コンサルタントバンク コンサルタント(プロ・希望者)+ 士業の異業種交流会

コンサルタントバンクは、コンサルタントや士業の先生方の異業種交流会で、無料で登録できる組織です。関連情報をお届けします。

■【きょうの人】 0109 ■ 浄土真宗本派 親鸞聖人 浄土宗の開祖

2021-01-09 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 0109 ■ 浄土真宗本派 親鸞聖人 浄土宗の開祖

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 浄土真宗本派 親鸞聖人 浄土宗の開祖


 しんらん
  旧暦     承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
   ユリウス暦  1173年5月14日 - 1263年1月9日
  グレゴリオ暦 1173年5月21日 - 1263年1月16日


 浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん」は、鎌倉時代承安3年4月1日に京都市伏見区日野に生誕しました。

  現在の新暦では、5月21日にあたることから、この日に誕生会(たんじょうえ)の儀式が行われます。

 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという浄土宗の開祖と仰がれた法然を師と仰いでいました。

  その教えを継承し、さらに高めて行くことに力を注いだといわれています。

  独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。

  親鸞に関する文書がほとんどないことから、その生涯は不明確なことが多く、史実か伝説か判別できないのです。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1231 林 芙美子 NHKの朝の連続TV小説「うず潮」で一躍脚光

2020-12-31 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1231 林 芙美子 NHKの朝の連続TV小説「うず潮」で一躍脚光

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 林 芙美子 NHKの朝の連続TV小説「うず潮」で一躍脚光


 はやし ふみこ
 1903年12月31日 - 1951年6月28日(47歳没)


 山口県下関市、福岡県門司市に生まれた小説家・随筆家で、代表作に『放浪記』(1930年)や『清貧の書』(1933年)があり、1948年には「女流文学者賞」を受賞しています。

 物心ついた小学生時代に、貧しかい生い立ちを経験しています。そこから感じ取った、底辺の庶民を慈しむように描いた作品は、読者の心を捉えるところが多々あります。

 文壇に登場したころは「貧乏を売り物にする素人小説家」と揶揄されました。日中戦争から太平洋戦争にかけては「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」など、批判の的となりました。

 しかし、戦後、「戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」といわれる、それまでとは異なる見方をされるようになりました。

 NHKの朝の連続TV小説「うず潮」で、多くの人に一層親しまれるようになりました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1230 紹明(円通大応国師) 宋・虚堂智愚の法を日本に

2020-12-30 12:06:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1230 紹明(円通大応国師) 宋・虚堂智愚の法を日本に

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 紹明(円通大応国師)

 嘉禎元年(1235年)-- 延慶元年12月29日(1309年2月9日)
 南浦紹明(なんぽしょうみょう)

 鎌倉時代の臨済宗の僧で、出自については不詳ですが、駿河国安倍郡井宮村(静岡県静岡市葵区井宮町)の出身であることはわかっています。諱は、紹明(「しょうみょう」とも「じょうみん」とも読まれます。道号は南浦、勅諡号は円通大応国師です。

 幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、1249年(建長元年)鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅しました。

 1259年(正元元年)宋に渡って、虚堂智愚の法を継いで、1267年(文永4年)日本に帰国して建長寺に戻りました。後に、博多崇福寺の住持をつとめたりしています。

 1307年(徳治2年)鎌倉に戻り建長寺の住持となり、1309年(延慶元年)に75歳で死去しました。

 門下には、宗峰妙超(大燈国師)、恭翁運良などがいます。

 没後の延慶2年(1309年)、後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られました。これは日本における禅僧に対する国師号の最初です。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属しています。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1229 ■ 夏目漱石 日本を代表する小説家、英文学者

2020-12-30 11:42:48 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1229 ■ 夏目漱石 日本を代表する小説家、英文学者

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 夏目漱石 日本を代表する小説家、英文学者

 

 なつめ そうせき

 1867年2月9日(慶応3年1月5日)- 1916年(大正5年)12月9日)

 日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏

 江戸時代末期、牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)の出身で、大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学びました。

 帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めました。

 イギリスへの留学はその後のことです。精神的な病気にかかったといわれますが、研究に没頭している様を見た人が、その生活態度を見て、「夏目発狂」という噂を流したとも言われています。

 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』など、次々と傑作を書いて行きます。

 その後、朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載したりしています。晩年は、胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となりました。

。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。

 新宿の生まれた場所と言われるところには、現在でも「漱石公園」など、ゆかりの地があります。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1228 岡倉 天心 日本美術史学研究の開拓者

2020-12-28 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1228 岡倉 天心 日本美術史学研究の開拓者

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 岡倉 天心 日本美術史学研究の開拓者


 おかくら てんしん
 1863年2月14日(文久2年12月26日)- 1913年(大正2年)9月2日)


日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。


 近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動をしました。

 美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与しました。

「天心」は、岡倉が詩作などの際に用いた号ですが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、岡倉覚三で通していたそうです。

 福井藩の下級藩士の父・岡倉勘右衛門は、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」の貿易商となり、その商店の角倉で生まれたことから、覚三は当初「角蔵」と名付けられました。

 東京都台東区に、岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)があります。茨

 城県北茨城市には、五浦に日本美術院第一部を移転させて活動した岡倉天心らの業績を記念して、茨城県天心記念五浦美術館が1997年(平成9年)に設立されました。

 ニューヨークで英語による「茶の本」を出版して100年にあたる2006年の10月9日に、岡倉が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われたことは、記憶されている人も多いでしょう。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1227 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革 ■ ケプラー,ヨハネス ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計 ■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

2020-12-27 13:15:56 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1227 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革 ■ ケプラー,ヨハネス ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計 ■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革


 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)


 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

■ ケプラー,ヨハネス ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計


 Johannes Kepler
 1571年12月27日 - 1630年11月15日


 ドイツの天文学者で、天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られています。

 理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえます。また数学者、自然哲学者、占星術師という顔も持っていたそうです。

 ケプラーは、1571年12月27日、神聖ローマ帝国で居酒屋を営んでいたハインリヒ・ケプラーとカタリーナ・ケプラーの間に生まれました。母のカタリーナは宿屋の娘 Katharina Guldenmannとして生まれ、ヒーラーとして薬草を用いて治療を行っていた人だったそうです。

 ケプラー家の経済状況は貧しくなりつつあり、父のハインリヒは収入を得るため傭兵となり、ヨハネスが5歳の時に家族と離ればなれになり、17才の折に死別しました。

 ヨハネスは、4歳の時に天然痘にかかり視力を低下させ、手もいくぶん不自由でした。

 6歳の時1577年の大彗星を目撃し、天文学に関心を持ったようです。

 ケプラー以前の天文学では、「完全なる神は完全なる運動を造られる」と考えられていたことから「惑星は中心の星の周囲を完全な円軌道で運行する」と考えられていました。

 一方で、惑星は逆行運動をすることが知られていました。

 ケプラーは、周転円の考えを導入することでそれを解決し、最終的にはクラウディオス・プトレマイオスによる地球中心説(天動説)を説明したのです。

 しかし、コペルニクスにより地動説が唱えられ、ケプラーの影はかすれてしまいました。

 ところが、ティコ・ブラーエによる、火星観測の正確なデータをもとに、地球の軌道は完全な円にかなり近いのですが、火星の軌道は楕円でることを照明するケプラーの第一法則の発見へ繋げました。

 ケプラーは、ケプラー式望遠鏡を設計しました。しかし、自分で政策をすることは中田壮です。

 

■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功


 すずき さぶろうすけ
 1868年1月21日(慶応3年12月27日)- 1931年3月29日


 日本の実業家で、味の素の創設者です。

 明治17年(1884年)18歳で2代目三郎助を襲名、呉服商辻井家の次女テルを妻に迎えますが、三郎助の商売は当初は順調でしたが、次第に資金繰りに躓き、それを埋めるために米相場に手を染めていました。

 商売を、かじめ焼きに代えましたが、国内で生産過剰となったヨード製品に目を付けます。かじめ焼きが輸出され、日露戦争で需要が高まり、莫大な利益を上げました。

 明治41年(1908年)、東京帝国大学の池田菊苗がグルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許が認められました。鈴木は知己を通じて開発中から池田博士と面談して、この特許の実施契約を得ました。

 弟に研究を任せ、はじめはうまく行かなかった味の素ですが、それが市場に受け入れられ、今日の味の素社の基礎を築くことができました。
 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1226 ■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家 ■ 徳川 家康 生誕

2020-12-27 11:21:28 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1226 ■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家 ■ 徳川 家康 生誕

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家


 ふじさわ しゅうへい
 1927年(昭和2年)12月26日-1997年(平成9年)1月26日)


 山形県鶴岡市出身の小説家で、本名、小菅留治(こすげ とめじ)といいます。

 江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残しています。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名です。

 長女遠藤展子は、エッセイストで、2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」を開館しました。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-tsuruoka/yamagata-tsuruoka.htm

 実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになります。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素です。

 1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進みます。一級上には無着成恭がいました。

 入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加しました。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれています。

 初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家でしたが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変わりました。綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきたのです。

 藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んでき、北国風のユーモアが目覚めたといえます。

 1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする短篇集を書く一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだします。

 1984年以降になりますと、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作を相次いで発表・刊行します。

 テレビドラマ化された「せみしぐれ」に見られるようなおふくと清四郎などを通して情感溢れる描写が私の心に響きます。

 

■ 徳川 家康 生誕


 とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康
 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)- 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
 主君 今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 →織田信長[2]→ 豊臣秀吉→豊臣秀頼


 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、天下人と呼ばれます。安祥松平家9代当主で、徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。

 家系は、三河国の国人土豪・松平氏、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)で、戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開き、三英傑のひとりといわれます。

 幼名は、竹千代、通称は次郎三郎で、のちに蔵人佐とも呼ばれていたようです。諱は今川義元より元信(もとのぶ)を授かり、元康とも名乗っていましたが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改めました。

 本姓は、私的には源氏を称していましたが、徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるほど、ブランディングを目的として苗字にはこだわりました。天正16年(1588年)以降に源氏を再び称しています。

 このことから、家康の出自は、それほど良いとは言えず、それを糊塗するための戦略でしょう。そこから読み取れることは、一般に知られるほどには肝が据わった男ではなく、小心な面を持っていたのではないかと、勝手に、独断と偏見でもって感じています。

 家康につきましては、多くを語る必要がないほど、よく知られています。
 

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1225 ■ 南浦紹明(円通大応国師) 数学も学ぶ禅僧 ■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■ イエス・キリスト

2020-12-25 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1225 ■ 南浦紹明(円通大応国師) 数学も学ぶ禅僧 ■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■ イエス・キリスト

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 南浦紹明(円通大応国師) 数学も学ぶ禅僧


 なんぽしょうみょう
 嘉禎元年(1235年)- 延慶元年12月29日(1309年2月9日)


 鎌倉時代の臨済宗の僧で、出自については不詳ですが、聖一国師の甥で、駿河国安倍郡井宮村(静岡県静岡市葵区井宮町)の出身です。諱は「紹明」(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は「南浦」、勅諡号は「円通大応国師」です。(【Wikipedia】を基に作成)

 始めは浄弁に就き、数学を学びました。その後、建長寺の道隆に禅を学ぶことになりました。

 正元元年に入宋し、虚堂智愚のもとで大悟(学ぶ・悟る)し、文永4年に帰朝(帰国)しました。

 筑前興徳寺や崇福寺に重視、30年余の間、九州に禅の布教活動を行いました。

 嘉元二年に上洛し、その後鎌倉に下りました。徳治2年北条貞時の帰依を受け、建長寺第13世となりましたが、翌年寂し、「円通大応国師」を諡られました。日本における国師号第一号です。その門下は「大応派」と呼ばれ、大徳寺や妙心寺がそれに属しています。(無量山傳通院寶暦参照)

 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

■ イエス・キリスト


 紀元前6年ないし紀元前4年ごろ- 紀元後30年ごろ


 イエス・キリストとは、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味ですが、彼、そのものの呼び名として、私達は使っています。

 ヨセフの婚約者であったマリアは、結婚前に聖霊により身ごもり、紀元前4年12月25日に男の子が生まれ、その子をイエスと名づけました。

 キリスト教ではこの日を記念しクリスマスとして祝いますが、聖書の記述において、イエスの誕生日を明確に明言している箇所はありません。他に文献もなく、この日が誕生日である確証はないと言えます。

 ルカでは、イエスが誕生したのは、羊飼いたちが夜に、野宿しながら羊の群れの番をしていたときであると記述されています。ベツレヘムでは、12月は冬であり、冬の寒い時期に羊飼いが夜に戸外にいるというのは不自然と言えます。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1224 ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 ■ 沢庵 宗彭 生誕

2020-12-24 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1224 ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 ■ 沢庵 宗彭 生誕

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及


 いっこう しゅんしょう
 暦仁2年1月1日(1239年2月6日)-- 弘安10年11月18日(1287年12月24日)


 鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。

 伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。

 俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。

 翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。

 一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。

 弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。

 

■ 沢庵 宗彭 生誕


 たくあん そうほう、澤庵
 天正元年12月1日(1573年12月24日)- 正保2年12月11日(1646年1月27日)


 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。

 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。

 8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。

 天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。

 天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。

 天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。

 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。

 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。

 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。

 慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。

 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。

 寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。

 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。
 

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■【きょうの人】 1223 アークライト,リチャード 英国人、水力紡績機を発明

2020-12-23 08:46:00 | 【話材】 きょうの人12月

■【きょうの人】 1223 アークライト,リチャード 英国人、水力紡績機を発明

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ アークライト,リチャード 英国人、水力紡績機を発明


 Sir Richard Arkwright
 1732年12月23日-1792年8月3日


 イギリスの発明家で、1771年に、水車を動力とする水力紡績機を発明しましたが、その特許は後にくつがえされてしまいました。

 生の木綿から繊維の整った塊を作るカード機の特許も取得しています。

 イギリスに産業革命をもたらした起業家の1人といえる人です。

 動力と機械と半熟練工と新たな原料(木綿)を結びつけ、フォードの1世紀以上前に、糸の大量生産を成し遂げた、大量生産の考え方を工業に取り入れた人です。

 また、組織を作り上げる能力に優れており、彼のクロムフォード工場は、当時最も近代的な工場だといわれています。

 近代紡績業の父とも言ってもよいほどの人です。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする