福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

ライトアップの中之島に架かる橋・・川面に映すラウト‼️・・土佐川と堂島川に架かる橋の名前は?

2019-12-23 00:10:00 | 思い出シーン
大川が中之島で分岐して
北側が堂島川
南側が土佐堀川
中之島に架かる橋の名称だ

歩きながら、立ち止まり、手持ちでパチリなので上手くいかないけど!😓

大阪市公会堂のプロジェクトマッピングの後、堂島川 水晶橋迄行って見た
水晶橋は特にライトアップはしていない
水晶橋から 川下
大江橋方面を望む



水晶橋から上流の
鉾流橋(ほこながしばし)を望む



◉土佐堀川
栴檀木橋(せんだんのきばし)


◉難波橋・・・・中之島を跨いでいる(堺筋線)
難波橋がら逆鉾橋を望む


難波橋南側  ライオン橋とも親しまれる難波橋

中之島公園(バラ園)でも

イベント会場を通り抜けて

中之島北端に近い

天神橋・・・中之島を跨いでいる・・・・天神橋筋
土佐堀川 側

堂島川 側

阪神高速道路道路下を潜りイベント会場横を通り抜け

堂島川 側の難波




難波橋から

北浜交差点  大阪証券取引所

地下鉄 淀屋橋駅で下車、中之島公園を通り抜け 地下鉄 北浜駅迄の足早のスナップ写真です。

地下鉄 北浜駅で帰ります。

✳️ナイトクルーズを行なっているが

過去の乗船時のシーン

堂島川を上る
難波橋を潜り抜け

中之島の先端  大川が堂島川と土佐堀川の分岐点・・・中之島公園 剣先の噴水です

天満橋を望む・・・・京阪シティモール(昔は松坂屋が入っていたけど・・・)

土佐堀川を下る
難波橋を潜る

振向けば難波橋

下ると
栴檀木橋方面  ここでユータンです



ユータン
土佐堀川を上る
大阪証券取引所
ライオン橋の所以
難波橋を潜り
天神橋を潜り
剣先の噴水 此処を左に堂島川へ
噴水は残念でした

天神橋を潜り
クルーズも終わりです

以上、以前の乗船時シーンでした。

✳️余談

◉大江橋
大阪市庁舎北側を流れる堂島川に架かる橋で、元禄年間、堂島の開発に伴って新しく架けられた堂島川五橋(大江橋・渡辺橋・田蓑橋・堀江橋・船津橋)の一つです。この五橋は、元禄五橋ともいわれ古い歴史をもっています。
橋名は、大伴家持の歌「玉藻刈る 大江の浦の 浦風に つつじの花は 散りぬべらなり」に詠まれた地名に由来しています。

◉淀屋橋
大阪で最もよく知られ、親しみのある橋といえばこの淀屋橋ではないでしょうか。橋名は、この橋の南詰あたりに屋敷を構えた豪商、淀屋にになむと伝えられますが、確たる証拠はありません。
明治18年(1885)の大洪水によって流失した後、橋脚が鉄杭となりました。
さらに大正11年(1922)から始まった大阪市の第1次都市計画事業の一環として淀屋橋も架け替える対象となり、意匠設計のコンペが行われました。その結果、大阪の大谷龍雄氏の入選作(一等)がデザイン・設計の原案として採用され、昭和10年(1935)に、現在の淀屋橋が完成しました。
淀屋橋、大江橋の両橋梁は中之島に立地する市庁舎を挟む位置にあるため、景観的にもまた機能的にも最重要の位置付けられ、コンペでは幅員、橋長などのほかに、主構造を鉄骨鉄筋コンクリートのアーチ橋とし、周辺の建築物や背景と調和し、道路部分のデザインも考えること、などの条件が示されました。
淀屋橋の主桁構造は鋲結 I型鋼、床部構造は鉄筋コンクリートで、基礎は木杭基礎である。高欄の構造は花崗岩貼りで、格子は青銅鋳物を採用しています。
こうした歴史的環境によって大阪市民はこの橋に特別な感情を抱いています。

◉水晶橋
大阪市役所の北側、堂島川に架かる水晶橋、今は人道橋となっていますが、昔は水質浄化を目的として建設されたダムで、正確に言えば橋ではありませんでした。
この可動堰がつくられた昭和4年(1929)の大阪市内の川はすでに、工場からの汚水や生活排水が流れ込み非常に汚れていました。
橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋として利用されています。
水晶橋という名の由来ははっきりしませんが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説と、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという二つの説があるようです。

◉逆鉾橋
鉾流橋(ほこながしばし)は中之島北岸(大阪市中央公会堂や東洋陶磁美術館付近)と西天満(大阪高等裁判所や天満警察署付近)を繋ぐ堂島川に架かる橋です。
毎年7月24日の朝、橋のたもとで天神祭の「鉾流し神事」が行われることがこの橋名がの由来です。
初めて橋が架けられた大正7年(1918)には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成し、同5年に新築されていた大阪控訴院を含め周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まる中、架橋されました。
現在の橋が昭和4年(1929)に完成した際には、天神祭の鉾流神事が行われることを考慮し、高欄、照明灯、親柱など日本調にデザインされました。その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年(1980)に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備されました。特に欄干は、中央公会堂の廊下・階段の手すりと同じデザインが採用されています。

栴檀木橋(せんだんのきばし)
栴檀木橋は、江戸時代の初期、中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたと考えられ、その昔、橋筋に栴檀の大木があったところからその名が付けられたという。当時市中と中之島を結ぶ橋上からは、生駒連山を背景に大阪城を望み、天満・天神・難波の三大橋を眺めることができた。
明治18年、淀川大洪水が発生し、この橋をはじめ、中之島に架かる多くの橋が流された
栴檀木橋が再び姿を見せたのは大正3年のことで、以後昭和10年に架けかえられ、中之島公園とともに、広く市民に親しまれてきた。
このたびの架けかえにあたっては、高欄に栴檀の模様を配し、橋詰の整備も行って、この由緒ある橋の歴史を顕彰することにした。
昭和60年9月 大阪市

◉難波橋(なにわばし)(ライオン橋)
江戸時代、天神橋、天満橋とともに浪華三大橋とよばれた難波橋は、大坂の八百八橋を代表する長大橋であった。
当時、大川の川幅は現在より広く、また中之島の東端が難波橋の下流部にあったため、二百メートルを超える木橋として堺筋の西側の筋に架けられていた。
反りのあった難波橋からの眺望は、特に優れ、周辺の十六橋や遠くの山々を眺めることができ、橋の上は花火見物や夕涼みなどの一等桟敷となり、上方文化を育む絶好の行楽地としてにぎわっていた。
木橋であった頃は大川の洪水により幾度となく被害を受けたが、明治九年(1876)架け替えの際、北側部分が鉄橋化され、近代橋梁のあけぼのとなった。大正四年(1915)市電事業により、堺筋に移設されるに伴い、構造は重厚なアーチ式となり、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、精巧な彫刻の橋塔、などの意匠が施された。橋詰の四箇所には堂々たるライオン像が設置されたことから、「ライオン橋」の愛称で、現在も市民に親しまれている。昭和五十年(1975)合成桁形式に替えられたが、旧来の姿を保全するように配慮され、当時の雄姿を今に残している。

◉天神橋(てんじんばし)
天神橋(てんじんばし)は、大川(旧淀川)に架かる橋で、天満橋、難波橋と共に浪華三大橋と呼ばれました。
北詰以北が天神橋筋、以南は松屋町筋(大阪市道・天神橋天王寺線)という昔からの街道筋を繋ぐ重要な役割を果たしてきました。
豊臣秀吉の時代に架けられたとされ、当初は大阪天満宮が管理をしていましたが、江戸時代に他の主要橋とともに幕府管理の公儀橋となりました。
明治初期までは木橋であったため、明治18年(1885)の水害で流失し明治21年(1888)に鋼製のトラス橋として架け替えられ、昭和9年(1934)には松屋町筋の拡張に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7mの3連アーチ橋となりました。

◉天満橋
天満橋(てんまばし)は、大川(旧淀川)に架かる橋で、天神橋、難波橋と共に浪華三大橋に名を連ねました。
大阪市北区天満と大阪市中央区天満橋京町の間を結んでいます。
天満橋は、2階建ての橋になっていて、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋になっています。
天満橋南詰には、天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、南を谷町筋といい、天満橋上は天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉南線)にあたります。
江戸時代に架けられた幕府直轄管理の公儀橋で、橋の南側に東西両町奉行所が置かれたこともあり、また北側には現在に今に残る町名(大阪市北区同心・与力町など)から推察できるように町与力の屋敷や役人が管理する蔵屋敷が配され、役人の連絡・往来が盛んでした。