ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

立場が出来るということ

2014-05-22 | 私のお仕事(本業)

仕事で職人達話していると最近よく同じ小言、というか愚痴というかそういう話しを聞く。

うちの会社の人間に妙な言われ方をされたようで、それも何年も職人でいる相手にいえないだろというような身の程を知らない物言いだった。

一人ではなくそんなのが何人もいた。

社内でも似たような話を聞くし私も見かける。

 

最近、そのことをその部下の何人かに伝えた。

「その道のプロを馬鹿にするような言い方をしないで欲しい。自分の立場を考えて言って欲しい。相手を叩く言い方をすることを美徳のように勘違いしないで欲しい」

たぶん部下のみんなはわかっている。

会社の中の立場でそのまま外に向かって話す人がいるらしい。

私はよく「役職とは責任の所在。その人間が偉いワケじゃない」という。それは私が国内でも有数の大きな企業の会長から言われた言葉だった。

そのころ19歳だった私に「役職を偉くなったと自分から思っているようなそんな人間になるなよ。そういう人をじっと見極める大人になりなさい。力とは上のためにつかうんではない。自分に守るものが出来たということなんだよ。そういうことが責任の所在としての役割もつということ、役職というんだ」

 

この台詞の意味が今は心からわかる。それをあの年齢でいろんなことを越えて生きていて、当時19歳の私に言ったあの会長の人としての大きさも、今なら本当によくわかる。 

そうやって私は人を見ることを作られた。結果として誰が幸せになったのか。誰が喜んだのか。

そういうことを見ている自分がいる。

役職だとかじゃなくてもいいことを言っている職業の人でも同じ。 

 

結果として誰が幸せになったのか。その本人が喜んでいるだけなら、とにかくそういうことならタダのずるがしこいやつだったってことなんだろうと思う。

 

どんなに立派なことを言っていても、すぐ身近な人すらなにも変わっていないならたぶんなんの力もない人なんだろうと思う。

 

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涙目になる友人

2014-05-02 | 私の愛する仲間たち

昼休みに友だちとミルクハウスでお昼ご飯を食べていた。

彼女とは最近仲良くなってよく話す。

二人でこれからの仕事を話しをしていた。

 

彼女には痴呆のお姑さんがいる。

お姑さんはよく徘徊をして、近所みんなで探し回ったりしていろんなことが大変そうなことを言った。

私にもそういう過去がある。私の場合祖母だった。

自分が誰かもわからない。まわりの人を忘れていく・・・

 

徘徊とトイレの失敗で母は仕事との両立に苦労していた。

私と弟はというと意外にそんな祖母のことを嫌いになんてならなかった。

むしろ一緒にいるのが楽しくて、母子家庭でいつも二人きりで留守番の家にやって来たばあちゃんがたとえ呆けていてもうれしかった。

徘徊してしまっても「よし。捜してくるわ!」と元気よく出発。

ばあちゃんを見つけると「どこ行くの?送っていこうか?」と声をかけてはまた自分の家に連れて帰り、何事もなかったようにしていた。

同じ肌着を7枚も着ていてあせもだらけの体なのをみて、母はよく嘆いていたけれど私は「どれも捨てがたかったのよね。え~い全部着てやれって思っただけよね」といいながら笑ってごまかした。

ひいばあちゃんの葬式ではカルピスと麦茶を混ぜ始めて、親戚のおばさんがビクビクしながら見ていた。

またなんかやらかすんだと早くばあちゃんを止めろ!みたいな話し声が聞こえてきた。

私は「ばあちゃん。なにしてんの?それおいしいの?ちょっと飲ませてん。」といってみんなの前で飲んで見せた。

そして「まずいじゃん!失敗作だわ。普通に飲んだ方がおいしいって」と言って麦茶だけと交換した。

そんな私とそんな感じの弟に母は救われたようで、呆けたばあちゃんとそんな風につきあうこの家族を自慢のように思っていたらしい。

ばあちゃんは私と母の区別がつかなくなった。

私を母の名前で呼ぶようになり、晩婚気味だった母のせいでまだ学生だった私に「お前も早く嫁に行け」と言っていた。

そのうちばあちゃんと呼んでも振り向かなくなった。
それで「お母ちゃん」と母たちが呼ぶのと同じようにすると普通に返事をしてくれた。

 

ばあちゃんは次第に相づちすらできなくなり、意味もなくニコニコと笑っているだけになっていった。


ある日、じいちゃんのアルバムを二人で見た。

じいちゃんの若い頃で、赤ちゃんの母が写っていた。

写真の中のじいちゃんは若くて凛々しくて、映画の俳優のようだった。

この当時、なんていい男だっただろうとそう思った。

だから私は何もしゃべれないばあちゃんだったけど、思わず「ばあちゃん。じいちゃんってすごいよかにせだったんやね」と言った。

するとばあちゃんは、それまで話せなかったのがフリだったのかと思ってしまうほどものすごくハッキリ「じゃっどが!」っと言った。

許嫁を振り切りばあちゃんと駆け落ちしたじいちゃん。
家族はいないと二人だけで気づきあげた生活で、お互いにこの人だけだと思っていたんだろう。

ばあちゃんは全て忘れ、子供も忘れ、自分を忘れてしまっても「じいちゃんが好き」ということだけを覚えていた。

 

じいちゃんのことだけを記憶したまま亡くなった。

 

どんなに痴呆で見ていられないことをやらかしてしまったとしても、実際当時の私たちは確かに大変だったんだけど、女に生まれてこんなに幸せな人生があるだろうかと私は思う。

そんなばあちゃんの人生を私はうらやましいと思う。


この話を友人にした。


友人は涙を目にいっぱいためて「幸せだったんだね」といった。

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貧血のパンフレット

2014-05-01 | 体のこと

昨日偶然貧血のパンフレットを見つけてもらってきた。

読んでみると貧血には鉄欠乏性と亜鉛欠乏性があるらしい。

私は鉄欠乏性だ。

だから鉄分を取るとすぐに元気になる。

会社の上司から「釘をなめとけ」といわれる。

 

先月2度ほどひどい貧血に襲われた。起きていられなかった。

たまにこうなるけれど、最近の調子の悪さは尋常ではない。

あまり肉が好きじゃない私はそれが原因じゃないかと思われて、会社のみんなから焼き肉屋さんへ連れて行ってもらった。

半強制だった。

「肉ですよ。肉食べないから血ができないんです」

 

本当か・・・?だけどそれから無理して肉っぽいものを食べるようになったし、昨日から青汁も飲んでる。

鉄分って書いてあると弱い。

 

昨日のパンフレットには牡蠣がいいと書いてあった。

牡蠣は大好きだ。そんな好きなものでいいなら毎日でもいい。

私は妊娠した頃から貧血になった。パンフレットにもそういうことが書いてあった。

 

私は献血なんて20年くらいしたことないけど、低血圧で貧血でヘモグロビンが栄養失調レベルで低くて頭痛薬も飲んでいてこんな血を人にあげられるわけがない。

どうしても元気な血液にしきらないけど、昨日はパンフレットの話しを友人にするとプラセンタを進められて気になって調べたら1本2000円もした。

つづけるには高い。小さい栄養剤くらいの瓶で2000円かあ・・・と牡蠣をたくさん食べる方がいいと言う結論になった。

パンフレットに「サプリメントで取らないといけないのも仕方がない」みたいなことが書いてあって、そうだろうな・・・と納得した。

せめて倒れないように青汁はもうちょっと続けて行こうと思う。

体力付けて連休明けは山登りするぞ!!

ちなみに。 妊娠してから私は貧血を起こすようになった。

病院がくれる鉄剤は便秘を起こす。

そういう事もあってカゴメが出してるプルーン100%のジュースと、ドラッグストアで安売りしている一ビン500円のプルーン、そしてスキムミルクにオリゴ糖を入れたものをなどを毎日飲んでいた。

飽きもせず毎日飲めたのは、後に生まれる私の息子が牛乳好きのブドウ好き。ということも影響していたのかもしれない。

 

とにかく、いざ出産というときには何と私の貧血は無くなっていました。 で、いざ出産してみると帝王切開だったこともあってまた貧血に逆戻り。

生んだ直後にひどい頭痛が始まって、たまたま出産後に貧血に苦しんだ人が 「それ、貧血の頭痛じゃないの?」と言ったことですぐに検査。

出産前は大丈夫だったのにと思いながら検査を受けると思いっきり貧血。

増血剤を注射。5分後に胃がむかついてリバース・・・・よくあることだと言われたけど・・・・ そんなこんなで授乳の間もプルーンジュースを飲もうと思っていたら、息子が産まれてしまったことで味覚が元に戻り、「毎日こんなに甘いものが飲めるか!!!」という状態になってしまいまった。

 

ということで色々と病院もサプリメントも試した結果、お茶好きの私がたどり着いたものはカフェインに反応しないというDHCのヘム鉄。 そして牡蠣、シジミ、ほうれん草かな。

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