12月22日より全国公開予定
《本記事のポイント》
- ドイツ人映画監督ヴェンダースが感じ取った東京の雑踏の美しさの奥にあるもの
- 平凡な日々のルーティンの中に、新しい発見を見出す力
- 心に隙を作らないための"防御壁"としてのシンプルライフ
「パリ、テキサス」「ベルリン・天使の詩」で知られるドイツ人映画監督、ヴィム・ヴェンダース氏が、東京・渋谷区内17カ所の公共トイレを、世界的な建築家やクリエイターが改修する「THE TOKYO TOILET プロジェクト」へ参画。
本映画は、それを生み出された、トイレ清掃員・平山(役所広司)のストーリーだ。平山が送る"丁寧で新鮮な生活"の中に、忘れられていた日本的美徳が浮かび上がる。
共演者は田中泯、柄本時生、石川さゆり、三浦友和ら、である。
カンヌ国際映画祭では役所広司氏の男優賞と併せ、キリスト教関連の団体から、人間の内面を豊かに描いた作品に贈られるエキュメニカル審査員賞も受賞した。
ヴェンダース監督が捉えた東京の雑踏の美しさの奥にあるもの
トイレの清掃員として働く平山。彼は夜明け前、隣の神社の境内を掃除する箒の音で目を覚まし、布団をたたみ、歯を磨き、植木に水をやり、作業服に着替え、ミニバンに乗り込んで都心へと向かい、渋谷区内の公衆トイレを巡回して、便器一つ一つを丁寧に磨き上げていく。
帰宅後は、銭湯に入り、馴染みの居酒屋で一杯のアルコールとつまみを頼み、帰ると文庫本(フォークナーや幸田文)を読みつつ眠りに落ちる。映画はこの平山が送る、規則的な日常を描くことに終始する。
それは、一見すると極めて退屈で単調なものに見えるのだが、小津安二郎の事跡をたどる『東京画』(1985)を監督するなど、日本への造詣の深さで知られたヴェンダース氏は、「パンデミックが終わりつつある頃、東京で数日間過ごしていて、"美しい"と感じ、それを映画にしてみたいと思った」(東京映画祭での舞台挨拶より)のだという。
そして、その美しさは、街の清掃に携わる人々を始めとした、日本人自身の、自らの仕事に対する職人的な要求と美意識が創り出しているものとして描かれていく。
「陶芸家の秘訣は、毎回、初めて作陶するかの如く取り組むことですが、映画のトイレ清掃員・平山にとっても全く同じです。
毎日、彼は初めて清掃するように取り組んでいるのです。彼は昨日どうやったか、明日どうやるかなど、一切考えていない。彼は清掃している瞬間に集中しているのです。それは陶芸家の秘密でもあります。そしてそれが、どのような種類の繰り返し仕事にも、全く違った威厳を与えるのです。」(バラエティー誌での監督インタビューより)
当たり前のことを極めて、他人の追随を許さない領域に達する道を「凡事徹底」というが、平山の淡々として実に丁寧な仕事ぶりは、その典型だとも言えるだろう。
幸福の科学・大川隆法総裁は著書『凡事徹底と静寂の時間』の中で、「一見、つまらないと思うかもしれないけれども、自分がやらなければならない仕事につながっている『凡事』を徹底的にやり続けていかなくてはいけません。そして、一定の域を超えてしまうと、あたかも、ボールが止まって見えたり、ボールの縫い目が見えたり、あるいは、闇夜のなかで的の中心に弓を射ることができたりするようになります」と指摘している。
ヴェンダース監督が描こうとしたことは、パンデミックを経て、世界的に恐怖や相互不信が深まる中にあっても、日常生活を淡々とやり抜く日本人の心の中に息づく「凡事徹底」の精神だったとも言えるのではないだろうか。
ルーティンの中に、新たな発見を見出す力
単調に見える毎日を、平山が新鮮な小さな歓びに満ちたものとして生きていけるのはなぜか。
ヴェンダース監督は平山の観察力の鋭さに光を当てる。
隣接する神社のベンチで昼食を取りつつ、頭上で揺れる枝葉の葉音に耳を傾け、その木洩れ日の精妙さを捉えようと、毎日、一昔前のフィルム式カメラで写真を撮る。公園で野宿生活を送るホームレス(田中泯)の動きを凝視する。トイレの隅に置かれた紙片を見つけると、その書き込みに思いやりを込めてペンを加え、同じ場所に戻す。
「平山にとって、すべての人は平等です。彼にとっては"何者でもない誰か"などいない。彼は自分の周りの"何者でもない誰か"を非常に鋭く認識します。そのホームレスも、彼の目にはとても大切な一人の人間です。私たちは平山を通して、その人がどれほど面白い人物なのかを知るのです」(同インタビューより)
いろいろな機会に自分なりの発見を積み重ねていくことが、その人の深みや厚みとなり、智慧や人間的魅力になっていく。こうした人間観察を重ねることが自身の内なる力を育み、人生の上質さを生み出すという内面的なプロセスを、平山役の役所広司氏が見事なまでにごく自然に演じている。
心に隙を作らないための"防御壁"としてのシンプルライフ
ある日、平山の妹・ケイコ(麻生祐未)の娘で姪のニコ(中野有紗)が家出をして、平山のアパートへ押しかけて来る。
ニコは平山を説き伏せて仕事場へついていき、公衆トイレを真剣に清掃していく平山の姿に言葉を失うが、休憩時、神社の境内で木洩れ日を見上げる平山の姿を見て、自身にも笑顔が戻ってくる。
しかし母のケイコが運転手付き高級車でアパートに乗り付け、ニコを連れ戻しにやってくる。
ケイコは、父親を見舞おうとはしない平山をなじり、トイレ清掃をしていることに対して、"信じられない"という素振りを示す。
ここで映画の観客に対して、平山がこの単調な生活を守り続ける訳が、わずかに示される──。
あとは想像するしかないが、もしかすると、平山はかつてバブル期に豪奢な浪費生活に明け暮れていたのかもしれないし、あるいは経営者として失敗し、従業員や家族を路頭に迷わせるなど、何か人間として大切なものを失ってしまったのかもしれない。その後悔と、二度と同じ過ちを繰り返さない誓いとして、シンプルな暮らしを守り続けているかもしれない。
ヴェンダース監督は、都内で撮影を行う中、「自分には日本人の魂がある」という感覚に襲われたという。
仏教では、「足ることを知る」という中道の中で自分の心を守ることが重視され、心の隙を作らない防御壁として戒律や簡素な生活が尊ばれる。
そのシンプルライフの美徳と価値をすくい上げたヴェンダース監督は、現代の多くの日本人以上に「日本の心」に迫り得たと言えるだろう。