先日、愛知県の大府市で公演された「オイデイップス王」を観てきました。
開演に先立ち大府市長の挨拶がありました。
それによると、今回の「「オイデイップス王」の公演は大府市芸術祭の一環として行われたとの事です。
そこで述べられた大府市長の言葉の最初に、その日が3月11日である事に触れられておりました。
3月11日は、忘れもしない東日本大震災が起こった日です。
被災地から遠く離れた大府市の市長様からそのことに触れていただいたことを、東北に住む私などには、ありがたい事だとまず感じました。
大きな災害が私たちに、いつ降りかかるかを予知できないのと同じように、「悲劇」はどの様な形と大きさをとるにせよ、私たちの身の上に降りかかるかもしれないなどと思ったりしました。
さて、その演劇を観た印象などを述べてみたいと思います。
まず観終わって思ったのは、重いテーマのこの「悲劇」をテンポよくまとめあげた演出家の力量を感じました。
観客の中には観劇を熱心な興味とはしていないだろうと思われる方々を対象としてる(と思われる)芸術祭のテーマに「オイデイップス王を取り上げることの意味は、決して軽くはないと思われたのです。
言うまでもなく、この演劇は古代ギリシャでの「悲劇」なのですが、それを観ながら思ったことがあります。
「オイデイップス王」が古代ギリシャの「悲劇」ならば、現代日本の東日本大震災による「原発事故」もまた、人が「プロメテウスの火」を手にした結果と捉えることが出来ます。
これから先、何十年も掛かる「原発事故」の処理の時間の長さを思うと、今の私たちと後代の人々に委ねる「悲劇」なんだなという事を考えながら、大府市の「オイデイップス王」を観てきました。
開演に先立ち大府市長の挨拶がありました。
それによると、今回の「「オイデイップス王」の公演は大府市芸術祭の一環として行われたとの事です。
そこで述べられた大府市長の言葉の最初に、その日が3月11日である事に触れられておりました。
3月11日は、忘れもしない東日本大震災が起こった日です。
被災地から遠く離れた大府市の市長様からそのことに触れていただいたことを、東北に住む私などには、ありがたい事だとまず感じました。
大きな災害が私たちに、いつ降りかかるかを予知できないのと同じように、「悲劇」はどの様な形と大きさをとるにせよ、私たちの身の上に降りかかるかもしれないなどと思ったりしました。
さて、その演劇を観た印象などを述べてみたいと思います。
まず観終わって思ったのは、重いテーマのこの「悲劇」をテンポよくまとめあげた演出家の力量を感じました。
観客の中には観劇を熱心な興味とはしていないだろうと思われる方々を対象としてる(と思われる)芸術祭のテーマに「オイデイップス王を取り上げることの意味は、決して軽くはないと思われたのです。
言うまでもなく、この演劇は古代ギリシャでの「悲劇」なのですが、それを観ながら思ったことがあります。
「オイデイップス王」が古代ギリシャの「悲劇」ならば、現代日本の東日本大震災による「原発事故」もまた、人が「プロメテウスの火」を手にした結果と捉えることが出来ます。
これから先、何十年も掛かる「原発事故」の処理の時間の長さを思うと、今の私たちと後代の人々に委ねる「悲劇」なんだなという事を考えながら、大府市の「オイデイップス王」を観てきました。
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