昨日、息子は調子を悪くして学校をお休みしました。
ただ・・・・昨日の給食のデザートは雪見だいふくだったんです。
その心残りな感じが息子から伝わってきます。
「みんな・・・僕の雪見だいふくで戦ってるんだろうなあ。デザート戦争が勃発してると思うよ。」
晩ご飯のあと息子は「お母さん、ヨーグルトとドーナツのどっちか食べていい?」と聞きます。
雪見だいふくを逃した穴埋めをしたいようです。
そして・・・タイヨーでお徳用雪見だいふく(最後の一箱)をゲットしてしまいました~
なんという親ばか!
そして「お母さんやさしいやろ~」と自分で言いながら息子と広げて食べました
去年の春、息子が学校でいじめられて悩んだことがある。
当時、私は恐れていたことが怒ったと思った。
学校をお休みして、家でゆっくりしたり山に入ったり海に行ったりした。
たくさん話しをして息子が学校へ行った。
先日、学年最後の参観日があって学級懇談会の時にそのいじめていたこの母親がいた。
彼女は自分の息子が私の子どもをいじめていたとは知らないと思う。ただ私は「この人の子どもなんだ・・・」と思った。
最近、いじめをしていた彼はシャープペンを無くしたらしい。
そのことでお母さんと大げんかになり「名前を書いていたら戻って来るじゃないですか!なんなんでしょうね・・・」と言った。
そんなこと自分の息子に言え!と正直思った。
なんで懇談会で言う必要があるだろう。
先生は黙ってその話を聞いていた。
そしてそのお母さんは「手癖の悪いことかいるんでしょ。どうして人のも自分のもわからないんでしょうね。世の中おかしくなりましたよね」と言った。
自分の子どもが無くすのが悪いのに、誰かに盗まれたとでも言うのか!なんて人だと思った。
その後もなにかぐだぐだと言っていたけど、先生は話しを途中で折って次の人に質問を始めた。
私は「この母親か・・・」と息子が他人に攻撃的なことをなんとなく納得した。
そのうち私の番になった。
私は自分が母子家庭であること、小さい頃から息子と二人で努力して過ごしてきたこと。
そして恐れていた人間関係のトラブル、思春期の子どもの心の変わり方について話した。
私達親子がどんな努力をしたのか、そして息子が最後にある友人とかわした会話を話した。
殴り合いのケンカをして泣いている友人に「お前、あれはやりすぎだよ。お前の気持ちもわかるけどやり過ぎだ」と息子が言った。
相手の子は「俺の気持ちなんてわからないよ」そういった。
息子は「オレもいらんことを言わなきゃよかったんだ。お前のこと、友達なんだからわかってるに決まっているだろう」
私はビックリした。いつもぼ~っとしている息子からこんな台詞が出てくるなんて。
そして相手の子は泣き止んで「いろいろありがとうな。おばさん。送ってくれてありがとうございました」と言って帰って行った。
この話をその子のお母さんと泣きながら話した。自分の息子が成長してることに感動して二人で泣いた。
まるで中学生日記のようなできごとだった。
そんな話しを懇談会でした。
先生は「凄い1年生がくると聞いていたから本当にかまえていたけど、最後にこんな感動を聞かせてもらえるなんて感激です」といわれた。
私はみんなに伝えたかった。「こんな時間、死ぬまで続くんじゃない。だから今は踏ん張ろうよ」って。
そしてうちの息子はちゃんとハードルを越えながら進んでいるぞとみんなに知って欲しかった。
お母さんたちは穏やかな顔で私を見てほほえんでくれた。
当時、私は恐れていたことが怒ったと思った。
学校をお休みして、家でゆっくりしたり山に入ったり海に行ったりした。
たくさん話しをして息子が学校へ行った。
先日、学年最後の参観日があって学級懇談会の時にそのいじめていたこの母親がいた。
彼女は自分の息子が私の子どもをいじめていたとは知らないと思う。ただ私は「この人の子どもなんだ・・・」と思った。
最近、いじめをしていた彼はシャープペンを無くしたらしい。
そのことでお母さんと大げんかになり「名前を書いていたら戻って来るじゃないですか!なんなんでしょうね・・・」と言った。
そんなこと自分の息子に言え!と正直思った。
なんで懇談会で言う必要があるだろう。
先生は黙ってその話を聞いていた。
そしてそのお母さんは「手癖の悪いことかいるんでしょ。どうして人のも自分のもわからないんでしょうね。世の中おかしくなりましたよね」と言った。
自分の子どもが無くすのが悪いのに、誰かに盗まれたとでも言うのか!なんて人だと思った。
その後もなにかぐだぐだと言っていたけど、先生は話しを途中で折って次の人に質問を始めた。
私は「この母親か・・・」と息子が他人に攻撃的なことをなんとなく納得した。
そのうち私の番になった。
私は自分が母子家庭であること、小さい頃から息子と二人で努力して過ごしてきたこと。
そして恐れていた人間関係のトラブル、思春期の子どもの心の変わり方について話した。
私達親子がどんな努力をしたのか、そして息子が最後にある友人とかわした会話を話した。
殴り合いのケンカをして泣いている友人に「お前、あれはやりすぎだよ。お前の気持ちもわかるけどやり過ぎだ」と息子が言った。
相手の子は「俺の気持ちなんてわからないよ」そういった。
息子は「オレもいらんことを言わなきゃよかったんだ。お前のこと、友達なんだからわかってるに決まっているだろう」
私はビックリした。いつもぼ~っとしている息子からこんな台詞が出てくるなんて。
そして相手の子は泣き止んで「いろいろありがとうな。おばさん。送ってくれてありがとうございました」と言って帰って行った。
この話をその子のお母さんと泣きながら話した。自分の息子が成長してることに感動して二人で泣いた。
まるで中学生日記のようなできごとだった。
そんな話しを懇談会でした。
先生は「凄い1年生がくると聞いていたから本当にかまえていたけど、最後にこんな感動を聞かせてもらえるなんて感激です」といわれた。
私はみんなに伝えたかった。「こんな時間、死ぬまで続くんじゃない。だから今は踏ん張ろうよ」って。
そしてうちの息子はちゃんとハードルを越えながら進んでいるぞとみんなに知って欲しかった。
お母さんたちは穏やかな顔で私を見てほほえんでくれた。
毎年1株ずつなんですが、息子の名前でどんぐり株主になってます。
10年経つからどこかの山で、息子の木が10本育っているんだろうなあと思います。
今年も申込をしました。
みんなで源流の森をつくろうという活動です。
一株500円です。
植樹会や木の実でおもちゃを作ったりイベントもありますよ。
親子で苗を植えにどうでしょうか~
去年、「愚痴を聞いて」を何度か言われた。
別に苦痛でもない。
特に聞いても問題ない。
私もいうし。
聞いてやっているとも思わない。
愚痴を言わない人はいい人とも思わない。
不満があるのは人間、普通だ。
私は愚痴を言わないでしょ。とかオレは人の悪口は嫌いだから言わないだろ。と言われても
なんでそんなことを自慢するのかわからない。
言うことが当たり前だと思わない。でも言わないからいいとも思わない。
別にそれは「自慢」になるかならないかのジャンルじゃないと思う。
ただ去年は愚痴をいうと八つ当たりをするをはき違えたねということが多々あった。
強烈にむなしくなって、何かシャッターがガタンと降りた感じがあった。
それまでを振り返った。その人に関わらなければ起こることがなかった不愉快な出来事の数を数えてしまった。
不愉快なことは幸せなことよりインパクトが強い。
頭の中に残りやすい。というか忘れない。
愚痴を聞いてくれる人が欲しいという意見は本当に自己中心的な言い分だなと思う。
それをあえて言うのも甘ったれだと思う。
私は愚痴る。だけど愚痴を聞いてくれる人が欲しいと言ったことがない。思ったことがないからだ。人にそんな注文をする人格が嫌いだし、母は私にほかにいう人がいないといったりもして、決まってそんなとき私は「それはお母さんの基準で、私はそういう対象になったつもりはない」という。
つっぱねるけど愚痴を聞かないわけじゃない。ただハッキリと私をそういう対象と決めていることを私に伝えてくることが自分勝手でいい迷惑だと言う感情が芽生える。
私のバランスを崩されるほど愚痴られることがある。
それはもう八つ当たりで、二度と関わるものかと接触せずに生活したいとすら思う。
共感なんてした日には私の問題なんてたいしたことじゃなく、自分の方がもっと不幸だと言われることもある。
心の底がどこら辺にあるかわからないけどかなり深い底から呆れる。
私のように、母であり男性の中で仕事をしていると普通より肝が据わっているのかもしれないけど、最近居酒屋で男友達と飲んでいたら仕事と体の愚痴を言い始めたので聞いていると「お前はまじめに聞いてるな」と言われた。
それは彼が仲間だから、仲間が辛いと話すのは普通聞くだろう。別に凄いことじゃない。
だけど「愚痴じゃなくて八つ当たりになったら私は相手しないから」というと「お前、オレの兄貴みたい」と言っていた。
この話を私ならわかってくれると思って話すのだろうと考えながら聞いているけど、八つ当たりに切り替わった時点で私は見下されているわけだ。
私が女だからなのか、年齢なのか、そういうキャラなのかわからない。
ただ八つ当たりされる内容になったとき、言葉はつぶやきのような愚痴じゃなくこちらを否定してくる。
聞いてもらっている相手のことを否定し始める。
そういうときはたいがい私が切れるので自分からその話を終わらせようとする。
恐ろしく短気な私はバランスを壊す。だから毒が体に回る前に元凶を離したいと切っていく。
そういう生き方をするのは子供をちゃんと育てるためだ。
私は自分のバランスがいつも不安定だ。それでも人を育てなきゃいけない。
自分を守らなければ子供を守れない。
だからモチベーションを維持するために、妙な気をぶつけてくる人はシャッターを下ろす。
ガードだ。
愚痴を聞いて仲良くなって、いいお酒を飲む仲間。
今一緒にいる人はそんな人しかいない。
いいお酒を飲むために、おいしいおつまみを持ち寄ったり、面白い映画を借りてこようとかそんな仲間しかそばにいない。
最初からそんなだったんじゃない。でもそんな風になりたいと思っていた仲間で、建設的で支え合って、思いやりがある人たち。
そういう人間になる素質があって、目指して、今がある。
きれい事では生きられないことも知っているけど、心を強くお互いの辛さをわかった上で笑おうとしているそんな仲間に恵まれている。
その仲間の中で出てくる愚痴は、自分と散々相談した後で、八つ当たりのように止めどないわけじゃない。
みんなが抱えていることをお互いが想像の範囲でもわかろうとしていることが、愚痴が八つ当たりにはならない人間の思考だと思う。
別に苦痛でもない。
特に聞いても問題ない。
私もいうし。
聞いてやっているとも思わない。
愚痴を言わない人はいい人とも思わない。
不満があるのは人間、普通だ。
私は愚痴を言わないでしょ。とかオレは人の悪口は嫌いだから言わないだろ。と言われても
なんでそんなことを自慢するのかわからない。
言うことが当たり前だと思わない。でも言わないからいいとも思わない。
別にそれは「自慢」になるかならないかのジャンルじゃないと思う。
ただ去年は愚痴をいうと八つ当たりをするをはき違えたねということが多々あった。
強烈にむなしくなって、何かシャッターがガタンと降りた感じがあった。
それまでを振り返った。その人に関わらなければ起こることがなかった不愉快な出来事の数を数えてしまった。
不愉快なことは幸せなことよりインパクトが強い。
頭の中に残りやすい。というか忘れない。
愚痴を聞いてくれる人が欲しいという意見は本当に自己中心的な言い分だなと思う。
それをあえて言うのも甘ったれだと思う。
私は愚痴る。だけど愚痴を聞いてくれる人が欲しいと言ったことがない。思ったことがないからだ。人にそんな注文をする人格が嫌いだし、母は私にほかにいう人がいないといったりもして、決まってそんなとき私は「それはお母さんの基準で、私はそういう対象になったつもりはない」という。
つっぱねるけど愚痴を聞かないわけじゃない。ただハッキリと私をそういう対象と決めていることを私に伝えてくることが自分勝手でいい迷惑だと言う感情が芽生える。
私のバランスを崩されるほど愚痴られることがある。
それはもう八つ当たりで、二度と関わるものかと接触せずに生活したいとすら思う。
共感なんてした日には私の問題なんてたいしたことじゃなく、自分の方がもっと不幸だと言われることもある。
心の底がどこら辺にあるかわからないけどかなり深い底から呆れる。
私のように、母であり男性の中で仕事をしていると普通より肝が据わっているのかもしれないけど、最近居酒屋で男友達と飲んでいたら仕事と体の愚痴を言い始めたので聞いていると「お前はまじめに聞いてるな」と言われた。
それは彼が仲間だから、仲間が辛いと話すのは普通聞くだろう。別に凄いことじゃない。
だけど「愚痴じゃなくて八つ当たりになったら私は相手しないから」というと「お前、オレの兄貴みたい」と言っていた。
この話を私ならわかってくれると思って話すのだろうと考えながら聞いているけど、八つ当たりに切り替わった時点で私は見下されているわけだ。
私が女だからなのか、年齢なのか、そういうキャラなのかわからない。
ただ八つ当たりされる内容になったとき、言葉はつぶやきのような愚痴じゃなくこちらを否定してくる。
聞いてもらっている相手のことを否定し始める。
そういうときはたいがい私が切れるので自分からその話を終わらせようとする。
恐ろしく短気な私はバランスを壊す。だから毒が体に回る前に元凶を離したいと切っていく。
そういう生き方をするのは子供をちゃんと育てるためだ。
私は自分のバランスがいつも不安定だ。それでも人を育てなきゃいけない。
自分を守らなければ子供を守れない。
だからモチベーションを維持するために、妙な気をぶつけてくる人はシャッターを下ろす。
ガードだ。
愚痴を聞いて仲良くなって、いいお酒を飲む仲間。
今一緒にいる人はそんな人しかいない。
いいお酒を飲むために、おいしいおつまみを持ち寄ったり、面白い映画を借りてこようとかそんな仲間しかそばにいない。
最初からそんなだったんじゃない。でもそんな風になりたいと思っていた仲間で、建設的で支え合って、思いやりがある人たち。
そういう人間になる素質があって、目指して、今がある。
きれい事では生きられないことも知っているけど、心を強くお互いの辛さをわかった上で笑おうとしているそんな仲間に恵まれている。
その仲間の中で出てくる愚痴は、自分と散々相談した後で、八つ当たりのように止めどないわけじゃない。
みんなが抱えていることをお互いが想像の範囲でもわかろうとしていることが、愚痴が八つ当たりにはならない人間の思考だと思う。