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■【きょうの人】 0831 今井 宗久 千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠

2021-08-31 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0831 今井 宗久 千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 今井 宗久 千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠

 

 いまい そうきゅう
 永正17年(1520年)- 文禄2年8月5日(1593年8月31日)

 

 戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人であり、茶人としてもよく知られ、千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられました。今井出羽守宗慶の三男であります氏高の子、今井宗薫の父です。

 名は兼員、初名を久秀、通称を彦八郎のち彦右衛門、号は昨夢庵寿林、屋号は納屋、薙髪の後に宗久と名乗りました。

 将軍・足利義昭にも茶湯をもって近侍し、織田信長の堺に対する矢銭徴課に当たっては、即座にこれに応じました。

 永禄11年(1568年)10月、上洛した信長と摂津西成郡芥川で相見え、名物・松島の葉茶壺や紹鴎茄子などを献上したそうです。

 同年、信長が堺に対して矢銭2万貫を課した際、会合衆たちが三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたのに対し、この要求を受け入れるよう信長と他の会合衆との仲介を行いこれに成功しました。

 そのおかげで、摂津住吉郡に2千2百石の采地を授けられました。信長は、宗久の代官職を安堵するとともに自らの被官に加えることで堺の支配の足掛かりを築いたといいます。

 秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶湯にも協力をしました。その結果もあり、所蔵茶器が第4位を占めるほどでした。

 

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■【きょうの人】 0830 国木田 独歩 小説家、詩人 武蔵野は子供の頃の原風景

2021-08-30 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0830 国木田 独歩 小説家、詩人 武蔵野は子供の頃の原風景

 

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■ 国木田 独歩 小説家、詩人 武蔵野は子供の頃の原風景

 

 くにきだ どっぽ
 1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)

 日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者で、千葉県銚子に生まれ、広島県や山口県で幼少期を過ごしました。

 幼名を亀吉、後に哲夫と改名し、筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。

 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表しました。詩や小説を書いている中で、次第に小説に専心するようになります。

「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる作家です。

 現在も発刊されています雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。

 夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していました。

 私は、東京の郊外で育ちましたが、独歩の代表作「武蔵野」には、そのころの風景が、この小説の中で描かれているのを実感します。

 

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■【きょうの人】 0829 ■ 源 頼光 清和源氏の始まり

2021-08-29 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0829 ■ 源 頼光 清和源氏の始まり

 

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■ 源 頼光 清和源氏の始まり

 

 みなもと の よりみつ
 天暦2年(948年)-治安元年7月19日(1021年8月29日)

 平安時代中期の武将で、父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘です。諱は、しばしば「らいこう」とも読まれます。

 満仲の長子で清和源氏の3代目で、満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。

 異母弟に大和源氏の源頼親や、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいます。

『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を贈っています。

 正暦元年(990年)、関白・兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられています。

 道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築きます。

 中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原利仁・藤原保昌とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されています。

 後世に成立した『今昔物語集』や室町時代になって成立した『御伽草子』などで丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。

 歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首の和歌が入集しています。

 

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■【きょうの人】 0828 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 鎌倉時代

2021-08-28 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0828 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 鎌倉時代

 

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■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 鎌倉時代

 

 どうげん
 正治2年1月2日(1200年1月19日)-建長5年8月28日(1253年9月22日)
 諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄

 

 鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖で、同宗旨では高祖と尊称されます。

 13歳で出家し、比叡山で研学し、その後栄西に臨済宗を学んでいます。24歳で入宋し、曹洞禅の秘奥を究めました。

 29歳で帰朝し、諸事を建立し、その一環として永平寺の建立があります。

 「徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある」という修証一等、只管打坐の禅を伝えました。

 著書『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた

 

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■【きょうの人】 0827 叡尊 鎌倉時代中期に活動した僧で、真言律宗を興した人

2021-08-27 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0827 叡尊 鎌倉時代中期に活動した僧で、真言律宗を興した人

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 叡尊 鎌倉時代中期に活動した僧で、真言律宗を興した人

 

 えいそん、えいぞん
 建仁元年〈1201年〉- 正応3年8月25日〈1290年9月29日〉

 鎌倉時代中期に活動した僧で、真言律宗を興した人です。字は思円(しえん)、諡号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)です。

 興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)に生を受けました。

 建保5年(1217年)に、 醍醐寺の阿闍梨・叡賢に師事して出家しました。その後、高野山に入り真言密教を学びました。

 鎌倉仏教を代表する一人で、廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られています。

 60歳になった弘長2年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じました。

 一般には、戒律・律宗復興の業績で知られていますが、叡尊の本来の意図は、権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生を願いました。

 まず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあると考えたのです。

 

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■【きょうの人】 0826 ■ 崇徳天皇 保元の乱で破れ配流 ■ 義真(修善大師) 最澄と共に唐に渡る

2021-08-26 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0826 ■ 崇徳天皇 保元の乱で破れ配流 ■ 義真(修善大師) 最澄と共に唐に渡る 平安時代前期の天台宗の僧

 

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■ 義真(修善大師) 西塔と共に唐に渡る 平安時代前期の天台宗の僧

 

 ぎしん
 天応元年(781年)- 天長10年7月4日(833年8月26日)

 平安時代前期の天台宗の僧で、俗性は丸子連または丸子部、相模国の出身です。修禅大師とも称されます。

奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から授戒されて中国語にも通じていました。

 その後は、奈良・大安寺で最澄に師事し、804年(延暦23年)中国語の通訳(訳語)として最澄とともに唐へ渡り、最澄と同じく道邃から円頓戒を、順暁から密教の付法を承けて日本へ帰国しました。

 822年(弘仁13年)に、最澄が没した後には比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、戒壇院を建てました。

 824年(天長元年)初代の天台座主に就任し、832年(天長9年)には天台宗の僧として初めて維摩会の講師となりました。著書に『天台法華宗義集』があり、五十三才で歿しています。


■ 崇徳天皇 保元の乱で破れ配流

 

 すとくてんのう
 1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉

 

 第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)で、諱は顕仁(あきひと)です。

 鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)という、素晴らしい血統を引き継いでいます。

 譲位後は新院、しかし、その後、平安時代末期の1156年(保元元年)に、貴族の内部抗争である保元の乱で、後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれました。

 崇徳院は、在位中から頻繁に歌会を催し、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭しました。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開しました。

 鳥羽院とうまく行かず、上皇としては実権がありませんでした。保元の乱後、鳥羽法皇が崩御しても、その地位は快方に向かわず、讃岐に流罪となってしまいました。

 雨月物語に代表されますように、崇徳院の怨念が数々の禍を引き起こしていると、非難囂々の晩年でした。

 

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■【きょうの人】 0825 ■ 徳川慶喜 最後の将軍 この地に没す ■ ニーチェ 実存主義の代表的な思想家

2021-08-25 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0825 ■ 徳川慶喜 最後の将軍 この地に没す ■ ニーチェ 実存主義の代表的な思想家

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■ 徳川慶喜 最後の将軍 この地に没す

 

 とくがわ よしのぶ


 大正2年(1913年)11月22日に、文京区で歿しました。

 毎朝、運動不足解消のために散歩をしています。すぐ近くに国際仏教学大学院大学があります。そこは、徳川慶喜終焉の地として知られています。慶喜に関するものは何も残ってなく、碑だけが残っています。


 慶喜は、江戸幕府最後の将軍で、第15代征夷大将軍であったことは周知の通りです。


 毎朝、ここを通って散歩をします。文京区は、坂の多い街で、慶喜を偲ぶ銀杏かどうか分かりませんが、坂の途中に大きく枝を張っています。


【Wikipedia】 徳川 慶喜

 江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。
 御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸城明け渡し(無血開城)を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。

生誕:天保8年9月29日(1837年10月28日)
死没:大正2年(1913年)11月22日
墓所:谷中霊園
氏族:徳川氏(水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家)
父母:父・徳川斉昭 母・吉子女王(有栖川宮織仁親王娘)

 

図 1_309

近所の大学の門前に立つ標識

 

■ ニーチェ 実存主義の代表的な思想家


 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche)
 1844年10月15日-1900年8月25日


 ドイツ連邦・プロイセン王国出身の哲学者ですが、古典文献学者としての功績も見逃せません。実存主義の代表的な思想家の一人として知られ、私が学生の頃には、友人とのディスカッションには欠かせない人であり、知識でもありました。

 古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルに才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となりました。プロイセン国籍を離脱し、無国籍者となりました。

 同大学を辞職した後、在野の哲学者として、その分野で多くの影響を後世にのこチームマネジメント下。難しいことを、巧みな散文的表現によって文学的価値も高く、だれにでもわかりやすくしていることも、ニーチェ・ファンが多い理由なのかも知れません。


 彼の研究分野は広く、【Wikipedia】によりますと「美学、倫理学、形而上学、ニヒリズム、心理学、存在論、詩、価値の理論、悲劇、無神論、主意主義、事実と価値の区別、反基礎付け主義、歴史哲学」となっています。

 その主な概念として、『アポロとディオニュソス、超人、ルサンチマン、力への意志、「神は死んだ」、永劫回帰、運命愛Amor fati、畜群、チャンダラ、「最後の人間」、遠近法主義、君主-奴隷道徳、価値の再評価、肯定』と、私の知識を超える言葉が列挙されていますので、そのまま掲載しました。

 

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■【きょうの人】 0824 ■ 石川 五右衛門 絶景かな ■ 瀧 廉太郎 黎明期の作曲家 ■ 若山 牧水 戦前日本におけます代表的な歌人の一人

2021-08-24 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0824 ■ 石川 五右衛門 絶景かな ■ 瀧 廉太郎 黎明期の作曲家 ■ 若山 牧水 戦前日本におけます代表的な歌人の一人

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■ 瀧 廉太郎 黎明期の作曲家

 たき れんたろう

 1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日

 日本の音楽家、作曲家で、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。一般的には「瀧」は「滝」と表記されることも多く、「荒城の月」という名曲と共に、日本人には親しまれています。

 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることになりました。竹田は、荒城の月を生んだ地と言われています。

 作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばし、「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」など、私達に馴染み深い童謡作品を多数作っています。

 


■ 若山 牧水 戦前日本におけます代表的な歌人の一人

 わかやま ぼくすい
 1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日

 戦前日本におけます代表的な歌人の一人で、本名は、繁(しげる)です。

 牧水の名前の由来は「当時最も愛していたものの名二つをつなぎ合わせたものです。「牧」は「まき」、即ち母の名です。「水」は、生家の周りにある渓や雨やからとったものです。

 1904年(明治37年)に、早稲田大学に入学、同級生の北原白秋や中林蘇水と親交を厚くし、「早稲田の三水」と呼ばれました。

 1911年(明治44年)に創作社を興し、詩歌雑誌「創作」を主宰しました。この年、歌人・太田水穂を頼って塩尻より上京していた歌人・太田喜志子(1888-1968)と水穂宅にて知り合い、のちに結婚します。

 1920年(大正9年)に、沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住しました。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し、新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させました。

 今日、沼津に千本松原を拝めるのは、牧水のおかげと言えます。

 翌1928年9月に、日光浴による足の裏の火傷と下痢・発熱を起こし、その結果、全身が衰弱し、急性胃腸炎と肝硬変を併発して自宅で亡くなりました。

 


■ 石川 五右衛門 絶景かな

 いしかわ ごえもん
 生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日)

 安土桃山時代の盗賊の首長で、文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺されました。

 見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されました。その時代では、一般的であったようです。

 釜風呂で有名な五右衛門風呂は、その極刑に由来するものといわれています。

 従来その実在が疑問視されていましたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかり、また、江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得たようです。

 京都南禅寺の山門から、京都市内を見渡し、「絶景かな、絶景かな」という台詞を残したことはよく知られています。

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■【きょうの人】 0823 ■ 一遍上人 鎌倉中期 時宗の開祖

2021-08-23 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0823 ■ 一遍上人 鎌倉中期 時宗の開祖

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 一遍上人 鎌倉中期 時宗の開祖

 いっぺん
 延応元年2月15日 - 正応2年8月23日
 1239年3月21日 - 1289年9月9日

 鎌倉時代中期、伊予国で誕生した僧侶で、時宗の開祖です。

 「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満より、名前が付けられています。

 「一遍」とは、「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義でもあります。

 「智」は、「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表します。

「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称されます。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られ、俗名は河野時氏とも、通秀とも、通尚ともいいますが、定かではありません。

 古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものでもありません。ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在していましたので、このように複数の名前が存在する原因と考えられます。


 延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府氏に生まれました。道後温泉の近くです。

 各地を行脚し、信濃国で踊り念仏を始め、民衆を極楽浄土へと導きました。踊り念仏は尊敬していた空也上人に倣ったものといわれています。

 正応2年(1289年)2月15日、享年51歳で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没しました

【Wikipedia】 一遍(いっぺん)
 鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。

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■【きょうの人】 0822 ■  藤村 日本を代表する小説家の一人

2021-08-22 08:46:00 | 【話材】 きょうの人08月

■【きょうの人】 0822 ■  藤村 日本を代表する小説家の一人

 

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■  藤村 日本を代表する小説家の一人

 

 8月22日は「藤村忌」です。戦争のまっただ中、日本を代表する小説家の一人である島崎藤村は、太平洋戦争のまっただ中になくなったのですね。

 参考のためにWikipediaの説明を挿入しておきましょう。

 島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。

 『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

 大学受験の最中、夜明け前を夢中になって読んだことは鮮明な記憶に残っています。幕末・明治維新の激動期が舞台で、半蔵をめぐる人達の日本の夜明けへの思いが描かれた藤村の晩年の作です。

 いつか読み直そうと思って、電子ブックに入っているのですが、大作なため読み始める踏ん切りがつかずにいます。

 

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