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■【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

2021-05-31 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0531 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 江戸の呪術師 浄土宗大本山増上寺36世法主

 ゆうてん
 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日)

 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。

 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。

 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。

 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。

 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。

 八十二才で歿しています。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

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 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【きょうの人】 0530  池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

2021-05-30 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0530  池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

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■ 池 大雅 没 江戸時代の南画を中心として文人画家

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。

 

 

 

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■【きょうの人】 0529 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

2021-05-29 00:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0529 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

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■ 与謝野 晶子 日本の歌人、作家であり、思想家

 正字: 與謝野 晶子 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)
 よさの あきこ
 1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)

 日本の歌人、作家であり、思想家ともいえます。

 旧姓鳳(ほう)、ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取ったといわれています。

 夫は、歌人の与謝野鉄幹(与謝野寛)であることはよく知られています。夫妻で、雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物といえます。

 浪華青年文学会に参加の後、1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれました歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になりました。

 鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表し、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)を刊行しました。これにより浪漫派の歌人としてのスタイルを確立したといえます。

 その際に詠んだ 「いざ、天の日は我がために金の車をきしらせよ、 颶風の羽は東より いざ、こころよく我を追へ。黄泉の底まで、なきながら、 頼む男を尋ねたる、その昔にもえや劣る。 女の恋のせつなさよ。晶子や物に狂ふらん、 燃ゆる我が火を抱きながら、 天がけりゆく、西へ行く、 巴里の君へ逢ひに行く。与謝野晶子」と書かれた石碑が、ウラジオストクの極東連邦大学東洋学院の敷地にあります。

 

 

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■【きょうの人】 0528 斎藤 道三 没 戦国武将・美濃のマムシ

2021-05-28 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0528 斎藤 道三 没 戦国武将・美濃のマムシ

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■ 斎藤 道三  没 美濃のマムシ

 さいとう どうさん
 明応3年(1494年)-弘治2年4月20日(1556年5月28日) 
 改名 長井規秀→斎藤利政→道三

 

 NHKの大河ドラマで、信長の義父として登場、一旦後継者として認めた息子との戦で討ち死にするというシーンは、目に焼き付きましたね。

 

  斎藤 利政(さいとう としまさ)は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名で、坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により「美濃の蝮(マムシ)」という綽名でも知られています。

 娘に姉小路頼綱正室がいますが、下の娘であります帰蝶は、濃姫として知られる織田信長の正室で、NHK大河小説で一躍脚光を浴びました。

 北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物といわれています。(近年の研究により父と二代にわたって行われたという説が有力視されています。)

 権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、家督を譲った息子義龍と、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で争い、討ち死にしました。

 

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■【あたりまえ経営のすすめ】 自社の現状を自己認識していただく GLCN13-36-A524

2021-05-27 09:01:00 | 【専門業】 ユーチューブで学ぶコンサルタント成功法

■【あたりまえ経営のすすめ】 自社の現状を自己認識していただく GLCN13-36-A524

 

 「あたり前のことがあたり前にできる」ことの重要性を理解できていても、どのように進めたら良いのかわからないことが多いです。
 

 40年余の経営コンサルティング経験をもとに、やさしくご紹介します。
 

 コンサルタントなど経営の専門家として、経営者・管理職の皆様に、自社の実状をキチンと理解していただくにはどうしたらよいのかをテーマにしています。

 

  https://youtu.be/YQ2t3oYptE8  約8分

 

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■【きょうの人】 0527 道了(妙覚道了)室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧

2021-05-27 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0527 道了(妙覚道了)室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧

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■ 道了(妙覚道了) 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧

 みょうかくどうりょう
 生没不詳

 室町時代前期の曹洞宗・修験道の僧で、妙覚は字です。出生地などについては不詳です。道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称されます。

 1394年(応永元年)曹洞宗の僧了庵慧明が、最乗寺を開創しますと、慧明の弟子でありました道了は、その怪力により寺の創建に助力しました。

 師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って神通力により小天狗となって空高く消えていったと伝えられ、相州南足柄・曹洞宗最乗寺の守護神として明覚宝殿に祀られています。

 道了大菩埵と尊崇され、最乗寺境内に、小天狗の狐に乗った像も祀られています。

 関東屈指の霊場の一つとして、庶民の間でも信仰を集めて講が結成されたり、また、江戸の両国などで出開帳が行われたりしました。

 

 

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■【きょうの人】 0526 木戸 孝允 没 鞍馬天狗のお話にも登場する

2021-05-26 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0526 木戸 孝允 没 鞍馬天狗のお話にも登場する

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 木戸 孝允 没

 きど たかよし/きどこういん
 天保4年6月26日(1833年8月11日)- 明治10年(1877年)5月26日)

 長州藩の武士、明治政府の政治家等で、桂小五郎(かつら こごろう)ともいいます。明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人です。

 長州藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の指導者で、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活動しました。

 特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けました。鞍馬天狗の話の中にも、桂小五郎として登場します。

 維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けました。

 文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えました。

 海外視察も行い、帰朝後は、かねて建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に努め、一層の士族授産を推進しました。

 長州藩主・毛利敬親や明治天皇から厚い信頼をうけました。

 一方で、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神的苦悩が絶えませんでした。

 西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢の中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取ったといわれています。

 

 

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■【きょうの人】 0525 ■ 始皇帝 ハレー彗星発見 ■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人 ■ ブルクハルト,カール・ヤーコプ・クリストフ 生誕

2021-05-25 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0525 ■ 始皇帝 ハレー彗星発見 ■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人 ■ ブルクハルト,カール・ヤーコプ・クリストフ 生誕

 本日、ゆかりの人をご紹介します。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

 ブルクハルト,カール・ヤーコプ・クリストフ 生誕

 Carl Jacob Christoph Burckhardt
 1818年5月25日-1897年8月8日

 スイスの歴史家、文化史家、文明史家。

 はじめに神学を学びますが、後に歴史学に転じ、1840年からベルリンに滞在し、ランケ、ドロイゼン、ヤーコプ・グリムなどの大家に学びました。

 1843年末にバーゼルで大学教授資格試験に通り、講師として歴史・美術史の講義を行います。そのかたわら「バーゼル新聞」の政治欄の記事を担当しています。

 1846年に教職をなげうって「人間となるため」ローマへ行き、その間クーゲラーが編集する『芸術史綱要』と『絵画史綱要』の仕事を委嘱されて一年ほどベルリンに滞在しています。

 1869年から1879年までバーゼル大学で古典文献学を担当していた哲学者・ニーチェとは親交が深かったようです。

 ニーチェの注意を世界史に向けさせたのはブルクハルトであり、ニーチェは他への書簡でも「この隠者のように人と離れて生活している思想家」について尊敬の念をあらわし、さらにはブルクハルトの友情に感謝さえしています。

 後にイギリスの歴史家ジョージ・グーチは「一時代や一国民の心理を解釈しようと志した歴史家にして、彼の泉から深く飲まなかった歴史家があろうか」と述べているほどです。


■ 始皇帝 ハレー彗星発見

 しこうてい
 紀元前259年2月18日- 紀元前210年

 秦の始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247年- 紀元前221年)です。

 秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初めて全ての国の統一を成し遂げます。歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に即位(在位:紀元前221年-紀元前210年)し「始皇帝」と名乗りました。

 名は、嬴政または趙政で、現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と呼称されます。

 統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行しました。

 従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制でした。彼の改革では、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制へと全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行いました。

 国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定なども行っています。

 万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設など、後世に残ることになった大事業はよく知られています。

 法(法家)による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒は有名です。この時に重要は文書が灰に化したのではないでしょうか。

 紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

 特記すべきこととして、あまり知られていませんが、『史記』によりますと、秦始皇本紀に、紀元前240年(始皇帝7年)、「ハレー彗星出現」と、確実で最も古い記録があることです。

 

■ テレジア カルメル会修道女、後に聖人

 リジューの聖テレーズ
 1873年1月2日-1897年9月30日


 19世紀フランスのカルメル会修道女で、本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンですが、いろいろな別称があります。
  幼きイエスの聖テレジア
  小さき花のテレジア
  修道名:幼きイエスと尊き面影のテレーズ

 カトリック教会の聖人で教会博士の一人です。若くして世を去りましたが、その著作は今日でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人の一人です。

 ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ(コルコタの聖テレジア)の「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられています。

 テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、精神的に耐え切れなくなった父は店をたたみ、娘たちをつれて妻の実家ゲラン家があるノルマンディーのリジューへと移りました。

 そこでローマ教皇レオ13世に謁見して直接カルメル会入会の特別許可を願いましたが、教皇はやはり司教と指導司祭の勧めに従うようにと穏やかにテレーズを諭しました。

 テレーズが16歳になり、司教がようやく修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受けました。

 1925年5月25日に、聖テレーズが聖人となりました。

 死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まったのです。日本でも、その名は広まっています。

 

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■【きょうの人】 0524 ■ 伊達 政宗 独眼竜は何をした ■ 始皇帝 ハレー彗星発見?

2021-05-24 08:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0524 ■ 伊達 政宗 独眼竜は何をした ■ 始皇帝 ハレー彗星発見?

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■ 始皇帝 ハレー彗星発見

 しこうてい
 紀元前259年2月18日- 紀元前210年

 秦の始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247年- 紀元前221年)です。

 秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初めて全ての国の統一を成し遂げます。歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に即位(在位:紀元前221年-紀元前210年)し「始皇帝」と名乗りました。

 名は、嬴政または趙政で、現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と呼称されます。

 統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行しました。

 従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制でした。彼の改革では、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制へと全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行いました。

 国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定なども行っています。

 万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設など、後世に残ることになった大事業はよく知られています。

 法(法家)による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒は有名です。この時に重要は文書が灰に化したのではないでしょうか。

 紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

 特記すべきこととして、あまり知られていませんが、『史記』によりますと、秦始皇本紀に、紀元前240年(始皇帝7年)、「ハレー彗星出現」と、確実で最も古い記録があることです。


■ 伊達 政宗 独眼竜は何をした

 だて まさむね
 永禄10年8月3日(1567年9月5日、グレゴリオ暦1567年9月15日)-寛永13年5月24日(1636年6月27日)

 出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主です。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。

 幼名が梵天丸であることはよく知られています。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、「独眼竜」の異名があります。没後は、法名から貞山公と尊称されています。

 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになりました。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にありましたので、再三の、秀吉からの督促にもかかわらず、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたといいます。

 最終的には、秀吉に恭順の意を示すのですが、その際に、白装束(死人の装束)で臨んだことは有名です。

 秀吉・文禄の役では、派手な装いで軍を引き連れ、そのことから派手好みに着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになりました。今日の「伊達男」に通じます。

 

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■【きょうの人】 0523 ■ 美濃部 達吉 元東京都知事美濃部亮吉の父 法学者、憲法学者、政治家

2021-05-23 05:46:00 | 【話材】 きょうの人05月

■【きょうの人】 0523 ■ 美濃部 達吉 元東京都知事美濃部亮吉の父 法学者、憲法学者、政治家

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■ 美濃部 達吉 元東京都知事美濃部亮吉の父 法学者、憲法学者、政治家

 みのべ たつきち
 1873年(明治6年)5月7日- 1948年(昭和23年)5月23日)

 日本の法学者、憲法学者、政治家で、東京帝国大学(現東京大学)で名誉教授まで教育者としても活躍しました。

 戦前、和仏法律学校(現法政大学)で憲法講義を担当し、清国留学生法政速成科の憲法学の講義も担当しました。

 法政大学通信教育学部の設立者で、社会人にも学習の道を拓きました。

 天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られています。

 昭和時代には天皇機関説事件が起こりますと、貴族院議員を辞職しました。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章しています。

 東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男です。

 

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