コンサルタントバンク コンサルタント(プロ・希望者)+ 士業の異業種交流会

コンサルタントバンクは、コンサルタントや士業の先生方の異業種交流会で、無料で登録できる組織です。関連情報をお届けします。

■【きょうの人】 0721 ■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖

2021-07-21 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0721  覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖

 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日)

 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。

 

 「鑁(ばん)」という難しい文字は、もちろん教育漢字には含まれていません。

 しかし、画面で見られるということは、JISコードが付けられているということですね。

 ちなみに、栃木県足利市に「鑁阿寺」というお寺さんがあります。「ばんあじ」では読みづらいですね。「ばんなじ」と読みます。

 鑁阿寺は、真言宗大日派の本山で、山号は金剛山です。足利氏ゆかりの寺で、境内には、大きな木もあります。

 あしかがフラワーパークや足利学校を訪れたときには、お寄りになるとよろしいと思います。

【 注 】

 【カシャリ! ひとり旅】でのご紹介は、準備中です。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0720 ■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君 ■ 岩倉具視忌 明治政府で下級武士からの出世 ■ アレキサンドロス大王(3世)

2021-07-20 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0720 ■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君 ■ 岩倉具視忌 明治政府で下級武士からの出世 ■ アレキサンドロス大王(3世)

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君

 うえすぎ ようざん 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)
 寛延4年7月20日(1751年9月9日)- 文政5年3月11日(1822年4月2日)


 江戸時代中期の大名で、出羽国(山形県)米沢藩9代藩主でした。上杉謙信という名門の家柄でしたが、領地返上寸前の財政難に陥っていました。その米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲となりますが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名です。

 宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎました。

 10代将軍徳川家治より「治憲」の名を賜り、明和4年(1767年)に家督を継ぎました。

 家督を継いだとき、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していました。

 初代藩主景勝は、越後で120万石時代に従えていた家臣団6千人をそのまま、石高が15万石で召しかかえました。このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったことから、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのでした。

 加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃したのです。

 名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであったと伝えられています。

 藩主に就任した鷹山(治憲)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用しました。当然のことながら、先代任命の家老らと厳しく対立することになりました。

 江戸での仕切料(生活費)を8分の1に減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行ったりしました。

 天明の大飢饉では、東北地方を中心に餓死者が多発しましたが、鷹山(治憲)は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めました。自らも粗衣粗食でした。

 曾祖父による学問所を藩校・興譲館として、細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。

 日本を代表する君主であるだけではなく、ジョン・F・ケネディ大統領の尊敬をうるほど、海外でもその名君ぶりは知られています。


  
【カシャリ! ひとり旅】 上杉神社
   
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-yonezawa/yamagata-yonezawa12.htm

 

 岩倉具視忌 明治政府で下級武士からの出世

 いわくら ともみ
 文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)

 NHK大河ドラマ「西郷どん」で一躍名前を挙げた一人が、岩倉具視です。下級公家でありながら、世渡りの上手さで、明治政府の海外派遣団の団長となったり、五百円紙幣に登場したりする程までに出世をしました。

 安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦の日米修好通商条約が、多くの公卿・公家から批判をされました。「八十八卿列参事件」といわれるこの事件では、岩倉が始めて政治の舞台に躍り出て、孝明天皇を始め、多くからその存在が認められることになりました。

 また、「安政の大獄」では幕府寄りの姿勢から京都所司代・酒井忠義に認められました。

 徳川家茂への和宮の降嫁の件では、「和宮御降嫁に関する上申書」を孝明天皇にさしだすなどで、その功績が認められています。


 京都洛北に、岩倉具視が幽棲していた旧居があります。

  国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto-iwakuratomomitaku.htm
  京都 洛北  岩倉実相院門跡
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto-iwakurajissouin.htm


■ アレキサンドロス大王(3世)

 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日

 通称アレクサンドロス大王といいますと、三省のことです。

 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。

 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。

 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。

 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0719 源 頼光 清和源氏の始まり

2021-07-19 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0719 源 頼光 清和源氏の始まり

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 源 頼光 清和源氏の始まり

 みなもと の よりみつ
 天暦2年(948年)-治安元年7月19日(1021年8月29日)

 平安時代中期の武将で、父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘です。諱は、しばしば「らいこう」とも読まれます。

 満仲の長子で清和源氏の3代目で、満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。

 異母弟に大和源氏の源頼親や、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいます。

『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を贈っています。

 正暦元年(990年)、関白・兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられています。

 道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築きます。

 中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原利仁・藤原保昌とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されています。

 後世に成立した『今昔物語集』や室町時代になって成立した『御伽草子』などで丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。

 歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首の和歌が入集しています。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0718 聖聡 没 浄土宗の僧で増上寺開山

2021-07-18 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0718 聖聡 没 浄土宗の僧で増上寺開山

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 聖聡 没 浄土宗の僧で増上寺開山

 しょうそう
 正平21年/貞治5年7月10日(1366年8月16日)- 永享12年7月18日(1440年8月15日)

 南北朝時代から室町時代中期にかけての浄土宗の僧で、増上寺の基礎を築き、開山しました。父は、下総国守護千葉氏胤、浄土宗第8祖。母は新田義貞の妻と伝えられています。

 はじめ千葉妙見寺(真言宗寺院で明治初年の廃仏毀釈により千葉神社となる)で、真言密教を学びました。

 元中2年/至徳2年(1385年)浄土宗の聖冏(しょうげい)に帰依し、その門下となりました。

 聖冏が体系化した五重相伝の布教に努め、多くの弟子を養成しました。

 明徳4年(1393年)武蔵国豊嶋郡貝塚(現在の東京都千代田区)にあった光明寺と称する真言宗寺院を浄土宗に改宗して増上寺と改称し、関東における浄土宗の道場としました。

 千葉氏・佐竹氏の帰依を得、寺領の寄進もあり増上寺の基礎を築きました。永享11年(1419年)、甥の酉仰(ゆうごう)に増上寺を譲りました。

 弟子に、弘経寺開山の嘆誉良肇(りょうちょう)、松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などがいます。

 著書も多く、七十五才にて歿しました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0717 ■ 山川健次郎 明治から昭和初期にかけての物理学者・教育者

2021-07-17 00:14:32 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0717  山川健次郎 明治から昭和初期にかけての物理学者・教育者

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 山川健次郎 明治から昭和初期にかけての物理学者・教育者


 やまかわ けんじろう
 1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)- 1931年(昭和6年)6月26日

 明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者であり、教育者でもあります。男爵の爵位を持っていました。

 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。

 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。

 少年期に、白虎隊に入隊していたの時の経験を元に著した、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』はM死後の昭和7年(1932年)に出版されました。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本です。

 会津藩に対する忠誠心は、壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛けたという逸話もあります。

「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていますが、定かではありません。しかし、明治4年(1871年)に、国費留学生としてアメリカに向かう船中で、カレーライスを食べたという記述が回想録に書き残されています。しかし、カレーライスを選んだのは、それが唯一米を使った料理でしたからで、カレーはすべて残したといわれています。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0716 役行者 飛鳥時代の呪術者

2021-07-16 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0716 役行者 飛鳥時代の呪術者

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 役行者 飛鳥時代の呪術者 

 えんのぎょうじゃ
 役行者、別名「役小角(えん の おづぬ /おづの /おつの)
 舒明天皇6年(634年)伝 -  大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)

 飛鳥時代の呪術者で、役優婆塞(えんのうばそく)、役小角(えん の おづぬ / おづの / おつの)という呼び名でも広く知られています。

 姓は君、修験道の開祖とされています。

 実在の人物ですが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きく、真の姿が見えない部分があります。

 天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など、多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があります。


役行者神変大菩薩(奈良・金峯山寺)

 日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生しました。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山上にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられています。

 やがて修行の高まりと共に、強固な精神力と、煩悩を克服した境地に達し、呪術家としての名声は天下に鳴り響りました。

 699年(文武天皇3年)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言によって伊豆大島に流罪になり、701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻られました。

 同年6月7日68歳で、箕面の天上ヶ岳にて入寂されたと伝えられていますが、異説も多く、「昇天した」「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されています。

 その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼・後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られています。

 1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)が贈られました。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0715 黒田 清輝 日本を代表する明治・大正の洋画家 ■ 国木田 独歩 小説家・詩人 「武蔵野」

2021-07-15 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0715 黒田 清輝 日本を代表する明治・大正の洋画家 ■ 国木田 独歩 小説家・詩人 「武蔵野」

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 黒田 清輝 日本を代表する明治・大正の洋画家

 くろだ せいき
 1866年8月9日(慶応2年6月29日)- 1924年(大正13年)7月15日

 日本を代表する洋画家で、晩年は貴族院議員として活躍した政治家でもあります。従三位、勲二等を授与されている子爵です。

 通称は、新太郎(しんたろう)で、名の清輝は、本名は「きよてる」ですが、画名は「せいき」と読みます。

 東京美術学校教授や帝国美術院院長も務めています。

 日本に、洋画を普及させた功績は大きく、『湖畔』(1897年)は、黒田の代表作中の代表作品です。『裸体婦人像』(1901年)では、「腰巻事件」を起こす契機となった作品です。その延長線上の作品として『智・感・情(1899年)』という連作があります。これは東京国立博物館黒田記念館の所蔵で、重要文化財として認定されています。

 日本画主流の世界に、洋画を紹介するということは、流れとは異なる状況に、さおを差すことになります。その反動は大きかったのではないでしょうか。

 先駆者として、ビジネスの世界で何かことを始めることはむつかしいことです。それができる人が、いてこそ、生活が便利になったり、大きな会社に成長したりという変化も得られるのですね。


■ 国木田 独歩 小説家・詩人 「武蔵野」

 くにきだ どっぽ
 1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)

 日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者で、千葉県銚子に生まれ、広島県や山口県で幼少期を過ごしました。

 幼名を亀吉、後に哲夫と改名し、筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。

 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表しました。詩や小説を書いている中で、次第に小説に専心するようになります。

「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる作家です。

 現在も発刊されています雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。

 夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していました。

 私は、東京の郊外で育ちましたが、独歩の代表作「武蔵野」には、そのころの風景が、この小説の中で描かれているのを実感します。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0714 祐天上人(明蓮社顕誉) 浄土宗大本山増上寺法主で、江戸時代を代表する呪術師

2021-07-14 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0714 祐天上人(明蓮社顕誉) 浄土宗大本山増上寺法主で、江戸時代を代表する呪術師

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 祐天上人(明蓮社顕誉) 浄土宗大本山増上寺法主で、江戸時代を代表する呪術師

 ゆうてん
 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日)

 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。

 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。

 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。

 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。

 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。

 八十二才で歿しています。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0713 ■ カエサル(シーザー) ■ 修円 最澄から灌頂を受けました

2021-07-13 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0713 ■ カエサル(シーザー) ■ 修円 最澄から灌頂を受けました

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 修円 最澄から灌頂を受けました

 しゅえん
 宝亀2年(771年)-承和2年6月13日(835年7月16日)

 平安時代前期の法相宗の僧で、俗姓は小谷氏、大和国北谷の出身です。

生禅師(ていしょうぜんじ)とも称されます。

 義真から天台教学を学び、義真の没後は義真に代わって、大和国室生寺に住し、いわゆる「室生天台」を現出させた「円修」と混同されることが多いのですが、別人です。

 大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年(延暦13年)比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめました。805年(延暦24年)には最澄から灌頂(かんじょう:菩薩が仏になる儀式)を受けています。

 810年(弘仁元年)に律師、812年(弘仁3年)に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。827年(天長4年)には、少僧都(しょうそうず:僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官)となりました。

 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようです。


■ カエサル,ガイウス・ユリウス

 Gaius Iulius Caesar
 紀元前100年7月13日? - 紀元前44年3月15日

 シーザーとも呼ばれることは周知の通りです。

 父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar) 、母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリア・コッタで、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身でした。

 紀元前83年、カエサルは神祇官を務めますが、この職務はパトリキという特定の人達にのみに開放されていて、婚約者がいたにもかかわらず、パトリキのキンナの娘コルネリアと結婚しました。若い頃から、野心家だったのですね。

 属州の軍に籍を置き、そこでの業績で、属州の「市民冠」を授与されました。弁舌力を活かして、属州総督を次々と告発しました。ここのころから表舞台に出始め、カエサルは弁舌で一躍有名となりました。

 あるとき、アレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスの年齢に達したのにも拘らず何もなしえていない」と自らの心境を吐露し、偉業達成への意気込みを見せたそうです。

 紀元前60年になりますと、コンスルをめざしているカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと手を結び執政官に当選します。

 執政官になりますと、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させます。

 ガリア戦争では武功を上げ、それをもとにカエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著しました。そのプレゼンスにより、ますますカエサルは、名を上げます。

 三頭政治を始めますが、その一人の死により三頭政治が崩壊しました。

 紀元前49年、カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入します。この時に、ルビコン川を渡る際、あの有名な「賽は投げられた」と檄を飛ばしたといわれています。その結果、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にしたのです。

 エジプトでは、クレオパトラが弟プトレマイオス13世と争っており、両者の仲介を模索しましたが弟から攻撃を受けましたので、クレオパトラの側に立って政争に介入しました。

 エジプトが平定されますと、カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで過ごしましたが、その時に、政敵ポンペイウスの勢力下だった軍を破ります。この時に、ローマに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」という名言が残されています。

 紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは、市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式の挙行にあたって、クレオパトラを息子カエサリオンとともに招きました。

 元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手します。

 終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱き、新たな生成ができました。

 元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊で、マルクス・ブルトゥス等により暗殺され、その時の言葉が「ブルータス、お前もか」という言葉を発したと言われています。

 奢るもの、久しからず

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 0712 重源 柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族

2021-07-12 08:46:00 | 【話材】 きょうの人07月

■【きょうの人】 0712 重源 柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 重源 柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族

 ちょうげん
 保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日)


 俊乗房重源は、1121年(保安二年)に京都に生まれました。父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族の紀季重です。

 13歳で醍醐寺に入って密教を学び、1167年(仁安2年)入宋(にっそう:中国宋を訪問)し、翌年帰国しました。

 1180年(治承4年)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、1206年(健永元年)86歳で入滅した。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする