■【きょうの人】 0909 ■ 上杉鷹山 海外でも知られる名君 ■ 藤原 不比等 藤原氏の絶大なる権力を築く ■ 山川健次郎 物理学者・教育者
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■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君
うえすぎ ようざん 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)
寛延4年7月20日(1751年9月9日)- 文政5年3月11日(1822年4月2日)
江戸時代中期の大名で、出羽国(山形県)米沢藩9代藩主でした。上杉謙信という名門の家柄でしたが、領地返上寸前の財政難に陥っていました。その米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲となりますが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名です。
宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎました。
10代将軍徳川家治より「治憲」の名を賜り、明和4年(1767年)に家督を継ぎました。
家督を継いだとき、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していました。
初代藩主景勝は、越後で120万石時代に従えていた家臣団6千人をそのまま、石高が15万石で召しかかえました。このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったことから、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのでした。
加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃したのです。
名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであったと伝えられています。
藩主に就任した鷹山(治憲)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用しました。当然のことながら、先代任命の家老らと厳しく対立することになりました。
江戸での仕切料(生活費)を8分の1に減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行ったりしました。
天明の大飢饉では、東北地方を中心に餓死者が多発しましたが、鷹山(治憲)は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めました。自らも粗衣粗食でした。
曾祖父による学問所を藩校・興譲館として、細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。
日本を代表する君主であるだけではなく、ジョン・F・ケネディ大統領の尊敬をうるほど、海外でもその名君ぶりは知られています。
【カシャリ! ひとり旅】 上杉神社
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-yonezawa/yamagata-yonezawa12.htm
■ 山川健次郎 物理学者・教育者
やまかわ けんじろう
1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)- 1931年(昭和6年)6月26日
明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者であり、教育者でもあります。男爵の爵位を持っていました。
会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。
会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。
少年期に、白虎隊に入隊していたの時の経験を元に著した、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』はM死後の昭和7年(1932年)に出版されました。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本です。
会津藩に対する忠誠心は、壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛けたという逸話もあります。
「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていますが、定かではありません。しかし、明治4年(1871年)に、国費留学生としてアメリカに向かう船中で、カレーライスを食べたという記述が回想録に書き残されています。しかし、カレーライスを選んだのは、それが唯一米を使った料理でしたからで、カレーはすべて残したといわれています。
■ 藤原 不比等 藤原氏の絶大なる権力を築く
ふじわら の ふひと
斉明天皇5年(659年)-養老4年8月3日(720年9月9日)
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿で、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男です。文献によっては「史(ふひと)」と記されている場合もあります。
『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と記述されています。諡号は、文忠公、国公は淡海公です。
文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされ、絶大なる権力を握っていました。
不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられていました。このため、不比等が、藤原氏の実質的な家祖と解することもできます。
天武朝の前期は不遇でしたが、後期に入りますと、草壁皇子に仕え、東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は、草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀といわれています。後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられています。
大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことが、政治の表舞台に登場する契機となりました。
文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立しています。
不比等は、氏寺の山階寺を奈良に移し、興福寺と改めました。
不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられたのです。
◆ 【きょうの人】 バックナンバー
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【 注 】
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