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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第134段 高倉院の法華堂の三昧僧

2024-10-17 12:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第134段 高倉院の法華堂の三昧僧 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第134段 高倉院の法華堂の三昧僧
 「自分自身を知る」ことを兼好は説いています。
 自分の弱みを知り、それを補い、強みを活かしていくという生き方を熟考する契機となる段と考えます。
 それにしましても、「好ましくないこと」に対する兼好の指摘は厳しいですし、読む人の背筋をピンと伸ばさせるような何かを感じ取らせてくれますね。
【原文】 高倉院の法華堂の三昧僧
 高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、ある時、鏡を取りて顔をつくづくと見て、我がかたちのみにくく、浅ましきことを余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて手にだに取らず、更に人にまじはる事なし。

 御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。

 賢げなる人も、人の上をのみはかりて、おのれをば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理(ことわり)あるべからず。

 されば、おのれを知るを、物知れる人といふべし。

 かたちみにくけれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道のいたらざるをも知らず。

 身の上の非を知らねば、まして外の譏(そし)りを知らず。
 但(ただ)し、かたちは鏡に見ゆ。
 年は数へて知る。
 我が身のこと知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。

 かたちを改め、齢(よわい)を若くせよとにはあらず。
 拙きを知らば、なんぞやがて退かざる。
 老いぬと知らば、なんぞ閑(しづか)に身を安くせざる。
 行いおろかなりと知らば、なんぞ茲(これ)を念(おも)ふこと茲にあらざる。

 すべて、人に愛楽(あいぎょう)せられずして衆(しゅう)にまじはるは恥なり。かたちみにくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才(たいさい)に交り、不堪(ふかん)の座に列(つらな)り、雪の頭(かしら)を頂きて盛りなる人にならび、況んや、及ばざる事を望み、かなはぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心にひかれて、自ら身をはづかしむるなり。
 貪る事のやまざるは、命を終ふる大事、今ここに来れりと、たしかにしらざればなり。

【用語】
 高倉院の法華堂: 洛東東山区清閑寺の法華三昧堂(さんまいどう) 高倉院は第80代天皇で清閑寺に葬られています。
 三昧僧(さんまいそう): 三昧(専念・専心により心を集中し雑念のないこと)をする三昧堂に住んで念仏などの勤めをする修行僧
 律師: 僧正・僧都につぐ位の僧官名
 浅ましきこと: あきれるほどひどいこと
 うとましき心地: 厭(いと)わしい気持ち
 更に~ない: 否定語を伴って「まったく無い」という意
 御堂のつとめ: 法華三昧堂で法華経の読経などに専心するおつとめ
 あひて: 参加して

 行う道: 仏道の修行
 すべき方: 対応策、何をなすべきかの方法

 愛楽(あいげう:あいぎょう): 愛し好かれる 楽:好むことを行う
 衆: たくさんの人々
 心おくれ: 心が劣っている、思慮が足りない
 出で仕ふ: 仕官する
 大才(たいさい): 博識な人
 堪能: 諸芸に通じている
 不堪: 堪能の逆意、拙く下手な
 恥: 無能である醜態
 貪(むさぼ)る心: 貪欲な心
 はづかしむ: 恥ずかしくする
 命を終ふる大事: 死
【要旨】
 高倉院の法華堂でお勤めをしている三昧僧で、○○律師という人がいて、ある時、鏡を持ち、自分の顔をつくづくと見たそうです。自分の容貌があまりにも醜く、あきれるほどであることをあまりにも情けなく、その醜さを映す鏡さえも疎く思え、その後、ずっと鏡を恐れ、手に取ることもせず、人との交流も避けていました。

 法華堂でとり行われるお勤めだけに参加して、あとは自分の坊に引きこもっていたと聞きましたのは、滅多にない心掛けだと思いました。

 賢そうに見える人も、人の身の上ばかりを推し量ったりしますが、自分のこととなりますと意外とわかっていないのです。自分すらわかりませんのに、他を知るという道理がなりたつはずはありません。

 もし、それが正しいことだというのであるのでしたら、自分を知っている人のことを、物を知っている人といってよいのではないでしょうか。

 容貌が醜いのに見にくいことを理解できなかったり、心が愚かであることも知からなかったり、芸の拙(つたな)いのもわかっていなかったり、自分の身分が取るに足らないことをわかっていなかったり、自分が年をとって老いていることも知らなかったり、病が体を冒していることにも気がつかなかったり、自分の死が近いことも知らなかったり、自分の修行が不十分で、最後にまで至っていないことにも気がつかなかったりと、自分のことがわかっていないのです。

 自分の欠点を知らなかったりするならば、他人からの非難がなされていることすら知らないでしょう。
 しかし、容貌は鏡を見れば映し出されます。
 年は、数えればわかります。
 すなわち自分のことを知らないわけではないのですけれど、たとえ自分を叱咤からといって、対応策があるわけでありません。ソナ和知たとえ、その様にして自分を知ることができたとしましても、実は、自分自身のことを知らないのに等しいといえるかも知れません。

 このような人達に、容貌を良くし、若作りしろといいたい訳ではありません。
 自分の拙(つた)なさを認識できたのなら、どうしてすぐに引退しないのでしょうか。
 自分が年老いたことがわかれば、なぜ静かにして身を安静にしないのでしょうか。
 修行が不十分であるとわかったならば、どうしてこれを、他人事ではなく、自分自身の問題として反省しないのでしょうか。

 すべてにおいて、人に可愛がられることがなければ、多くの人と交わるのは恥ずかしいことです。
 容貌が醜く、思慮が足りないのもかかわらず出仕したり、無智であるにもかかわらず学問才能の博識な人をいわれる人と交わったり、芸が拙いにもかかわらず芸達者な人たちの座に連なったり、雪のような白髪頭で壮健なる人と肩を並べたり、ましてや、力量不足で及びもしないことを望んで、それを実現できなからといって嘆いたり、来ないことを待ち続けたり、ほかの人に気兼ねをしたり、人に媚びたりすることは、他人が与える恥ではなく、自分自身の貪欲さに起因しているのであって、それらはみな、自分自身を辱めているのに過ぎないのです。
 このように、貪(むさぼ)ることが止まないのは、命を終えるという大事が、今すぐそこに来ていると、実感としてわかっていないからなのです。
【 コメント 】
 専念・専心により心を集中し雑念のないことをするという、念仏などのお勤めをする修行僧である三昧僧が、鏡に映る自分の写像を見て、その醜さを憂いたというお話です。三昧僧のように、修行中の身とはいえ、私達から見ますと賢そうに見える人でも、その容姿が気になり、引きこもりまで行うのでしょうか。
 兼好は、このお話で、世俗を離れた修行僧の、この行いそのものを責めているのではなく、その根底に流れている考え方、物の見方を指摘しているのであろうと思います。
 また、契機をつかめますと、自分自身の生き方に対して反省する機会となりますので、その契機を的確につかむ必要性を説いているように思えます。

 僧たる者、いかにあるべきかを示し、自分自身の置かれている立場を理解していないという、基本的なことに過ちがあることを指摘しているのだろうと考えます。それを「自分の欠点に気がついていない」というように、私達にわかりやすく表現してくれています。
 では、その「欠点をわきまえないで行動をしている」というのは、何が原因なのでしょうか。兼好は、「心が貪欲だからであり、その貪欲を止められないのは、無常を知らないからである」といっています。

 この段で、私が考えさせられましたのは、兼好の指摘とはズレているかも知れませんが、経営コンサルタント業に成功している先生と、そうでない先生との違いが何かということです。
 ある有能な経営コンサルタントの先生です。
 広い分野に、広い知識を持っているのですが、経営コンサルタントとしての実績を中々上げられないでいます。「一芸にひいずる者は多芸に通ず」というがごとく、その先生は、いろいろなことができますので、いろいろなことに興味や関心が行ってしまいます。
 それらに熱意を込めて取り組むのですが、取り組んだ分野を専門としている経営コンサルタントを超えるまでには行かず、苦戦をし、結果として顧問契約が持続できないでいるのです。
 逆に、元気に活躍している経営コンサルタントを見ますと、自分の専門性を活かし、その分野に特化した形でクライアント開拓に切り込んでゆきます。その上で、関連分野のアドバイスや支援をするようにして、一つのクライアントにおきます、経営コンサルタントとして、自分の立ち位置を拡げてゆきます。
 それが成果となりますと、そのクライアントが新しいクライアントを紹介してくれるのです。
 前者のような経営コンサルタントは、「器用貧乏型」といえましょうか。後者のような先生を「一点集中切り込み型」とか「ランチェスター弱者の戦略型」と呼ぶようにしています。
 この知見から、若手コンサルタントには、「専門分野を明確にし、それを武器にしてクライアント開拓をせよ」とアドバイスをするようにしています。
 すなわち、当段で兼好が言いたい「自分自身を知らなさすぎる」ということを逆手にとって、自分の強みを知り、それを武器にしていくことが、成功への道なのではないかと私は考えます。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第117段 友とするにわろき者、七つあり 友人の選択基準

2024-10-10 12:03:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第117段 友とするにわろき者、七つあり 友人の選択基準 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第122段 人の才能は文あきらかにして 多様性の時代の評価法
 兼好なりの見方で、人が持つべき才能を列挙しています。四書五経など漢籍を上げるのは判りますが、そのほかにあげた中で、頭を傾けたくなるようなことも列挙されています。

 兼好の即物的な面を含む多様性は「いとおかし」で、古典として今日まで読まれ続ける由縁でしょうか。
原文】 人の才能は、文あきらかにして
 人の才能は、文(ふみ)あきらかにして、聖(ひじり)の教えを知れるを第一とす。
 次には手書く事、むねとする事はなくとも、是を習ふべし。学問に便(たより)あらんためなり。
 次に医術を習ふべし。身を養い、人を助け、忠孝のつとめも、医にあらずはあるべからず。
 次に弓射(ゆみい)、馬に乗る事、六芸(りくげい)に出(いだ)せり。必ずこれをうかがふべし。
 文・武・医の道、誠に、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。
 次に、食は人の天なり。よく味(あぢわい)を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。
 次に細工、万(よろづ)に要多し。

 この外の事ども、多能は君子の恥ずる処なり。
 詩歌にたくみに、糸竹(しちく)に妙(たえ)なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸(ようや)くおろかなるに似たり。
 金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きにしかざるがごとし。

【用語】
 才能: 学問・芸術だけではなく、多方面にわたる能力
 文: 書物・典籍、四書・五経などの漢籍
 あきらか:(経書に)精通している、よく通じている
 聖(ひじり)の教え: 聖人の教え、孔子や孟子などをさす
 手書く: 文字を上手に書く
 むねとする: 主とする、専門とする
 便(たより): 手助けとなること、便宜
 医術: 医学だけではなく薬学、呪術など幅の広い術
 忠孝: 親などに孝行を尽くすこと
 六芸(りくげい): 古代中国で「士」として修得すべきとされた、礼(礼法)・楽(音楽)・射(弓)・御(乗馬・馬術)・書(書道)・数(計数)の6分野にわたる技芸
 出(いだ)す: 出すこと、ここでは教えるの意
 うかがふ: ひととおり学び知る
 いたづらなる人: 無駄なことをする人
 食は人の天なり: 中国古典の帝範の一節 食料は、命にとって大切な者なので、「天」に例えています。
 徳: 長所、利益
 要(かなめ): 役立つこと
 詩歌: 詩は漢詩、歌は和歌を指す
 糸竹: 琴や笛などの管弦の音楽
 幽玄の道: 優雅で奥深い領域 「幽」は、かすかな様子、奥深さのある、「玄」は、暗い
 鉄(くろがね): 一般的には文字通り鉄のことですが、金に対して銀のことを指すという論もあります
【要旨】
 人が身に付けておくべき才能というのは、四書五経などの漢籍に精通していて、昔から聖人といわれるような人の教えを心得ていることが第一としてあげられます。

 次にあげられることとしては、文字を上手に書けること、専門にまでする必要はありませんが、これを習うべきです。
 学問をする時の助けとなることがあるからです。

 次に学ぶべきことは医術です。医術といいましても医者のような専門的なことというよりは、健康を養い、他の人を救い忠義・孝行を励行することも、当代の医術がなくては、いろいろなことを実行することができません。

 次に、弓を射ること、馬に乗ること、六芸(りくげい)、すなわち、古代中国で「士」として修得すべきとされた、礼(礼法)・楽(音楽)・射(弓)・御(乗馬・馬術)・書(書道)・数(計数)の6分野にわたる技芸を挙げることができます。これらは、必ず一通り学んでおくべきです。

 このことを考えますに、黄金は、他の全てのものと比べて、すぐれているといいましても、鉄は種々の用途がありますので、たとえ金のように優れた物でありましても、鉄には及ばないこともあるという事実に共通しています。
【 コメント 】
 ある有名なコンサルタントが、「俺は人を見る目がある」と豪語していました。
 人間というのは、表面上に見えるだけのものだけではなく、内面的に優れている人もいます。それらをすべて見極めることは不可能といっても良いと考えます。
 とりわけ、世の中の価値観が多様化してきている現代におきましては、過去におきましては「正しい」とされていたことが、今日では、「正しくない」とか「どちらでも良い」と評価されることもあります。
 兼好の時代には、文・武・医の道を究めている人は、才能のある人と評価されていたようです。今日では、「個性」とか「パーソナリティ」とかが高く評価され、専門性を以下した仕事をする人や芸を持っている人の人気が高かったりします。
 また、「全然好き」という表現に違和感を感じる人と、そうでない人がいると思います。
 学校で学んだ文法では、「『全然』は、その後ろに否定語が来る」と学んだ人が多いでしょう。ところが、「全然好き」というのは、後ろに否定語が来るどころか、「好き」という言葉を良い方向に強調した用法として容認されています。(大半の文法書には今でも記述されていて、文法的には、この表現は正しくないといえます。)

 論語に、「君子は多くを知らず」という意味の言葉があります。素晴らしい人は、庶民の雑事などは知らなくても良く、君子として、私達に教えを授けて下されば良いというように解しています。
 一方で、政治家は、庶民感覚をもっと持って政治を行うべきと考えます。
 立場により、人間のありようは異なりますので、人を評価する時には、その状態の即した「ものさし」を用いる必要があります。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第112段 明日は遠き国へ

2024-10-03 12:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第112段 明日は遠き国へ 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
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◆第112段 明日は遠き国へ 
 出家した兼好の、自分自身が歩んできた道と徒然草に記述してきたことへの矛盾が苦悩として滲み出ている段のように読み取れます。
 私自身も「明日は遠き国へ」という年齢であり、何か兼好のこの段を書いたときの気持ちが少しわかるような気がします。私の驕りかも知れませんが・・・
【原文】 明日は遠き国へ
 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑(こころしずか)になすべからんわざをば、人、言ひかけてんや。にはかの大事をも営み、切(せち)になげく事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問わず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやうたけ、病にもまつはれ、いわんや世をも遁(のが)れたらん人、またこれに同じかるべし。

 人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙(もだ)しがたきに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雑事(ぞうじ)の小節(しょうせつ)にさへられて、むなしく暮れなん。日暮れ塗(みち)遠し。吾が生(しょう)既に蹉駝たり。

 諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも守らじ。礼儀(れいぎ)をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし情なしとも思へ。毀(そし)るとも苦しまじ。誉むとも聞き入れじ。
【用語】
 愁(うれ)へ: 弔事などの悲しいこと
 問う: ここでは「見舞う」の意
 たけ: 盛りを過ぎる、長ずる、円熟味を増す、日が高くなる
 人間の儀式: 世の中の風習などあるこまごましたしきたりなど
 黙(もだ)す: 無視する
 雑事(ぞうじ): 日常生活で発生する社交辞令の細々とした事柄、「儀式」ほど形式張らない
 小節: 小さな義理的な事項
 必ずとする: キチンと実行する
 さえる: 妨げる
 塗(みち): 前途
 生(しょう): 生きること、人生
 蹉駝(さだ): 道につまずいて思う様に前進できない
 諸縁: 世間との関わり
 放下(ほうげ)す: 手から物を放ち捨てる、世間との関係を放ち捨てる
 信: 裏切らないこと
 うつつなし: 正気を失っている
【要旨】
 明日は、遠い国へ赴くはずと聞いている人に、穏やかな気持ちにしなくてはならないような事を、他の人が、その人に対して話し掛けるでしょうか。普通はそのようなことはしないでしょう。
 突然起こった重大事に集中して、その処理に没頭しているような人や、切実に嘆くことがある人は、他人の言うことなどに聴く耳を持つ余裕はありませんし、他人の心配事や喜びも尋ねることもないです。
 しかし、尋ねないからといって、「どうして尋ねないのか」と相手を責める人も無いです。
 ですから、だんだん年を取って盛りを過ぎているような人や、病気にかかっているような人もまた同様に他のことにまで配慮するゆとりはないです。ましてや世を捨てて出家隠遁している人でありましても、同様に、他人と関わらないという点においては、これらと同じことに違いないでしょう。

 世の中の風俗・しきたりは、どれも必要で、避けがたいものばかりです。
 無視できない世間の社交儀礼という習慣に従って、これをキチンと実施しなければならないと考えますと、やりたいことや願望も多いなかでは、自分自身も窮屈であり、心にゆとりもなくなり、一生はこまごました雑事の小さな義理立てだけに煩わされ、空しく一生を過ごすことになってしまうのでしょう。
 日は暮れてしまいましたが、いまだに前途は遠いです。
 自分の人生も、すでに行き詰まってしまっています。

 それゆえ、あらゆる縁を切り捨て、その重要さに気がついた今、仏道に励むべきときであると考えるです。
 他の人からの信用などなくてもよいのです。
 礼儀に惑わされる必要もないのです。
 この気持ちを理解できない人は、私のことを狂人と言いたければ言わせておけば良いのです。正気を失っているとも、人情に欠けるとも、その様な人には言わせておけば良いのです。
 人がなんと言いましょうとも、私は苦しむことをしないようにします。
 逆に、聞き心地の良い言葉で誉めてくれたとしても、それを喜んで、耳を貸さないでいようと思います。
【 コメント 】
 兼好は、世俗の煩わしさに自分自身も巻き込まれそうになり、自分自身に向かって、世俗に煩わされるなと戒めているのでしょう。

 一方で、世の中の風俗習慣は、それはそれで必要であると認めています。他方で、世俗の社交儀礼をキチンとこなそうとしますと、自分の人生が、それに追われてしまい、息苦しい人生となってしまうことを懸念しています。
 周囲の人の喜怒哀楽に巻き込まれるような人間関係は絶つべきであるとも聞こえます。

 兼好自身は、俗世に身を置いているわけではありませんので、俗世から離れ、仏道に専心することができる環境にいます。

 一方で、私達は、「社会の一員」ですので、社会の構成員と離れた生活をすることは困難です。むしろ、「共生」という言葉がありますように、他の人と共に生きていくことで、相互にメリットを感じられる社会であるべきです。

 話は飛びますが、私が身を置いてきました「経営コンサルタント」という専門職業では、自分自身が、得意分野に特化し、コンサルティング技術を磨き、その分野で活躍できるようになったとしても、経営コンサルタントとして成功したとは言い切れません。

 「専門莫迦」という言葉がありますが、その分野に通じていても、他の分野では素人同然です。むしろ、専門分野に引きずられてしまい、素人と言われる人達にとっては「常識」といえるようなことが身についていないことがあります。

 「共業・共用・共育」といいまして、共に仕事をしながらノウハウを蓄積して、それを仲間と使いながら、自分も仲間も共に学び合ってゆくという考えを、半世紀の経営コンサルティング経験の中で活かしてきました。

 兼好の生き方とは、真逆の生き方かも知れませんが、経営コンサルタントにとっては、専門分野も仲間も、クライアントやそれを構成している社会とも切り離して生きていくことはできないのです。それどころか、それこそが、経営コンサルタントとして生きていく活路といえます。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第117段 友とするにわろき者、七つあり 友人の選択基準

2024-09-26 12:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第117段 友とするにわろき者、七つあり 友人の選択基準 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第117段 友とするにわろき者、七つあり 友人の選択基準
 徒然草第十二段に「同じ心ならん人と」と友人論をといています。
 兼好が推奨します「良き友」の条件は、3つ、友とすべきでない人は7つに分類できるとしています。
【原文】 友とするにわろき者、七つあり
 友とするにわろき者、七つあり。
 一つには、高くやんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、猛く勇める兵(つわもの)。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、欲深き人。

 よき友三つあり。
 一つには、物くるる友。二つには、医者(くすし)。三つには、智慧ある友。
【用語】
 友とするにわろき者: 出典は論語・季氏十六
 「孔子曰、益者三友、損者三友、友直、友諒、友多聞、益矣、友便辟、友善柔、友便佞、損矣」をもじったものといえます。
 やんごとなし: 尊ぶべき
 たけし: 勇ましい、あらあらしい
 勇める: 気負っている、気が立っている
【要旨】
 友とするのには適さない人を七つに分類できます。
 一つには、身分が高くて高貴な人。二つめとして、若い人。三つ目としては、病が無く健康な人。四つ目としては、酒を好む人。五つ目としては、あらあらしく気負いのある武士。六つ目としては、嘘をつく人。七つ目としては、欲の深い人。
 これらの人達とはつきあうべきではありません。
 一方、よき友といえる人としては、三つあります。
 一つ目としては、物をくれる人です。二つとしてあげられるのは、医者で、三番目には、知恵のある人を挙げることができます。
【 コメント 】
 良き友人の条件の一つが「物くるる友(物をくれる人)」であると言っています。
 兼好が何を言いたいのか、私にはよくわかりません。「物=情報」かと思いましたら、三番目に「智慧ある友」とありますので、「物」はやはり、文字通りの物なのでしょう。
 ネット等で調べますと、「孔子の論語を揶揄的に捉えて、俗物的に表現している」というような解説を見つけました。
 それが正解なのかも知れませんが、素人の私のうがった見方で解釈しますと、論語のパロディ的な側面を持つ徒然草でありますので、兼好の合理主義的な一面を、前述のように論語を揶揄的に表現したのではないかと思います。兼好の良き友の基準が、わろき者の例にも見られますように、内面的な、精神論に重点をおいたところよりは、即物的なところに観点を置いているように見えるのです。
 なぜかと言いますと、二つ目としてあげているのが「医者」であり、三番目に、「知恵」を挙げていることから、現実生活に密着した現実重視のところに、判断のポイントが置かれているように思えます。これは、第十二段とは若干ニュアンスが異なりますが、徒然草が、必ずしも趣旨一貫しているわけではない、各段が独立した構成になっていることから、あながち見当違いの見方ではないのかも知れないと、独善的に解釈しました。
 兼好を趣旨一貫していない人とみるよりは、そのときどきの気分で、言っていることがブレる、人間くささを感じますので、私に親近感を持たせる段の一つなのです。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第109段 高名の木登り 油断大敵

2024-09-19 12:05:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第109段 高名の木登り 油断大敵 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第109段 高名の木登り 油断大敵
 長年の経営コンサルティング経験からか、徒然草に限らず、何かを経営コンサルタントの視点で見てしまいます。
 徒然草の中でも、52段の「仁和寺にある法師」と、この109段「高名の木登り」は、頻繁に講演や社員研修等で紹介します。
 前者は、「つもり症候群」、当段は、「油断大敵」というのが私のキーワードとなっています。
【原文】 高名の木登り
 高名の木登りといひしをのこ、人を掟てて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに、軒たけばかりになりて、「過ちすな。心して降りよ。」と言葉をかけはべりしを、「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」と申しはべりしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れはべれば申さず。過ちは、やすき所になりて、必ずつかまつることに候ふ。」と言ふ。

 あやしき下臈(げらふ)なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠(まり)も、難(かた)きところを蹴いだして後、やすく思へば、必ず落つとはべるやらん。
【用語】
  下臈(げらふ): 卑しい者、身分の低い者
【要旨】
 木登りの名人が、高い木の枝を伐らせた折に、高所で危険なところでは何も言わず、飛び降りることができる低い位置まで降りてきたときに、「注意を払って降りなさい」とアドバイスをしました。
 蹴鞠で、難しい局面をうまく切り抜けたあとの、やさしいボールが来たときには、得てして失敗しがちのようです。この名人は、身分は高くはありませんが、このような聖人の言葉に通じるアドバイスをしました。
【 コメント 】
 ある男が若者に、高い木に登らせて、枝を伐らせた時に、誰しもが、高所で、危険そうなところでは、自分自身で注意を払うものです。
 この高名の木登りは、中国の成人に通じることを、体験から学び取っているのでしょう。「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という言葉がありますが、体験を通して自然と身についているのでしょう。
 知識として持っているだけではなく、経験により味付けされた知恵は価値あるものです。
 多くの管理職は、部下が失敗しそうなことを、先回りをしてアドバイスをしてしまいますと、部下は、失敗したことから学べる貴重な機会を失うことになります。
 この木登りは、自分の経験から、もう、地上に近いところまで来ますと、高所の危険や困難時の気持ちを忘れがちで、失敗は気づきの契機をすることを学んできているのでしょう。
 兼好は、蹴鞠を例に、自分の体よりかなり離れた、難しそうな所にボールが飛んできたときというのは、最善を尽くしますが、目の前で、いつも上図に蹴れるところにボールが来たときには、気を抜いてしまうことを知っていました。
 四字熟語に「油断大敵」という言葉があります。
 易経には、「君子、安けれども、危ふきを忘れず(安而不忘危)」という言葉もあります。
 現在、経営が順調であっても、いつ経営環境が変化をするかわかりません。技術革新で、これまでライバル視していなかった企業が、突然、自社商品・サービスを上回るものを提供し始めるかもしれません。
 成長している企業は、事業が順調なときに、先行投資を忘れません。この易経の言葉を常に念頭におくことも必要です。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて ◆第92段 ある人、弓射ることを習ふに 考えたことと実行力

2024-09-12 00:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて ◆第92段 ある人、弓射ることを習ふに 考えたことと実行力 
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
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◆第92段 ある人、弓射ることを習ふに 考えたことと実行力
 経営コンサルタントを半世紀もやってきますと、好ましくないと思われる経営者・管理職に共通していることを感じてきました。
 超一流大学などの高学歴の持ち主で、知識豊かな経営者・管理職に多いのですが、いろいろなことを知り、自社をどの様に経営したいかもわかっていて、経営計画などに、いろいろな事項を盛り込んでいます。
 ところが、それを実践に活かせていないのです。
 やるべきことを盛りすぎるという問題点もあるのですが、実行力、行動力に欠けているのです。その結果、業績として出てこないのですね。そこに、経営コンサルタントが介在しますと、大変良い結果に繋がることが多いのです。
【原文】 ある人、弓射ることを習ふに
 ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて的に向かふ。
 師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。のちの矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得矢なく、この一矢に定むべしと思へ。」と言ふ。
 わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。
 懈怠の心、自ら知らずといへども、師これを知る。
 この戒め、万事にわたるべし。
 道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。
 いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。
 なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難き。

【用語】
 諸矢: 「ひと手矢」ともいい、二本一組の矢のこと
 たばさむ: 手に挟む
 おろかに: おろそかに
 懈怠(けだい)の心: 怠け心、懈:おこたる)
 道: 仏道だけではなく、全ての学問芸術等の道
【要旨】
 ある人が、弓を射ることを習う時に、二本一組の矢を手に持って、的に向かいました。
 先生が言うことには、「初心者は、ベテランがするように二本の矢を持ってはいけません。なぜなら、二本目の矢もあるという気持ちが起こり、第一矢を、軽い、いい加減な気持ちでいてしまうからです。矢を射るたびに、当たるか当たらないかを気にかけないで、この矢だけで必ず的にあてようと念じなさい。」と言いました。
 わずか二本の矢しかない状態ですので、先生の前で一本をいい加減に放とうなどと、だれしも思わないでしょう。
怠けおこたる気持ちが起こると、自分では思っていないでしょう。しかし、仏典で懈怠のことを、「悪を行わないようにして、善・良い結果をだそうとしようとするときでも、怠け心が潜んでいて、持っている力全てを出し切れないことがある」ということを、先生は、ご存知なので、このようなわかりきった注意喚起をしているのです。
 この戒めは、矢を射るときのことだけではなく、全てのことにおいて、このことが当てはまるでしょう。

 仏道だけではなく諸道において、それを学ぶぼうとする人は、夕方には、明朝がくるという気持ちを持ち、朝には夕方があると油断して、もう一度、心を込めた修行ができると予定します。
 ましてほんの一瞬間のうちに、怠けおこたる懈怠の心が、そこに潜んでいると気づけるでしょうか、まず気づける人配なのではないでしょうか。
 なんとまあ、今ある、この一瞬において、それをすぐ実行しようとすることというのは、大変に困難なことなのでしょう。悲しいかな、これが大半の人間に共通なことなのです。
【 コメント 】
 テニスをプレーする人は、サーブをするときに、二個のボールを持っています。最初のボールを打つときに、他方のボールがあるので、是が失敗しても、もう一本打てるという気持ちでサーブをする人はいないでしょう。
 弓道の世界でも、矢を二本もって的に対峙することを、素人とでも知っています。
 しかし、弓道の試合などに出るような経験者であれば、上述のようなことを考える人はいないでしょう。ところが、初心者であるうちには、兼好が記述していますように、多くの人が、自分では気がつかないうちに、そのように考えているのかもしれません。
 もし、ここに登場する弓道の先生が、「諸矢」という弓道において当然なことを、当然として考えれば、「初心者には一本の矢しか持たせない」という指導法を思いつかないでしょう。
 常識を疑うというクリティカル・シンキングの基本的な発想法は、ビジネスの世界でもいえます。
 だれもが、「明日がある」と信じているでしょう。そのために、怠け心から、「これは明日やろう」と先延ばしをすることがあるのではないでしょうか。
 多くお人が、その様に考えるでしょうから、「今日なすべきことを明日に回すな」という箴言が存在するのです。
 私のように、高齢で、持病を持っていますと、「明日の朝が来るのだろうか」と日々思いながら布団に入ります。
 日中は、「今を大切に生きる」ということを心がけます。
 ところが、多くの人は、「今を大切に」ということを誤解して、「莫迦な行為をできるのは若いうちだけだから、今を楽しもう」と自分の懈怠心を正当化し、愚行とも思えることに走ってしまいます。
 私は、「残された人生をいかに過ごすか」という目標をもとに、充実した人生を送るには、一時一時を、それに向かって努力をするようにしています。黄泉の国に発つときに、「晩年は、一時を大切に生きられた。幸せであった」と思えるようにしたいと考えて、毎日を送るようにしています。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第85段 人の心すなほならねば 自分のものさしは正しいのか

2024-09-05 12:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第85段 人の心すなほならねば 自分のものさしは正しいのか  
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
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◆第85段 人の心すなほならねば 自分のものさしは正しいのか
 自分の能力・実力を無視して、自分の基準でしか物事や人を評価して、その評価が、狂った「ものさし」によって測定した、誤差のある評価であることを認識できない人が多いです。
 兼好は、「素直である」という表現で、私達に注意喚起をしてくれています。
【原文】
 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢(けん)を見てうらやむは尋常(よのつね)なり。
 至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、是を憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽りかざりて名を立てんとす」とそしる。おのれが心に違(たが)へるによりて、この嘲(あざけ)りをなすにて知りぬ、この人は下愚(かぐ)の性(しょう)移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、かりにも賢を学ぶべからず。
 狂人の真似とて大路(おほち)を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを賢といふべし。
【用語】
 おのづから: まれには、時には
 すなほ: まっすぐ
 至りて: 非常に、極めて
 下愚(かぐ); 非常に愚か、究極の愚者
 偽りて: 仮に嘘であっても
 驥(き): 一日に千里を走る駿馬
 舜: 古代中国における伝説的な徳の高い、優れた皇帝
【要旨】
 人の心は、素直で、まっすぐというわけではなく、偽りが無いわけでもありません。
 ところが、そうはいいましても、まれには正直な人がいないわけではありません。
 自分はまっすぐではありませんのに、人が賢いのを見て、自分もそうありたいと、相手をうらやむのは世の常です。
 極めて愚かな人は、たまたま賢い人に遭遇しますと、これを憎む傾向があります。
 「大きな利益を得るために、小さな利益を受け入れようとしません。偽りかざって名を立てようとしているのだ」と、あたかも自分は賢人であるかのように難癖を付けます。
 自分の気持ちと違っていることによって、この見当違いな嘲(あざけ)りを行うのでしょうが、このことから、次のようなことを知ることができると言えます。
 この人は極めて愚かであり、その生まれ持った性質が、賢人の性質によい変化が起こることはなく、偽りであってでも、小さな利益を無視することもできず、たとえ賢い人がいても、そこから何かを学びとることのできるような人ではありません。
 他の人のまねをすることは悪いことではありません。ただし、何をまねするかが問題です。たとえば狂人の真似だといって、大通りを走るようなことをするならば、その人は狂人であるといっても差し支えないでしょう。悪人の真似だといって、人を殺せば、それはマネではなく、悪です。一日に千里を駆けるような駿馬に学ぶうまは、千里を駆けぬける駿馬と同類なのです。伝説的な徳の高い優れた皇帝に学ぼうとするような人は、舜の仲間ともいえる人なのです。仮にであっても、賢いことを学ぼうとする人は、やはり賢い人の仲間なのです。
【 コメント 】
 「至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、是を憎む。」という件(くだり)があります。
 他の人がすばらしいものを持っていますと、欲しくなり、それを抑制できない人がいます。それが金銭などで解決できるの物ですと、通常は、それで解決しようとします。
 ところが、他の人が持っていても、それを、その様な方法で解決できないものはたくさんあります。
 たとえば、地位ですとか、名声ですとかは、お金を積んでも手に入りません。自分を納得させるために、相手を嫉(ねた)んだり、時には、相手の地位や名声を傷つけたりする行動に出ることもあります。
 近年のネット社会は、それを容易に可能にしてしまい、ネットという隠れ蓑を着て、相手を攻撃することも多いようです。
 その多くの場合、根も葉もなかったり、勝手に想像を膨らませたりして、無実の人を傷つけているのではないでしょうか。
 経営コンサルタントの世界では、「ウラを取る」というTVの刑事物語の「現場百遍」とともに、大変重視しています。ウラを取ることにより、自分が入手した情報は「ガセネタ」であることにたどり着くことが多いです。そのために、罪のない人に迷惑をかけることは、厳に慎まなければならないと考えています。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第82段 羅の表紙は 不完全が適切

2024-08-29 12:21:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 82段 羅の表紙は 不完全が適切   
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第82段 羅の表紙は 不完全が適切
 完璧を求める姿勢は素晴らしいです。しかし、「完璧」は、本当に完全なものなのでしょうか。
 兼好は、「不完全だから良い」のだと言っています。
【原文】
 「羅(うすもの)の表紙は、疾(と)く損ずるが侘しき」と人のいひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿(らでん)の軸は、貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ、心勝りて覚えしか。
 一部とある草紙などの、同じやうにもあらぬを、醜しといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具に整へんとするは、拙(つたな)き者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
 すべて、何も皆、事の整(ととの)ほりたるはあしき事なり。
 し残したるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶる事(わざ)なり。
 内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を殘す事なり」と、ある人申し侍りしなり。
 先賢の作れる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。
【用語】
 うすもの: 羅・紗などの絹織物、書物の表紙に使います。
 頓阿(とんあ、とんな); 南北朝時代、時宗の僧であり歌人で、兼好の友人でもあります。二条為世門下で和歌四天王の一人に数えられました。
 はつれる: ほつれる
 一部とある: 何冊かをひとまとめにして一冊にまとめ上げた
 弘融(こうゆう)僧都: 仁和寺の僧で兼好の友人
 先賢: 昔の賢人(詳細不明)
 内外の文(ないげのふみ): 「内」は仏典のこと、「外」は、その他の書物
【要旨】
 あるところに、「薄絹で装丁した本の表紙は、傷みが早くて困ります」と嘆く人がいました。
 それに対し、友人の頓阿(とんあ)が「薄絹の表紙は、上下の縁が擦り切れてほつれるほど使いこなすのがよいのです。また、掛け軸の螺鈿細工をした軸は、そこにちりばめた貝が剥がれ落ちたほうが味わい深いものがあるのです。」と答えた僧です。
 このようなものの見方ができると言うことは素晴らしいことで、その発言の主であります友人の頓阿の素晴らしさに改めて感心させられました。

 何冊かの書をひとまとめにして一冊にまとめ上げられました草子の場合、一般的には、それぞれの体裁が不揃いなのはみっともないことですと、いちゃもんを付けるものです。
 しかしながら、孔融僧都は、「何ごともきちんと同じように揃えようとすることは、未熟者のすることで、不揃いでよいのです」と言っていますが、私と同じような考え方をすると思え、我が意を得た心地がしました。

 何事におきましても、すべて完璧な形・状態になっていることは、かえって本来の善さを損ねてしまい、よいことではないと思います。
 やり残しが不完全と見えるようなことを、そのままにしてあることは、味わいもあり、それが持つ本来の姿のよさを、今後につなげることになります。
「内裏を造営しようとする時も、完璧なものに作り上げず、未完ともいえる不完全な部分を残すことが肝要です」と、ある人が言ったそうです。

 先人の中の賢い人が作り上げました仏教などの書物にも、章や段が欠けたものが多のです。
【 コメント 】
 新人サラリーマンの時のことです。上司から「この仕事は緊急性が高い、○日までにやっておいてくれ」と指示されました。
 はじめは、期限内に簡単にできそうだと高をくくっていましたが、やり出したら奥が深く、自分でも興味を持てて、中味の良いものができそうに思えました。ところが、期限が明日というにも関わりませず、まだ道半ばな状態でした。
 上司に、事情を話すと「この仕事は急いでいる」と念を押しただろうと大目玉を食いました。上司が求めているのは、私がやりたいと思ったほどの内容の濃いものではなく、概要を把握できる状態のレベルのものであったのです。
 私は、自分が興味を持った内容なだけに、深掘りをしすぎたのです。それどころか、むしろ、その取り組み姿勢を誉められるかとさえ思っていたのです。
 その時に、「巧遅拙速」という四字熟語の意味合いを痛感させられました。

 「完全」とは、すばらしいことです。ところが、時間要因という制約がビジネスの世界ではつきものであることを、頭でわかっていながら、現実の作業にそれが活かされていなかったのです。

 ドガの作品に踊り子の絵が多数あります。その一つに、なんとなく中途半端な、未完成ともいえるものがあります。初めてその絵を見た時には、それで終わりました。ところが、同じ美術館に再び行った折に、その絵を見る機会がまたありました。
 その絵をじっと見ているうちに、不完全な部分を補うには、何を、どの様に補うと完全な物になるだろうと、その絵の前でたたずみながら考え込みました。
 発想は、あちらに飛んだり、その逆の方に行ったりと、ドンドンと広がりました。
 もし、ドガが、この絵を完璧なものとして描き上げていたら、私の発想は、これほど展開しなかったでしょう。

 不完全さがありますと、それを見たり、使ったりする人は、自分なりの発想を飛ばしたり、自分が使いやすいように使ったりと、当初のもの以上な膨らみを持たせることにも繋がりそうです。

 前述の私の稚拙な体験談では、巧遅拙速という判断の大切さを学ぶことができました。ドガの絵からは、絵の奥深さを感じ取れました。

 もし、完璧な人間という人が存在したとしたら、誰もが、その人を尊敬するでしょうか。誰もが、その人を好きになれるでしょうか。
 自分が不完全な人間であることを自分に納得させようと、正常性バイアスをかけるようなことを考えたりしています。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第74段 蟻のごとくに 真の生き方を知る

2024-08-15 00:01:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第74段 蟻のごとくに 真の生き方を知る     
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。
 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。
◆第74段 蟻のごとくに 真の生き方を知る
 イソップ物語に「アリとキリギリス」というお話があります。キリギリスは、今を大切に生きていましたが、冬の到来で悲しい運命に遭遇します。
 人の一生というのは、短いものです。はかなくもあります。万物は流転するともいわれています。
 意味合いは異なりますが、人間を蟻に例えるところなど、その様なことを思わせる徒然草のひとつです。
【原文】
 蟻のごとくに集りて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。
 高きあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり帰る家あり。夕に寝(い)ねて、朝に起く。
 営む所何事ぞや。生をむさぼり利を求めてやむ時なし。
 身を養ひて何事をか待つ、期(ご)するところ、ただ老(おい)と死とにあり。
 その来る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の楽しみかあらむ。
 惑へるものはこれを恐れず。
 名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれをかなしぶ。
 常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

【用語】
 蟻のごとくに集まりて: 世の中の人々が都に多数集まっている様子をありに例えている
 営む: せっせと働く
 生: 生きること、長寿
 期する: 期待する、あてにする
 念々: 極めて短い間、時々刻々、一瞬一瞬
 先途: 行き先、到着点、人生の終点=死
 常住; いつまでも変わらず、常にそのままでいること、不死
 変化の理: 万物は変化し、一定の状態にとどまらないという道理、無常
【要旨】
 都に人々が集まって、蟻のようにあくせくと東奔西走しています。
 その中には、地位の高い人もいますし、低い人もいます。老若男女も混じっています。仕事に行く職場があったり、帰る家があったりします。そして帰宅すれば、夜になって寝て、朝起きます。
 その繰り返しが、日常となっています。
 このようにあくせくと働くということは、一体どの様なことなのでしょうか、何が目的なのでしょうか。
 兼好は、人々の活動の目的を懐疑的に見ていて次のように続けています。
 要するに人々は、自分が生きていくことに執着し、利益を追い求めて、それを続けていて、とどめることが無いのです。
 このように、利己と保身を追求し続けることに明け暮れて、何も期待できないにもかかわらず、そこに何を期待しようとしているのでしょうか。ゆくゆくは、ただ老いと死の二つ以外、何もないにもかかわらないのです。
 これらは、風のごとく速く、一瞬もとまることない速さでやってくるのです。それを待つ間、人生に何の楽しみがあるのでしょうか、何もありはしないのです。
 生きることの意味を知ろうとしない惑える人は、老いも死も恐ろしいことをわからないでいるのです。
 名声や利益に心奪われてしまっていますので、自分の人生の終着点が間近に迫っていることを、知ろうとする意識がありませんから、このような状態を続けられているのです。逆に生きる意味がわからない人達というのは、老いと死が迫り来ることを、ただ心配し、恐れるだけなのです。
 生きる意味がわからない人というのは、この世が永久不変であると思い込んでいて、万物が流転変化するという無常の原理をわきまえていませんから、その様に恐怖心だけで生きているのです。
【 コメント 】
 私達は、生きていくために仕事に就き、いただいたお金で生計を立てています。
 兼好から見ますと身分の上下や性別・年齢などを問わず、世の中の人々というのは、生きることに執着して、名声や利益を得るためにあくせくと働いていますと、私達の生き方を否定的に見ているのです。
 一所懸命に何かをやっていますと、全体の中での位置づけが不明確になってしまい、知らぬが仏で、死が忍び寄ってきていることすら気がつかないでいると兼好は警告してくれています。
 これは、部分最適に満足して、全体最適をおろそかにしているという、現代の経営や管理のあり方への警鐘ともとれます。
 一方で、生きるという真の意味がわからない人というのは、生きていることによる恐怖心に苛(さいな)まれていると兼好はいっています。
 現実をキチンと把握できていませんと、何か恐れを成してしまうことがあります。
 たとえば、ICTの世界では、クラウド利用はあたりまえになっています。しかし、そのセキュリティが心配で、クラウド利用の便利さを知らないでいる人がいます。
 一方で、SNSの恐ろしさを理解できていない人というのは、安易にSNSに個人情報を公開したりしています。多くの場合、それが問題として表面化してきませんので、SNSは「安心である」と過信してしまっているのです。
 兼好が言っていることと、逆の現象が起こっていることもあるように思えますが、基本的なことは知り、理解し、危機管理意識を持ちながら生活をしていくのが、現代の生き方の基本的な考え方の一つと言えます。
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【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 第65段 この比の冠は 権力欲はいつの世にもはびこる

2024-08-08 12:03:00 | 【心 de 経営】 徒然草に学ぶ
■【心 de 経営】 徒然なるままに日暮パソコンに向かいて 65段 この比の冠は 権力欲はいつの世にもはびこる      
  「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。
 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。
  高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。
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◆第65段 この比の冠は 権力欲はいつの世にもはびこる
 徒然草の中でも、短い段のひとつですが、兼好の時代を観る眼が、現代でも通じるような気がしています。
【原文】
 この比(ごろ)の冠(こうぶり)は、昔よりはるかに高くなりたるなり。
 古代の冠桶(こうむりおけ)を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。
【用語】
 冠(こうぶり): 衣冠・束帯の折にかぶるもの
 冠桶(かむりおけ、こうむりおけ): 冠をおさめておく円柱状の木箱
 はた: 桶の縁
【要旨】
 最近の冠は、時代が経ると共に、次第に高くなってきています。
 冠を収めておく古代の冠桶を持っている人は、冠の高さが高くなるにつれ、その上辺に木を継ぎ足して、今でも使えるようにしています。
【 コメント 】
 冠桶というのは、正式な装束であります衣冠束帯の時に、頭に付ける冠を入れておく円柱状をした木でできた箱のことです。冠は、時代を経るに付けて華美に、豪華になってゆき、それを見せびらかせることが、自分を大きく見せることに繋がります。
 おそらく冠もひとつではなく、数も増えてゆくでしょう。
 表では、そのようにして見栄を張り、裏では、経済的に苦しく、それを悟られないように昔から使っている木の箱を、背が高くなった冠が入るように継ぎ足して、冠が収まるようにして使い続けています。
 このようなことは、昨今でも類似現象として起きていまると思います。
 その背景には、人間の権力欲や承認欲を求める性癖を利用して、権力を高めてゆく政治家の策略でもあります。
 昨今でも、権力欲・出世欲丸出しで、周囲の人を蹴落としてでも上に上がろうとする人や、勲章や名誉職をむやみに欲しがり、目立ちたがる人が見られます。
 兼好は、このような欲望を否定し、また、保守的な面を持ち、新しいものをあまり好まない傾向があるように見受けられます。
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