシュする効用のあるプログラムを組むこと。

解説を通して芸術に触れる喜びと楽みを実感できるようにする。

身近なところで、名曲の生演奏に触れることが出来る事が必須事項。 普段着で歩いて会場へ行ける。それは公民館だと思う。

 芸術は、もっと身近に、手の届く範囲にあること。芸術歌曲の出前といってもよい。

1,選曲は芸術作品であること。

2,解説が平易であること。

3,会場は身近な公民館で  時間帯はくつろげる時間帯。

 4,実演グループを結成する  3人一組のグループ。  

  1,)プロヂューサー 演奏者と聴衆のマッチング、企画構成 と声楽家指導 

  2,)声楽家  

  3,)ピアノ伴奏者 (電子ピアノもしくはシンセサイザー使用)    


脳の劣化

2019年05月06日 | Weblog

どうも覚えることができないような状態になってきた。.

すでに記憶されたものを,言葉にして口から出てこない.。

これは大変、もどかしいことだ。

つい面倒くさくなって、あれ、これ、それを連発する.

あれは頭の中では、特定のものを指しているが、 言葉にはならないのだ.。

60代はこんなことはなかった。何も不便を感じなかった。

思ったことは代名詞で代用するということは稀であった。

 日常使わないこともあるが、学生時代にはルモンドも辞書なしで読めたのに。

今では英字新聞を読むのに、単語の意味を忘れているので

 読みづらい。

 ルモンドは完全に異国の新聞になってしまった。

年齢のせいだからとしているが、確かに努力することを怠り、

精読する前に飛ばし読みする。

 まれはまともな事じゃない。

自戒 する必要がある。


連合赤軍事件

2019年05月06日 | Weblog


<永田死刑囚死亡>先鋭化、

先鋭化した武力闘争で1971~72年に起きた一連の連合赤軍事件の指導者、永田洋子死刑囚(65)が5日、静かに息を引き取った。

彼女にとっては極楽死だ。なぜ天は彼女の行った残虐な行為に対して、厳罰を加えないのか。天誅を加えないのだ?

銃と暴力で血塗られた革命思想は「総括」と称して仲間を死に追いやり、あさま山荘での壮絶な銃撃戦で途絶えた。事件から40年。かつての最高幹部の死は一つの時代の終わりを告げた。

狂った思想がどれほど人を傷つけるか。この事件はその惨状を見せつけた。どんな場合でも人間は生きていく以上、あらゆる方面でバランスが要求されている。その鉄則を未熟な頭で考え出した思想とやらで大きく崩す。そんな者が長続きできると考える方がおかしい
はじめから結論はわかっている。命の尊重という根本を考えることなく、ただひたすらに偏りに突っ走った人間の哀れな姿がここにある。加害者も被害者もだ。なべて極端論は危険

群馬県の榛名山や迦葉山の山岳アジトなどで12人の同志の命を奪った「山岳アジト事件」(71年12月~72年2月)。永田死刑囚は同志の指導者として次々とメンバーに「総括」の名の下に自己批判を迫った。総括はエスカレートし、他のメンバーに「総括援助」と称して暴力を加えさせるようになった。取り囲んで殴打し、緊縛して極寒の山中に放置した。死亡すると穴に埋めた。兄弟でアジトに潜伏した同志もおり、弟は兄を泣きながら殴った。妊娠8カ月で暴行を加えられて死亡した女性もいた。

凄惨な同士討ち。その首謀者がこんな自己中心低能な女だったのか。逮捕以来その姿を見ているとこんな魔女みたいな女につい居ていった仲間も、仲間だとあきれかえる
彼らは生きることの本当の意味がわかっていない。命の大切さがわかっていない。だからこんな残虐で滑稽としか言いようのない世界に迷い込むのだ。 

13人の殺人罪、1人の傷害致死罪に問われた。1審公判で非を認め、反省を口にしたものの、証人尋問で当事者を前に大声で笑い、判決では「人命蔑視の精神を表すものとして見逃すことができない」と指摘された。2審では「武装闘争は今後も起こる。連合赤軍の武装闘争の経験の総括も、今後の闘争に生かさなければならない」とも語っていた。
一方で、、脳腫瘍の症状が表れた。93年には「腫瘍の治療が行われていない」として、病院への移送と、国と手術した病院に慰謝料を求める訴訟も起こしていた。

国民の税金でこんなやつの治療をする必要はない。そんな金があったらもっと気の毒なたちばにおかれている国民のために使え。どこまで厚かましい人間なのだ。社会の厄介者

 


唐人お吉5-52

2019年05月05日 | Weblog

唐人お吉:


1992年年10月13日未明、伊豆は、伊東港の桟橋から一台の乗用車が海中に転落した。乗っていた4人のうち、3人までが助かったのに、大地喜和子、一人だけが、帰らぬ人になった。享年48歳。役者としてまだまだこれからと、嘱望されていたからその死は惜しまれて余りある。


運転者は、大地喜和子さんが飲みに行った。スナックのママさんで、斎藤静江さんという人。なんとの運の悪い事故に巻き込まれたことか。
大地喜和子さんは、10月12日に伊東で、「唐人お吉物語」の公演を済ませ、よく13日には、史上初めて。この演劇をお吉ゆかりの地・下田で公演することになっていたそうである。


唐人お吉は歌になったし、芝居にも取り上げられた。詳しくは知らないまでも、名前ぐらいは誰でも知っている。
そのお吉 本名は、斎藤きち 事故当時の車の運転者も斎藤さん。


資料によれば、お吉は、幕末、ペルーによって結ばれた。日米和親条約発効の後に続く日米通商修好条約締結のために、1857年に、伊豆下田に赴任した。米国の初代の駐日総領事ハリスの身の回りの世話をするために、下田奉行所によって送り込まれた、17歳のサービスガールだった。


役向きは給仕で仕事は夜勤。ハリスのベッドサイドの用事だけだったのか。ベッドインの役目も果たしたのか。真実は二人しか知らないが、お吉にとっては苦痛な務めだったに違いない。


一説によると、当時相思相愛の彼氏がいたという。
奉行所は、ハリスの世話係として、お吉に、白羽の矢を立てて、二人の仲を、無理矢理にさいて、人身御供として、お吉を差し出したというのである。


お吉という女は美人で、才気煥発機の強い性質であったので、この冷酷非情な運命をどれほど呪ったことだろう。
死んでも死にきれないような思いを経験したお吉は、お役御免になっても、自分の運命を呪い、嘆いたことだろう。


お役目を済ませて、ハリスの元から放免されたお吉は、人々からは、洋妾ラシャメンと蔑みまれ、横浜に出たこともあったそうだが、いずれ舞い戻り、髪結 居酒屋を転々とし、船大工との家庭でも、うまくいかず、離婚し、あれやこれやの苦難に耐えかねて、深酒に溺れ、挙げ句の果てには中風になり、明治23年、下田を流れる川に身を投げて、恨みだけを残してこの世を去った。


春は弥生3月の豪雨の晩のことである。享年48歳  大地喜和子も、48歳。奇妙な符号だ。
身を投げた川には、お吉が淵 があり、ほこらが建てられて、身寄りのない遺体を引き取って懇ろに弔ったのが、宝福寺の当時の住職だった。墓は、宝福寺にある。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


柳原白蓮の生き方5-53

2019年05月04日 | Weblog

柳原白蓮の生き方


どんなに高位高官の家に生まれても、心の居場所がなければ
表面はともかくも、心の中は複雑だろう。そしてそれが幼いときであれば有るほど
生育歴に禍根を残し、生涯心は穏やかでないだろう、と思われる。


美貌の歌人白蓮25才は、最初の結婚は離縁になり、実家暮らしをした後、25才年上の炭鉱主の主人1911年、飯塚で、 伊藤伝右衛門50歳と結婚した。
年齢の差もさることながら、彼は金こそ持っているが、いわゆる成り上がり者で、おそらく教養の面では、二人はおおきくずれていたことだろう。
負けん気、勝ち気の強い(と言うよりそうしなくては身の置き所がなかっただろうと思われる)彼女は正妻として、妾が同居という事実には何としても耐え難いものを感じていたに違いない。


10年の結婚生活に、活路を見いだせなかった彼女は、大胆にも主人伊藤伝右衛門に絶縁状をたたきつけて、それを朝日新聞紙上に発表した。いくら大正デモクラシーの風が吹いていようとも、おそらく世間はこの前代未聞の絶縁状に驚いたことだろう。
「私は今あなたの妻として、最後の手紙をさしあげます。金の力をもって女性の人格的尊厳を無視する。あなたに永久の決別を告げます。」ハチの一刺しである。
「同棲(結婚生活)10年の主人を、捨てて白蓮女史は情人のもとに走る」
.朝日新聞が紙上に載せた。

白蓮は大正天皇のいとこに当たる華族で、才色兼備で筑紫の女王と呼ばれ
文壇のアイドルになっていた。その彼女が、富豪のー夫人の座を捨てて、1学生のもとに走ればスキャンダルになり、兄は貴族院議員を引責辞職。私は華族から除籍になったと彼女は言う。


時代は大正デモクラシー。
社会改革を目指す宮崎龍介の情熱に、また彼は白蓮の境遇にそれぞれ思いを募らせて、やがて男女の中になる。
文壇に顔を出す、宮崎龍介は東京帝国大学新人会のメンバーで、孫文を援した大陸浪人宮崎とうてんの息子である。


彼女は後に相思相愛の関係を結婚に持ち込んで成就させて子供にも恵まれ、四人で平和に暮らした。推量するに彼女の生涯でこれほど安らいだ時期は無かったのではないか。愛する人と一緒になれるなら、富も名声もいらない。
おそらく彼女はこう叫んだ事であろう。そしてこの思いが結婚という形で結実させたのである。


宮崎龍介27歳で彼女よりは七つ年下。情熱的な東京帝国大学の学生。学生の下に走った白蓮を、伊藤はどう振る舞ったか。
伊藤伝右衛門は天皇に連なる妻を姦通罪にはといいづらく、白蓮を許し、喝采を浴びた。だが柳原家は怒り、彼女を尼寺や他の家に幽閉同然 。龍介とは2年間離ればなれになる。ところが1923年関東大震災が運命の扉を開けた。
白蓮を預かっていた家は、被災したのに、柳原家からは何の頼りもないが、宮崎家からは見舞いが来るのに感心し、彼女を宮崎に渡した。


白蓮は戦後平和運動に身を投じる。晩年は緑内障で失明し、隆介の介抱で、
1967年に81歳で世を去った。
辞世の句
いつしかに 80とせ生きて つかの間の 露の命の理をしる。


いくにあらず 帰るにあらず もどりにあらず
生けるこの身 死せるかこの身。


 


 


 


 


 



4,


天国も死後の世界もない」5-54

2019年05月03日 | Weblog

天国も死後の世界もない」
 
[ロンドン 16日 ロイター] 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、
1,天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、
2,死後の世界があるとの考えを否定した。
3,宇宙の創造に神は必要ない=ホーキング博士
この意見に対して宗教界から批判を浴びている
何故そう言う意見になったのかについて、
 ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。
死後や天国の有無については、科学的な証明はまだ出来ていない。博士が自分が科学的にそれが正しいというのなら、そのことを実証せねばならない。


僕は死後の世界や天国についての考え方は彼とは違う。
実証が出来ない世界のことは科学の領域ではないと思うから、科学がこれらの世界のことを取り扱うこと自身が、現段階では間違いだと思う。死後の世界や、天国や 神の存在については、信じるか、信じないかによって、その存在の有無が決められるものだと思っている。人間には霊魂というものがあって、それは人間の脳以外の次元の処に在るという信じるから、脳の作用とは何の関係もない。
だから
「脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と言うことにはならない。
こういう判断は科学的なものではない次元のことだから信じるか信じないかという脳の外にある宗教的な部分の働きによって形成される判断だと思うし、それは全く個人的なもので、現在の科学的な次元では取り扱えない。
よって死後の世界や、天国の存在を実感できる人は宗教家がそうであるように、信じることが出来るし、そう思わない人は科学的な説明や証明なしに、博士と同じ意見になるだろう。そして両者の是非や当否は判らないと僕は思う。


人々はどのように生きるべきかとの問いに対し
「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」と答えた。
 この意見に対しては全く同感だ。


ギンギラギンにさりげなく

2019年05月02日 | Weblog
>ギンギラギンにさりげなく >老人ホームは今までは人里離れた自然の山間などに作られてきた.それは 高年齢になる と、一生懸命働いてきた人たちだから 休みは、自然 豊かなところで、喧騒の街から離れて静かな場所で、ゆっくり休んでほこういう人里離れた老人ホーム>は、静かではあろうが、活気がない。時たまだったら良いだろうが、年がら年中、 静かな所に暮らしていると、人間として頭の活力が 失われ、早く老いることにななりはしないか。 静かなところという名目で、社会とは隔絶された所に置かれているところに、問題があると思う。老人というのは死の影が近づく世代だ。そうでなくても寂しい思いをするくらいだから 、刺激が少ないところに建設するのは寂しさに追い打ちをかけるようで、反対である。ることは分かるが、それが老人の願いに沿ったものかどうか。 私は老人ホームは、ギンギラギンの街中に、小規模なものをのが良いと思う。高齢者の心理を考えると、厳しい事もあるが、 少々うるさいところの方が>刺激があって、老人の心にパワーを打ち込み活性化することに、なりはしないだろうか。> ギンギラギンにさりげなく。ぎらぎら輝く 所に老人ホームを作るのは一つのアイディアだ。

暇ではない

2019年05月01日 | Weblog

遊んでのんびり暮らしているわけではない。

 いつもパソコンに縛られたかのようにパソコンの前に座っている パソコンはその基本原理がほとんど,わからない。

だからプログラムを組める小学生には驚きというよりも尊敬の念を持っている.

 今日は8時間かかってやっと YouTube に動画を載せることができた。

 これは原理・原則ではなくて操作を覚えるだけの話である。

恐る恐る操作の順番をメモしては、操作を記録して前に進まないものは、消して次の操作を実行する。

 そして 記憶して役立つものだけを残して行く。

本当のことを言えば、こんな事をやっていると、いくら時間があってもたらない。暇どころの話ではない。