「美術の解剖学講義」という本を入手しました。
著者は森村泰昌(もりむらやすまさ)という人です。美術家です。
森村泰昌氏は独自の美術活動をしている人です。
彼の造る作品を一言で言うならば、古今の名画と呼ばれる絵画の中に自分自身を滑りこませ、彼自身を絵画の中の登場人物とさせ、それを写真に撮り「自画像」として表現しております。
彼はそれを「セルフポートレイト」と言っております。セルフポートレイトとは文字通りには「自画像」なのですが、森村氏のいう「セルフポートレイト」は単なる「自画像」ではありません。
その作品は、ある時にはパロディーであったり、「画中画」であったりします。
ここで少し、「画中画」について説明をしておきます。
皆さんは「画中画」という言葉は聞きなれないと、思いますが、何も昨今流行りの方法ではありません。
「画中画」は芝居や映画や詩歌の世界では、古くから使われている手法です。
芝居や映画ではそれを「劇中劇」と言っております。
また、詩歌の世界ではこのことを「本歌取り」と言い、ごく当たり前に使われていた表現方法でした。
さて、話は元に戻ります。次に森村氏の造る作品を題材にして、彼の言う「セルフポートレイト」の例を見てみましょう。
次のものです。
上の画像がが原画となった物。下の物が森村氏による作品です。
上の絵画はエドアール・マネ「フォーリー・ベルジェールの酒場」(1882年)という作品です。
この絵画を森村氏は下の画像に作り替えたのです。この作品に登場している人物は森村氏自身です。
登場人物と同じような衣装を身に着け、同じようなポーズをとり絵画の中の人物に扮しているのです。
美術作品の対象として、作者自身を登場させているのです。
旧来の意味の「自画像」と同じ手法なのですが、作者自身が対象物になりきるという手法が斬新ですね。
しかも、原画を現代風に解釈してその中に自分を滑り込ませているのです。
不思議な光景を見るような感じにとらわれます。
さて、この本の作者、森村泰昌氏は自身のの美術に対するスタンスを次のように言っております。
「美術の解剖学講義」の中の一節を引用してみましょう。
「作者もまた美術の鑑賞者の一人である、というのが基本的な私の考え方です。(中略)できあがった作品を一番最初に見るという特権を持つ鑑賞者です。それに作品ができあがってくる一部始終を見てきた鑑賞者でもあります。」と述べられています。
作者=鑑賞者、そして森村氏の場合は、絵画の中の登場人物でもあるわけです。
とてもユニークな表現手段を思いついたものですね。
彼の表現手法は、これを見ると「入れ子構造」になっていると考えることが出来ます。
絵画の中の登場人物が作者であり、またその作品の最初の鑑賞者でもあるという構造が森村氏の作品の基底にあるのです。
ここで別の絵画を題材にして、「自画像」について考えてみましょう。
次の画像を見た頂きましょう。
これはフランスの女流画家、マリー=ガブリエル・カペが描いた自画像です。
アトリエで絵筆を持っている女性が描かれています。
この絵画に描かれているのは「自画像」なので、作者自身です。
作者がこの絵画を描く時に、鑑賞者の眼を意識したのか?という疑問がわいてきます。
この絵画を見ると対称の人物がとても美しい人であったのがわかります。少し赤みを帯びた頬と肌の色合いに目に留まります。
さて、作者自身もこの絵のようにい美しい女性であったことだろうと想像できますが、作者は意図的に対象の人物(ここでは作者自身)を美しい人として描いたと想像できます。
鑑賞者の眼を意識しないで絵を描いたとは考えにくいからです。
ここで話を森村氏の「自画像」に戻しましょう。
マリー=ガブリエル・カペが自画像の対象者を「美しい人」として描いたとすれば、森村氏の描く対象者はどんな特性を作者により与えられているのでしょうか?
「美しい人」ではなさそうなのは解りますが、はたしてその対象者がどんな存在であるのかは、鑑賞者により違って見えてきます。
森村氏の「セルフポートレイト」の対象者は元の対象者の「戯画」と捉える見方が一つです。一つのパロディーと考える事が出来ます。
また別の見方では元の対象者と彼が描く対象者は共通の何かを持っている「共有者」と考えることもできます。
それでは「共有者」と捉えれば何を「共有」しているのでしょうか。
絵画の「構図」が似通っている事は誰の眼にも明らかでしょう。色彩も似通っていますね。
構造と色彩以外には何が似通っているかと考えた時、この答えは簡単には出てきません。
これへの答えになるのかはわかりませんが、森村氏の著作の中にこんな著述がありました。
「絵画とは、見ることと見られることとの分業のシステム(法則)であり、また見るものによって見られるものが所有されるためのツール(道具)である。」
中々よくは分からない著述に思われますが、これらについては次回以降とします。
著者は森村泰昌(もりむらやすまさ)という人です。美術家です。
森村泰昌氏は独自の美術活動をしている人です。
彼の造る作品を一言で言うならば、古今の名画と呼ばれる絵画の中に自分自身を滑りこませ、彼自身を絵画の中の登場人物とさせ、それを写真に撮り「自画像」として表現しております。
彼はそれを「セルフポートレイト」と言っております。セルフポートレイトとは文字通りには「自画像」なのですが、森村氏のいう「セルフポートレイト」は単なる「自画像」ではありません。
その作品は、ある時にはパロディーであったり、「画中画」であったりします。
ここで少し、「画中画」について説明をしておきます。
皆さんは「画中画」という言葉は聞きなれないと、思いますが、何も昨今流行りの方法ではありません。
「画中画」は芝居や映画や詩歌の世界では、古くから使われている手法です。
芝居や映画ではそれを「劇中劇」と言っております。
また、詩歌の世界ではこのことを「本歌取り」と言い、ごく当たり前に使われていた表現方法でした。
さて、話は元に戻ります。次に森村氏の造る作品を題材にして、彼の言う「セルフポートレイト」の例を見てみましょう。
次のものです。
上の画像がが原画となった物。下の物が森村氏による作品です。
上の絵画はエドアール・マネ「フォーリー・ベルジェールの酒場」(1882年)という作品です。
この絵画を森村氏は下の画像に作り替えたのです。この作品に登場している人物は森村氏自身です。
登場人物と同じような衣装を身に着け、同じようなポーズをとり絵画の中の人物に扮しているのです。
美術作品の対象として、作者自身を登場させているのです。
旧来の意味の「自画像」と同じ手法なのですが、作者自身が対象物になりきるという手法が斬新ですね。
しかも、原画を現代風に解釈してその中に自分を滑り込ませているのです。
不思議な光景を見るような感じにとらわれます。
さて、この本の作者、森村泰昌氏は自身のの美術に対するスタンスを次のように言っております。
「美術の解剖学講義」の中の一節を引用してみましょう。
「作者もまた美術の鑑賞者の一人である、というのが基本的な私の考え方です。(中略)できあがった作品を一番最初に見るという特権を持つ鑑賞者です。それに作品ができあがってくる一部始終を見てきた鑑賞者でもあります。」と述べられています。
作者=鑑賞者、そして森村氏の場合は、絵画の中の登場人物でもあるわけです。
とてもユニークな表現手段を思いついたものですね。
彼の表現手法は、これを見ると「入れ子構造」になっていると考えることが出来ます。
絵画の中の登場人物が作者であり、またその作品の最初の鑑賞者でもあるという構造が森村氏の作品の基底にあるのです。
ここで別の絵画を題材にして、「自画像」について考えてみましょう。
次の画像を見た頂きましょう。
これはフランスの女流画家、マリー=ガブリエル・カペが描いた自画像です。
アトリエで絵筆を持っている女性が描かれています。
この絵画に描かれているのは「自画像」なので、作者自身です。
作者がこの絵画を描く時に、鑑賞者の眼を意識したのか?という疑問がわいてきます。
この絵画を見ると対称の人物がとても美しい人であったのがわかります。少し赤みを帯びた頬と肌の色合いに目に留まります。
さて、作者自身もこの絵のようにい美しい女性であったことだろうと想像できますが、作者は意図的に対象の人物(ここでは作者自身)を美しい人として描いたと想像できます。
鑑賞者の眼を意識しないで絵を描いたとは考えにくいからです。
ここで話を森村氏の「自画像」に戻しましょう。
マリー=ガブリエル・カペが自画像の対象者を「美しい人」として描いたとすれば、森村氏の描く対象者はどんな特性を作者により与えられているのでしょうか?
「美しい人」ではなさそうなのは解りますが、はたしてその対象者がどんな存在であるのかは、鑑賞者により違って見えてきます。
森村氏の「セルフポートレイト」の対象者は元の対象者の「戯画」と捉える見方が一つです。一つのパロディーと考える事が出来ます。
また別の見方では元の対象者と彼が描く対象者は共通の何かを持っている「共有者」と考えることもできます。
それでは「共有者」と捉えれば何を「共有」しているのでしょうか。
絵画の「構図」が似通っている事は誰の眼にも明らかでしょう。色彩も似通っていますね。
構造と色彩以外には何が似通っているかと考えた時、この答えは簡単には出てきません。
これへの答えになるのかはわかりませんが、森村氏の著作の中にこんな著述がありました。
「絵画とは、見ることと見られることとの分業のシステム(法則)であり、また見るものによって見られるものが所有されるためのツール(道具)である。」
中々よくは分からない著述に思われますが、これらについては次回以降とします。
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