小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

モンゴル万歳(SSKシリーズ14)

2014年11月18日 22時24分39秒 | エッセイ
モンゴル万歳



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2014年11月発表】
 相撲と落語が好きです。どちらも演じ手の個性がもろにあらわれます。相撲は、一瞬に気合を込めた一対一勝負で、しかもボクシングやレスリングや国際柔道のような階級別がないので、優勝劣敗がはっきり出ますね。落語もたった一人の勝負で、ほとんどの場合よく知られた古典を素材にしながら、どう話すかに創造性が厳しく問われるなかなか残酷な芸です。
 ところで今年(平成26年)の秋場所では、モンゴル出身の逸ノ城(いちのじょう)が、何と新入幕で横綱一人、大関二人を破って13勝2敗という恐るべき成績を残しました。怪物の出現です。
 そんな折も折、場所中13日目に瀧川鯉昇(たきかわ・りしょう)師匠の「千早ふる」を月島に聴きに行きました。これはちょうど逸ノ城が横綱・鶴竜を破った2時間くらい後に当たります。
 この演目はみなさんよくご存じのとおり、在原業平の歌の意味を尋ねに来た弟分に、知ったかぶりの兄貴分が、竜田川を相撲取りということにして次々にウソ話をこじつけていく段取りですが、鯉昇師匠の話は、何と竜田川をモンゴル出身力士に仕立て上げ、広大な草原の彼方から落ちぶれてラクダに乗ってきた千早に「からもくれずに」チョモランマまでぶっ飛ばすという次第。「水くぐる」のは千早ではなく、大草原の真ん中の豆腐屋で澄みきった水に漬かった豆腐だったとか。「とは」も千早の本名ではなくモンゴル語で豆腐を意味するそうです。
 師匠ここまでやるかとあきれました。しかし何ですね。たしかに角界がモンゴル出身者に席巻されて久しい今日、古典の骨格を崩さずに状況に合わせて現代の客を楽しませる術は大したもの。これをこそ創造性というので、こうして本当の意味で古典が生き残っていくのだと思います。
 角界に話を戻すと、当節、稀勢の里や琴奨菊など、日本勢がふるわないことを嘆く向きが多く、それだけ逆に日本人力士への人気と期待が高まっているようです。しかし私はナショナリストではありますがひねくれ者ですから、全然この傾向に与しません。なぜなら、ちょっと冷静に見ていればわかることですが、稀勢の里はもともと人気ほどの実力がなく、待ったばかりかける神経過敏症ですし、琴奨菊はガッツはあっても技が一本調子で多様性がありません。性根、覇気、技と三拍子兼ね備えたモンゴル力士にかなうはずがないのです。これは日本が豊かな大国になったことのツケのようなもので、ちょうど前世紀初頭のパリが芸術の都でありながら、実際に活躍した画家がスラヴ系やスペイン系が多かったのに似ています。
 モンゴル勢がすごいハングリー精神で日本の角界での地位確立を目指していること、これは日本がよい意味で開かれた寛容な大国であることを象徴してもいるので、私は彼らを大いに応援したいと思います。じっさい彼らは日本人力士に比べてカッコいいです。
  日本人力士を詠嘆して詠める
●もはやふるう力も効かず竜田川
   金くれないに褌(みつ)捨つるとは
 
 へい、ご退屈様。

ドイツ語と性(SSKシリーズ13)

2014年11月05日 21時52分38秒 | エッセイ
ドイツ語と性(SSKシリーズ13)         



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2011年11月発表】
 私はドイツ語ができないのだが、必要があって時々独和辞典を引くことがある。それで、先日あるおもしろい発見をした。
 Sitteという語は風習、風俗、慣習といった意味合いと、道徳、礼節という意味合いとがある。これだけでもかなりおもしろい。
 日本語のニュアンスで風俗や慣習と道徳とが同じ語で表わせるとはどうしても思えない。これがドイツ語では同一語で表現できるということは、ドイツ語がいかに土俗の段階から今日に至るまで、共同体の秩序を司る精神(道徳)を伝統的な慣習に託してきたかを表わしている。このことは同時に、ドイツ語という言語が長い歴史を経ていながら、いまだにかなりの程度、土俗性、古代性を保存していることの一つの証拠となるかもしれない。あの硬い発音や、接尾語をどんどん膠着させてやたら長い単語をつくることができる特性にもそれを感じる。
 ところでおもしろい発見というのは、こうである。
 哲学者のヘーゲルが、人間精神の現実態として好んで用いたSittlichkeitという語はいうまでもなくSitteの派生語で、ふつう倫理、道徳を意味するが、哲学用語としては「人倫」と訳される。人倫とは「仲間存在であるひとびと」のとるべき「みち」を表わす。
 ところがこれにDelikt(不法行為)あるいはVerbrechen(犯罪)という語を付着させたSittlichkeitsdelikt、Sittlichkeitsverbrechenという長い単語が単なる道徳破壊を意味するのではなく、直ちに「性犯罪」という意味になるのだ。付着させた二つの語には一般的な掟破りの意味しかなく、性的な含意は何らないのにである。
 このことは何を意味しているだろうか。二つのことが想定できると思う。
 まず浮んでくるのは、古代の小さな村落共同体である。そこでは習俗がまともに継承されて行くためには、婚姻の掟が掟として厳密に守られることが重要な意味を持っていた。発覚した性の不祥事、婚前交渉、不倫、近親相姦などは、それだけで、最高度の犯罪だったのだ。
 もう一つは、このことの背景として、人間の性愛感情や性欲の野放図さが、いかに一般的な共同体秩序と相容れない反社会的なものとして意識されていたか、いや、もっと言えば、ほとんどそれだけが慣習や道徳を破る決定的な要因と考えられていたという点である。
 ドイツ語の断片だけを捉えて、こう結論するのは早計かもしれない。
 しかし自慢するわけではないが、私は長年、人間の性愛の乱脈ぶりと、労働を基礎とする共同体の秩序とが本質的に相容れないものであることを説いてきた。性愛の世界が周囲からは閉じられたものであり、それが露出すると「猥褻」「イヤらしいこと」「笑いの種」と感受される原因はそこにある。
 人間は自分たちの性愛の危険性を自覚して、労働との間に住み分けの線を引いたのだ。それがおそらく文化の始まりである。今回のささやかな発見は、奇しくもこの持論を証拠立ててくれるものだったのである。
 現代ではこの住み分けの線が曖昧である。人類はこれから先、大丈夫だろうか。

自分で考えることの大切さ(SSKシリーズ12)

2014年10月24日 14時16分08秒 | エッセイ
自分で考えることの大切さ     



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2012年12月発表】
 学生に次のような質問用紙を配って3択で答えてもらった。わずか6名のゼミ生対象だが。

①殺人事件は増えているか。
②子ども・若者の交通事故死は増えているか。
③虐待による乳幼児の死亡率は増えているか。
④いま日本の失業率はどれくらいか。
⑤未婚率は増えているか。

 回答結果は次の通り。
①全員「増えている」
②「増えている」3名、「変わらない」3名
③「増えている」4名、「変わらない」2名
④10%3名、20%3名
⑤全員「増えている」

 統計データに従えば正解は――
①激減
②激減
③激減
④4~5%
⑤急増

 すると⑤だけが全員正解で、あとは全員間違えていることになる。
 なぜこんな試みをやったか。メディアの情報から受ける印象を鵜呑みにせず、自分で調べ自分で考えることの大切さを説くためだ。もちろん回答集計後にデータを配って真相を知ってもらった。
 ①②③を見ると日本の治安のよさにほとんど誰も気づいていないことが知られる。いつの時代にも人は老若を問わず、時代は悪い方に向かっていると考えてしまう習癖をもっている。そういう先入観をまず振り払うこと。それが大事である。
 しかし、こうした教育的意図とは別に、この回答結果からは興味深い点が二つ認められる。
 一つは④の失業率について、若者が実際の数字よりは過大に考えているという点。
 これは答えとしては誤りだが彼らの生活実感としては正しいのである。若年失業率は5%よりずっと高いし、それよりも重要なのは、数字に表れた失業率だけが景気の良し悪しを測る尺度ではないということ。今の不況下ではスキルの身につかない臨時雇用が圧倒的に多いし、正規雇用でも劣悪な雇用環境に甘んじている人たちがたくさんいる。私は学生たちの誤答を逆に評価しながら、実態を見ずに数字を盲信する危険についても説明しておいた。
 二つ目は、⑤の未婚率について全員が正解している点。
 国全体の治安が数字としてどうであろうと、よほどの混乱状態でもない限りいますぐ自分の生活が脅かされるわけではない。しかし結婚するかしないか、できるかできないかは、彼ら自身の近い将来像を決定づける切実な問題である。そういう「実存問題」に関しては、鋭敏な触角がはたらくわけだ。
 なぜ増えていると思うのかと女子学生に聞いてみた。「自由に生きたいと感じている若い人が多いから」。
 私の応答。「もちろんそれも大きい。しかし、できれば結婚したいと思っている人が大多数です。でも、したくても相手が見つからない、恋人はいても自立するより親元にいる方が経済的に有利だから結婚に踏み切れない、そういう人がたくさんいるんだよ」。
 余計なことも考えた。いま大学の知は専門的な客観知と即戦力を養うただの実用知とに二極分解しているのではないか。自分の例で口幅ったいが、④⑤的な実存問題から①②③的な客観問題へとうまく学生をいざなう橋渡し的な方法論が必要に思える。自力で考える力を養うために。

国家の役割を合理的に考えよう(SSKシリーズその11)

2014年10月15日 20時44分49秒 | エッセイ
国家の役割を合理的に考えよう(SSKシリーズその11)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2012年5月発表】
 四十代のノンフィクション・ライターとの会話。彼はさまざまな中国人たちと会ってきたらしい。

「自国の本土に侵入されて地上戦を強いられたことの屈辱は私たちには想像できないと思うんです。今度の取材でそれをとても感じました」
「日本だってアメリカの大空襲で本土を滅茶苦茶にされたし原爆まで落とされたじゃないか」
「でも本土での地上戦はやってないでしょう」
「そんなに違いますかね。あなたは敗れた日本人の屈辱を十分に想像しましたか」
「それはしましたよ。でもその前に日本は中国に土足で踏み込んでるじゃないですか」
「私も中国に対しては明白な侵略行為だったと思っていますよ。でもとっくに国家賠償も済んでいるし、数え切れないくらい謝罪をしてきたよね。中国が反日意識を明確に示すようになったのは、東京裁判よりもずっと後のことで、国情が安定して国力が増大してきてからのことだよ」
「でもそれだけ水に流せない怨念の根拠があるということじゃないですか」
「私が言いたいのは、いつまで日本は謝らなきゃいけないんですかってことですよ」
「ずっと謝りつづけるべきだと思います」

 私はこれ以上議論しても無駄だと思って話題を変えた。
 この人は別に「左翼」ではない。また私自身も「保守論客」ではないし、この人個人を批判する気もない。
 それよりも現在この人が四十代であるということが妙に引っかかる。粗雑な世代論に還元しては他の四十代の人たちに失礼なので、四十代の一部、と言いなおしておこう。その一部の人たちが成人したころ、ちょうど中国や韓国は日本の繁栄何するものぞと猛追を仕掛けてきた。一連の反日攻勢はまさにその時期に始まる。
 この人(たち)が想像力を欠落させ視野狭窄に陥っている原因は、大雑把にいって三つある。
 一つはいま述べたように、中韓の反日攻勢は彼らの国情に見合った意図的なものだということ。北京やソウルは国益のために民心を巧みに利用してきたのである。同じ時代に青春期を送った善意の日本人は歴史を見る枠組みが固定化されて、その事実が見えなくなっているのではないか。
 二つに、この人(たち)は中国人の痛みに触れたという実体験だけを根拠に、複雑な歴史的経緯を単純化している。「経験主義」の弊害である。
 最後に、これが最も重要なのだが、この人(たち)は、国家と国家の関係を個人と個人の関係からのアナロジーで解釈している。人を傷つけたと自覚したとき、私たちはその疚しさをいつまでも引きずる。「ずっと謝りつづける」という態度が誠実さの証しとなるゆえんである。
 しかし国家が取る態度のいかんには、内部に抱える膨大な国民の利害に対する重い責任が付着している。自国民にとって不利益となる他国の攻勢に対しては、断固として自国民の利益を守る選択をすべきなのである。国家間の関係を個人の関係と同一視して過剰な誠実さを示すことは、情緒的・排他的なナショナリズムに身をゆだねるのとじつは心理構造として同じなのだ。国家理性とは何か。よくよく深慮してほしいものである。

教師不満足(SSKシリーズその10)

2014年10月06日 19時36分50秒 | エッセイ
『教師不満足』(SSKシリーズその10)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2010年11月発表】         
 いささか旧聞に属するので気が引けるが、ぜひここで書いておきたい。ある局のニュース特番で、「特集・小学校現場からの報告」とあるので興味を引かれてさっそく視聴してみた。日ごろ教育問題にかかわっている関係上、「現場」に接する機会はたいへん貴重である。
 ところがこの特集の実情は、まったく「現場からの報告」などではなく、あの乙武洋匡クンが3年契約で小学校の教師に勤務し、契約期間が満了したのでそこでの経験談を語るというわずか十分程度のキワモノにすぎなかった。しかも全体としてこの「特集」なるものは、私の憤激を買うに余りある内容であった。
 第一。乙武クンが小学校教師になったというのは知っていたが、3年契約というのは初耳だった。このこと自体、ふざけた話である。普通の教師は生涯の職業としての使命感を持って教職に就くのであり、いったん就いたらどんなにつらいことがあっても簡単に辞めるわけにはいかないのだ。3年契約などという勝手なことが許されるのは、乙武洋匡という「特権」を利用しているのであり、それは有名人の潜入ルポと同じである。
 大体たかが3年勤めただけで、現在の教育現場が抱えた途方もない困難の何がわかるというのか。
 私は『五体不満足』の長所と欠点について論じたことがあり、さらに後に文庫版として出された「完全版」を大学のテキストとして用いている。
「完全版」には第四部が増補されており、これには、有名になってしまったことから生じた苦い思いがつづられている。スポーツライターになろうとしても、本当にライターとしての腕で勝負させてもらえず、周りが乙武の名前で執筆を許してしまう。その現実への苛立ちと反省が真摯に表現されていて、好感が持てる部分である。だが、その苛立ちと反省は「3年契約の教師」という特権的な肩書きではどこへ消し飛んでしまったのか。
 第二。乙武センセイ、教え子の中の「困ったチャン」に手を焼いていろいろやってみたが、なかなか信頼関係を結べたと確信できるところまでいけず悩んでいたところ、辞職することを告げたら、その子が初めて親しみを見せて自分の愛用の「練りケシ」を餞別にくれたそうである。よくあるつまらぬ美談にすぎない。
 ところがインタビューしていた五十がらみのいい年をしたメインキャスターが、それを聞いてなんと目に涙をいっぱいためているのだ。
 バカじゃないか、こいつは、と私は一瞬思った。名うてのキャスターが美談にもならない美談にころりとだまされて、これで「教師一般」と「子ども一般」との間に心の絆とやらが生まれたと思い込み、「学校現場」の問題はやはり「愛」が解決するとでも錯覚しているのだ。何にもわかっちゃいないのである。
 今に始まったことではないが、私は、教育現場をレポートするといったたぐいの番組でテレビメディアが垂れ流す、その無知ぶりと欺瞞性とに深く絶望する。ちょいと3年ばかり「現場」を覗いてきた有名人をさっそく使って視聴率を稼ぎ、緻密な取材も何もせずに済ませてしまう。ああ、世も末とはこのことである。

ちょっと勉強しましょう(SSKシリーズその9)

2014年09月22日 21時54分42秒 | エッセイ
ちょっと勉強しましょう(SSKシリーズその9)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2013年5月発表】
 ここ数カ月、柄にもなく政治問題、経済問題に首を突っ込んでいろいろなところに寄稿しています。TPP交渉参加問題、アベノミクスのゆくえ、エネルギー問題、「一票の格差」違憲判決、国会議員の定数減らしの是非、憲法改正問題、英語公教育のあり方等々。
 世はネット社会で、資料集めには事欠きません。知人からの素早い情報提供もあります。ネット社会には弊害もありますが、この点に関してはまことにありがたいことです。数か月間のにわか勉強で、へえ、そうかと思うことがいくつかありました。そこでさっそく知ったかぶりをして、みなさんにいくつかクイズ。

【第1問】国債の金利が0.6%から1%の間を乱高下していると言われていますが、90年代初頭には何%だったでしょう。

【第2問】TPPの参加国は当初どことどこ。

【第3問】運転停止中の浜岡原発(出力約360万kw)が産みだせる電力を太陽光発電で賄うとすれば、どれくらいの面積が必要でしょう。

【第4問】人体に無害と科学的に保証されている放射線量は年間何シーベルト以下でしょう。

【第5問】国会議員を半分に減らした場合、公費のうち何%節約できるでしょう。

【第6問】日本国憲法の草案作りに最も深くかかわったGHQのケーディス大佐(当時)は、30年後に憲法がそのまま生きている事実を知って、何と言ったでしょう。

【第7問】(これはみなさんの判断を問う問題)1票の格差は与党の0増5減案によって2倍未満になりますが、これについてどう思いますか。

 では解答。
【第1問】8%。
 いま騒いでいる範囲の何と10倍ですね。マスコミの騒ぎに惑わされず、常にズームを引いて大局を見ましょう。

【第2問】チリ、ブルネイ、シンガポール、ニュージーランドの四か国。
 GDP合計は日本一国の15%に及びません。超大国アメリカが突然割り込んできて自国の一部企業に有利な条項をつけ足して引っ掻き回しています。

【第3問】山手線内の総面積の3倍。
 メガソーラーにはそのほかいろいろな問題があります。

【第4問】100ミリシーベルト。
 原発事故当時の政府が決めた避難基準の20ミリシーベルト以上はバカげています。もちろん、今はこれよりはるかに低くなっています。

【第5問】たった0.3%。
 議員数(人口比)は現在でも先進国中でアメリカに次いで低く、これ以上減らすと国民の意思が政治に反映されなくなる危険がきわめて大きい。

【第6問】「えっ、まだ変えていないのか!」
 この言葉で現憲法が占領統治のための暫定措置にすぎなかったことは明瞭です。

 総じて私たちは、少し調べればわかることをサボって感情と印象だけで判断を下しがちですが、今はそういう危険を克服できる時代です。マスコミが作りだす空気に支配されないよう、ぜひ気をつけましょう。なおここに掲げた問題について私自身がどう論じているかについては、本ブログ、美津島明ブログ「直言の宴」、及び以下の雑誌その他にアクセスしてみてください。

美津島明編集「直言の宴」:http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/arcv

月刊『Voice』2013年6月号

裁判長が控訴を勧める!?(SSKシリーズその7)

2014年08月25日 23時53分04秒 | エッセイ
裁判長が控訴を勧める!? (SSKシリーズその7)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


【2011年2月発表】
 再び旧聞に属することで恐縮だが、記憶から離れないのでやはり書かずにはすまない。
 私が裁判員制度に真っ向から反対であることは一度この欄にも書いたことがある。なぜ反対なのかは拙著『「死刑」か「無期」かをあなたが決める 「裁判員制度」を拒否せよ!』(大和書房)に詳しく書いたので、ご関心のある方はどうぞ。
 ところで、2010年11月16日、生きている被害者を電動のこぎりで切断し二人を殺害した容疑で逮捕された被告の裁判で、死刑判決が下った。裁判員裁判で死刑が下ったのはこれがはじめてである。この裁判では、裁判長が判決理由を読み上げたあと、口頭で「重大な結論で、裁判所としては控訴を申し立てることを勧めたい」という異例の説諭を行なった。新聞でこれを読んだとき、私は眼を疑った。
 この裁判長は、自分たちで決めた判決を、この説諭によって実質上、価値なきものとして否定しているのである。法の裁きは厳粛で公正でなければならない。ことにこの事件のように、残虐極まりない犯行は情状酌量の余地なく、死刑以外の判決は考えられない。むろん裁判長以下6名の裁判官、裁判員はそう判断して判決を下したのだろう。しかしそのあとでわざわざ控訴を勧めるとは、司法制度の厳粛性、公正性をいちじるしく毀損するものと言える。
 なぜこの裁判長は、自らの職業的誇りを投げ捨ててまで、こんな説諭を行なったのか。
 理由は一目瞭然である。この裁判が裁判員裁判だからだ。シロウトが参加する裁判員制度では、重大犯罪のみが対象とされるが、はじめから死刑が確実視されるような事案では、裁判員は、自分も人の命を奪う決断を下す責任の重さを引き受けなくてはならない。くだんの裁判員たちは、裁判長が判決を下すときに一様にうつむいていたというが、それだけ心理的負荷が大きかったのだろう。その裁判員たちの苦しい気持ちを思いやった結果が控訴勧誘の説諭となったわけだ。
 いうまでもなく、これが裁判員裁判でなければ、こんなばかげた自己否定的説諭はまったく必要ない。控訴審には裁判員制度は適用されない。だから、もし控訴審でも同じ死刑判決が出れば(当然出ると思うが)、裁判員たちは、この被告人を最終的に裁いたのは、上級審であって、自分たち裁判員の決断ではないという自己慰安の機会に恵まれることになる。裁判長はそれを見越してくだんの説諭を行なったのである。被告人のためを思ったわけでは全然ないのだ。
 それぞれの仕事で忙しいシロウトを召喚し、何日も拘束し、自分と何の関係もない人の運命を決めさせる裁判員制度。法廷の尊厳を自ら突き崩すこんな説諭を施さなければ成り立たない裁判員制度。争点をわかりやすくするために密室で法曹三者が公判前整理手続に膨大な日数を費やさなくてはならない裁判員制度。ある信頼の置ける情報によれば、いま刑事訴訟の現場は火事場同然だという。しかし自分たちがOKした制度だから、法曹三者はだれも表立って反旗を翻せない。早急にこの制度を廃止すべきである。

NHKのバカ放送(SSKシリーズその6プラス1)

2014年08月17日 08時48分27秒 | エッセイ
NHKのバカ放送(SSKシリーズその6プラス1)




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


2014年7月発表

 あきれた話。大学の行き帰りに車を使うのでその折にラジオを聴くことになります。もっぱらNHK。夕方の時間帯はその日のニュースと、あるテーマを選んでそれについて解説委員や専門家に話してもらう番組です。40分ぐらい聴きます。
 ある日の放送は、まず全原発停止の夏を迎えて電力需要をカバーできるかについての懸念が報じられました。加えてほとんど火力だけで賄われているいまの電力事情の苦しさが簡単に伝えられました。この苦しさは、主として次の三つです。化石燃料資源を外国に依存するため膨大な国富が流出すること、全国の火力発電所は老朽化している部分が多くトラブルが絶えないこと、火力はコストがかかるため電力料金に跳ね返る恐れが大きいこと。これらはその通りですし、国民みんなが考えなくてはならない重要な問題です。ところが番組ではほんのあっさりとニュースとして伝えられただけでした。その間ものの1分。
 さて代わりに多くの時間を割いて何をやったかというと、何とか生活研究所の何とかという人が出てきて、いかに家庭生活で電気を節約するかという話。たとえば冷蔵庫の開け方閉め方、エアコンのタイマーの有効利用、電燈の種類の選び方、電燈をこまめに消す工夫、その他いろいろ言っていましたが、あまりにチマチマした内容なので忘れました。とにかくこれらを全部試みるといくら節約できるかが「厳密に」試算されているらしいのです。ではいくら節約できるかというと、なんと、これから予想される一戸当たり平均年間値上げ高1000円分だというのです。年間1000円だと一か月85円、一日たったの3円。母ちゃんが3円節約するために懸命になっている時に父ちゃんは飲み屋で6000円奮発してきました。この6000円のなかには、もちろん飲み屋の電気代も、お酒を造るのに必要だった電気料金も含まれています。
 個人でできるところから、というこの手の話は昔から絶えません。林産資源節約のために割り箸を使わないことにしているとか、ペットボトルのリサイクルのために細かくゴミを分別するとか。割り箸は材木としては使えない残材から作られます。ペットボトルはほとんどリサイクルされていず、焼却されているのが実態です。その方が燃えにくい生ゴミの助燃材として有効なのです。
 これらは、戦時中の「ほしがりません勝つまでは」という発想とまったく同じで、百害あって一利なしの精神主義です。百害とは何か。まず公共放送たるものが、こんな話を延々とやっていて日本のエネルギーの未来という重要なテーマそのものに踏み込もうとしないこと。そのため視聴者は家計問題に気をそらされ、おバカにさせられてしまうこと。電気料金を値上げされると一番困るのは、大量に電気を使う工場や企業なのに、またその結果、製品の価格に転嫁されたり賃金や雇用がカットされたりするかもしれないのに、そのことが少しも話題にされないこと。ふだん国論的なテーマを政治家が訴えると、議論が国民に十分浸透していないなどとしきりに批判するくせに、浸透させる責任を負った公共放送がこんな体たらくでは、日本の将来が思いやられます。


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 以上は最近発表した原稿ですが、つい先日(8月10日)、台風11号が日本にやってきた折、たまたま午後5時のNHKテレビニュースを見ていたら、またもや「NHKのバカ放送」を感じ、ここにその折の感想を追加したくなりました。しつこい点、お許しください。
 この5時のニュースは、30分間放映されます。ニュースで30分といえばかなり長い。いろいろなことが報道できるはずです。ところがやっていることは台風報道ばかり。時間を計ってみたら、何と28分間を占めていました。残りの2分は、米軍がイラクを空爆したというニュースと、産経新聞ソウル支局長が韓国の地検当局局から、ごく短いコラムが事実を歪曲しているという廉で事情聴取の要請を受けたというニュースだけでした。それもごくおざなりの伝え方しかしません。そりゃそうですよね。2分間で詳しく報道できるわけがない。
 しかもこの時点で、台風は北陸から日本海に抜けつつあり、番組では全国各地域のすでに過ぎ去った時刻での状況を延々と流しているのです。多数の死傷者が出たとか、大量の家屋が洪水やがけ崩れで被害に遭ったとかいうなら話は分かります。ところが実際のその報道内容といったら、ガラスが割れて3人けがをしたとか、ブロック塀の上部が崩れたとか、木の枝が電線に引っかかってほんの一部で停電したとか、そんな話ばかり。
 事実、台風11号は、テレビが大げさに騒いだわりには、ほとんど被害をもたらしませんでしたね。そう言えば、最近のNHKは台風など自然災害をもたらす可能性のある情報が事前に察知されるたびに、何日も前からしつこくしつこく予報を繰り返して警戒を呼び掛け、結果的にほとんど被害もなく大げさに騒いだだけだったという例があまりに多い。見ていて「またかよ」と白けることがよくあります。オオカミ少年放送ですね。
 私はここに二つのことを感じます。
 ひとつは日本は災害大国だから、その危険が少しでもあるときには真っ先に、いくらでも時間を使って全国規模で報道しなくてはならないという「公共放送」の頑固な思い込み。これは震災以降、ことにその過敏性が激しくなったようです。
 そしてもうひとつは、テレビ報道関係者が、世界のあちこちで起きている重大な国際情勢(戦争や紛争や内戦や外交問題など)、また国内の政治問題や経済問題などのもつ意味に対して鈍感で、あたかも日本の民衆のほとんどが、「そんなこたあ、オラの暮らしに関係ねえがな」と平和ボケを決め込んでいるかのような前提に立ってニュースの優先順位を決めているとしか思えないこと。
 もちろん私は、公共放送たるもの、いつも天下国家の出来事を最優先で放送すべきだなどと言っているのではありません。人生上の重大事という観点から言えば、私的な生活問題、局地的な出来事が大きな意味をもつことは当然です。しかし、すでにほとんど被害がなかったことが判明していてその後もまあ大災害が起きる危険はないだろうという予想が成り立っている時点で、30分のうち28分を全国規模の台風報道に費やす必要はないでしょう。気象通報という時間帯もたっぷりあるのだし。
 これは、番組構成を決めている担当部署の怠惰を示す以外の何ものでもありません。
 そもそもNHKは、多様な関心をもったさまざまな国民の関心に十分応えていないと思います。たとえば国会の予算委員会や本会議で重要案件の議論があると、他の番組を中止して長時間その実況中継に切り替えます。これは一見、天下国家問題を優先していて、公共放送の使命を果たしているようですが、じつのところ、あんなだらだらした退屈な議論を初めから終わりまで延々と聴いている人はまずいないでしょう。もともと本会議の質疑は言うに及ばず、予算委員会の質疑も、各会派ごとに質問内容をあらかじめ整理して答弁側に渡しておき、行政もそれを受けて「官僚の作文」的に答弁している「出来レース」の場合がほとんどなのですから。
 矛盾したことを言うようですが、私は相撲観戦が好きなので、国会中継で相撲放送の時間が削られると、とてもつまらない思いをします。もともと限られた時間しかないテレビ放送なのですから、国会中継をだらだらと流すのではなく、「今日の国会」のような番組を短く設けて、そこで議論された内容の重要点を映像ぐるみで簡潔に知らせれば済む話です。そういう番組上の工夫を試みないのもNHKの怠惰をあらわしています。
 もっと言えば、多様化した国民の関心に応えることにとって、いまのNHKは、決定的に時間が足りないのです。地上波2局とBSがあるきりですが、Eテレはもともと視聴率が低いですし、その挽回のためか、主要部分は妙に民放ノリになっていて、しかも民放の後追いですからダサくて新味に欠けます。もちろん世界情勢を報道するようなフレームにはなっていない。総合テレビのごく限られた時間内に、ニュース報道と解説、スポーツや地域の話題、エンターテインメント、バラエティー番組やドラマなど、まるでラッシュアワーのように詰め込んでいますね。
 潤沢な資金があるのだから、どうして国内外のさまざまなニュースやそれについてきちんと考えさせるチャンネルをもう一局作らないのか。努力すれば必ずできるはずですし、心ある視聴者ならきっとNHKの公共性を見直すはずです。それをやらないのが最大の怠惰です。どこかで国民の「愚民性」に依存して甘えているのですね。オピニオンリーダーとしてのマスメディア失格というべきでしょう。

酔っ払い親爺、奮戦の巻(SSKシリーズその5)

2014年07月25日 21時35分07秒 | エッセイ
酔っ払い親爺、奮戦の巻(SSKシリーズその5)      



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2011年8月発表】

 年を取ってずうずうしくなってきたせいか、最近、見知らぬ人にちょっかいを出すのが好きになってきた。たださみしいだけなのかもしれないが。
 過日、適度な混み具合の電車の中で、私の席から少し離れたあたりに立っていたほろ酔い親爺が、彼の目の前に座っている若い女性の携帯メール操作に文句を言い始めた。怒鳴りつけるような相当激しい調子である。
 「車内での携帯はやめろ! 何でダメだか知ってっか。心臓のペースメーカーをつけている人に迷惑を及ぼすんだ。やめろといったらやめろ!」
 女性は無視して続けている。親爺もいつまでも文句をやめない。むろん、このしつこい因縁のほうが迷惑である。
 私の前には3人の娘さんが、これも携帯をしきりと動かしていたが、くだんの様子を見てくすくすと笑い始めいつまでも笑い続けている。怒鳴られている女性は、さすがに顔を青ざめさせて、
 「何で他の人には言わないんですか」
 と抵抗の気配を示し始めた。例の無意味な車内放送の受け売りに対して、まさか「あんな放送、気にすることないじゃないですか」と対抗するところまでは行かないと見える。そりゃ、普通そうですよね。
 私はといえば、このちぐはぐな光景がいつまでも終らないので、何となくほおっておけなくなってしまった。正義感などというものではない。むしろ「座」が白けたときなどに何とか収拾したくなる、いても立ってもいられないようなあの気分。
 たまたまそのとき、私の隣の席が空いたので、
 「オッサン、ここに座りなよ」
 と声をかけたら、素直に従いながら、今度は当然のことながら矛先をこちらに向けてきた。私も負けずに
 「あんた、心臓ペースメーカーつけてる人なんて見たことあるの」と返すと、
 「あるとも」
 「どこで?」
 「オレがつけてるんだ」
 「じゃあ見せてみな」
 と言おうと思ったが、そのときふと自分の携帯がオフになっていたことに気づき、必要を感じたのでわざわざ取出して、オンになる操作をした。古くて安いので少し時間がかかる。
 すかさず親爺が
 「ほら、お前もやってる!」
 私はとぼけて
 「いま電源を切る操作をしてるんだよ」
 それから私は、ここ数年、車内の携帯による交信はほとんどすべてメールになったため迷惑などは実質上壊滅し、車内放送が「心臓ペースメーカー」なる苦しまぎれの理由を案出した次第と、万一迷惑を被る人がいるなら、本人がその場で言うべきだという考えを開陳しようとしたが、そこは酔っ払い親爺、早くも話題を変えて
 「だいたい、あの菅(直人)て野郎は何なんだ、日本はおしまいだぜ」。
 「それは賛成」。
 これにて一件落着ということになった。その間中、私の前の三人の娘さんたちは携帯片手にくすくすくすくすとやっていた。
 さて笑われていたのはだれか。親爺だけではなく、もちろん私もこの日常の中の「コント」の滑稽な出演者なのだった。そんなことは初めからわかっているので後味は悪くない。
 でもちょっと言いたい。世の高齢者大衆諸君、せっかく世をすねて酔っ払うなら公式論なんか振りかざさず、「オレはIT文化についていけねえ。おもしろくねえ世の中になったぜ」と素直に表白してはどうか。

カーリングのおなごたち(SSKシリーズその4)

2014年07月11日 15時06分54秒 | エッセイ
カーリングのおなごたち(SSKシリーズその4)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。


2010年2月発表
                
 これを書いている現在、まだオリンピック真っ只中だが、カーリング女子予選の日本対中国の試合を観戦していて、ふと感じたことがある。
 この競技は、スポーツというより、将棋や囲碁に近い頭脳プレーといってよい。終盤になるまでどちらが勝つかわからず、あえて相手に1点を取らせておいて次の会で先攻させ、後攻の利点を活用して逆転を狙うといった知的な芸当がふんだんに用いられるからだ。「氷上のチェス」といわれるゆえんである。
 このような特性を持つこのゲームは、繊細な身体技能と綿密な戦略とをマッチさせた、まことに複雑高度な質が要求されるという意味で、中国や韓国、日本などの北東アジアの国民性にとって、得意技を披露するにまさにうってつけのゲームではないだろうか。さすがは囲碁発祥の地、中国だけあって、オリンピック初出場にもかかわらず、その勝ちっぷりは見事であった。
 ところで私がふと感じたことというのは、この勝敗の行方についてではない。いささか品のない、横道にそれた批評になることをお許し願いたいが、両チームの選手たちを見ていて、日本の女子選手たちが、中国の選手たちと比べてはるかに美しく見えたことである。清潔感あふれる白のユニフォームに手入れの行き届いたヘアスタイル、垢抜けた化粧を施したその容貌、ストーンを滑らせるときに認められる凛とした表情、まなざし……。
 これに対して、中国の選手たちは、残念ながら、赤のユニフォームと化粧気のない皮膚の黄ばんだ色とがマッチしていず、また、お世辞にも美人と呼べるような選手はひとりもいなかった。要するにほとんどエロスを感じさせない野暮な集団にしか見えなかったのだ。
 私のこの感受が、身びいきや人種的偏見からでないとすれば(事実私はそう断言したいが)、その原因はなんだろうか。
 私の推定では、中国は昔からそういう傾向があるが、国家的名誉をかけたスポーツ競技となると、才能のある選手を選りすぐり、個人の「人権」などはそっちのけで厳しい訓練環境に閉じ込め、激しい練習をひたすら強いるのだと思う。したがって、当然のことながら選手の意識は勝つことのみに集中され、女性らしさなどのエロスは徹底的に抑圧される。
 中国のGDPはじきに日本を追い越すと言われているから、選手たちの野暮ったさはけっして貧困ゆえではない。また、その膨大な人口から考えて、美人が少ないなどということがあるはずがない。美を競うということになれば、その目的に叶ったすばらしい逸材がどんどん出てくるであろう。
 そういえば東京オリンピック当時の「東洋の魔女」たちもずいぶんエロスを抑圧されていた。恋愛はご法度、化粧やおしゃれなど、個人的に目立とうとする行為には規制がかかっていたにちがいない。およそスポーツにせよ学業にせよ、ハングリー精神がなければ他に秀でることができないのは、わかりきった理屈だが、せっかくの世界の晴れ舞台なのだから、少しは女子選手たちに「おんなごころ」の発揮の自由を認めたほうが見ているほうも気持ちがよい、などと考えるのは、堕弱化したニッポン男子の単なるスケベ心だろうか。

抽象化する「あなた」(SSKシリーズその3)

2014年07月03日 19時17分44秒 | エッセイ
抽象化する「あなた」(SSKシリーズその3)



埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます

【2012年2月発表】
       
 私は世事に疎く、ほとんど年ごとの流行の歌などになじんでこなかったので、これから書くことがどこまで妥当かまるで自信がないが、どうもそんな気がするのである。間違っていたらどなたか訂正してほしい。

 徳永英明のヴォーカリスト・シリーズは、過去40年くらい前からのいろいろな歌手のヒットソングのカヴァーである。このシリーズを聞いていてふと気づいたことがある。
 それは、90年くらいを境にして、それ以前に歌われていた歌詞とそれ以後に歌われるようになった歌詞とを比べると、前者では明確な恋の歌が圧倒的多数を占めるのに、後者では少しそれが減ってきて、代わりに生きる力や希望の大切さなどを訴えるメッセージソング的な歌詞が増えているのではないかということである。このことは、歌詞の中に頻繁に現われる「あなた」というせりふが、どういう意味の「あなた」なのかということを探ってみると一番はっきりする。紙数の都合でいくつも挙げることができないので、それぞれ一例だけ引くことにする。

【90年以前】
 何故 知りあった日から半年過ぎても
 あなたって 手も握らない
 I will follow you あなたについてゆきたい
 I will follow you ちょっぴり気が弱いけど
 素敵な人だから
 ―1982年 松田聖子「赤いスイートピー」―

【90年以後】
 生きてる意味も その喜びも
 あなたが教えてくれたことで
 大丈夫かもって 言える気がするよ
 今すぐ逢いたい その笑顔に
 ―2009年 JuJu「やさしさで溢れるように」―

もし私の指摘が当たっているとすると、この事態は歌謡界の頽廃というはなはだ面白くない事態である。というのは歌謡界とは大人の世界であり、大人は恋をする存在ではあっても生きる元気などをもらわなくてはならない存在ではないからだ。だから推論に推論を重ねる危険を覚悟の上で、ここからいろいろなことが言えることになる。

①90年代以降、日本人の精神は幼稚化している。
②90年代以降、日本人は元気をなくしている。
③90年代以降、日本人は恋に興味を失っている。
④90年代以降、日本人はメンタルを病んでいる。

 なぜこういうことになるのか。
 読者はお気づきと思うが、90年という年がバブルの頂点で、翌年それは見事にはじけ、それ以降長い長い不況が続いて今日に至っている。おまけに昨年は大震災と原発事故というダブルパンチまで食らって、さらに経済的な国際競争にも負け続けるという惨状である。日本はもうダメだとアメリカのさる高官が露骨に言っているとか。
 不謹慎な言い方になるが、昨年の文字「絆」もやたら頻発されてなんだか空々しい。それは人と人との具体的な関係(たとえば恋愛関係)を指し示していず、ちょうど2009年の「あなた」が誰でもいい「あなた」一般であるように、とことん抽象化されているからだ。この種の歌は卒業式にでも使えばよく、大人は歌わなくてよい。

「ガリレイの会」について(SSKシリーズその2)

2014年06月08日 23時39分45秒 | エッセイ
「ガリレイの会」について(SSKシリーズその2)



(2014年4月発表)

 親しい仲間を語らって「ガリレイの会」というのを始めることにしました。何をするかというと、いい年のオヤジが(できればオバサンも)、中学から高校までで学んだはずの物理化学生物地学など、要するに理科の基礎を勉強しなおそうというのです。先生を呼ぶわけではなく、自分たちで「昔取った杵柄」を納屋のなかから持ち出してきて、相互にレクチャーするという試みです。
 いったいなんのためにそんな物好きなことをするのか。本誌の主な読者である塾の先生方は、子どもを教えるためにしっかりした実力を固めておくつもりだろうとお思いになるかもしれません。しかし主たる目的はそこにはありません。
 日本の近代教育は、中等教育(中学・高校)から高等教育(大学・専門学校)に至る段階で、理系、文系と分岐して、どちらかに投げ入れられた学生たちは、その路線をひたすら歩み続け、気づいてみると、人格までも理系人間、文系人間などと分類されて評価されるありさまです。別にIT理論やSTAP細胞を研究したからといってその人が豊かな人間性を失うわけではないし、文学や社会思想にのめりこんだからといって、その人が科学的思考を喪失することはないはずです。
 ところが現状をざっと見渡すと、どうもこの分裂状況が当たり前のようになっている。試みに、誰でもいいですが、人文系の著名な知識人や政治家やマスコミ人を引っ張ってきて「パスカルの原理って知ってる?」とか「核分裂反応って何なの?」とか聞いてみてごらんなさい。ほとんどの人が正確に答えられないのではないでしょうか。そういうごく当たり前の基礎知識を忘れてしまっているのに、「ゲンパツハンタイ」などと、人々の恐怖感情に便乗してただの良心主義を表明するのってまずくないですか。
 この奇形的な二極分化は、日本特有だそうです。明治初期に西洋文明がどっと押し寄せてきて、とにかく早く消化しなくてはならない。みんなが総合知を目指していたのではとても近代化に間に合わないのでとりあえず二つに分けることにした。それが習慣として根付いて、150年近くたってもそのまま残ってしまったということらしい。これを一概に非難できませんが、日本の近代学問は互いに他方にお任せしてしまう専門分化に安住してきたことは確かです。逆説的ですが、だからこそ根拠のない科学信仰がはびこるのです。こういう状態を続けていて、思想が力を持つとは思えません。ちなみにヨーロッパでは長い間、「諸学」はすべてscienceと呼ばれてきました。
 で、「ガリレイの会」で何を目指すのか。文系的な知と理系的な知との融合を図る、などと大風呂敷を広げるつもりはありません。しかし世の物事について多少とも真剣に考えようと思うなら、自然法則のイロハくらいはわきまえておくべきでしょう。この問題意識を、志を同じくする人たちの間で最低限共有しようと考えたわけです。
 以前、この欄で「三日月が見る間に天頂に上った」などというでたらめなエッセイを書いている作家を批判したことがあります。自然に対する無知は、自然に対する鈍感をも養うのです。


*次回「ガリレイの会」は、以下の要領で行います。参加自由です。
●6月15日(日) 午後4時30分~8時30分
●ルノアール四谷店 マイスペース4F
●アクセス:http://standard.navitime.biz/renoir/Spot.act?dnvSpt=S0107.85
●講義内容:力学の基礎(力、摩擦、圧力、加速度、運動量、仕事、エネルギー、
慣性の法則って何? その他) 
詳しくお知りになりたい方は、以下のメールアドレスへどうぞ。
i.kohama@pep.ne.jp


二曲聴いてふと感じたこと

2014年05月13日 00時15分25秒 | エッセイ
二曲聴いてふと感じたこと


 徳永英明の「VOCALIST」シリーズを持っています。
 このシリーズの4のなかに、①「時の流れに身をまかせ」(原曲テレサ・テン)と②「First Love」(原曲宇多田ヒカル)が収められています。
 とりあえずYou Tubeから、この2曲を転載しましょう。

徳永英明 / 時の流れに身をまかせ


「First Love」hideaki tokunaga


 さてこの2曲を聴いているうちに、ふとあることを感じました。それについて書いてみます。
 どちらも切ない女心を歌っていて、曲としてはとてもいい出来栄えですね。ただその詩の出来不出来について、どうしても言いたいことがあります。
 ①は、新しい恋人を得た歓びとともにその恋を失いたくないという思いを訴えた歌、②は初めての恋に破れて痛むわが心の傷を自らそっといたわろうとする歌。両者はシチュエーションが逆といってもいいので、そもそも比較するには無理があるかもしれません。でもあえて比較してみようと思います。
 私の直感をまず言うと、①は文句のつけようのないいい詩ですが、②には何だかウソくさいイヤなものが感じられるのです。では、それぞれの歌詞の1番をここに書き写してみましょう。

①時の流れに身をまかせ

  もしもあなたと 逢えずにいたら
  わたしは何を してたでしょうか
  平凡だけど 誰かを愛し
  普通の暮し してたでしょうか

  時の流れに 身をまかせ
  あなたの色に 染められ
  一度の人生それさえ 捨てることもかまわない

  だからお願い そばに置いてね
  いまは あなたしか愛せない


②First Love

  最後のキスは
  タバコのflavorがした
  にがくてせつない香り

  明日の今頃には
  あなたはどこにいるんだろう
  誰を想ってるんだろう

  You are always gonna be my love
 いつか誰かとまた恋に落ちても
  I'll remember to love
  You taught me how
  You are always gonna be the one
  今はまだ悲しいlove song
 新しい歌 うたえるまで


 この両方の詩にはある共通点があります。それは、世の中は移ろいやすいもので、自分の心も定めがたいから、時間がたてば今の思いは変わってしまうかもしれないという「はかなさ」の感覚があらかじめ織り込まれていることです。
 ①では、「いまはあなたしか愛せない」というところにそれがあらわれ、②では「いまはまだ悲しいlove song 新しい歌うたえるまで」というところにそれがあらわれていますね。
 しかし、①の場合には、「いま」の恋心が何のためらいもなく一途にストレートに表出されています。「だからお願い そばに置いてね」というセリフを聞かされた男は、相手に少しでも惚れていれば、まず間違いなく参ってしまうでしょう。「いまはあなたしか愛せない」という一種の「限定」は、少しも男の心を醒ます方向にははたらかず、かえってますます「おお、それでいいとも」と相手を受け入れて応じる気持ちをかき立てるに違いありません。人生とはそういうものだというはかなさの感覚がいよよ二人をつなぎとめるのです。

 ②の場合はどうでしょうか。
 自分がまだ失恋の痛手から癒えないので、これからもずっとあなたを心の隅で思い続けると懸命に言い聞かせているわけですね。「the one」とまで言っています。その気持ちはわからなくはありません。
 でも「いつかまた誰かと恋に落ちても」と自ら平然とつぶやいて見せる余裕はいかがなものでしょう。「あなたがどんなにかけがえのない人かがわかった」という言い方も妙に覚めています。「いま」あるはずの直接的な心からすでに離れて、未来の自分を想定してしまっているのですね。
 言い換えれば、この人は失恋の痛手に浸ってはいず、早くも自分を相対化しようとしています。そこには失恋で落ち込んでいる自分の状態そのものを歌にしようという真率さが感じられません(たとえば中島みゆきの「あばよ」にはそれがあります)。なんだ、態のいいことを言ってるけど、そんなに傷ついていねえんじゃねえの、と冷やかしたくなります。私はたぶんその軽薄さが気に入らないのでしょうね。
 もちろん、初めての恋人に対する「あなただけは特別でいつまでも」という思いを心の奥底に秘め続けるということは実際にありうるでしょう。前の恋人にずっと未練を残し続けるということもある。
 それはそれでいいのですが、歌は公開的です。ほかの人も聴いています。その「ほかの人」が、ここに歌われている「いつかまた恋に落ちる」誰かだったらどうでしょうか。「新しい歌」の受け手だったら? ふざけんじゃねえ、そんなこと聞きたくねえ、ということになりませんか。ぬけぬけとそんなこと歌うんじゃねえよ、と。
 私が言いたいことをもっとはっきりいうと、この歌詞は、自分自身を突き放して冷ややかであるぶんだけ、かえって他の誰かに配慮しないはしたなさが露出しているということです。要するにナルシシズムなのですが、そのナルシシズムには可愛さが感じられず、すれっからしに特有のひとりよがりなのですね。歌わずに隠しておけばよいのに。

 私はずいぶんやかましいことを言っているかもしれません。でも、微差に見えるこの違いをどうしても見過ごすわけにいかないのです。
 で、こういう違いは、どこからくるのか。世代差、歌の作り手の個性など、いろいろ考えられるのですが、ここでは②の作者(宇多田ヒカルさん自身)を傷つける気は毛頭ありません。もちろん、たかが二つの曲だけを素材に文明論的な一般化を施すことなどできないのですが、そのことを承知の上であえて言うと、ここにはどうも日本的な機微の細やかさとアメリカ的な粗雑さが何ほどか反映しているような気がしてならないのです。①の感性は日本の伝統をそのまま受け継いでいますが、②の感性はいかにも戦後(=アメリカ)的です。
 調子に乗って、つい乱暴な結論を導き出してしまいました。反論、お叱りなどいただければ幸いです。
 

「ほんとうの父親」って何?

2014年02月15日 17時31分38秒 | エッセイ
「ほんとうの父親」って何?




 冒頭に掲げたのは、昨年評判になった映画『そして父になる』の一画面です。
 ご承知の通り、この映画は、5歳まで愛情を注いで育てた子どもが「実の子」ではなく、病院で取り違えられたことを知らされ、それから夫婦の苦悩が始まるという設定です。
 実は私、この映画を見そびれてしまいました。ですので、詳しい展開や結末を知りません。でもテーマにはずっと関心を抱いていたので、DVDが発売されていたら買おうと思って注文したところ、4月発売予定ということです。ずいぶん先の話で残念なのですが、見るのはそれまで我慢することにしました。
 本来なら、映画を見てからこの文章を書くべきなのですが、映画の内容いかんにかかわらず、「ほんとうの父親」という問題について現時点での考えを発表することはできますから、それを書いてみます。DVD発売を待ちきれなくなったというのが本音です。

 現代の科学技術はたいへん高度な水準に達しています。なかでも、人物特定にかかわるDNA鑑定は近年その精度が飛躍的に高まり、犯罪捜査や拉致問題などにも利用されていることは周知の事実です。遺骨、毛髪、体液などのほんの少しのサンプルがあるだけで、当人をめぐる血縁関係が特定できるわけですね。
 この鑑定法は、夫が妻の浮気や不倫を疑って「ほんとうに俺の子なのか」という疑惑が生じた場合や、遺産相続をめぐって兄弟姉妹間で争いが生じた場合などで、一つの決着をもたらすための有力な手段としても活用されているようです(数としてはそれほど多くないでしょうが)。
 しかし、この「決着」なるものが、果たして当人たちを心から納得させるものなのかどうか、まして、「決着」があったからと言って、当人たちのどちらかあるいは両方に、これまでよりも将来の幸せを約束してくれるものなのかどうか、ということになれば、これははなはだ疑わしい。新しいトラブルの起爆剤にならないとも限りません。
 2014年1月、次のような興味深い(と言ってはご本人たちに失礼ですが)新聞記事が載りました。全文転載します。

DNA鑑定「妻と交際相手との子」、父子関係取り消す判決
(朝日新聞デジタル版 2014年1月19日05時00分)

 DNA型鑑定で血縁関係がないと証明されれば、父子関係を取り消せるかが争われた訴訟の判決で、大阪家裁と大阪高裁が、鑑定結果を根拠に父子関係を取り消していたことがわかった。いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例だ。
 訴訟は最高裁で審理中。鑑定の精度が急速に向上し、民間機関での鑑定も容易になるなか、高裁判断が維持されれば、父子関係が覆されるケースが相次ぐ可能性がある。最高裁は近く判断を示すとみられ、結果次第では、社会に大きな影響を及ぼしそうだ。
 争っているのは、西日本の30代の夫婦。2012年4月の一審・大阪家裁と同年11月の二審・同高裁の判決によると、妻は夫の単身赴任中、別の男性の子を妊娠。夫は月に数回、妻のもとに帰宅しており、実の子だと疑っていなかった。
 その後、妻と別の男性の交際が発覚。妻は夫に離婚を求め、子と交際男性との間でDNA型鑑定を実施したところ、生物学上の父子関係は「99・99%」との結果が出た。妻は子を原告として、夫との父子関係がないことの確認を求めて提訴。「科学的根拠に基づいて明確に父子関係が否定されれば、父子関係は取り消せるはずだ」と主張した。
 民法772条は「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」(嫡出〈ちゃくしゅつ〉推定)と定めている。この父子関係を否認する訴えを起こせるのは夫だけで、しかも、子の出生を知ってから1年以内に限られている。
 今回のケースはこれにあてはまらないうえ、「夫がずっと遠隔地で暮らしている」など、明らかに夫婦の接触がない場合は772条の推定が及ばないとする、過去の最高裁判例も適用されない事案だった。家裁の家事審判は、あくまで夫と妻が合意した場合に限り父子関係の否定を認めるが、今回はそれもなかった。
 夫側は父子の関係を保ちたい考えで「772条が適用されるのは明らか。子への愛情は今後も変わらない」と主張。民法の規定や従来の判例、家裁の実務を踏襲すれば妻の訴えが認められる可能性はないはずだった。ところが一審の家裁は「鑑定結果は親子関係を覆す究極の事実」として妻側の訴えを認めた。二審の高裁は子どもが幼く、妻の交際相手を「お父さん」と呼んで成長していることなども考慮。家裁の結論を維持した。(田村剛)
 ◆キーワード
 <嫡出推定> 民法772条は、妻が身ごもった時、夫の子と推定すると定めている。妻が夫に隠して別の男性の子を身ごもった場合も、この規定により法律上は親子となり得る。父を早く確定することが子の利益になるとの考えからだ。ただ、この規定ができたのは血縁の有無が科学的に証明できなかった明治時代。DNA型鑑定で血縁関係を確認するケースは想定されていなかった。
 

 いかがですか。
 この記事には、「いったん成立した親子関係を、科学鑑定をもとに否定する司法判断は、極めて異例」と書かれていますが、さらに「異例」な印象を受けるのは、夫が訴えているのではなく妻のほうが原告代理で、「科学的根拠」を使って夫と離婚し、交際相手とその子どもと共に新しい家族を作ろうとしている動機が見える点です。しかも最高裁で争うということは、夫のほうが妻の不貞を知り、「根拠」を突き付けられてもなお判決を不服とし、控訴、上告していることを意味しますね。
 特異といえば特異であり、また当事者間には、外からはうかがい知れない複雑な事情があるので、軽々しく倫理的な判断は下せません。しかし野次馬的に言うなら、時代も変われば変わるもの、離婚への妻の意志の強さ、婚姻関係・家族関係に対する夫の執着の強さだけはうかがえるでしょう。夫側の主張にある「子への愛情」というのがはたして本物なのか、それとも形式にこだわっているだけなのか、あるいは自分を裏切って幸せになろうとしている妻への復讐心が根元のところにあるのか。想像はいくらでもたくましく膨らみます。ただ心配なのは、こんな争いに終始している間にどんどん子どもは成長していくのに、その子の人生を二人がどこまで真剣に配慮しているのかという点です。

 さて私がここでひとまず指摘しておきたいのは、現代人の「科学的根拠」なるものについての異様なまでのこだわりについてです。このこだわりは、こうしたプライベートなケースに限らず、今日、他のあらゆる場面で物事の決着のための最終根拠として重宝されています。医療分野、原発問題、環境問題、経済問題、日々の健康美容……。何か問題を感じたり意見が対立したり判断に迷う場合、必ず駆り出されてくるのが、「科学さま」という神様です。あたかも古代中国において亀甲の罅の入り方によって政治的な決断をしたように。いや、この卜占によるほうがまだましかもしれない。人知ではうかがい知れないことを神々の定めにゆだねるという謙虚な自覚があったのですから。
 では「科学さま」という神様によって万事が解決するのかといえば、それはとんでもない。ある問題をめぐって、どちらも「専門的」「科学的」という看板を使いながら、まったく反対の主張をして譲らない例は腐るほどありますね。
 私は、この科学万能主義にもとづく判断や行動の少なからぬ部分が、良識と寛容とよき慣習によって成り立っている社会関係を破壊する大きな作用を持っているのではないか、と考えています。もちろんこう言ったからといって、万人をよく説得しうる真の科学的精神を否定するものではまったくありません。「科学さま」のお札をかざしさえすれば、それを主体的に疑いもせずに安易に信じ込んでしまう現代の風潮こそが問題なのです。信仰が宗派の数だけ多様であるのと同じように、現代の科学教の乱戦模様もすさまじいものがあります。なおこの問題については、まもなく発売(2月17日)になる雑誌『表現者』53号掲載の拙稿をご参照ください。

 話を「ほんとうの父親」問題に適用してみましょう。
 DNA鑑定によって法的な判断を下すという場合、その背景にある私たち共通の観念とは何か。それは「血がつながっている」ということですね。では「血のつながり」とは何か。これはふつう、妊娠は男女の性交によるという生物学的な因果関係の知識に基づいています。DNA鑑定がこれほど威力を持つというのも、この知識があればこそです。だれもこの「科学的」知識の力を疑おうとはしていません。それどころか、冒頭に掲げた『そして父になる』においても、その次に掲げた新聞記事の中身においても、私たちのいざこざ、煩悩、苦しみが、この「血のつながり」を疑いえない絶対の真実と前提するところから生まれてきていることは明らかです。
「ほんとう」とはこの場合、「性交→妊娠」という生物学的な事実を唯一のよりどころにして成立しています。特に、父親は母親に比べて「ほんとうに私の子か」という疑いを持ちやすい条件の下におかれていますね。いや、大病院で出産することが多くなった現代では、まれとはいえ、母親だってこの疑いを持つ可能性があるわけです。

 さて性交→妊娠という生物学的な因果関係を根拠としたこの「ほんとうの子」という観念は、疑うに値しないでしょうか? この「ほんとう」は本当でしょうか?
 昔から、お前は私の実の子どもではないと聞かされた人が心理的な動揺をきたして、「ほんとう」の親はどこで何をしているのか探索する気持ちに駆り立てられるという話がよくあります。ずいぶん前に流行った「ルーツ」探しなども、同じですね。当人の気持ちはよくわかりますが、これって科学がもたらした近代人特有の過剰なオブセッション(強迫観念)に思えて仕方がないのです。
 私は、生物学的な事実そのものを疑えといっているのではありません。また、文明のある段階からは、どの社会でも、「性交→妊娠」という因果論理が基礎となって家族が営まれてきた歴史を否定するつもりもありません。いわんや、血縁などただの幻想だから捨ててしまえなどと、ひところのフェミニズムみたいなことを言いたいのでもありません。
 ただ、この生物学的な事実だけに依拠して婚姻の秩序や家族的な人倫の慣習が成り立っていると限定してしまうと、もし「科学」が、ある婚姻関係や家族関係においてこの事実の存在を否定し、ほとんどの人がそれに納得してしまったら、これまでの夫婦、親子の生活の共同過程そのものはすべて無意味ともなりかねない。それでもいいのですか、と問いたいのです。
 何が婚姻や家族にまつわる秩序、人倫意識を成り立たせているのか。それは「血がつながっている」という科学的な「知識」ではありません。
 かつて「生みの親より育ての親」とよく言われました。また、江戸期から明治時代までは、養子縁組が当たり前でした。これらの言葉や事実を媒介している根本のところには、もちろん「血のつながり」の観念があります。これらの言葉や事実は、社会の現実が必ずしもその観念どおりには貫かれてはいないので、そうした実態に即したカウンターあるいはサブの役割を担っていたのでしょう。
 しかし、実際にそういう言葉や事実が生きていてそれを多くの人が受け入れるということは、人々が生物学的な事実の知識そのものよりも、むしろそれに先立って、「夫婦」や「親子」という社会的な認知の関係を大切にしていることを示しています。この認知の関係が成立するためには、必ずしも生物学的血縁の事実を絶対の必要条件としてはいません。「この子は婚姻関係を結んだ私たちの子ども」という男女相互の「信憑」と、それに対する周囲の社会的「承認」があれば足りるのです。この当事者の「信憑」と周囲の「承認」があるからこそ、物心ついた子どもも、「自分のお父さん、お母さんはあの人」として疑わず、そのいのちの行く末をその人たちにゆだねるのです。少し乱暴かもしれませんが、これは、ペットが家族同然となる例などを見ればわかりやすいでしょう。
 この信頼関係が揺らぐような契機さえなければ、鑑定の必要なども生じないわけで、家族を営む以上は、夫婦、親子の信頼関係が揺らがないような努力が必要とされます。そのためには、時には余計なことは言わずに黙っていたり、しらを切りとおしたり、嘘をついたりする必要もあります。私がこれまで見聞してきた中でも、だれかが子どもに「真実」なるものを教えてしまったために、家族関係に深刻な亀裂が入ってしまった例、逆に、黙りとおしていたために何とかうまくやりおおせた例などがあります。
 ギリシャ悲劇の最高傑作『オイディプス王』では、主人公は「お前は父を殺し母と交わるであろう」というアポロンの不吉な予言が的中したことを知らされます。それを知ってしまった一番の原因は、他ならぬオイディプス自身の、「真実」追究へのあくなき情熱です。そのことを悟った彼は、「見ようとすること」が呼び込む不幸に打ちひしがれ、われとわが両眼を突き刺すのです。
「知らぬが仏」とはまさにこのことです。

 以上述べてきたことは、人間の関係、人間の社会が、もともと、何か絶対の「真実」というようなものによって支えられているのではなく、「そうである」という相互の信憑、あるいは「そういうことにする」という相互の約束によって成り立っていることを示しています。思想家の吉本隆明は、これを「共同幻想」と呼びました。そう、ラディカルな言い方をすれば、人間の社会は「幻想」によって動いているのです。
 しかし「幻想」といってしまうと、「幻想というからには、幻想ではない真実なるものの存在があらかじめ想定されていることになるではないか」という反論がただちに返ってくるでしょう。ですからこの言い方は確かに誤解を招きやすい。
 幻想といっても、個人の妄想ではなく、ある共同世界に共有されている幻想には、それなりの必然性と根拠があるのです。ですから、共同幻想というよりは、「共同観念」と言い直すべきでしょう。
 すべてとは言いませんが、人間がともに生きていくために、「共同観念」のあるものは、なくてはならない価値を持っています。では、親子関係、血縁関係という「共同観念」が性交→妊娠という単なる生物学的な「知識」によって生かされているのではないとすれば、それは何によって維持されているのでしょうか。
 答えはすでに述べたとおり、婚姻という約束と承認から生じた「私たち夫婦の子」という信憑であり、また、その信憑に息を吹き込み続けているのは、実際の生活の共同過程なのです。『そして父になる』における、福山雅治演じる野々宮良多は、余計なことを知らされて悩む必要などなかったのです。
 この認識は、何ら私のオリジナルではありません。昭和十七年、なんと今から七十年以上も前に、哲学者・和辻哲郎によってほとんど同じことが、しかもはるかに周到に書かれています(『倫理学』第三章・人倫的組織)。一節をひきましょう。

 母親はその子が自分の体内の細胞から生育し出でたということを、何らかの仕方で直接に知っているというわけではない。彼女はその産褥の苦しみや哺乳の世話を通じてその子の間に関係を作るのであり、従って血縁の関係は彼女の自覚的な存在に属する。それを証するために我々は次のような極端の場合を考えることができる。もし出産の直後に、偶然の出来事によって、何人もそれに気づくことなく嬰児が取り換えられるとしたならば、そうして母親がそれを己の子と信じて哺乳を続けたならば、その母子の間には血縁関係が体験せられるであろう。(中略)かく見れば、血のつながりと言われるものは、生殖細胞によって基礎づけられるのではなく、逆に主体的な存在の共同にもとづいて成立し、後に生殖細胞によって説明せられるに過ぎぬのである。母親は胎児との間にすでに存在の共同を設定している。従って現前の嬰児が生まれ出たその胎児であると確信している限り、たといそれが他の児であっても、同じき存在の共同を続けうる。
(中略)
 父と子との間の血縁に至っては、それが事実上の物質的関係に基いて初めて成立するのでないことは一層明白である。父は夫として妻への信頼を持つ限り、嬰児が彼の子であることを確信する。彼の身体のある細胞が事実上この子の原因となっているかどうかは、父子関係の成立を左右するものではない。もちろん父と子との間には肉体的類似の見いだされるのが通例であるが、しかしこれに基いて初めて父子関係が成立するのではない。逆に父子関係がかかる類似を見いださしめるのである。これに反して、夫が妻への信頼を持たぬ場合には、たとい事実上彼の細胞が生育して嬰児となったのである場合にでも、それを彼の子として確信することはできない。


 和辻が言うとおり、「ほんとうの父親」は、「事実上の物質的関係」=遺伝子の同一性を意味するのではなく、妻への信頼にもとづく「自分の子である」という確信の上にこそ成り立つのです。
 この記述で何とも鮮やかなのは、「類似」の問題すらも、生物学的父子関係の「証拠」と考えずに、父子関係の承認が逆に「似ている」という把握を導き出すのだと主張している点です、なるほど、生物学的血縁であっても、いっぽうあるいは両方の親にちっとも似ていない子というのはいくらでもあり、そういう場合に人々はふつう、似ていないことを根拠に「あれはほんとうの子ではない」などと騒ぎ立てたりしません。信頼の揺らぎが生じた時に初めてそういうことが問題とされるのです。じっさい、他人の空似ということもよくあることですし、逆に類似の問題をDNAがかなり決定づけると仮定したとしても、夫婦両者のアマルガムによって、両方に似ない顔が出現することは大いに考えられるでしょう。

 近代科学・技術の偉大な成果を私は否定しません。特に乳幼児死亡率の激減、貧困からの脱却、資源・食料の確保、災厄に対する防衛、快適で豊かな生活の保障などに近代科学・技術が大いに貢献したことは争うことのできない重要な事実です。
 しかし行き過ぎは何ごとも人を仕合せにしません。いったい、「科学さま」の一出先機関に過ぎないDNA鑑定を唯一の頼みとして、「ほんとうの父親」なる観念に金縛りになり、そのことによって、つつがない生活の平穏さを自らかき乱すような振る舞いが良識のあるふるまいと言えるでしょうか。
 先の新聞報道の例では、つつがない生活の平穏さが通っていたとはもともと言えないので、当事者の意志についてどうこう言うつもりはありません。また裁判所が、結果的に原告代理である妻側の離婚要求を認めることになったとしても、それはそれで仕方がないことでしょう。
 問題は、よき慣習に見合った普遍的な良識に立脚すべき法曹界の判断が、形式上の生物学主義にひたすら根拠を求めている点です。これはいかにも安直であり、「人間」を考えないわざと言うしかありません。「近代」の諸価値をけっして盲信してはならないという教訓がここからも得られると思うのですが、いかがでしょうか。

日本は世界一の「職人国家」

2014年01月09日 18時58分37秒 | エッセイ
 日本は世界一の「職人国家」



 日本のものつくり技術の水準がいかに高いかは、すでにいろいろな方面で言われていることですが、最近の私自身の体験と見聞から、この問題をとりあげてみたいと思います。
 昨年の12月、借家住まいの自宅の屋根・外壁塗装工事が行なわれました。築10年ほどで、さほど劣化しているとも汚れているとも思えなかったのですが、オーナーさんのご希望で10日余りの工事を施工することになったのです。何度も私のところにていねいな事前確認が届き、やがて工事が始まりました。こういう時、借家住まいというのは気楽なものです。ちゃんとやっているかどうか神経をとがらせる必要もなく、ただまかせておけばよい。で、まあ、面白いので、ときたま外に出ては観察しておりました。
 足場を組む。水洗いをする。シートを張る。窓などを汚さないように養生をする。塗装開始。塗装完了。シートと養生を取り去る。足場を解体する。だいたいこんな工程でしょうか。
 これら一つ一つがじつに配慮が行き届いていて完璧でした。計画どおり終わった後、屋根と外壁は見違えるほどきれいになりました。特に感心したのは、たくさんある窓やベランダの手すり、床その他の部分に一滴もペンキを飛散させまいという徹底した養生ぶりです。また、毎日工程表のどこまで終了したかを示す報告書を入れてくれます。言葉づかいもとても丁寧。私が車で外出する必要のある時は、ただちに障害物をどけてくれます。
 こんなことは職人仕事として当たり前と思われるかもしれません。しかし昔、要らなくなったソファの処理を廃品回収業者に頼んだら、外国人労働者(中東系)が一人でやってきて、ソファの片方を持ち上げて木の床の上をずるずると引きずっていき、床をひどく傷つけたことがあります。高い金をとってこのありさまです。業者主(日本人)に文句をつけると、本人は否定していると言い逃れます。ケンカして何とか半額にまけさせましたが、本当ならこちらが損害料をとってもいいくらいです。ちょっと緊急時だったので我慢しましたが。
 中東系だと床は石やコンクリートだから、そんな気遣いの必要がないのでしょうね。これは人件費の安い外国人労働者を日本で雇っておいて、何も教育しない業者の責任です。
 ちなみに今回の工事中に、たまたまトイレの排水処理に小さな支障をきたしたので、水道業者に連絡したら、すぐ駆け付けて原因について詳しく説明してくれました。「たいへん申し訳ないのですが、ちょっと部品が特殊なので入手までに三、四日いただけますか」と言われ、快諾したところ、二日しかかかりませんでした。車のバッテリーをうっかり切らした時も同じ、コピー機のメンテナンスサービスもとてもきちんとしています。
 私は国際事情に疎いですが、聞いた限りでは、こんなにしっかりした職人仕事やサービスを迅速かつ正確にしてくれる国はほかにないのではないかと思っています。これは単に技術が優れているというだけの問題ではありません。顧客に対するデリケートなケアの心が徹底していて、相手に喜んでもらえるようなモノ・技術・サービスを提供することが自分たちの職業人としての意地になっているのですね。言い換えると伝統的な人倫精神が職業意識の中にそのまま生きているのです。

 ある友人から次のような話を聞きました。
 夏の盛り、中国旅行をして四川省のホテルに泊まりました。一応エアコンが設置されています。しかし、コンクリート壁にドカンと四角い穴があけてあり、そこにただ置かれているだけ、壁と機器との間には2、3センチほどの隙間が空いているというのです。
 最近、テレビと新聞で次のような情報を得ました。
 日本にやってくる中国人観光客(相当の裕福な層でしょう)が、日本製の爪切りやストッキングを大量に買いあさっていく。日本製品は品質がとても優れているので、お土産として配るととても喜ばれるというのです。
 また、紙おむつや生理用品が店頭から消える現象がしばしば見られる。これはやはりその品質の素晴らしさを知った中国人が買い占めているというのです。
 この二つの話は、単に喜んでばかりもいられません。というのは、これに目をつけた一部のブローカーが金と需要の大きさにモノを言わせて買い占めを続ければ、生産が追いつかず、肝心の日本人の手に届かない状態が慢性化する可能性があるからです。価格も高騰するでしょう。何しろ中国は市場がデカいですからね。
 こういう例を挙げたからといって、私は別に最近の嫌中ムードをさらに煽ろうというのではありません。この問題(ものつくり技術と顧客に対する倫理)に関する限り、繰り返すように、むしろ日本が他国に比べて格段に優れているのであって、ことはヨーロッパでもアメリカでも、中国とたいして変わらないように思います。
 90年代にヨーロッパツアーに参加しました。ロンドンのホテルに泊まったとき、ポットが故障していました。慣れない英語でフロントに電話すると、相手はペラペラペラペラ早口でしゃべりまくってなんだかさっぱりわかりません。「OK?」と言ったきりガチャン。日本では考えられないですね。私の英語が外国人のものだということがわかるのだから、そういうときには、ゆっくりしゃべって、そして「申し訳ありません。すぐにお取替えに参ります」と答えるのが筋でしょう。どこの国か忘れましたが、ホテルのシャワーが故障していてほとんど水が出ず。これはよく聞く話ですね。イギリスでは、修理を頼んでからいくらたっても来てくれないとか。
 パリに滞在している友人からの情報。
 街はいまや犬の糞をはじめとしてゴミだらけ。掃除をする公務員がたくさんいるはずなのに、いったい彼らはどうしたのか。私がパリに行ったときは、まだましで、そんなに汚れているとは感じませんでした。清掃作業員の人たちもそこここにいて、道を尋ねるととても親切に答えてくれたのを憶えています。ちなみにフランスの公務員の割合は日本に比べてはるかに高いです。私の勘ぐりによれば、これはEU経済の失敗が関与しています。貧すれば鈍するというヤツですね。
 ATMからお金をおろそうとしても日本円で最高7万円くらいしか下ろせず、困るというと出してやると言わんばかりの横柄な態度。自分の金を引き出すのに何で頭を下げなくちゃならないのかと、彼は怒っていました。店員の態度もとても悪いそうです。
 爪切りもよく切れず、爪先がガリガリになってしまうとか。
 勉強のためにきちんとしたノートが必要なのに、紙の質がザラザラでうまく早く書けない。いい品質のノートを苦労して探したら、10ユーロ(約1400円)以上もするのでびっくり。買ってみてなおびっくり。「MADE IN JAPAN」だったそうです。
 アメリカの製造業はいま、デトロイトの財政破綻に象徴されるように危機的といっても過言ではありません。内需がそこそこ高いのでしょうが、いま日本人でどなたか、アメリカ製の自動車や電化製品を持っている方、いますか? ガソリンスタンドのほとんどはセルフなので、多くが壊れていて使い物にならないというのはよく聞く話です。
 私たちは日本に住んでいて、治安の良さや行き届いたサービスや顧客に対する丁寧な態度、そして素晴らしい職人技術を当然と思いがちですが、これらがいかに優れているかが、外国に行ってみて初めて身にしみてわかるのだと思います。そのありがたさをもっと知るべきではないでしょうか。

 私が中学生か高校生のころ、家にちょっとした改修が必要だったので大工さんに入ってもらいました。その人は意志の強いテキパキした男らしい人で、母がそのきっぷのよさに少々惚れていたようです。彼が茶飲み話の折に、当時プレハブ住宅が盛んになり始めていた状況を憂えて、「何という時代だ」とため息を漏らしていました。腕ひとつで叩き上げた職人気質そのもののような人ですから、工場生産によって現場での手仕事のきめ細かさが失われていくと考えて、その風潮に我慢がならなかったのでしょう。
 しかし、それから半世紀たった今日、そうした職人気質が廃れたかというと、前述の経験の通り、そんなことはないようです。この、目に見えない文化的・人倫的慣習をこれからも大切にしたいものです。そのためには、国民性に遭わないヘンなルールを、グローバルスタンダードなどという圧力に屈して安易に取り入れたりしないこと、そうして国を豊かにする適切な経済政策とは何かをよくよく考える必要があります。