※大長編なのでせっかちな人はオススメしません。
第三回暗渠歩こう会は、天気もなんとか持って決行されました。
今回は、神田川の支流で新宿区~渋谷区~杉並区を流れていた幻の川
「旧和泉川」の暗渠を辿って行きたいと思います。
西新宿の今は亡き「けやき橋商店街」近くの神田川に支流「旧和泉川」の合流点が垣間見られます。
無事発見できたので、ここからスタートいたしましょう。
幸先良く、なぜられるネコも発見!
バンバンになぜられました。
人懐っこいっと言うよりは、人に関心が無いって感じでしたが・・・
は~い、暗渠ガイドさんが指差してくれていますが、暗渠遊歩道がここからスタートいたします。
昭和30年代の東京オリンピック前後に暗渠化されたこの川は、
河川としての行政登録はいっさいされておらず正式な名前もありません。
「和泉川」と言う名称は、戦前の文献に一部見られた名称であって正式名ではありません。
今は河川マニア、暗渠マニアの間での「通称」となっているだけです。
つまり、この暗渠のもとの川は、ただのドブ川という括りでしかないのです。
そのくせ、この暗渠の最大の特徴は、随所に川だった証でもある橋梁跡が残されていることです。
この橋梁跡には「長者第一号号橋」とあります。
間違えなくここには川が流れており、橋が架かっていたと物語っています。
「羽衣橋」
橋梁には決まりで漢字とひらがなで橋の名前が表記されています。
そして、橋を架けるときには必ず名前をつける必要があるようです。
名前が無ければ、橋としては認められないのです。
この暗渠の暗渠らしいところは、
橋梁が残っていることと遊戯器具があるところでしょうか。
「旧和泉川」が暗渠化された昭和30年代は空前の建築ラッシュとベビーブームで
子供の遊び場だった公園や空き地が減少していた時期だったのです。
そこで暗渠化された川の上に公園代わりの遊び場ができたんですね。
ちなみに、西新宿5丁目のこのあたりは伊丹十三監督の「タンポポ」の舞台になった暗渠です。
「柳橋」
「昭和七年」の銘が刻まれています。
確かに年季が入っています。
恐らく、老朽化の理由でなんのこだわりもなく知らないうちに無くなってしまうのかもしれません。
残念ながら川が暗渠化されてしまった今では、なんの役にも立っていないわけですから。
近在の商店街も年季が入っています。
「はっぴいえんど」のファーストアルバムのジャケットに描かれている店もあったとか。
川があったためか、暗渠沿いには区境が多く見られます。
塀一枚挟んで新宿区から渋谷区になります。
渋谷区にあるアパートの名称が「十二社」とはこれいかに?
暗渠が新宿区から渋谷区に移ると味気が無い風景になります。
整然としているわけではないのですが・・・
「榎橋」
後からできた建物や植物で橋梁の名称が見えなくなっている箇所も多かったです。
この橋もやっと読めるぐらいの状態。
しかも、「大正十三年」です。
はぁ~
方南通りを渡って山手通りとの交差点に暗渠はさしかかります。
そう、「清水橋」の交差点。
いきなり橋梁は取って付けたように立派になります。
そして暗渠は渋谷区に入っていきます。
暗渠道なんだか車道なんだか判らない道が続いて、
「二軒家橋」
一応、橋梁もありますが・・・
やはり暗渠とはいえ大雨が降れば水が出やすいらしく土嚢が随所に置かれています。
「弁天橋」
延々と甲州街道に平行した北側を西に向かって歩きます。
「村木橋」
久しぶりに年季の入った橋梁です。
「本村橋」
「新橋」
「地蔵橋」
渋谷区本町にあたりは行けど行けども住宅街。
名も無い橋梁跡のところに「電話線」の文字。
ふむ・・・
花の季節でしたね。
また「柳橋」
ネコ。
毅然としていました。
「新道橋」
幡ヶ谷駅から降りてくる「六号坂通り商店街」にぶつかります。
古い家にいくつかの大きな樹が複雑に絡まりあった風景がありました。
ビワがたわわになった樹もあって、なかなかの光景。
六号坂からしばらく行くと暗渠は姿を消して、「中幡商店会」通りの下に潜ります。
その証拠にこの通りは不自然にクネクネしていて、昔川だったことを思わせるのです。
この通りは中野通りまで続きます。
商店会もなかなか歴史を感じさせる渋い店がありますね。
中野通りにぶつかると、ようやく暗渠らしき道が戻ってきました。
まだまだ暗渠は続くのです。
で、つづく。
第三回暗渠歩こう会は、天気もなんとか持って決行されました。
今回は、神田川の支流で新宿区~渋谷区~杉並区を流れていた幻の川
「旧和泉川」の暗渠を辿って行きたいと思います。
西新宿の今は亡き「けやき橋商店街」近くの神田川に支流「旧和泉川」の合流点が垣間見られます。
無事発見できたので、ここからスタートいたしましょう。
幸先良く、なぜられるネコも発見!
バンバンになぜられました。
人懐っこいっと言うよりは、人に関心が無いって感じでしたが・・・
は~い、暗渠ガイドさんが指差してくれていますが、暗渠遊歩道がここからスタートいたします。
昭和30年代の東京オリンピック前後に暗渠化されたこの川は、
河川としての行政登録はいっさいされておらず正式な名前もありません。
「和泉川」と言う名称は、戦前の文献に一部見られた名称であって正式名ではありません。
今は河川マニア、暗渠マニアの間での「通称」となっているだけです。
つまり、この暗渠のもとの川は、ただのドブ川という括りでしかないのです。
そのくせ、この暗渠の最大の特徴は、随所に川だった証でもある橋梁跡が残されていることです。
この橋梁跡には「長者第一号号橋」とあります。
間違えなくここには川が流れており、橋が架かっていたと物語っています。
「羽衣橋」
橋梁には決まりで漢字とひらがなで橋の名前が表記されています。
そして、橋を架けるときには必ず名前をつける必要があるようです。
名前が無ければ、橋としては認められないのです。
この暗渠の暗渠らしいところは、
橋梁が残っていることと遊戯器具があるところでしょうか。
「旧和泉川」が暗渠化された昭和30年代は空前の建築ラッシュとベビーブームで
子供の遊び場だった公園や空き地が減少していた時期だったのです。
そこで暗渠化された川の上に公園代わりの遊び場ができたんですね。
ちなみに、西新宿5丁目のこのあたりは伊丹十三監督の「タンポポ」の舞台になった暗渠です。
「柳橋」
「昭和七年」の銘が刻まれています。
確かに年季が入っています。
恐らく、老朽化の理由でなんのこだわりもなく知らないうちに無くなってしまうのかもしれません。
残念ながら川が暗渠化されてしまった今では、なんの役にも立っていないわけですから。
近在の商店街も年季が入っています。
「はっぴいえんど」のファーストアルバムのジャケットに描かれている店もあったとか。
川があったためか、暗渠沿いには区境が多く見られます。
塀一枚挟んで新宿区から渋谷区になります。
渋谷区にあるアパートの名称が「十二社」とはこれいかに?
暗渠が新宿区から渋谷区に移ると味気が無い風景になります。
整然としているわけではないのですが・・・
「榎橋」
後からできた建物や植物で橋梁の名称が見えなくなっている箇所も多かったです。
この橋もやっと読めるぐらいの状態。
しかも、「大正十三年」です。
はぁ~
方南通りを渡って山手通りとの交差点に暗渠はさしかかります。
そう、「清水橋」の交差点。
いきなり橋梁は取って付けたように立派になります。
そして暗渠は渋谷区に入っていきます。
暗渠道なんだか車道なんだか判らない道が続いて、
「二軒家橋」
一応、橋梁もありますが・・・
やはり暗渠とはいえ大雨が降れば水が出やすいらしく土嚢が随所に置かれています。
「弁天橋」
延々と甲州街道に平行した北側を西に向かって歩きます。
「村木橋」
久しぶりに年季の入った橋梁です。
「本村橋」
「新橋」
「地蔵橋」
渋谷区本町にあたりは行けど行けども住宅街。
名も無い橋梁跡のところに「電話線」の文字。
ふむ・・・
花の季節でしたね。
また「柳橋」
ネコ。
毅然としていました。
「新道橋」
幡ヶ谷駅から降りてくる「六号坂通り商店街」にぶつかります。
古い家にいくつかの大きな樹が複雑に絡まりあった風景がありました。
ビワがたわわになった樹もあって、なかなかの光景。
六号坂からしばらく行くと暗渠は姿を消して、「中幡商店会」通りの下に潜ります。
その証拠にこの通りは不自然にクネクネしていて、昔川だったことを思わせるのです。
この通りは中野通りまで続きます。
商店会もなかなか歴史を感じさせる渋い店がありますね。
中野通りにぶつかると、ようやく暗渠らしき道が戻ってきました。
まだまだ暗渠は続くのです。
で、つづく。