退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩、卓球
さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-24 15:36:16 | 韓で遊ぶ
20 前もって書く遺書

死ぬときには何の言葉もなく死ぬのであり、何をごたごた理由がついてくるのか。自ら命を終えて先立つ人ならば遺書でも添付できるだろうけれども、自分の命のかぎり、生きてきていく人にはその弁明が役にたたないもののようだ。それに、言葉というものはいつも誤解を伴うものだから。
だが、死はいつ私を訪ねてくるのか知ることができないこと。多くの交通事故と、ガス中毒と、そして憎悪のまなざしが、前世が借り返せと私を撃つかもしれない。私たちが生きていくということが死の側から見ると、一歩一歩、死に向かって来ていることであるということを考えた時、生きることは必ず死ぬことであり、生と死は決して絶縁されたものではない。死が、いつどこで私の名前を呼んでも「はい」と気軽にぱっと立ち上がる準備だけはできていなければならないのだ。
だから、私の遺書は文字であるよりは今生きている「生の白書」でなければならない。そして、その肉体としては一回きりでしかない死を迎えても、実際には遺書のようなものを残すほどの身の上ではないので、編集者の請託に、散歩でもするような気分でしたがって見たのだ。
誰を呼ぼうか(遺書にはよく誰かを呼ぶとか)?誰もいない。徹底して一人だったから。まさか今まで帰依して仕えたお釈迦様を、といっても彼は結局、他人。この世に来る時も一人で来て、行く時も私一人で行くしかないのだから。私の影を引き連れて、ふらふら人生の地平を歩いて来て、またそうやって行くのに、呼ぶほどの隣人が、隣人がいるはずがない。もちろん今日まででも、私は遠く、近くの隣人たちと相談相関しながら生きている。また、これからもそうやって生きるだろう。しかし生命自体がどこまでも個別的なことで、人間はそれぞれに一人でいるしかないもの。それは紫色の夕焼けのような感傷ではなく人間の堂々とした本質的で実在的なことだ。
苦悩を突き抜けて歓喜の世界を志向したベートーベンの音を借りなくても、私は人間の善意志以外には人間の優越性を認められない。すべての矛盾と葛藤と憎悪と殺りくでごちゃごちゃになった、この暗い人間の村落で今日も日が昇っていくのは、たたその善意思によるものではないか。
だから、この世を去る前にすることは、まず人間の善意志を破ることに対する懺悔だ。隣人の善意思に対して自分がおろかなために、しでかした過ちを懺悔しないで目を閉じることができないようだ。
時には大きな過ちより小さな過ちが私たちを苦しめるときがある。過ちというのはすごく大きければ、その重みで容赦なく押さえつけられ慙愧の目が遠くなってしまい、小さい時にだけ記憶に残るものだ。ややもすると、それはすごい偽善かも知れない。しかし、私は生涯、そのひとつのことで取り返しのつかない後悔と自責を感じている。それは影のようについてきて、ふと、自分を恥ずかしくし、苦しめ、鞭打った。
中学校1年生のとき、同じクラスの仲間と家に帰る途中だった。飴売りが箱を置いて一休みしていた。その飴売りは校門の外でもよく見かける顔なじみの人で、片腕がなく、言葉がどもる障害者だった。5、6人の私たちはその飴売りを取り囲み、飴を選ぶ振りをしながら少なくない量の飴をこっそりと盗んだのだ。お金は3,4個分しか払わなかった。
障害のある彼はそんなことは全く知らずにいたのだ。このことが、取り返しのつかないこのことが、私を苦しめている。彼がもしも、ふてぶてしく健康な飴売りだったなら、私は、すでにこのことは忘れてしまっているだろう。しかし、彼に障害があったという点に消すことのできないままの自責はより生々しいのだ。
私がこの世を生きてきながら犯した過ちは数えることができない。その中では許しを受けるのが難しい過ちも少なくないだろう。しかし、何の理由か、その時犯したその過ちがずっと影のように私を追いかけているのだ。この次の世には2度とこのように後悔することが繰り返されないように心から願って、懺悔しないではいられない。私が生きているうちに受けた裏切りや陰謀も、あの時の一人の人間の純朴な善意思を破った因果応報だと考えると十分に耐えることができることだった。
「鋭い剃刀を踏んで歩くのは難しい、賢者に至ることに助けを貰うこともまたこのように難しい。」(ウパニシャド)の言葉を十分に理解することだ。
私が死ぬ時は持っている物がないので、何を誰にやるかというわずらわしいこともないだろう。元々、無一物は私たち僧の所有観念だから。それでも、もし生涯楽しく読んだ童話の本が私の枕元に何冊か残っていたら、朝、「新聞ですよ」と私を訪ねてくれるあの子にあげたい。
葬式とか法事のようなことはまるっきり必要ないこと。最近は僧が世の中の人々よりもより大きな葬式を執り行っているが、そのようにわずらわしくつまらない黒い儀式が、もしも私の名前で行われたならば、私を慰めるどころか、ひどく怒らせることだ。普段の食卓のように簡単明瞭なことを喜ぶ気性だから。私に墓というものがあったならば、あの冷たい石碑の代わりに夏に日の朝から楽しませてくれる、けしの花とか牡丹を植えてくれといいたいが、墓もないからそんな手間隙をかけることはない。
生命の機能がなくなってしまった肉体は見苦しく、隣人の荷物になるから少しの遅れもなく、なくしてくれたらありがたい。それは私が脱いでしまった古い服だから。もちろん移動が便利で隣人の妨害にならない所ならばどこでもいいから、火葬してくれてかまわない。遺骨のようなものを残して隣人に面倒をかけることを私は絶対に、絶対にしたくない。
肉体を捨てた後は羽ばたいて飛んで行きたいところが一箇所ある。「星の王子様」が住んでいる星の国だ。椅子の位置を動かしておけば一日に日暮れを何回も見ることができる、とても小さな、その星の国。一番重要なことは心で見なければならないということを知っている王子は、今頃バラの花を仲良く過ごしているのか。その国には面倒なビザのようなものも必要ないということで、行ってみたいのだ。そして、来世にもまた韓半島に生まれたい。誰がなんと言おうと母国語に対する愛着ゆえ、私はこの国を捨てることができない。また出家して僧になり、今生でできなかったことをしたいのだ。(女性東亜1971,3)


疲れた今日はクリスマスイブだというのに硬い話でした
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからクリスマスの準備です。
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法頂 無所有より

2012-12-23 15:41:41 | 韓で遊ぶ
19 忘れられない人

水然僧様!彼は情け深い道伴(共に仏道を修行する友)であり、禅知識だった。慈悲が何であるかを口で言うのでなく行動して見せてくれたそんな人だった。道端に無心に咲いている名前も知らない草花が時には私たちに足を止めさせるように、彼は小さなことで私を感動させたのだ。
水然僧様!彼は言葉が少なかった。いつも静かに微笑んでいるだけで、尋ねたり答えてくれた。そんな彼を15年がたった今も忘れることができない。忘れられない人だ。1959年、冬、私はチリ山のサンケ寺塔殿で、一人、安居に入ろうと準備をしていた。準備というのは、冬の3ヶ月間の安居の間、食べる食料と薪、そして少しのキムチを作った。お仕えしていた恩師ヒョボン禅師がその年の冬、ネパールで開かれる世界仏教大会に参席するため旅立ったので、私は一人で過ごすしかなかったのだ。
陰暦の10月初旬、河東、岳陽という農村に行き托鉢をした。5日間の托鉢で冬の間の食料としては十分だった。托鉢を終えて戻って見ると誰もいないはずの庵に夕食を作る煙が立ち上っていた。
背嚢を下ろして台所に行って見た。見慣れない僧が一人火を焚いていた。旅の僧は、つぎはぎだらけの服を着て、色白のすっきりした顔に、静かに微笑んで食事の支度をしていた。その時、初めて彼と私は出会ったのだった。人はそのように瞬間的に縁が結ばれるようだ。互いが出家した僧であるために、より、そうだった。
チリ山で冬を越してきたという彼の話を聞いて私はうれしかった。一人で安居するのは自由なようだが、精進しようと思うと障害が多い。特に、出家してから浅い時の私としては、一人でいると誤って怠惰になってしまう恐れがあったからだ。
10月15日、冬の安居に入る結制の日、私たちはいくつかの仕事について協議だけしておいた。彼はすべてのことを私の意志に従ってついていくと言った。しかし、精進する時には主客があってはならない。ただ二人で生活するといっても二人の意思をひとつにしておけば円滑に過ごすことができる。彼はまったく自分の意思を主張しなかった。そのままついて従うということだった。
実際の年齢は私より1歳少ないが、出家したのは彼のほうが1年早かった。彼は学校教育を多く受けていないようだったが、天性が落ちついた人格だった。どこが故郷なのかどこで出家したのか、互いに聞かないことが僧の家の礼節であることを知っている私たちは、過ぎてきた跡のようなものは知ることができない。そして知る必要もないのだ。ただ、彼の言葉使いやイントネーションで、故郷と出身地を推測するだけだ。彼は私と同じ全羅道なまりを使っていたのだった。そして消化の機能がよくないようだった。
私は供養主(ご飯を炊く任務)をして彼は汁物とおかずを作る菜供をすることにした。汁を煮ておかずを作る彼の腕前は並大抵のものではなかった。おいしくない柿でも彼の手にかかると甘露の味がした。そして私たちは一日に一食しか食べず、参禅だけをすることにした。その時、私たち初発心した新米の僧たちは戒律に対してぎらぎらしていて、屋外の仕事に時間を売ることなく一生懸命精進した。
その年の冬の安居を私たちは無事に終えることができた。その後に知ったことだが、何の障害もなく純粋に安居を送るということは決して簡単なことではなかった。この次の正月15日、安居が終わる解制の日、解制になったら一緒に行脚に行ってあちこち歩いて見物しようと、私たちはその解制を前にしてひたすら胸を膨らませていた。
しかし、解制の前の日から私は具合が悪くなった。何日か前に冷たい水で沐浴したのがいけなかったようだ。解制にはなったが、旅立つことができなかった。
山で病気になるとやきもきすることこの上ない。僧は元気なときもいつも一人だが、病んで見るとそんな事実を具体的に感じさせられる。薬があるわけでもなく、近くに医療機関もない。ただ病むだけ病んでよくなるのを願うだけだ。そして、その時、私たちは徹底的に無所有だった。夜になると、うわごとを言う私の枕元で、彼はずっと座っていた。のどが渇いたというと湯を沸かしてきて、額のつめたいタオルをとり代えてくれ眠らなかった。
そんなある日の朝、彼はしばらく下の村に行ってくると出て行ったのに昼になっても帰らなかった。日が傾いてもまったく連絡がなかった。炊いておいたお粥を、夕食まで食べた。私はとても気になった。夜の10時近くになって台所で人の気配がした。その間、私はしばらく寝ていたようだ。彼が部屋の戸をあけて入って来たとき、手には薬の入った茶碗を持っていた。とても遅くなったと言いながら、薬を飲みなさいということだった。この時のことを私は忘れることができない。彼の献身的な真心に私は幼い子供のように泣いてしまった。その時、彼は何も言わないで私の手をしっかりと握ってくれた。
庵から一番近い薬局でも40里余りのところにあるクレの町だ。その頃の交通手段というものはクレの町に市場が立つ日、市場を利用したい人たちを乗せて通うトラックがあるだけ。だけど、その日は市の立つ日ではなかった。彼は長々と80里の道を歩いて行って来たのだ。互いにお金が一銭もない身の上であることを知っていた。彼はクレまで歩いていって托鉢をした。そのお金で薬を準備したのだ。彼はクレまで歩いて行ってそれから托鉢をした
のだった。そのお金で薬を買ったのだ。遠い、遠い夜の道を歩いて薬をくれたのだった。
慈悲が何であるかを私は生涯初めて全心身で切々と感じることができた。そして、道伴の情けがどんなものなのかも、やっと体験することができたということだ。そのように懇切な真心に対し治らない病気がどこにあろうか。足が少しふらついたがその次の日、動けるようになった。
その時私たちが起居していた庵から5里余り奥に入って上がっていくと滝の横に洞窟があって参禅をしている老僧が一人いらした。老僧が何かの用事で洞窟の外に出かけてくると必ず私たちのところに立ち寄った。その時ごとに、老僧が背負ってきたものが老僧よりも先に洞窟へ帰って行った。彼が何も言わないで背負って行ってあげたのだ。彼はこのように、どのようなことでも彼ができることならば何も言わないで気軽にやってしまうのだった。
ひと時の間、私たちは会えないまま、それぞれ雲水の道を歩んでいた。手紙のやり取りもなく、どこで過ごしているのか互いに知る方法がなかった。雲水達の間では知らせのないのがよい知らせということで通っていた。世間の人が考えると、どうしてそのように無関心でいることができるのか、と思うかもしれないが、互いが学習することに妨害になってはならないと配慮しているのだ。
人情が多ければ、仏を信じる心が粗くなるという昔の禅師たちの言葉を借りることもない。執着は私たちを不自由にする。解脱ということは苦から抜け出した自由自在の境地を言うのだ。ところが、その苦の原因は他のところにあるのではなく執着にあるのだ。ものに対する執着よりも人情に対する執着は数倍も強いものだ。出家はそのような執着の家から旅立つという意味だ。そのために出家した僧は斜めから見て見ると悲壮なくらい金属に近い。しかし、そのような冷気はどこまでも肯定の熱気に向かう否定の気流だ。肯定の地平に立った菩薩の慈悲は春の日差しのように暖かいのだ。私がヘイン寺に入って堆雪禅院で安居した夏、聞こえた噂では、彼はオデ山の上院で祈りを捧げているということだった。夏のお勤めが終わったら彼を訪ねてみようかと心に決めていたら、彼が先に訪ねてきた。チリ山で別れて以来、また会えて私たちは互いにうれしかった。彼は例の静かな微笑を含んだ顔で、私の手をしっかりと握った。ともにいた時よりも顔色が悪かった。
どこか悪いのかと聞いたら、胃腸の調子が悪いと言った。ならば薬を飲まなければならないのではないかと言うと、大丈夫だと言った。彼が堆雪堂に来てから靴を脱ぐときの踏み石の上には前に見られなかった変化が起こり始めた。5、6足あるゴムの靴が皆同じように白く磨かれ整然とおかれていたのだ。もちろん彼が隠れてやったことだった。僧たちが洗濯しようと脱いでおいた服を、いつの間にかきれいに洗って糊を付けてアイロンをかけて置くのだった。このような彼を見て僧たちは「慈悲菩薩」と呼んだ。
彼は供養をとても小さく行った(彼の食事はとても少なかった)。もちろん今は私たちも3食を僧様とともにいただいて過ごしている。ある日、私は事務室へ話をして、彼を連れて無理やりテグへ出かけた。いずれにしても彼の胃腸の調子が尋常ではなかった。診察を受けて薬を買わなければならないようだった。バスの中だった。彼はポケットから小さなナイフを出して窓枠から抜けそうなねじくぎ2つをきっちりと締めた。無心に見ていた私は心の中で感動した。彼はこのように小さな事で私を揺さぶるのだ。彼には、私のこと、他人のことという区別がないようだった。ややもすると、すべてのことが自分の事だと考えるのかもしれない。そのために、実はひとつも自分の所有でないということもできるのだ。
その年の冬、私たちはヘイン寺でともに過ごすことになった。彼の健康を心配した僧たちは自由に過ごせるように別の房を使うように言った。しかし、彼は大衆と同じ大きな房で精進して作業からも抜けることはなかった。そうしたら、安居期間の半分が終わる頃に彼は持ちこたえることができないくらいに弱った。
治療のためには山の中よりも街中が便利だ。晋州にあるポキョ堂に彼を連れて行った。そこで泊まって治療を受けるようにするためだった。3日すぎた頃、彼は私に安居の途中だから帰るように言った。彼の病状が回復したようだったので親しい人のいるポキョ堂の主事僧と信徒一人に看護を頼んだ。彼がとても私を心配するので私は一週間ぶりに寺に帰ってしまった。
置いてきた彼が気にかかった。伝え来た知らせではとてもよくなったと言っていたが。その冬、カヤ山には雪がたくさん降った。1週間余り交通が途絶えるくらい降り積もった。夜になるとこの谷、あの谷から木の倒れる音が響いてきた。一抱えもある松の木が雪に折られていくのだ。
あの頑固で青々とした松の木が一房、二房と積もった雪の重みに勝つことができず折れてしまうのだ。ひどい雨風にも問題なかった木が柔らかい物の前で折れていく妙理を山ではありありと見ることができたのだ。折れた木を背負って持ってきたが、私は右の手首をくじいてしまった。しばらくの間、針を受けるなど苦労した。ある日、私は小さな小包をひとつ受け取った。あけて見るとシップが入っていた。どうして知ったものか彼が買って送ったのだ。何も言わない彼は理由もないままだった。
私は悲しい彼の最後を繰り返し思い出したくない。彼が発った後、明らかに彼は私のひとつの分身だということをわかったようだった。ともにいた期間は1年にも満たないが、彼は多くの教えを残して行った。どの禅師よりも、見識の広い経師よりも私には本当の道伴であり明るい禅知識であった。
求道の道で「知る」ということは「行う」に比較する時、どれだけ値がないかということだ。人が他人に影響を及ぼすことは知識や言葉によるものではないことを彼は悟らせてくれた。澄んだ目と静かな微笑みの、暖かい手とそして何も言わない行動によって、魂と魂がぶつかることを彼は身を持って見せたのだ。
水然!その名前のように彼は自分の周囲をいつもきれいに洗ってくれた。平常心が真理であることを行動で見た。彼が腹を立てたところを私は一度も見たことがない。彼は一言で言って、慈悲の化身だった。彼を思う時ごとに、人は長らく生きることが問題ではない。どう生きるかが問題だということだ。(新東亜1970,4)


長かった
最後まで読んでいただきありがとうございます
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法頂 無所有より

2012-12-22 23:12:40 | 韓で遊ぶ
19 忘れられない人

水然僧様!彼は情け深い道伴(共に仏道を修行する友)であり、禅知識だった。慈悲が何であるかを口で言うのでなく行動して見せてくれたそんな人だった。道端に無心に咲いている名前も知らない草花が時には私たちに足を止めさせるように、彼は小さなことで私を感動させたのだ。
水然僧様!彼は話をしなかった。いつも静かに微笑んでいるだけで、尋ねたり答えてくれた。そんな彼を15年がたった今も忘れることができない。忘れられない人だ。1959年、冬、私はチリ山のサンケ寺塔殿で、一人、安居に入ろうと準備をしていた。準備というのは、冬の3ヶ月間の安居の間食べる食料と薪、そして少しのキムチを作った。お仕えしていた恩師ヒョボン禅師がその年の冬、ネパールで開かれる世界仏教大会に参席のため旅立ったので私は一人で過ごすしかなかったのだ。
陰暦の10月初旬、河東、岳陽という農村に行き托鉢をした。5日間の托鉢で冬の間の食料としては十分だった。托鉢を終えて戻って見ると誰もいないはずの庵に夕食を作る煙が立ち上っていた。
背嚢を下ろして台所に行って見た。見慣れない僧が一人火をくべていた。旅の僧は、つぎはぎだらけの服を着て、色白のすっきりした顔に、静かに微笑んで食事の支度をしていた。その時、初めて彼と私は出会ったのだった。人はそのように瞬間的に縁が結ばれるようだ。互いが出家した僧であるために、よりそうだった。
チリ山で冬を越してきたという彼の話を聞いて私はうれしかった。一人で安居するのは自由なようだが、精進しようと思うと障害が多い。特に、出家してから浅い時の私としては、一人でいると誤って怠惰になってしまう恐れがあったからだ。
10月15日冬の安居に入る結制の日、私たちはいくつかの仕事について協議だけしておいた。彼はすべてのことを私の意志に従ってついていくと言った。しかし、精進する時には主客があってはならない。ただ二人で生活するといっても二人の意思をひとつにしておけば円滑に過ごすことができる。彼はまったく自分の意思を主張しなかった。そのままついて従うということだった。
実際の年齢は私より1歳少ないが、出家したのは彼のほうが1年早かった。彼は学校教育を多く受けていないようだったが、天性が落ちついた人格だった。どこが故郷なのかどこで出家したのか互いに聞かないことが僧の家の礼節であることを知っている私たちは過ぎてきた跡のようなものは知ることができない。そして知る必要もないのだ。ただ、彼の言葉使いやイントネーションで、故郷と出身地を推測するだけだ。彼は私と同じ全羅道なまりを使っていたのだった。そして消化の機能がよくないようだった。
私は供養主(ご飯を炊く任務)をしてからは汁物とおかずを作る菜供をすることにした。汁を煮ておかずを作る彼の腕前は並大抵のものではなかった。おいしくない柿でも彼の手にかかると甘露の味がした。そして私たちは一日に一食しか食べず、参禅だけをすることにした。その時、私たち初発心した新米の僧たちは戒律に対してぎらぎらしていて、屋外の仕事に時間を売ることなく一生懸命精進した。
その年の冬の安居を私たちは無事に終えることができた。その後に知ったことだが、何の障害もなく純粋に安居を送るということは決して簡単なことではなかった。この次の正月15日、安居が終わる解制の日、解制になったら一緒に行脚に行ってあちこち歩いて見物しようと私たちはその解制を前にしてひたすら胸を膨らませていた。
しかし、解制の前の日から私は具合が悪くなった。何日か前に冷たい水で沐浴したのがいけなかったようだ。解制にはなったが、旅立つことができなかった。
山で病気になるとやきもきすることこの上ない。僧は元気なときもいつも一人だが、病んで見るとそんな事実を具体的に感じさせられる。薬があるわけでもなく、近くに医療機関もない。ただ病むだけ病んでよくなるのを願うだけだ。そして、その時私たちは徹底的に無所有だった。夜になると、うわごとを言う私の枕元で、彼はずっと座っていた。のどが渇いたというと湯を沸かしてきながら、額のつめたいタオルを代えてくれ眠らなかった。
そんなある日の朝、彼はしばらく下の村に行ってくると出て行ったのに昼になっても帰らなかった。日が傾いてもまったく連絡がなかった。炊いておいたお粥を、夕食まで食べた。私はとても気になった。夜の10時近くになって台所で人の気配がした。その間私はしばらく寝ていたようだ。彼が部屋の戸をあけて入って来たとき、手には薬の入った茶碗を持っていた。とても遅くなったと言いながら、薬を飲みなさいということだった。このときのことを私は忘れることができない。彼の献身的な真心に私は幼い子供のように泣いてしまった。その時彼は何も言わないで私の手を失火ライト握ってくれた。
庵から一番近い薬局でも40里余りのところにあるクレの町だ。その頃の交通手段というものはクレの町に市場が立つ日、市場を利用したい人たちを乗せて通うトラックがあるだけ。だけど、その日は市の立つ日ではなかった。彼は長々と80里の道を歩いて行って来たのだ。互いにお金が一銭もない身の上であることを知っていた。彼はクレまで歩いていって托鉢をした。そのお金で薬を準備したのだ。彼はクレまで歩いて行ってそれから托鉢をした
のだった。そのお金で薬を買ったのだ。遠い、遠い夜の道を歩いて薬をくれたのだった。
慈悲が何であるかを私は生涯初めて全心身で切々と感じることができた。そして、道伴の情けがどんなものなのかもやっと体験することができたということだ。そのように懇切な真心に対し治らない病気がどこにあろうか。足が少しふらついたがその次の日動けるようになった。
その時私たちが起居した庵から5里余り奥に入って上がっていくと滝の横に洞窟があって参禅をしている老僧が一人いらした。老僧が何かの用事で洞窟の外に出かけてると必ず私たちのところに立ち寄った。その時ごとに老僧が背負ってきたものを老僧よりも先に洞窟へ持っていった。


つづく
まずはできたところまで
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リコーダー演奏会

2012-12-21 22:26:27 | リコーダーを楽しむ
16日日曜日函館リコーダー教会のクリスマス演奏会が終わりました。
決して無事にとはいえない(私にとっては)
9人で演奏したクリスマスの曲目
サクラ母は震えて、必要のないビブラートのついた演奏をしていたのでした
あんなに練習したのに、、、
応援に来てくれた友達、、ありがとう
笑ってくれて、、、

練習して来年は感動の涙をいただきます

法頂さんの無所有
19章で詰まっています
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できない

2012-12-20 17:03:10 | 韓で遊ぶ
法頂さんの無所有19章は「忘れられない人」
長いのと時間がなくてアップできない
がんばろう

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法頂 無所有より

2012-12-19 20:11:33 | 韓で遊ぶ
18 その夏に読んだ本

秋を読書の季節として受け入れられないでいるが、事実、秋は読書には一番不適当な季節のようだ。空気がとても澄んでいるために、青い空の下で本のページをめくることは、いずれにしても辛気臭く不快なことだ。それは秋の空に対して失礼だ。
そして読書の季節が特になければならないことも笑える。いつでも、本を読んだならばその時が正に読書の季節なのだ。夏は暑くて外で仕事もできないから、本でも読むのがいい。軽い下着姿で、ござを出して広げ、竹枕でもあればもってこいだ。だからわざわざ出かけて行く事もなく、波が寄せる海と渓谷の流れる山を自分の傍らに持ってくることができる。
8,9年前だったか、ヘイン寺のソソ山房で読誦しながら、ひと夏、蒸し暑さを忘れて過ごしたことがあった。その年、ウニョ老師から「華厳経」の講義を聞いたが、「十廻向品」にいたる菩薩の限りない求道精神に感泣したことがあった。いつか暇ができたら「十廻向品」だけを別に精読しようと決心したのが、その夏の季節の因縁だったのだ。朝夕にチャンギョン閣に上がって業情を懺悔する礼拝をあげて、昼には山房で読誦をした。
山房というけれども、部屋ひとつを分けて使う狭いものだった。垂木が出て、小さな明かり取りの窓と頻繁に出入りする戸口がひとつしかない部屋、だから、夏でなくても息苦しかった。それでも、あのデォゲネスの桶の中よりは広いと自己満足した。また、ひとつありがたいことは、前の山を眺める景色だった。それは、画幅が300歩ほどあるものだった。
「華厳経」は80冊にもなる膨大な経典だ。「十廻向品」はその中の9巻である。ひと夏、その狭苦しい部屋で袈裟と僧衣を着て正座して香を焚いて経を広げた。まずは、開経偈を暗記した。「又とない奥深いこの法文、百千万劫に会う事は難しいが、私が今、見て聞いて来て、如来の真意を正に知ったのだ」経は実叉難陀の韓訳の木版本で読んだのだった。最近はハングル大蔵経として翻訳が出ているが、その時は翻訳がなかった。ハングルの翻訳があっても表意文字が与える余韻や、木版本で読むというその柔軟な味は比較のできないものだ。時には声の調子を高めて読んだり、一字一字推し量りながら黙読したりもした。
雨が降るような重苦しい天気の日には、石垣の外の便所からむかつくような匂いが漂ってきた。そんな時は自分の体の中にも自分用の便所があるではないか。人の良心の腐った匂いよりはましではないか。このように考えたら何でもなかった。一切の唯心所造だから。夕方の供養をする時間を前にして席を立ったら、袈裟僧衣に汗がぐっしょりと染み、広げた座布団がじめじめと濡れていた。やっと暑いという気持ちになった。谷川に行きぱっと脱いでしまって小川の水に浸った。このとき、暑さが無くなり心身が飛ぶように軽くなった。すべての物に感謝したい気持ちが膨らんだ。
このようにして、その年の夏「十廻向品」を100余回、読誦したが、読むほどに新たに切々とした。誰が命じてさせたことならばこのようにはできないことだろう。読むということは何だろうか。他の人の声を通して自分自身の根源的な音声を聞くことではないだろうか。(東亜日報1972,8,2)
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法頂 無所有から

2012-12-18 20:21:34 | 韓で遊ぶ
17 旅の途中から

人々の趣味は多様だ。趣味は面白みを呼び起こす人間的な余白であり、弾力だ。だから、それぞれ人の趣味はその人の人間性を支えていると見ることができる。
旅行を嫌いだと言う人はいるだろうか?もちろん個人の身体的な障害や特殊な事情で外に出ることを嫌う人もなくはないだろうが、大概の場合、旅行と言うものは私たちをわくわくさせるのに十分な魅力を持っているようだ。懐具合や日常的な仕事のために気軽に出かけられないでいるだけで、こんなに楽しくわくわくする旅を誰でもすることだろう。
日々繰り返される退屈な束縛から抜け出すことは何よりも楽しいこと。春の日のひばりでなくても私たちの唇にはひとりでに口笛がもれ出てくる。
ばたばたと羽ばたいて旅に出ると、流行歌の歌詞借りることもなく人生が何であるかをぼんやりと感じるようになる。自分の影を引き連れて、はるかに遠い地平をこつこつと歩いている日々の自分を、少しはなれたところから眺めることができる。雲を愛したと言うヘッセを、星を賞賛したというサンテグジュペリを初めて心で理解できるのだ。また、見慣れない故郷をさまよいながら、時にはわき腹を虚しい旅人の憂いのようなものが通り過ぎていくようだ。
去年の秋、私は一ヶ月近くそんな旅の道をさすらった。僧の行脚は世の中の人々の旅行とは違うところがある。しなければならないことがある訳でもないし、誰がどこかで待っている訳でもない。心の向くままに足の向くままに行くのだ。だから雲水行脚という。以前から禅家では3ヶ月の間、一箇所で安居して終わると、その次は3ヶ月の間行脚をするようになっている。だから、行脚は観光の意味からではなく、流動しながら教化する精進できる機会だと言うことだ。言わば、定めのない世の中の物情を知りながら修行しなさいと言う意味からだ。
旅の装束を脱いで一晩休む所は寺だ。2箇所を除いては慣れ親しんだ寺院だった。日暮れの寺の入り口を入って聞く晩鐘と、足をつけて汗を流す冷たい小川の水、部屋に入って久しぶりに会う当番と心を開きながら飲む山茶の香りが旅人の疲労を癒してくれるのだった。
このようにして去年の秋、東に、西に、南に、足の向くのに任せて雲のようにさまよいながら、入信以後の道程の跡を振り返って見たのだ。その時ごとに過ぎて行った日々の記憶が夕方の海風のようにしみこんでいった。時には楽しく、あるいは恥ずかしく自身を客観化させてやった。そうしながらも、ただ一箇所だけはどうしても行くことができない所があった。いや、本当に行って見たい所であるがゆえに行くのが怖かったのだ。出家してあまりたっていないかった頃、求道の意味が何なのかを学んでいた、そしてひとつの隙間もない精進で禅の悦びを感じたそんな道場であり、いつまでも大切にしたかったからだ。
チリ山にあるサンケ寺 塔殿!
そこで、私は16年前、恩師ヒョボン禅師に仕え二人きりで安居を迎えていた。禅師から文字を通して学んだことは「初発心自警文」1冊しかないが、ここチリ山での日常生活を通して身に着けた感化は本当に絶対的なものであった。
その頃、私が任された任務は台所でご飯を炊いておかずを作ることだった。そして精進の時間になると着実に座禅をした。食料がなくなると托鉢をしてきて、必要なものがあったら50里離れているクレの市場に行った。
ある日、市場へ行ったのだが、戻ってくる途中で小説を一冊買って来た。ホーソンの「紅い文字」だと記憶している。9時を過ぎて就寝時間に自室に入って油つぼの灯火を付けてページを開いた。出家後、仏経以外の本というのはまったく接する機会がなかった所に、その時のその本は生々しく吸収された。しばらく夢中になって読んでいると部屋の戸が開いた。禅師が読んでいた本を見て、直ちに燃やしてしまえということだった。そんな物を見ると「出家」ができないと言った。不恋世俗を出家と言うのだから。
そのまま台所に行き、燃やしてしまった。最初の焚書だった。その時は申し訳なく、少しもったいないという思いがしたが、何日か後になってやっと本の限界のようなものを悟ることができた。事実、本というものは単に知識の媒介体に過ぎないもの。そこから貰うものはひとつの分別だ。その分別が無分別の知恵として深化されるならば自己凝視のろ過過程がなければならない。
その前までの私は、家においてある本のためになぜかそわそわしていたが、この焚書を通してそんな煩悩も一緒に燃やしてしまったのだ。それに新米の弟子には、すべての分別を助長する、そんな本が精進の妨害になるのは当然だ。もし、その時の焚書の件がなかったら、本に圧倒されて生きているかもしれない。
また、もうひとつはこんなことがあった。おかずの材料がなくなって下の村に出かけていったところ、昼の供養をする時間の予定よりも10分くらい遅れてしまった。禅師は厳粛な語調で「今日は断食だ。そのように時間の観念がなくていいのか?」ということだった。禅師と私はその頃、朝にはお粥を、昼にはご飯を食べて、午後にはまったく食べないで過ごしていた。私の不注意で老師も食事を欠くことになった呵責は、その時だけでなくいつまでも私を教え悟らせた。
こんな自己形成の道場にどうしても立ち寄ることができなかったのだ。見るまでもなく、観光地として名が売れて、高等考試の準備のための人々の別荘ぐらいとして光があせているからだ。旅に出たならば自分の霊魂の重さを感じるようになる。何の事をどのように過ごしているのか、自分の中の顔をのぞき見ることができる。そうしたら、旅行が単純な趣味だということだけではないようだ。自己整理の厳粛な道程であり、人生の意味を新たにするそんな契機になるのだ。そして、この世に別れを告げる練習にもなるのだ。(現代文学1971,9)


難しすぎる
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法頂 無所有より

2012-12-17 18:20:41 | 韓で遊ぶ
16 早朝割引

先週の日曜日、用があって市内に出かけた時、劇場の前の長蛇の列を見て、市民も本当に一生懸命に生きているなという思いがした。しかし、真昼の日差しの下、黙って立っている彼らの顔を近くで見た時、かわいそうに思ってうつむいてしまった。遠い道を旅した旅人とかに感じられる疲労と憂いの影のようなものが読み取れたからだ。
久しぶりの休日を他の人々は倦怠感の漂う領域を抜け出し、緑濃い山と、波が打ち寄せる水辺で余暇を楽しんでいるのに、何かの磁力に引き寄せたのか、ただ同じような公害地帯でうろうろしている、その姿が少し悲しかった。
巷の庶民がせいぜい楽しむことができる娯楽として、まさに劇場に回って行っているのだろうが、私たちも時々そんな娯楽の恩恵を受けるときがある。しかし、白昼の長蛇の列に並ぶほどの熱情はもてない。事実、娯楽はその時の気分と直結されているものだという時と、場所が問題である。
いくらか前に韓国映画界でまれに見られる秀作だと、それを見なければ悔いが残るだろうと言うような広告と映画評論に引かれて真昼にウルジロの方に行った。劇場を出てきた足で薬局へ行き胃薬を買って飲んでも不快感は簡単には消えなかった。映画自体も問題以下のものであるが、いやな匂いがする密閉された倉庫のようで30分もたたないうちに頭が痛くなり始めた。楽しみに行ったのに楽しいどころか苦痛を味わったのだ。誤った広告文にだまされたこちら側ではあるが。
私はだから早朝割引が好きだ。その理由は決して割引があるからではなく、早朝の雰囲気にあるのだ。まずは窓口の前に並ぶ必要がないから簡単でいい。行列に並ぶと娯楽は半分ぐらいその幅を失う。
そして、どこにでも座りたい席に座ることができると言う特権がある。案内嬢の心細い小さな懐中電灯に指示されずとも選択した座席が準備されているのだ。せっかく与えられた座席の前に壁のように座った座高の高い人が視野をふさぐような時、私の罪のない首は被害をこうむらなければならない。しかし、早朝ならそんな被害もない。
何よりも早朝の魅力はまばらに座っているその余裕のある空間にあるようだ。私たちが映画とか演劇を見ると言うことは、単調に繰り返される日常的な束縛からぬけだして色の違う世界に自分を投入して楽しもうとすることだ。密接した日常映画館にまで延長されたならば、どうして色の違う世界を成すことができるだろうか。
そのような密接は通勤時間の満員バスや、ぴっちりくっついている隣の家の軒先だけでも十分だ。とてもせちがない世の中でまばらに座る事ができるそんな空間は余裕があっていい。
そうやって座っている後姿を見ると、言いようのない親しさが押し寄せてくる。今朝の隣人たちはどんな人たちだろうか。もしや、とても善良なゆえ仕事場から押しのけられた人たちだろうか。いずれにしても皆、善良な人たちのようだ。誰かが間違って自分の足を踏むことで、そんなことで目をむいたり言いがかりをつけたりする人ではないようだ。低い声で話をすると詰まっていた考えがするするとほどけるそんな隣人たちのようだ。
「25時」を見て出てきた去年の夏の早朝、何人かの顔に涙の後があったとき、私はふと「ヨハン モリッツ!」とその人たちの手を握りたい衝動を感じた。(月間文学1970,10)

原文はこちらから
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法頂 無所有より

2012-12-16 05:40:11 | 韓で遊ぶ
15 回心記

自分の心が自分の思いのままにすることができたならば、私は何事にもとらわれない一人の仙人になるだろう。そうできないゆえ、あらゆる何か葛藤の中で身を焦がしているのだ。問い正してみると外部の刺激によってと言うよりは、心を食い止めることができないところにその理由があるようだ。
3年前、私たちが寝泊りしている寺の敷地が、宗教団体の何人かの事務僧によって売られてしまったとき、私は怒りのために何日か眠ることさえできなかった。宗派全体の意見を無視して何人かで内密に強行してしまったことにより、数千本の大きな松の木が目の前で倒れていくとき、そして夜昼なくブルドーザーが山を削るとき、本当に心が痛く耐えられなかった。
私を取り囲むすべての物が恨めしく、呪わしかった。共に暮らしていた住職僧も他の寺を任されて行ってしまい、その影に取り付いて生きていた私はそれこそのけ者状態になっていた。私は他の修行場に移って現場を見ないようにしてしまおうと、内心思っていた。
そんなある日、明け方の法堂で礼拝を終えて降りてくる途中、ふと、ある考えが浮かんだ。本来無一物!本来、ひとつの物もないというこの言葉が浮かんだ瞬間、胸につかえた塊が瞬間的にするっと解けてしまったのだ。
そうだ!本来、ひとつの物もなかったのだ。この世に生まれてくるとき持ってきた物もなく、この世界を去るときも持っていく物もないのだ。因縁によってあった物が、その因縁が尽きるとなくなってしまうのだ。いつか、この体も捨てていく日が来るのに、、、
このような考えに至ったら、その前までの観念がとても変わってしまった。私が住職としての役目を果たさないで生きたならばどこへ移っても同じではないか。衆生が絡み合って作る娑婆の世界ならばどこも同じだ。それならば私の心を決める時だ。
いっそのこと、不正の現場で私を育てて見よう。地に倒れたら地に手をついて起き上がると言う昔の人の言葉もあるではないか。この時から売られた地に対しても愛着を捨てた。その土地は元々、寺の所有の土地ではなかったのだ。信徒が寄付をしたのでなければ、その時まで、持ち主がいなかった土地を寺が所有したのだ。そして、その因縁がなくなって離れていったのだ。そして、寺の敷地を売ったと言ってその土地がどこかへ行くものでもなく、ただ、所有者が代わったということだ。
この日から、心が穏やかになり、ちゃんと眠れるようになった。あんなにうるさかったブルドーザーや、岩を砕くコンプレッサーの音が何でもなく聞こえた。それは、このように思ったからだ。他人に向かってはしばしば、施しなさいと言いながら、今まで私は自分の何をどれぐらい施して来たのか。今のあの音は私の眠りを妨害するためではなく、家のない隣人に家を建ててやる為に地を削る音だ。この音も我慢できないというのか。
そして、仕事場では数百人の労働者が夜も眠らないで汗をかいて仕事をしている。その人たちにはそれぞれに何人かの扶養家族がいるのだ。彼らの家族の中には、入院患者もいるだろうし、入学金を払わなければならない学生もいるだろう。練炭も買っておかなければならないし、雪が降る前にキムチも漬けなければならないのだ。自分が彼らに与えてやることができないどころか、生きるために仕事をする音さえ聞くのがいやだというのか。このように思ったら、あのようにうるさく、頭が痛かった騒音が何でもなく聞こえた。このときを境に私は従来までの思考と価値意識がとても変わった。この世の中は自分ひとりだけではなく、多く隣人と共に仲良く生きているという事実が肯定的に刻み込まれた。
所有の観念とか損害に対する概念も自然と修正されるしかなかった。自分のものというのは何もないから、本質的に損害があることはない。また、自分の損害がこの世の中の誰かの利益になることができたなら、それは失ったということではないという論理だった。
寺にも時々泥棒が入る。寺だからといって例外ではないから。周期的に入ってくるなじみの泥棒がいてお粗末な戸締りに対して家の持ち主に注意を喚起しているのだ。毎日使っているものを全部なくした時、けしからん、悲しいという思いが頭をもたげたと思った。その時、例の本来無一物がその思いを打ち消した。
しばらくの間、任されて持っていたものを返したのだと。ややもすると物を失って、心まで失ってしまうところだった、空手来、空手去(何も持たないで来て、何も持たないで去る)の教訓を私の心を守ってくれたのだ。
大衆歌謡の歌詞を借りることもないが、自分の心を自分でもわからない時がなくはない。本当に私たちの心というものは微妙なことこの上ない。寛大であるときは世の中のすべてを受け止めても、一度こじれると針の先ほどさえ受け止められないから。そんな心を省みることは決して簡単なことではない。しかし、それが私の心だから、ほかの誰でもなく私自身が活用できてこそ思うことだ。怒り火花の中から抜け出そうとしたら、外部との接触にも神経を使わなければならないが、それよりも考えを振り返るという日常的な訓練を前もってしなければならないようだ。だから、心に従うのではなく、心の持ち主になりなさいと昔の人は言ったのだろうか。(世代1972,12)


原文はこちら
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法頂 無所有から

2012-12-14 16:43:18 | 韓で遊ぶ
14 東西の視力

自分の体が元気なときは少しもそんなことを思いもしなかったのだが、どうしたものか、病んでみると肉体に対する悲哀を感じる。はじめはたいしたことないと思っていたが、少し過ぎたころ、意を決して、薬局へ行った。そうしていて、ついには頭の重い病院の敷居をまたぐこととなる時その悲哀を感じることになる。診察券を貰い順番を待って座ってぐったりしている時間には、その体がすっかり手におえないほどになる。医者に対したときには、私たちは話をよく聞く素直な子供のようになってしまう。
一昨年の冬だったか、目が痛み、しばらくの間、病院にかかったことがあった。その頃、聖典の刊行に没頭していて右側の目が充血して具合が悪く、とてもよくない状態だった。目薬をさしても効かなかった。ぐずぐずと一日伸ばしにしていたが、意を決して新聞によく広告を出している眼科へ行った。私のように雑で面倒くさがり屋の人が大概そうであるように、広告に誘導されるようだ。
その眼科は患者で混んでおり、診察時間よりも待っている時間が何倍も長かった。医者は押し寄せた患者のせいでそうなのか、競技場から出てきた運動選手のように勇ましく、私の目を調べた。視力には問題がなかった。記帳所のような垂れ幕のかかった所を指差した。待機していた看護婦が尻に注射をさした。そして目薬を一瓶、至極簡単で迅速な治療だった。毎日通いなさいと言ったが、私はその医者の招待を辞退した。毎日通うほどの誠意も時間もなかったからだが、何よりもその医者が信頼できなかったからだ。
次の日、その道の向かい側にある眼科へ行った。落ち着いた雰囲気だ。もちろん勇ましい医者ではない。病名は球結膜浮腫。私たち市民社会の言葉では、白目が少し腫れたという事だ。視力には影響ないから心配せず、ゆっくり休むようにと言った。だが、刊行予定のために目を休ませることはできなかった。しなければならないことが山積みで体がついていけないことが切なかった。
そんなこんなして一週間が過ぎた。医者は心配するなと言ったが、当事者としての私は、よくなる気配がないので、内心不安になるしかなかった。今度は大きな総合病院へ行った。そこは診察券を貰う窓口から混んでいて、廊下ごとに患者であふれていた。世の中の人々が皆、病んでいるのではないかと思うようだった。私も患者の一人だと思った。1時間近く眼科の前で待っていたが、もうあきらめて帰ろうとした時、私の名前が呼ばれた。診察の参考になるかとそれまでの経過を説明したが、担当医師は首をかしげ、私の理解できない文字で書きなぐった。看護婦は私を血液検査室に送った。それから、便を取ってくるように言った。ここでどうしてこんな検査をするんだと思ったが、素直な子供になった患者は言われた通りに従った。そうしながらもこんな思いがかすめた。そうか、総合病院というところは本当に総合的にするところだ。支払いも総合的に公平に分散させるところだと。
血液やら、便の検査結果はもちろん正常だった。そのように正常な私の体を今度は手術室へつれて行ったのだ。組織検査をするということだった。その方面に詳しくない私は組織検査がどういうものか、まったくわからなかった。もし、事前にわかっていたら、それだけは断固として応じなかったのに。手術台に横たわり目の周囲に麻酔注射をした。球結膜を2箇所切って縫った。私の目は拉致犯ではなく医者の手によって徹底的に覆われた。
これも後になってわかったことだが、もし癌だったらと組織検査をしたということだった。1週間後にその結果が判明するということだったが、片方の目に眼帯をした私の姿は息苦しく呆然とした心境だった。帰り道、ふと自分の肉体にすまないという思いがした。普段、よく食べて休ませてやることができず、あまりにも酷使したのだと思ったら、今さらながら、哀れに思った。そして、その報いを受けた体全体が、まさに苦しんでいるという事実を重ね重ね痛感した。検査結果を待っていた1週間の間、不安な日々となった。不必要な想像が自分勝手に翼を広げた。クソォ!生きていたら病身にでもなると言うのか、、、
このときベートーベンがなかったら、何の慰めを受けることができてろうか。どんな病気だとしても、彼が直面したものに比べれば大したことではないように思えた。彼の過酷な運命的な生涯が、病苦に萎縮した冬の私を暖かくそして明るく照らしてくれたのだ。
検査結果は血管が少し収縮したのだと言うこと。それだけのことだった。幸いだと思った反面、けしからんと思った。お金をかけて病気を作っているのではないか。その間にこうむった精神的な被害はさておき、組織検査と称して目をいじくったことになる。医者自身やその家族の場合だったらばそのようにするだろうかと思った。しかし、考え直そうと心に決めた。そうすれば心が落ち着くから。なぜ、よりによって私がその日その病院に行ってその医者の診察を受けることになったのか、それはすべてが因縁ゆえだからだ。仮にその医者の慎重でない臨床試験として私の肉体が被害をこうむったとしても、それは私が受けなければならない報いなのだ。私が切なくて訪ねていったのだから。そして有機体である私の肉体を常に温存しておきたいと望んだことからして報いを受けることだ。目はその後、韓医師の薬を貰って5袋飲んだらすぐに治った。組織検査の後だけが残ったことになる。その韓医師によれば、あまりにも過労だったので心臓に熱が生じて上気したとのこと。上気すると球角膜が腫れる事があると言った。心臓の熱だけ収めるとひとりでに治ると、処方してくれた薬を飲んだら治ったのだ。
ところで、皆が医学博士であるその医者たちが病気の根源がどこにあるのかわからないで、出てきた症状だけを治療していたのだった。その時、私は眼病を通して新しい目を開けることができた。社会現象を、似ている事物の実像を、側面からみることができる、そんな目を。そして、東洋と西洋の視力のようなものを自分なりに計ることができた。漠然とした肉体の悲哀を経験して。(現代文学1973,11)
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