ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

「気質」と「性格」の違い。

2018年03月10日 11時12分01秒 | ことば
人にはいろいろな性格の人がおります。
それらを表すのに、几帳面、責任感、完璧さ、そしてこれ等の対極の、いいかげんさ、ずぼら、無責任さなどが挙げられます。
これ等は人が持つ「性格」と一般には考えられております。

ですが、人はあるときには几帳面であったり、またあるときにはそうでなかったりする時があります。
私などは自分の「性格」はずぼらで「その時、間に合えばよい」と考えることが多いほうに、属していると自覚しています。
人はある面では「几帳面」なのに、別な面では「几帳面」ではない事があります。

例えば、自動車に燃料を入れることを考えてみましょう。
ガソリンの残量をとても気にしている人がいると仮定しましょう。ガソリンの残量がとても気になり、まだタンクには半分以上も残っているのに、格別出かける予定が無いにもかかわらずいつも満タンんでなければならないと思う人もおります。
その人は、災害がいつ発生するかは分からないと考えて、それに備えて燃料をいつも満タンにしておきたいのでしょうか。
いいえ、そうではないと思われます。そのような人は燃料タンクが満タン近くでなければ「気が済まない」人なのです。
このような「性格」の人には「完璧さ」が多くあると見ることが出来ます。

一方、ガソリンの残量を出かけるときに気に留めない人もおります。行った先で足りなくなったら、補充すれば良いと考える人です。
私などは、出かけるときには往復に要する距離を考え、それに間に合うだけの燃料がタンクに残っているようだと判断すれば、満タンにはこだわりません。
性格としては「その時、間に合えばよい」と思う方です。

さて、この「性格の違い」とはそもそも何なのでしょうか?
几帳面さや完璧さの「性格」は実は、それらの「量の差」ではないかと思うのです。言葉を変えれば、完璧さを多く持っているか、または少なく持っているかの「量の差」なのではないかと、思うのです。

一方、「気質」はどう考えたらようのでしょうか?
これは先に述べた「量の差」ではないように思われます。
これはまさしく「質の差」と考えることが出来ます。

「量の差」を変えることは、適切な方法によれば可能になります。
運動選手が自己を鍛えることや場数を踏むことにより、メンタリティーを改善できることがあります。
世界で一流と言われる運動選手は精神面でも「強い」と言われているのがその例です。

さて、話を「気質」に戻しましょう。
「気質」は人が生来的に持っているものと、一般には理解されております。

<気質(きしつ、かたぎ、temperament)とは、人間や哺乳類などの動物の集団が先天的にもっている刺激などに反応する行動特性である。
そしてこの気質を分類した学者がおりました。
クレッチマーの気質分類
エルンスト・クレッチマーの著作Körperbau und Charakter[1][2](『体格と性格』[3])による気質分類は以下のとおりである。

循環型気質:社交的なときと静かなときが交互に出る
分裂型気質:非社交的、気づかないところと気づくところ両方が出る
粘着型気質:几帳面、やることは凝る>
以上はウィキペディアからの引用です。

これによると、「気質」は人が生来的に持っていると考えられ、また「性格」は社会生活を営む過程で形成されるものであると思われます。

ここで自分の気質と性格はどれに当てはまるのかを、考えてみました。
わたくしは、様々な会合に出掛けたり町内会の役員などをしております。それらの席では初対面の人でも、会話をしたり自分の意見を発言することは、なんともなく行えます。
このとを、「八方美人」的であると見られることもあります。

クレッチマーの気質分類に従えば、自分自身は「分裂型気質」と自覚しています。ですが「性格」的に見れば「社交的」とも自分を考えることもできます。

「あの人はどうも暗い性格だ」という言葉を日常で聞くことがありますが、それは「性格」なのか「気質」なのかによって、改善できる面もあるような気がします。
性格や人格について意見を述べるのは、おこがましいのですが、それらが「量の差」であるならば、改善できることもあるのかと思うのです。







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« きょうは3月9日、サンキュ... | トップ | オイデイップス王を観て。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ことば」カテゴリの最新記事