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小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう(その2)

2013年12月20日 02時49分13秒 | エッセイ
「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう(その2)





 最後に、最も濫用されている「民主主義」という言葉について触れましょう。自分の立場を正当化し敵対する立場を論難するために、この言葉を盾にしない政治言論は、右から左までほとんどないといってよいくらいです。つまり「民主主義」は現代社会では神聖な葵の印籠と化しているわけですが、しかしそうなると、インフレと同じで、その言葉の価値がどんどん下がってしまいます。どの体制、どの思想が「本当の民主主義」に値するか、まあ、そういう旗の奪い合い、正統争いをやっている光景ですね。
 もちろん、この事態に深い疑いを持ち、早くから「民主主義国家」「民主政治」「民主憲法」などの概念を原理的なレベルで批判している数少ない人たちもいます。私はこの人たちを尊敬しています。民主主義はいま、その内的な必然からして、衆愚政治(いわゆるポピュリズム)に堕していく傾向が大いに顕在化しています。そうした状況のなかでは、こうした思想的営みはぜひ必要なことです。というのもこの傾向は、時々の社会経済的条件いかんによって、その急激な危機克服の手段としての全体主義へ結びついていくことが歴史的にも証明されているからです。

 しかしながら、他方では、「自由」や「人権」と同じように、相手のやっていることの不当性を指摘するためにこの言葉を葵の印籠として用いざるを得ない局面が多々あることも事実です。繰り返しますが、北朝鮮王朝政府や中共独裁政府の勝手な振る舞いに対しては、これらの体制そのものが民の福利にまったく寄与していないという抗議の意味合いを込めて、「民主化せよ、さもなくば体制転覆を覚悟せよ」と訴えることが必要ですし有効でもあります。
 たまたま新聞で目にしましたが、ロシアのプーチン政権も情報統制においてずいぶん強硬手段をとっているようです。報道機関として定評のあった国営ロシア通信社RIAノーボスチの解体を一方的に決めたというのです(産経新聞12月19日付)。同日付の北大名誉教授・木村汎氏の論説によれば、ロシアでジャーナリストが客観的な報道に従事するのは命がけで、過去20年間で341人の記者が殺害され、いまだに一人の犯人も捕まっていないそうです。
 こういうお国柄(ツァーリズム時代、社会主義時代を通しての伝統)の政権に対しては、報道の自由や、より開かれた民主主義体制の実現を訴えることは大いに意義があります。
 また生活の場面でも、エコ・イデオロギー、効率主義イデオロギー、過剰健康主義イデオロギー、「被差別者」特権イデオロギーなどが、当事者の生活感覚を無視して有無を言わせずじわじわと攻め寄せてくるとき、もっと民主的な議論が必要だろう、と感じることがしばしばあるのではないでしょうか。
 さらに、この恐ろしく多様化した大衆社会のなかで、国論を少しでも統一させてまともな政治を行なおうとすれば、だれもが最大限民主的な手続きを取らざるを得ません。政策を一つ一つ実行するにあたっても、世論のマジョリティがどの辺にあるかということに何の配慮もしなくてよいとはとても言えないでしょう。権力がなければ政策を実現することはできず、近代民主主義国家の権力は、世論によってこそ支えられるという点を無視できないからです。
 
 民主主義(デモクラシー)というのはデモス(民衆)自身による民衆の支配・統治を意味しますが、もとよりこれは専制政治(オートクラシー)・貴族政治(アリストクラシー)との関係において成り立つ、統治形態の形式的な概念です。別にはじめから葵の印籠であったわけではまったくありません。よい専制政治、よい貴族政治というのも十分考えられるし、現に歴史上ありました。
 民主主義の弊害は、早くから気づかれており、プラトンが『国家』のなかで哲人政治を構想したのも、当時のアテナイ社会の衆愚政治に対する批判意識からです。またアリストテレスは、上記三つの政治体制のうち、一応、理念としては民主政治が最もよいが、それが現実に堕落した時には、他の二つに比べて最悪の事態を引き起こすと見抜きました。
 十六世紀イタリアの思想家で、『君主論』の著者・マキャヴェッリは、良い統治を成し遂げるための君主の条件について深く考察しましたが、民主政治などという概念は彼の頭の中のどこにもありませんでした。また徳による統治を説いた孔子も、「小人閑居して不善をなす」と言い放ち、君子たるものの条件を力説しています。ニーチェに至っては、民主主義思想などは端的に奴隷のルサンチマンの上に成り立つものでしかなく、オルテガも大衆の支配がいかに人間を堕落させるかについて力説しています。バークのフランス革命に対する徹底的な否定は有名ですね。

 少し論理的に考えてみましょう。そもそも民衆自身による民衆の自己統治という、民主主義の根幹をなす概念はおかしいですね。なぜなら、個々の民衆はそれぞれの生活で忙しく、また識見、能力、視野において限界を持つのが当然であって、政治というものが、自分と直接にかかわらない不特定多数者の意思を統合させる仕事である以上、そんな大仕事を民衆のだれかれに任せるわけにはいきません。政治というのはもともと高度な専門職なのです。
 もちろん、近代民主主義がこのことをまったくわきまえないわけではありません。ですから、表看板は民主主義とか、国民主権とか謳いながら、現実には間接民主制あるいは代議制という形をとらざるを得ない。つまり近代民主主義のなかにも、選ばれた優れた専門家が実際の統治に当たるという理念は一応生かされてはいるわけです。選挙制度というのが形式的には、そのことを保障しています。
 しかし実際には、この制度も候補者の知名度が高いこと、イメージとして「ステキ」に感じられること、地元で勢力を持っていて人気があること、などの情緒的な要因によって規定されてしまうケースが多い。ことに現代のような情報社会においてはそうですね。集団としての「大衆」の多くは、候補者の政治的な力量や思慮深さ、所属政党の政策理念の是非、などをいちいち詳しく検討せず、単なるムードで選びますから。
 このよい例が小泉純一郎元総理であり、近いところでは、さる7月の参院選におけるYT氏やAI氏の当選です。この二人がいかにバカであったかは、その後の行動で白日の下にさらされましたね。こういうことが、間接民主制下においても起きるのは、民主政治の担い手が、最終的には国民による直接の「平等な一票」によって決定されてしまうからです。

 世の中には、アメリカで理想とされているような直接民主制こそ、一番進んだ政治の理想なのだと考えている浅慮な人士が絶えません。ことにアメリカに負けた戦後日本は、この考え方を助長しました。別にアメリカだって直接民主制を敷いているわけでも何でもない。一見直接民主制に思える大統領選も、その複雑なシステムによって間接民主制を担保しています。
 でもあんなに徹底的に負けると、勝った方がなんだか思想的にも道徳的にも優れていたのだという思いを刷り込まれてしまうのですね。いったんそれを刷り込まれたこの人たちにその信念を覆してもらうのはとても難しい。そこで一つのわかりやすい例を出します。

 シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の『十二人の怒れる男』という名作があります。この映画は、アメリカの陪審員制度に材を取ったものです。スラム街で父親を殺したという容疑で被告席に立たされた17歳の少年の法廷での審理が決着し、あとは無作為に選ばれた多様な市民で構成される12人の陪審員たちが、有罪か無罪かを巡って密室で議論を交わすというシチュエーションです。陪審員制度では、全員一致でなければ評決が成立せず、いくら議論しても決着がつかなければ、その陪審員は解任されます。
 ご承知のようにこの映画では、はじめに投票で評決をはかると、11人が有罪、ただ一人、8号陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが無罪という結果が出ます。それから騒然とした議論が展開し、冷静な8号陪審員が粘り強い努力によって、ひとりひとり「無罪」を増やしていき、最終的に全員無罪を勝ち取ります。この映画のエンターテインメントとしての魅力はいろいろなところにあるのですが、いまはそれについては語りますまい。
 ここで指摘したいのは、この映画を不用意に見ると、アメリカの民主主義はなんて素晴らしいんだというふうに勘違いしがちなことです。陪審員制度は、雑多な市民が重大事の決定に当たるので、たしかに直接民主制の典型です。それが見事に一人の少年の命を救うところまで行き着くわけですから、その感動を、政治形態の理想に結びつけたとしても無理もない、と言えるかもしれません。じっさい、登場人物の一人が途中で「この国の強さは民主主義に宿っている」とスピーチする場面もあります。
 しかし、ちょっと考えてみましょう。この映画は、論理的に冷静にものを考えることの大切さを訴えてはいますが、けっして政治制度としての「直接民主主義」を肯定しているのではありません。なぜなら、もし8号陪審員がいなかったら、この審理は何の議論もなく5分間で「有罪」の決着がついてしまっていたからです。8号陪審員は、めったにいるはずのないスーパーヒーローです。すると、雑多な市民によって構成される陪審員制度は、当事者たちの都合、気分、根拠なき信念、偏見などによってひとりの人間の運命を決めてしまう公算が極めて強い、ということになるわけです。この映画はよく見れば、そのことがわかるようにきちんと描かれています。
 ちなみに現在、アメリカでは、刑事訴訟全案件中、陪審員制度が適用される事案は、わずか1.2%(1999年)に過ぎず、国内でもこの制度に対する批判が高まっており、適用数も年々減少傾向にあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%88%B6#.E7.B5.B1.E8.A8.88

  陪審員制度は、ひとりの見知らぬ人間の運命などに真剣に関心を寄せる気がなく、専門家としての職業倫理も持たない人たち(それはそれで当然のことです)の「人民裁判」の典型です。これをなにか、「より進んだ制度」であるかのように考えた一部の戦後日本人がおバカなのです。このようなおバカな人たちの強引な主張によって、日本でも裁判員制度が施行されてきました(陪審員制度よりはその過激さが薄められているのでまだましですが)。まことに敗戦日本のアメリカ万歳の卑屈な精神には嘆かわしいものがあります。

 いまこの国の政治勢力の一部には、地域主権、道州制、参議院廃止、首相公選制などを平然と政策理念に掲げている人たちがいます。こういう政策を掲げる人たちは、ただ何となくこれらが中央集権的な政治体制から脱却して、より個々の住民の利害に結びつくように見えるので、「直接民主主義的な理念の実現に近づく」と考えているだけなのではないでしょうか。これらの政策がどんな現実的結果をもたらすかという長期的見通しが何もありません。人間というものを知らない、また、日本という国の歴史的、文化的なまとまりの良さを正当に評価できない、とんでもなく間違った考えです。間接民主制がかろうじてこの間違いの歯止めになっているのです。

 そろそろ結論です。
「民主主義」という言葉が現代先進社会のなかでもっている強大な呪力をいまさらなくしてしまうことはできません。さしあたり、右も左も、方便としてこの葵の印籠を大いに使えばいいでしょう。しかし、よりよい社会制度をどう構想していったらよいかという問題としてこれを捉えるなら、「民主主義」という言葉を少しでも肯定的に用いるために、最低限、次の要件を満たす必要があります。

①この制度を金科玉条と思わず、つねに懐疑の精神を失わないこと。

②政治に携わる人は、多数の多様な民の要求・利害をうまく調整して統合するだけの、専門的な能力、豊富な経験、決断力、公共精神を持った「選ばれた」人であること。

③国民は、どういう人がそれに値するかについて、情実やイメージに惑わされず、できるかぎり理性的な判断力を養うこと。

④適切な人が選ばれるために(YT氏やAI氏のような人が選ばれないために)どういう選抜制度が必要であるかについて、智慧を絞ること。ことに「良識の府」と呼ばれる参議院のあり方について見直すこと。
 
 これは必ずしも、平等・普通選挙を必須としません。また評論家・呉智英氏が提唱しているように、選挙人資格を簡単な試験などによる免許制にするというのも一方法だと思います。

⑤議員の選抜に当たっては、その手続きが透明なものとして開かれていること。

 こういう要件が本当に満たされると、実際には、私たちがいま抱いている「民主主義」のイメージとは、だいぶ違ったものとなるはずです。私はこれをあえて、「民主的な手続きによる精神的貴族政治(アリストデモクラシー)」と呼びたい。
 

「自由」「平等」「人権」「民主主義」とハサミは使いよう(その1)

2013年12月16日 21時59分22秒 | エッセイ
「自由・平等・人権・民主主義」とハサミは使いよう(その1)



 最近、日本や世界の政治にかかわるニュースを見たり聞いたり読んだりしていると、自由・平等・人権・民主主義といった言葉が、とても大安売りで使われていますね。
 これらの言葉は、現代の自由主義諸国(おっと、私もたちまち使ってしまいました)では、「普遍的価値観」と呼ばれて、たいへん重宝されています。
 普遍的価値観とはまた、大ぶろしきを広げたものですが、こうした言葉を「普遍的」と呼ぶことそのものが、アメリカを中心とした自由主義諸国(おっと、また)の戦略なのですね。現代社会では、みんながこれらの言葉には弱いので、看板として大いに使えると感じてしまうのでしょう。「朝鮮民主主義人民共和国」なんて、実態とまるで合わないスゴイ国名をつけている国さえあります。
 ところで今の日本の言論界でこれらの言葉が使用される場合、それらはいつも両義性、両価性を帯びています。両義性、両価性――ambiguity――つまり「二つ以上の意味や価値を持っているようにとれること」。
 ですから私たちは、これらの言葉を聞きとるときには、それがどういう文脈で使用されているのかに注意しなくてはなりません。また私たち自身がこれらの言葉を使うときには、それをどういう価値観のもとに使っているのかに自覚的でなくてはなりません。前者に関しては、まあ、それほど誤解の余地はないと言えますが、特に後者の場合、その人の思想がもろに現れます。何の疑いもなく肯定的に使っているのか、それともこれらの言葉の価値に対して否定的に使っているのか、はたまた懐疑的に、アイロニカルに使っているのか、方便として使っているのか等々。

 たとえば「自由」。
 日本国憲法で謳われているさまざまな自由は、何人も奴隷的拘束や思想弾圧を受けてはならないという規定ですから、これは原則的に保障されるべき大切な規定です。しかし、責任の伴わない無限定の自由が保障されているかといえば、それは違いますね。「個人の自由」は、野放図に許容されるとしばしば他人を侵害し、公益に抵触します。

 ひところ「自由教育」なる理念のもとに、子どもへの指導・管理・強制をほとんどしない教育機関がはやりましたが、これなどはとんでもない倒錯です。社会的良識が発達していず、責任を免除されている未熟な子どもに自由を許したら、授業を聴かない自由、教室で漫画を読む自由、おしゃべりしたり飲食したり携帯をかけたりする自由、先生に逆らう自由、学校に行かない自由なども認めることになり、教育は成り立ちません。じっさいにこんなことを提唱していたバカ論者がいたのです。

 また先ごろ、特定秘密保護法案の国会通過を巡って、一部のマスコミが「知る権利・報道の自由を侵すものだ」というネガティブキャンペーンを大々的に張りましたが、これなども、国民の安全を保障するための国家機密をみだりに漏らしてはならないという当たり前の趣旨を理解しない、まことに身勝手な主張というべきでしょう。この法律が施行されても、別に報道の自由は侵害などされず、これまでどおり保障されます。一部マスコミはナイーブな反権力感情だけを盾にして、自分たちが情報をリークしてもらえなくなるのではないかという恐れから、無関係な国民を巻き込んで煽動しているのですが、国民はこんな反安倍政権キャンペーンにたぶらかされてはなりません。
 なおこの問題については、当ブログに拙論を掲載しましたので、ご関心のある方はどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/13d043deb6f1e242766bf85f2c67d388
また1月10日発売の月刊誌『Voice』2月号にも拙稿を寄せています。

 さらにいま、TPP交渉の年内妥結の可否が云々されています。もともとこのTPPというのは、国境を超えて市場を自由に開放せよというアメリカの一部グローバル企業や投資家の要求を通そうとするもので、これが認められると、それぞれの国家主権やその地域に根差した慣習や文化に破壊的な影響を与えることは明らかです。
 この新自由主義のグローバリズム攻勢については、東谷暁氏、中野剛志氏、三橋貴明氏、柴山桂太氏、施光恒氏、関岡英之氏ら、多くの優れた論客が早い時期から何度も国益に反するものとして警鐘を打ち鳴らしてきました。それにもかかわらず、安倍政権は日米同盟という外交・軍事上の「ご縁」をそのまま経済関係にまで延長して、平然と対米従属を受け入れようとしています。ここでは私は、安倍政権を批判することになります。
 TPPのような経済的条約における「自由」理念をそのまま信じることは、弱肉強食的な競争至上主義を肯定することであり、日本の国益にとって有害であるのみならず、途上国、新興国にとっても経済的な主権を強国の富裕勢力に奪われることを意味します。

 しかし逆に、北朝鮮や中国のように、自由な言論も政治活動も許されず、政府に対する批判的言動が直ちに弾圧され取り締まられ粛清されるような独裁国家に対しては、自由の価値を叫び続けることに大きな意義があります。これはおそらく、その国に住んでみればすぐに実感できることで、逆に日本がいかに思想・言論・表現・信教などの自由が保障された恵まれた国であるかもわかろうというものです。恵まれすぎていて多様な見解・主張が乱れ飛び、結局は「暖簾に腕押し」になってしまっているわけですが。

 以上のように、「自由」とは、それだけとしては単なる抽象的な言葉にすぎず、どういう具体的文脈の中で使われるのかという背景と不可分のかたちでその価値が測られるのでなくてはなりません。

 同じことは、「平等」や「人権」という言葉にも当てはまります。
 たとえば、金融資本の自由取引が行き過ぎて世界経済を混乱させ、失業率が高まって社会格差が極端に開いてしまうような事態が起きた時には(現にいま世界的にそうなっているのですが)、公共体が適切に介入し、「平等」理念に基づいて雇用創出や所得の再配分を実現させる政策が必要とされます。現代のような複雑な社会システムの下では、どのように介入するかがまさに問題なのですが。

 またアメリカにおける黒人の公民権獲得のために闘ったキング牧師や、先ごろ亡くなった南アのマンデラ氏のように、不当な人種差別を受けている現状を打破するために、「平等」を強く訴えることはぜひとも必要です。

 しかし日本の戦後教育の世界では、悪平等主義がはびこってきました。機会の平等を保障することは、近代国家の教育政策として当然のことです。ところが、いつしかそれが結果の平等をも実現しようという非現実的な理想に置き換えられました。個々の子どもには驚くべき能力格差があるという当たり前の事実を認めることがタブー視されるようになったのです。東京都の学校群制度、偏差値追放、ゆとり教育、大学定員の供給過剰、面接重視を目指す昨今の入試改革案など、みなこの流れです。いま、これらのどこに問題があるかについては詳説しませんが、戦後教育における「改革」なるものがことごとく失敗してきたことは確かなところです。そうしてその失敗の元凶が、平等主義イデオロギーの支配にこそあるということも。

 さらに、最近の「一票の格差」についての違憲判決や、「婚外子相続分が嫡出子の二分の一」についての違憲判決のように、その背景にどういう具体的状況があるかということを見ない形式的平等主義は、まことに困ったものです。
 これらについても、当ブログで論じたことがありますので、ご関心のある方は、以下のURLへどうぞ。
 一票の格差問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/130814b7041b2847b8be69d676d9d488
 婚外子相続問題:http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/a77b97ae04df91d61a6febf3c0bc3dcb

 日本では「人権派」というと、憲法11条をタテにとって、何でも自分たちの特殊な要求と主張を通そうとする種族を意味します。要するにサヨクあるいは「地球市民」派ですね。死刑廃止論者、人権擁護法案提唱者、「子どもの人権」論者、ジェンダーフリー論者などがこれに当たります。この人たちは、国家というものの存在意義や歴史的意味がわかっていないために、「正義」のよりどころをただひたすら反国家的な感情に求めます。公共精神のかけらもない幼稚な人たちですが、そういう幼稚な議論がけっこう通ってしまうところが問題です。

 しかし日本国憲法というものが現実に存在して、そのなかで「基本的人権」の規定が謳われている以上、時に応じてこの規定およびその土台になっている人権思想を利用する必要が生じてくるのも事実です。たとえば、拉致被害者の生命や自由が無視されてきた状況に対して、私たち日本国民は、「人権の大切さ」という旗印を大いに掲げる必要があるでしょう。
 私事で恐縮ですが、私はあるご縁から、明らかに冤罪と思われる事件に少しばかり関わった経験があります。これは、その当事者の職を不当に奪う行政措置がなされたことに対する抗議文書を書くという形をとったのですが、こういう場合、憲法を頂点とする法体系に則って訴訟に立ち向かわなくてはなりませんので、当然、その行政措置は憲法違反(つまり人権侵害)であるという論陣を張ることになります。

 また、ノーベル平和賞を獲得した中国の人権活動家・劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のように、過酷な弾圧のなかで闘ってきた人の思想的よりどころが、「人権」という概念の価値に依っていることは明らかです。そうして、それは正しいことだと思います。

 このように、「人権」という概念をひたすらお札のように絶対化して拡張解釈するのもはき違えだし、いっぽう、圧政や弾圧や不当な措置が現にあるところでは、この概念を「普遍的価値」として掲げていくことも有効な意味をもつと考えられます。要するにそれは政治状況、社会状況に応じて使い分けるべき概念だということになるでしょう。

日本人の自己評価は、なぜこんなに低いのか

2013年11月15日 20時08分00秒 | エッセイ
日本人の自己評価は、なぜこんなに低いのか


 大学のゼミで、今回はじめてこんな試みをやってみました。
 社会現象についてさまざまな調査項目を設定し、学生各人に割り当て、ネット情報を使って表やグラフなどの資料を引き出してもらいます。それを学生全員にコピーして配り、ある項目を担当した学生には、その資料内容の特色を分析させ、感想を述べてもらいます。
 たとえば、

●殺人認知件数の年次推移
●殺された人の数の国際比較
●交通事故死の年次推移
●未婚率の年齢別、男女別、年次推移
●失業率の国際比較、年次推移
●世界の平均寿命ランキング

といった具合です。
 これをやると、いま日本がかつてと比べてどんな時代であり、他国と比べてどんな国かという大まかなイメージが得られます。結論から先に言いますと、概して今の日本は昔と比べても他国と比べても「天国」といって過言ではない状態だということです。
 殺人件数、交通事故死は共に数十年前に比べて激減しています。殺人の国際比較では、人口比で、日本はイギリスとともに最低、アメリカの15分の1、ロシアの50分の1です。失業率は世界最低水準、平均寿命は、ここ何年かトップを続けています(特に女性)。
 未婚率だけは急速に上昇していて、しかも低所得者、非正規労働者ほどその率は高いので、「天国」という形容にはふさわしくないかもしれません。しかし、これも考えようによっては、個人の自由選択度が増した(特に女性に経済力がついた)ということを示してもいるわけですから、必ずしも「ただまずい状態」とは言いきれません。少子化担当相などというのがありますが、そもそもなぜ少子化に是が非でも歯止めをかけなくてはならないのか、という根本問題がきちんと議論されたためしがありません。
 なおまた、自殺者数の高止まり、景気回復の先行き不透明、各種インフラの劣化、近隣諸国の不穏当で不当な動静、グローバリズムの暴力的な浸透とそれに対抗する政治力の頼りなさ、などを考え合わせると、不安材料はいくらでもあり、この先「天国」はもうおしまい、ということにならないとも限りません。
 それでも、上のような試みは、過去や他国と比べて、いまの日本がさまざまな点でいかに優れた状態にあるかということを知る一つの目安にはなると思います。そうして、そのことを知った上で、だからこそ、この優れた状態(秩序と平和と豊かさと国力と人倫意識)を守るために、それを侵すあらゆる危険に対して国民が力を合わせて闘わなくてはならないのだと思います。
 ところで、そのように国民が適切な力を発揮するために必要なことは何でしょうか。これはいろいろ考えられますが、私が重視するのは次の点です。
 すなわち、他国に対して卑屈・弱気にならず、自国の優れた点をきちんと客観的に評価し、そのことに誇りと自信を持つこと。
 根拠のないお国自慢、感情的な意地っ張りは、ご近所のどこかの国(複数)のようにみっともないですが、裏付けのある自恃(じじ)の念をもつことは、この国を不幸な状態にしないための士気をしっかりと踏み固める道に通じますから、とても大切なことだと思います。
 ところがです。
 同じ授業で、「世界評価と自国評価の違い」という項目を設けて学生に発表させてみました。これはたとえば、日本人は日本という国をどの程度肯定的に評価しているか、他国の人々の日本に対する評価はどうか、ということを比較する試みです。アメリカの場合はどうか、中国の場合はどうか、等々。
 ここにそのことを示す有力な資料があります。英国BBC放送が世界28か国、約3万人を対象に定期的に行っている調査の2012年版です。



 これを見て一目瞭然なように、日本以外のすべての国は、自国評価のほうが世界評価よりも高く、唯一日本だけが、自国評価が低くなっています。その低さは、ここに表された国の中ではパキスタンに次いで第2位です。また日本に対する世界評価は50%を超えており、ドイツ、カナダ、イギリスに次いで第4位です。
 このギャップ、情けないと思いませんか。多くの日本国民が自国の状態を正確に知らないからこういうことになるのです。逆に自分の国のことをうぬぼれている人々も世界にはたくさんいるのですね。
 学生たちに、他国とのこの違いはなぜだと思う? と聞いてみたところ、日本人はもともと謙虚な国民性の持ち主だから、とか、根のところでは自信を持っているのだが、海外に遠慮して慎ましくふるまう、などの答えが返ってきました。
 もちろん、これらは当たっているところがあるでしょう。しかし、たとえばもし日露戦争直後くらいの時期に同じような調査をやっていたら、これと同じ結果が出たでしょうか。どうもそうは思えません。
 つまり、大東亜戦争であれだけコテンパンにやられて以後、この過度の自己卑下と劣等意識が形づくられた部分が相当程度あるのではないかと思います。特に欧米に対する実力コンプレックス、中韓に対する道徳的コンプレックスはいまだに拭いがたく、政治・外交・学問・思想・言論などの面にその傾向が顕著に表れています。この自虐的な精神構造こそが、「戦後レジーム」の核心にあるものです。そこからの脱却を本当に成し遂げたいと思うなら、まずこの精神構造を克服しなくてはなりません。
 それはやろうと思えばできるはずです。製造業、サービス業の水準の素晴らしさをさらに発展させること、欧米に比較してはるかに行き届いた公共サービスの実態を維持すること、年次改革要求、TPPなど、アメリカ主導の強引な主権侵害的経済政策に対して、きちんと抵抗できる交渉力を身につけること、学問・思想・言論分野におけるいわれなき欧米跪拝の風潮から早く脱すること(及ばずながら私は、当ブログの言語論や倫理学の分野でそれを試みています)。これら現実的な実践過程を通して、徐々に裏付けのある自信を身につけていけばよいのです。
 しかし間違っても、ご近所のどこかの国(単数)の独裁政府のように、自分が世界の中心だなどと妄想してはなりません。他国のいいところを素早く読み取って、謙虚にそれを吸収し、自家薬籠中のものにする、これが日本の伝統的な得意技でもあるからです。自国評価と世界評価とがともに高まり、同レベルになることが理想ですね。
 


中国人ってどんなふう?(その2)

2013年11月11日 19時22分22秒 | エッセイ

中国人って、どんなふう?(その2)



 前回のブログで中国人について書きましたが、おかげさまでなかなか反響良好で、美津島明さんからはびっくり仰天の画像つきコメントを送っていただき、またある学識者の方からは、有意義な情報を送っていただきました。これらに接するうち、いろいろと思い出したこともあり、もう一回、中国人の国民性について書きたくなってきました。
 美津島さんのコメントは、中国のファミレスでなぜサラダバーが廃止されたかという理由をヴィジュアルに示したものです。サラダバーは、ヴァイキング式で、一皿にどれだけとっても自由ですから、中国の普通の人たちが、この特典をどのように利用したかということを知るには、こういう画像を見るのがいちばんですね。

http://labaq.com/archives/51796775.html

 二つだけ、ここに転載しておきましょう。



 こうなると、あきれる以前にまず爆笑ものです。「あっぱれ、すばらしい文化だ」とさえ言いたくなる。どれだけたくさん、どのように積み上げるかについてのレクチャーまであったそうです。これを「醜いエゴイズムだ」「なんて厚かましい連中だ」などと、道徳的な尺度で裁断しても、あまり意味がないでしょう。しかしこれ、その場で食べきれるはずがないから、持って帰るんでしょうな。
 昔から、中国料理って、食材の種類も量もすごいですよね。何でも探してきて調理して食べちゃう。自然の味を生かして、なんて考えてなくて、すべて人工的に手を加えた上で食べます。これも過酷な環境下で生きてきた人たちの知恵ではないでしょうか。もちろん、その高度な技術の成果もあり、たいへんおいしいわけですが。
 上のデコレーション・サラダも、単にたくさんほしいというだけではなく、「自然のまま」ではいやで、加工せずにはいられない、そういう歴史的無意識の志向性がはたらいているように思われます。
 何でも調理してと言いましたが、じつは人肉も食べてきたという話は有名です。
 これは、すでに故人となられた仏教史研究の泰斗、元東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんから直接聞いた話ですが、あの文化大革命のころ、殺戮した死体があまりに多くてきちんと葬っている余裕がないので(その気もないので)、処理のために人肉市場ができ、一部の街中で平気で売られていたそうです。人肉にも特上から並まで何段階もあり、「若い女のもも肉」などという札のついた肉は一番高く売れたとか。やっぱりおいしいんですかね。

 次に、ある学識者の方の情報です。これはいろいろありますが、四つほど簡単に紹介させていただきます。
 
①私が出会った中国人の中で、首都大の某先生(女性)は率直な方です。会ったとき、「先生、中国はいつ分裂しますか?」と質すと、涼しい顔で、「十年後ね」、とお答えになった。そして、「日中は商売と人間交流だけで十分ですね」と畳みかけると、「それ以上になにがあるの、先生」と逆に言い換えされました。

②中国のトヨタ法人は車が売れても、買った人間がローンを払わない、よって、やくざの取り立て屋を雇うしかない。この費用が馬鹿にならない。

③中国人留学生は、学力はそれなりにあっても、概ね、頭が固い。
 以前、北京の学会で、与謝野晶子が当初は反戦主義者だったが、その後帝国主義者になったという大学院生の発表がありました。私は、反戦主義者というのは「君死に給ふことなかれ」を言っているのでしょうが、これは反戦ではない、単に弟に死んでほしくないと思って作ったのではないか。また、政府もこの詩の発表を許している。ということは、国民の不安と悲しみを晶子で代償させるくらいのことを明治国家は考えていたのではないか。それを追究した方が生産的ではないか、だいたい晶子に何々主義などないでしょうが、と質問したら、後で、先生は何々主義で研究されているのかとしつこかった。

④かの湾岸危機の際、ケンブリッジ大学に留学していた人間から聞きましたが、ある時間、大学内のパソコンが中国人留学生に占拠され、他の人間は使えなくなっていた。理由は、彼らが世界中にメールを発信して、情報を収集していたのです。日本人留学生は、大使館情報とテレビなどに頼っていた。

 以上の話から総括できるのは、やはり彼らは、自分とごく近い身内しか信用していないということです。そしてこの感覚を貫くためには、身内と他人との間にはっきり線を引き、あくまで身内が満たされることだけを目指す。他人のことを忖度する気などもともとない、ということです。
 昔、内村剛介という思想家がいましたが、私は若いころ彼の講演を聞いたことがあります。そのときも中国人の話が出てきました。日本人が靴を脱いでどこかに上がったら、すぐにそれをもっていこうとした中国人がいた。「おいおい、何をするんだ」ととがめたところ、中国人は、にっこり笑って、「だってあなた、これ、身から離したんでしょう?」と答えたそうです。
 最近も、春節(中国の正月)の折、ある男性が一年間苦労してためた虎の子のお金を入れた財布を道路に落としてしまった。散乱した札を見た通行人たちがよってたかってつかみ取りして、持って行ってしまった。後で返してくれたのは三人くらいだったそうです。ちょっと日本では考えられないことですね。ふつうみんなで拾い集めてその場で返してくれるよな。
 もう一つ。最近中国では偽装離婚が流行っているそうです。なぜかというと、夫婦共有の不動産を売ると、20%税金を取られる。3000万円なら600万円ですね。単身者が売っても税はかからない。そこで一旦離婚して不動産を売却してから、もう一度婚姻届を出す。窓口もこのやり方をよく承知しているそうです。
 こういう話をもう少し延長して考えると、じつは彼らの生活感覚にとって、「国家」という超越的な共同性など、何ほどのものでもない、ということを意味します。私たちは、一連の反日行動などに、いわゆるナショナリズムの強さのあらわれを感じてきたかもしれませんが、どうもそうではないようです。昨年の例の反日デモがじつは官制で、デモ要員が日当をもらっていたというのは有名な話ですね。それが独裁政府の思惑を逸脱して、一部で反政府デモとして暴徒化したわけです。政府は慌ててこれを鎮圧しました。
 何しろあんなに広く人口の多い国ですから、国としてまとまろうとしても無理です。地方は地方で勝手にやっているらしい。共産党政権はともかく見せかけでも統一を図るのに並大抵ではない苦労が必要になりますが、それもきちんとできているのかはなはだ疑わしい。
 中国の一般民衆には、たとえば「日本」という共通の敵を見つけて国家としてまとまろうなどという気ははじめからないのです。自分や自分の身内の為になるなら商魂たくましく、汚いことでも何でもやる、それが彼らの動かしがたい信条でしょう。だから「自分の信条」ももたずに中立的に他者理解を深めようといった日本型知識人のような「うるわしい」心構えの持ち合わせはない。
 いまは亡き思想家の吉本隆明氏はかつて、国家としてのまとまりを「共同幻想」という言葉で形容して、その大きな力と対峙することに思想的な意味を見出しました。しかし、こんな概念はそもそも中国人には理解不可能でしょう。まさしく国家など「幻想」以外のなにものでもない、そんなことは言うも愚かなことだ、利用できるならその時々に「国家」権力も大いに利用しようではないか、それが彼らの本音であるように思われます。

 それにつけても思い出すのが、数年前に見たテレビ番組の一コマです。これもなかなか驚きです。
 番組は、中国の小学校(都市部の、かなり裕福な階層の子女が通う学校のように思われた)での、学級委員長改選のプロセスを克明に追ったものでした。クラスは三年生だから、主人公は、八歳くらいの可愛い盛りの子どもたちです。立候補者は、男子二人、女子一人で、何日間かの選挙運動期間が与えられます。その期間、小さな候補者も選挙権者も、この運動のために相当な高揚感に支配されます。休み時間に他のクラスメンバーに対して、「僕(私)に投票してくれ」というかなり粘っこい説得工作が行われるのです。それぞれの候補者は真剣そのもので、自分が委員長としていかにふさわしいか、対立候補者がいかにふさわしくないか、などを露骨にアッピールします。演説文に細かい推敲を重ね、出来上がったものを一生懸命暗記します。
 クラスの中では自信たっぷりに見える彼らも、家に帰ると、まだまだ甘えん坊です。勝てる自信がないことを両親に訴え、小さな胸を悩みでいっぱいにしている様子を示します。両親もまた真剣に対応する。それは助言やアドバイスといった域をはるかに超えています。こぞってその子のためにいろいろな戦略戦術を考えてあげ、演説文に手を入れたり、毎日風呂上りに練習させたりします。対立候補を攻撃するために、よきリーダーであることとファシズムの違いについて教え、対立候補の日ごろの態度がファッショ的であるという弱点を持つことを演説でたくみに訴えるように指導します。
 そればかりではありません。わが国の大人の選挙なら確実に公職選挙法違反に該当するようなことを親が平然とやるのです。一方の父親がコネを使って「ゆりかもめ」のような電車を貸切にし、一周ツァーに生徒全員を招待するかと思えば、他方は生徒が喜びそうなグッズをわんさか買い集めて、みんなに配ります。
 さていよいよ投票の日、決戦のための演説。「みなさん、僕はクラスみんなのためによきリーダーとして尽くします。よきリーダーとファシズムとの違いを知っていますか。だれだれ君(と対立候補の名を指し)にぶたれたことのある人は手を挙げてください。」相当数の子どもたちが挙手します。「これで、ファシズムとは何であるか、説明しなくともわかりますね。」現職の対立候補も負けてはいない。「ぶったのはルールを守らないからです。クラスの秩序はとても大切です。」結局、現職が大差で勝利。本気で泣きじゃくる敗者に、先生が抱きしめながら教訓をひとくさり。
 この流れは、現在の情報でも確かめることができます。
 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=47196
 前回、知人の「これでは尖閣問題では日本は負けるよなあ」という嘆息をご紹介しましたが、ここでも同じことが言えそうですね。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』をまねれば、「これまでの中国史は、権力闘争の歴史であった」。たぶんこれからもそうでしょう。

 最後にくどいようですが、もう一度繰り返します。私はこれらの情報によって、けっして嫌中気分を煽ろうというのではありません。「友愛の海」などとバカなことを言った宇宙人もいましたが(まだ地球にいるか。迷惑だな)、こういう国とはつきあう必要がないのなら、つきあわないのがいちばんいい。しかし、何しろ隣人なので、引っ越すわけにもいかず、そこそこ付き合わなくてはならないのだとしたら、よくよくその本音を見抜くしたたかさを持とうではないか、と主張したいのです。 
 私たちは、とかく国際舞台では、相手国を性格のはっきりした一個人のようにみなしがちです。しかし少なくとも中国を、「反日でまとまっている大国」などと見る必要はありません。じつは近代国家として体をなしていず、利害打算と権力志向のぶつかり合う大集合体にすぎませんから、意外に脆弱な面もあると思います。何かのきっかけ(経済が一番大きいでしょうね)で、ばらばらに解体する可能性も十分あるのではないでしょうか。
 そういう時、私たちは、言われなきとばっちりを受けないように、見くびらず、相手の土俵に乗らず、つかず離れずの冷静な構えを貫くことが何よりも大切と心得ます。


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2013/07/23 03:01
Commented by miyazatotatsush さん
小浜逸郎様

中国人が人肉を食べるという話は私も聞いたことがあります。
これはかの小室直樹大先生が書いていたのですが、古代中国で、ある地方長官が、視察に来る中央の高官をどのようにもてなそうかと思案していたところ、その長官の娘が、「それではわたしがお父さんのために犠牲になろう」と覚悟し、と聞けば日本人なら、一夜妻にでもなったのかと思うところ、油が煮えたぎった鍋に飛び込み、人間唐揚げになって、父親としてはさすがに忍びないものを感じつつも、なってしまったものは仕方ないので、娘を視察の高官に振る舞い、これが美談として、石碑まで建てられたという話を紹介していました。
ロシアでも第一次大戦中に窮乏のため、人肉市場が立ったことがあるそうですが、中国の話はこれとも別に聞こえます。宦官の文化とも繋がるものを感じます。琉球にもさすがに宦官どころか、動物の去勢の文化すら入りませんでした。
これを「野蛮」というのは、見方を変えれば、違う「文明」の洗練を知らない思考かもしれませんね。人肉はけっこう美味のようです。私は食したくはありませんが(笑)


2013/07/23 12:14
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Commented by kohamaitsuo さん
miyazatotatsushさま
コメント、ありがとうございます。
そういえば司馬遷は宦官でしたね。則天武后が世継ぎのために政敵の手足を切って見せ、これは「人豚」というものだ、お前のためにやってあげたのだと言ったという話も有名です。何しろやることがけた違いで、日本人の感覚ではまともにつきあっていられない。おっしゃる通り、単に「野蛮」と見るのではなく(それならむしろ扱いやすいでしょう)、恐ろしい方向に発展していったひとつの「文明」のかたちと見るのが正しいのだと思います。あのサラダ・タワーも何やら芸術的ですね。


中国人ってどんなふう?(1)

2013年11月11日 19時13分33秒 | エッセイ

中国人って、どんなふう?(1)


 いま、嫌中ムードがこの国の一部で盛り上がっているようです。まあ、これは、この間のかの国の中枢部が日本に対してとってきた政治的態度を見れば、ある意味、当然とも言えましょう。しかし、あまりに単色の感情によって一国家、一国民の全体をとらえるのも考え物です。
 と言っても、私は別に、隣国とは縁が深いのだから仲良くしましょうといった、形式的なきれいごとを言いたいのではありません。また、以下の一文が、嫌中ムードをいたずらに煽る結果にならないことを祈ります。かの国の挑発にうかうかと乗らない理性的な姿勢を維持することが最も国益にかなうと信じるからです。
 これから私が述べることは、一人の中国人に接した自分自身の経験談と、ある年配の中国研究者の方からの伝聞です。これをここにご披露するのは、関心が深まっている当の国の国民性の一端を知ることを通して、私たち日本人が中国人とどういうつきあい方をするのが賢明かという問題に一ヒントを提供できれば、という思いからです。異文化理解の一例だと受け取っていただければさいわいです。
 ちなみに、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、戦勝国アメリカが敗戦国日本の国情をいち早く研究した書として名高く、戦後の日本でも長くベストセラーの位置を占めていました。「罪の文化と恥の文化」というわかりやすい区別は、たいへん有名になりましたね。一部に、この書は日本を見下した本だといった感情的な反応があるようですが、私はそう思いません。そのような受け取り方自体が、敗残コンプレックスに裏付けられた幼稚なナショナリズムを露呈しています。
 昔この本を読んだ時の私の感想は、まずその冷静で客観的な記述に感服。こういう「敵をよく知るための本」を書かせるアメリカという国の戦略性は、さすがだというものです。日本人もこの態度を見習うべきだと思いました。私たちは、関心を持つ相手国の国情を知って、見下すのでもなく卑屈にすり寄るのでもなく、また、その奇異に思える特性をただ面白がるのでもなく、あくまで冷静に「その国民性をよく理解する」必要があります。そうして、その他者理解を今度は自分たちに照り返させて、自己認識を向上させていく必要があります。それこそが本当の意味での「勝利への道」でしょう。

 さて本題です。話は数年前にさかのぼります。
 私はある大学の学部で講義をしていますが、この学部は、その性格上、アジアからの留学生がたいへん多いのです。中国人もたくさんいます。ある年、単位認定のためにレポート課題を出し成績をつけたのですが、一人の中国人留学生(女性)が、自分の成績評価について相談があると申し出てきました。聞いてみると、相談の概略は次の通り。
 自分はこの大学を卒業して祖国に帰り、就職しなくてはならないが、そのためにぜひともいい成績を取りたい。先生(私のことです)は自分のレポートに「良」をつけたが、自分は何としても「優」がほしい。何とかならないか。
 私は、内心、「良」でなんで不服なんだと思いながら、その学生のレポートを前に置いて、残念ながらこれこれこういう理由で「優」をあげるわけにはいかないと説明しました。すると彼女はすかさず、「それはよくわかりました。それでは、再履修してもう一度挑戦したいので、不可にしてください」と言います。私は、せっかく「良」に値する成績を取っているのに、そうもいかない、学生全体に対して公正な評価をするという大義名分もあると答えたのですが、彼女は納得しません。なおも粘ります。
 そこで私「でも、私は来学期、辞職しちゃうかもしれないし、もしかしたら死んじゃうかもしれないよ」
 彼女「それでもかまいません。どうか落としてください」
 私はついに根負けして、「ではそうしましょう」と答えました。
 話が前後しますが、私に相談を求めてくる前、彼女は当時私が主宰していたあるイベントのための掲示板のURLをしっかり探り当て、そこにぜひとも相談したいことがあるという書き込みをしていました。ちなみにこのイベントは、大学とは何の関係もありませんし、彼女がこのイベントに興味を惹かれたわけでもありません。
 さて来学期になり、予定通り彼女は再履修し、レポートを提出しました。読んでみたところ、やはり「優」をつけるところまでは行っていないというのが私の正直な判断です。どうしようかと悩みました。ここで再び「良」をつければ、彼女は必ずまた「相談」に来るだろう。このやり取りを延々と続けなくてはならないのか……。
 私は再び根負けして、えい、めんどうな、「優」にしておこうと決めてしまいました。めでたし、めでたし。
 私は、この学生の「ずうずうしさ」を非難したいのではありません。彼女は、あくまで礼儀正しく、きちんとした態度をとっています。しかしその交渉の情熱、粘り強さが並ではない。もちろん、すべての中国人学生がこうだと言いたいのではありません。大半は、日本人の目から見てもごく普通です。しかし、日本人学生には、まずこういう人はいないだろうな、ということは確信をもって言えそうです。
 ずうずうしいと言えば、日本人学生にもずうずうしいのはいます。たとえば、レポートを出すのに、ネットからの丸写しをする学生がけっこういるんですね。臭いと思って検索するとすぐばれます。これは事前に「そういうのは落としますよ」としつこく注意しておくのですが、にもかかわらず後を絶たないので、ここでも私は「根負け」して、途中からレポートによる単位認定をやめてテストに切り替えました。
 中には、ネットに載っている私自身の文章を平気で丸写ししてきて、しかもそれだけではなく、「なんで落としたのか」と、クレームをつけてくるのまでいます。まあ、こういうのは、ずうずうしいというよりは、アホ学生と言ったほうが適切かもしれませんが。
 ところで、この話をある酒席でしたところ、ひとりの知人が感に堪えたように言いました、「それはひとつのエピソードにすぎないのだろうけれど、それを少し拡張して考えると、尖閣問題では日本は負けるな」。
 一旦定めた自分の目的を達成するためにはどこまでも粘る中国人学生と、ネット丸写しで単位さえもらえればいいやと高をくくっている日本人アホ学生。たしかに、このコントラストを見ると、知人の嘆息には、リアリティがあります。しかし、ことが国家主権の問題となれば、あきらめてはいけませんね。「根負けした」日本人の私も含めて、これからよくよく相手を見習って、粘り強さを身につけていかなくてはなりません。

 中国研究者の方のお話は、三つあります。
 ひとつ。彼がアメリカの大学で教えていた時に、ある優秀な中国人留学生のその後の落ち着き先について、お世話をしたのだそうです。いろいろと四方八方にはたらきかけてあげて、まあ、ほぼ確実だという心証を得たので、本人に、「八割がた、大丈夫だと思っていいよ」と告げました。日本人なら、これを聞いて、まず一安心と感じるのがふつうでしょう。ところが、その学生にとっては、八割がたという言葉が問題なのですね。「あとの二割はどうすれば確保できるのか」ということにしつこいこだわりを示して、そのためにさまざまな行動をとったそうです。自分のこれからの運命に対して、確実な保証がぜひほしい、という情熱のあり方において、先の学生と共通していますね。
 二つ目。中国には、そもそも「汚職」という概念がないそうです。たとえば、役所が10億円の公共事業を発注するとします。受注した企業は10億円支払うわけですが、実際の工事費として使うお金は1億円。中間でみんなが取ってしまうことは当たり前ということになっています。これでは、手抜き工事をせざるを得ませんね。これは古来からの「慣習」というものであって、別に「汚職」ではないわけです。恐るべき官僚支配社会。官僚になれば、もう勝ち。
 三つ目。ビジネス交渉が成立し、こちらはきちんと仕事をしたのに、支払いをなかなかしてくれない。いつ支払ってくれるのかと気をもんでいても、日本人って、そういう催促のようなことをなかなかしにくい慣習に染まっていますね。そのまま我慢していると、いつまでたっても払ってくれないそうです。半年くらいはざら。これは支払う側に資金がないのではない。ちゃんとそのための資金を用意しておきながら、引き延ばせば引き延ばすほど、その資金で金利が稼げますから、一定の金利を稼ぐことをちゃんと見越していて、目標額まで稼いだ段階でようやく支払う。これも当然とみなされている。
 ですから、対中ビジネスでは、受注契約の段階で、必ずいついつまでにいくら支払うということを、きちんと文書で合意しておかなくては絶対ダメ。それをしないのは、売り手のほうが悪いのだということになります。

 さて、以上のことを一口にまとめると、中国人は、信頼できるのは自分と自分の身内だけで、あとは信用できないのだから、自分をしっかり守らなくてはいけないのだ、という観念が骨身に沁みついていると言えそうです。相手からの保証を確実に取っておくのでなければ、自分の身はけっして守れない。この徹底的な自覚がどうやら彼らの国民性の核心を表わしている。日本人のように、何となく相手を信頼してしまうというようなお人好しではないのです。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」――お笑いですね。
 このような国民性ができあがったのには、やはり大陸の歴史の苛酷さが関係していると思います。めまぐるしい王朝の交代や異民族どうしの激しい争い、権力や賊によって理不尽に生活を踏みにじられてきた民衆の記憶、近代国家の統一など成立しようもない多民族、多地域の入り乱れた利害の衝突……。彼らはいやおうなく「他人を信じてはならない」という感性を身につけるに至ったのだと思われます。日本とはなんという違いでしょう。
 いまでもかっこうだけの中央独裁政権はありますが、対外的には何とか一枚岩のように見せてはいるものの、内部の実態は、すでに大混乱の兆しが見え始めていると言っても過言ではありますまい。憲政史家の倉山満氏が指摘するとおり、中国は権力闘争、王朝独裁権力樹立、内部矛盾の深化、反乱気運の高まり、内戦状態、そしてまた新しい王朝の樹立というサイクルを繰り返してきたのですね。これは今後も変わらないでしょう。

 この際、言葉の問題にも少しだけ触れたいと思います。もっとも私は中国語はまるでわからないのですが、言語学上の問題でよく指摘される事実をご紹介しておきます。
 中国語は、その形式の上から「孤立語」と呼ばれています。高校の漢文で習ったように、文字表現としては、漢字がぱっ、ぱっと並んでいるだけですね。ですから、日本の歴代の漢学者は、あれを書き下し文にするために、ものすごい苦労をしたのだと思います。『論語』などは、いまだに解釈が定まっていない部分がたくさんあります。
 中国語には、日本語のように助詞、助動詞(国語学者・時枝誠記の言う「辞」)もなければ、欧米語のように格変化、時制、前置詞に相当するものもありません。「彼は今度アメリカに行きます」(He will go to America.)は、中国語では「彼、今度 行く、アメリカ」というようにまるでカタコトみたいな表現になってしまいます。それでも通ずるのが不思議と言えば不思議ですが、これでずっとやってきたのだとすれば、この言語の特徴には、国民性との間にある深い関連があるのではないでしょうか。
 音声による日常生活語のレベルは、私にはわからないのですが、どうも中国では、指示的な言語による疎通への信頼度はもともとそんなに強くなくて、それ以外の非言語的な表現(表情、身振り、声調その他)による疎通の占める割合が大きいのではないかと考えられます。ですから、ごく近い身内の間には強い信頼関係が成り立ちますが、外に対してはおいそれとは通用しないことがはじめから了解されている。そこで指示的な言語としては、細かいニュアンスを伝える必要がなく(もともとできず)、一般形式を備えていれば十分、ということになるのではないか。だから「核心的利益」とか「泥棒」などというデリカシーのまるでない強引な言葉が国際社会に向けて平然と発信されるのではないか。
 みなさんは、毎年北京で行われる全国人民代表大会(全人代)の光景を見たことがありますか。あの大会では、各委員が演説をしますが、会場は妙に静まり返っています。それは各州から集まってきた代表たちには、演説を聞いてもその内容がわからないからなのだそうです。音声としての共通語が確立していないのですね。もちろん、演説内容をそのまま記した漢字による書類があらかじめ配られていますから、それで支障はないわけです。
 これはニワトリ―タマゴみたいな話ですが、他人どうしの相互不信が当然だからそういう言葉になったのか、そういう言葉だから相互不信が助長されるのか。まあ、両者は連関関係にあるとしか言いようがないでしょう。
 いま述べてきたことには、それほど確信があるわけではありませんが、少なくとも日本人の伝統的な感性からは、かなり共感的な理解の難しい国(果たして国と言えるのか?)なのだ、ということだけは言えそうです。関係者の方は、この難しさをしっかり胆に銘じて中国と接してほしいと思います。



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2013/07/21 01:49
Commented by 美津島明 さん
小浜逸郎様。
次のURLで、中国のファミレスでサラダ・バーが廃止されるに至った経緯が述べられています。ぜひ、コピペをしてごらんください。一驚したのち、ため息をつくはずです。
http://labaq.com/archives/51796775.html
この、ふつうの日本人からすれば、二の句が継げなくなるなるほどの厚かましさ、良く言えば、たくましい生命力は、彼らの持ち前のものであると考えます。これを正面からマトモに相手にするのは、淡白な日本人にとって、大変なことです。こうしたずうずうしさや厚かましさに処するうえで、相手の良識に訴えたりそれを期待したりするのは下策でしょう。怒り心頭に発し、消耗し、ついには根負けしてしまうのがオチだからです。そうではなくて、あえてドライにクールに、言い訳のきかない数値などをきちんと設定してそれを遵守するよう言質を取るのが上策なのではないかと思われます。それ以上のことは相手に期待しない。中国との外交は、「人と人とはあくまでもどこまでも違う」という中島義道的なスタンスで臨むべきなのではないでしょうか。そうすれば、そういうドライでクールな接し方も可能になるのではないか。そんなことを考えました。もちろん、数値設定のできない外交案件がたくさんあることは確かなので、この「上策」が万能でないことは確かだとは思います。


「天皇陛下、万歳の」意味について

2013年11月11日 18時19分17秒 | エッセイ

「天皇陛下、万歳」の意味について


 私の知人で、酔っ払うと、「天皇陛下、万歳!」と叫んで呑み屋だろうとどこだろうと、そこらに寝転がってしまう人がいます。この人は、けっして単純な右翼というわけではなく、政治思想史についての学識がたいへん豊かで、しらふの時には冷静に戦前・戦後社会や現代社会の状況を分析し、私などもいろいろと教えられることが多いのです。
しかし、お互い酒席で面倒くさい議論をしていると、いちいち相手の話についていけなくなることってありますよね。彼は飲みっぷりがいいので、真っ先に酔っぱらって、「もうめんどくせえや、天皇陛下、万歳!」となるわけです。
私は、これを何度か見ているうち、この「万歳」というのは、どういうニュアンスなのだろうかと、ヘンなことに興味を覚えました。ふつう、万歳というのは、「めでたい」「すばらしい」「最高だ」という喜びの表現と解されています。しかし、どうもそればかりではないな、と思いあたったのです。「天皇陛下、万歳!」は、「天皇陛下が最高!」という意味でしょうか。それほど単純ではないな、と。
「万歳」って、欧米語に訳せるんですかね。「Bravo!」とはちょっと違うでしょう。
というのは、少年時代、国会が解散されるのをラジオで聞いていると、議員がみんな万歳三唱をやっているのですね。今でも気乗りがしない様子でやっているようですが、当時は相当気合が入っているように聞こえました。で、なんで解散されることが、「万歳」なんだろう、なんで解散がめでたく喜ばしいんだろうと、子ども心に不思議に思ったわけです。衆議院が解散されるというのは、今やってる議論では議会が行き詰って立ちいかなくなったから、もう一回国民の信を問い直そうということですね。それが彼らにとって単純に喜ばしいはずがありません。選挙をやれば負けちゃう党もあるわけですから。
 昨年の11月に野田佳彦前首相が「ヤケクソ解散」をした時にも、じつは彼は心の深層で「万歳」という声を聴いていたように思われてならない。
「万歳」を叫ぶとき、私たちは、もろ手を上に挙げますね。あれは、万歳という言葉のニュアンスと不可分一体なのではないか。私たちはどういうときにもろ手を上げますか。すぐ思いつくのは、ピストルを突きつけられて「Hold up!」と言われた時ですね。アメリカ人はこういわれた時、もろ手を高く挙げるのではなく、頭の後ろに組むようです。
 私が何を言いたいのか、もうお分かりと思いますが、この「万歳」という言葉には、「もうこれ以上悩むのはやめた、あきらめた、勝てっこないからあなたにすべて私の命をゆだねます」という意味合いがあるのではないか。
 こう思いはじめると、この言葉の語源をどうしても知りたくなってきます。手元にあるありったけの辞書で調べてみると、第一の意味としては、どれも「末永き世」とあり、第二の意味として、「めでたい、喜ばしい」とあります。ここまでは問題ありません。しかし三番目くらいに必ず「どうしようもない、お手上げだ」と出てきます。用例としては、「この数学の問題は万歳だ」。
 やっぱりねと思っていると、ある辞書には、第二の意味の転用と書かれています。でも私はこの「転用」という解釈を疑います。おそらく万歳にはそういうニュアンスがはじめからあるのです。でなければ、文字通り「お手上げ」するはずがないでしょう。「お手上げ」は、「近代的個人」の無力の告白ですね。
 もう一つ興味深いのは、「ばんざい」は古語では「ばんぜい」と読み、それには、「貴人の死を忌む」という意味合いがあったということです。これもあまりにたいへんなことが起きて悲しくてやるかたないので「ばんざい」するしかないということだと思います。
 要するに、現世ではどうにもならないと感じるとき、日本人は「自分たちを超えて時は悠久に流れるのだ。その悠久に身をゆだねよう。万歳(末永き世よ)」という気持ちをこの言葉に込めているのではないでしょうか。そう考えると、なんだかこの言葉には、ただのめでたさや喜ばしさではない、何とも言えない宿世の哀しみが込められているようにも思われてくるのです。「もういいよ、負けたよ、マッカーサー万歳」

 話を天皇陛下に戻しましょう。
 敗北必至が予感されていた先の大戦で、多くの英霊が「天皇陛下、万歳」と叫んで(ある場合には心静かに呟いて)散華していったことはよく知られている事実です。
 私自身は、こと政治思想に関しては自称機能主義者で、あまりこういう国家観念に自分を憑依させる感性の持ち合わせがありません。大東亜戦争はどんな情緒的な意味づけを施そうが、日本史上最大の失敗であるという認識をいまでも持っています。
 戦争を始めた以上は、最大限合理的にふるまって、いかに勝つかを考えなければ意味がないし、勝つ算段が立たないのなら、いち早く失敗を認めて、できるだけ国民の犠牲を少なくするための和平工作にエネルギーを注ぐべきだと思います。日本人(ことに保守派と呼ばれる人たちの一部)のダメなところは、敗北や死の予感という文学的・情緒的な問題を政治・軍事問題に混入させて、時の政治的軍事的判断を後付けで自己肯定化(美化)し、両者をうまく区別できなくさせてしまうところです。
 しかしいっぽう、私は、日本という国のまとまり、その礎としての国民性を考えるとき、天皇という存在は非常に重要な意義を持っているとも考えています。それで、あの英霊たちがこのように叫び、あるいは心の中で呟いて散って行った事実のうちには、たまたま有限の時と所を得た自分が、これ以上いくらさかしらに考えてもどうしようもない、あとは悠久の時を体現しておられる方にすべてを託すほかないのだ、という万感の思いが込められていたのではないか、と思うのです。
 日本人が、伝統的にあきらめがよいとか、執念深い歴史意識を持たないとは、よく言われることです。これはおそらく、先の大戦以前に、民衆レベルで徹底的に痛めつけられ、鍛えられた経験があまりなかったことに由来していると思います。この文化的な伝統のあり方は、いまの国際社会の現状に照らし合わせてみるとき、長所でもあり同時に短所でもあります。この特性が、「天皇陛下、万歳」という言葉によく象徴されているように思うのです。そうして、この特性は、今後もあまり変わらないのではないか。
 先の知人が教えてくれたことですが、江戸時代というと、天皇は京都に引っこんでいてほとんどその存在すら知られていなかったというイメージを私たちは抱いています。ところが、じつはそうでもなく、全国の庄屋レベル(かなりのインテリでしょう)では、天皇崩御の際には、粛々と忌みごとを施行していたそうです。田中何とやら女史などがもてはやされたバブル期の江戸ブームでまき散らされたイメージは、もしかしたら間違っているのかもしれません。
 私は、今後も日本国民にとって天皇・皇室の存在意義の大きさはそんなに変わらないと確信しています。近いところでは、東日本大震災における今上天皇皇后両陛下の身を捨てての振る舞いがいかに被災者たちに感動を与えたかを見てもわかりますね。ふだんはひっそりとお暮しになっていても(最近は公務が多すぎるようですが)、いざというとき神主の長としての出番がある、これが皇室の変わらぬ伝統です。日本はもともとそういう祭政分業(役割分担)を民のために活かしてきたのであって、どんな戦後サヨクも、これを根底から否定することはできなかったのです。
「天皇陛下、万歳」は、個人の死を正当化する「美学」として叫ばれるとき、その哀しみはわかるにしても、政治的には無力です。しかし、その「万歳」に込められた意味を私たち自身がよく咀嚼し、それを自分たちの宿命であると自覚しつつ、直面する国際社会の理不尽さのなかでどう活用していくか、そのような思考ルートを持つことが、いま切実に求められているのではないか、と愚考する次第です。

パンダの交尾

2013年11月10日 02時29分47秒 | エッセイ
パンダの交尾



少し古いお話で恐縮です。


 去る3月12日、東京動物園協会から、次のような情報が提供されました。

 上野動物園(東京都台東区)は12日、ジャイアントパンダのリーリー(雄)とシン シン(雌)に強い発情 の兆候が見られたため一時的に同居させたところ、交尾行動が  2回確認されたと発表した。2頭とも発情期 に特有の行動が見られるようになったた  め、7日から展示を中止していた。
 同園によると、11日午後5時ごろ、柵越しにお見合いさせたところ、頻繁に鳴き交 わすなど強い発情の兆 候があったため、同居させた。数分間交尾行動が確認されたと  いう。12日朝にも同様に交尾行動が見られ た。【東京動物園協会提供】 


 この情報は、あるテレビ局(地上波)から、交尾現場の動画つきで夜7時に放映されました。動画をご覧になりたい方は、以下のURLへ。
http://www.youtube.com/watch?v=hIioblHec1whttp:// 

 ご覧いただけましたか。

 申し訳ありません。後日この動画をご覧いただけるかどうかを確認したところ、どうも発信側の事情により、削除されたようです。文字化けしてしまいます。
 いずれにせよ、こういう映像を、夜の7時に全国のお茶の間に平気で送り届ける東京動物園協会、および放映したテレビ局の粗雑な感覚を私は疑います。なんて無神経な人たちなんでしょう。
「上野動物園のパンダに赤ちゃんが生まれるかもしれない! すてき!」と視聴者が感じることを当て込んでの放映でしょうが、みなさん、よくお考えください。ここにはいくつもの問題が含まれています。
 まず、夜の7時といえば、普通、一家で夕食を囲んでいる時間帯でしょう。小さな子どもたちと親とが団欒している家庭もさぞ多いことと思います。そこに、たとえ動物とはいえ、セックスの場面を大写しにする。親も子どもも、お互いに面はゆい気持ちいっぱいで、合わせる顔がなくなるのではないでしょうか。私は自分が親の立場であっても子どもの立場であっても、その場に居合わせたら、いたたまれない恥ずかしい気持ちになると思います。
 人間ではなく、動物だからいいじゃないか、子どもたちもみんなパンダに赤ちゃんが生まれることを期待しているのだ、と反論されるかもしれません。
 しかし、パンダは高等哺乳類であり、その交尾の姿はどう見ても人間のそれを連想させます。メスの「シンシン」のヤギのような切ない「よがり声」がとても印象的ですね。
 私は何も、小さな子どもに性の仕組みを知らせてはならないなどと道学者めいた野暮なことを言っているのではありません。
 親子が居合わせる場で、そういう連想を誘うような視覚像を公開することは、性愛が秘め事の世界であるという人類史の長い間にわたる大切な約束事項を反故にしてしまうことにつながります。それは、結局、人間の文化を起伏のない、乾いたつまらないものにしていくだろうと言いたいのです。家族間で、性にまつわる物事に何の羞恥心も抱かないようになったら、人間ははじらいも色気も恋の情緒も妄想も失い、禽獣と変わらなくなりますね。
 あるいはこういう反論があるかもしれません。
 動物がそういうことをするなど、子どもはうんと小さい時から知っているし、ほどなく人間も同じことをすると知るようになるのだから、早く知っておくに越したことはない。
 繰り返しますが、私は、子どもから性情報を遠ざけろと言っているのではありません。子どもは純粋無垢などという神話を私はまったく信じていません。彼らは早い時期からそういうことに興味をもち、しかし、直感的に親との間で情報交換を堂々とやるのは何となくはばかられると感じているはずです。ですから、性の秘密は、友達どうしで情報交換しあったり、ひとりこっそりと調べたりして知っていきます。私たちもそうでしたし、いまの子どもたちもそうでしょう。
 それで何の不都合があるでしょうか。むしろそのようであってこそ、この世界の独特な意味、一般公開される社会関係と順接ではつながっていないプライベートなモードの意味を悟っていくのだと思います。水が水素と酸素とからできていることを知るのと、性の世界に目覚めるのとでは、同じ知識・情報を得るのでも、その情緒的な意味合いがまったく異なります。そうした質の違いを尊重することが、人間的なことだと思うのですが、いかがですか。
 それにしても、こういうことが平気で公開される背景には、現代社会特有のいくつかの理由があるようです。
 第一に、科学的客観主義の信仰です。なんでも客観的で正確な知識・情報を提供するのがいいことだと思い違いしている人が多いのですね。しかし私は原発問題でもふれましたし、これからも折に触れ述べていこうと思いますが、完全に客観的で公正な知識・情報などというものはもともとあり得ないのです。みな「事実」なるものを、それぞれのバイアスをかけて受け止めるのであって、そこには主観(それぞれの主体にとってのものの見方)が必ず関与します。
 第二に、猛烈な情報の洪水状態です。近年のこのすさまじい流れは、仙人になるのでもないかぎり、だれも拒否することができません。いつの間にか私たちの頭は、統制が取れないままに混乱し、何をどのように知ればいいのか、どういう秩序にしたがって情報を受信・発信すればいいのかがわからなくなってしまっています。じっくり自分の頭で考えるための時間が許されなくなっているのですね。私たちはみな、情報病患者です。「パンダ交尾」情報を不適切な時間帯に、膨大な不特定多数の人たちに向けて公開してしまう粗雑さも、ここからきていると言えましょう。
 第三に、このこととかかわるのですが、情報社会の飛躍的な発展によって、人は何でもかんでもできるだけ早い時期にある予測を立て、その実現に期待や不安を抱くように習慣づけられてきました。天気予報しかり、経済情勢しかり、地震予測しかり、イベントや旅行の予約しかり、就活開始時期しかり。
 これは必ずしも悪いことばかりだとは言いません。本当に確度の高い情報であることが保証されるなら、役に立つことが大いにあるでしょう。しかし、なんでみんなそんなに急ぐのでしょうね。人よりも先駆けて、という競争意識をみんながもたされるので、結果として、経済学でいう「合成の誤謬」に陥り、余計な混乱を招いているような気がしてなりません。
 パンダについて言えば、交尾したからといって妊娠するかどうかはわかりません。じっさい、パンダの場合は確率が低いようです。妊娠が確認できた時点で、それを文字情報で発信すれば十分ではありませんか。
 第四に、「自由」イデオロギーの支配です。人間にとって自由は大切な価値ですが、それは無限定なものではなく、必ずさまざまな制約を通してこそ具体的に実現でき実感できるのです。知識・情報に関して言えば、何でもかんでも、だれでもどんな場にあっても、「自由」に知る権利があるなどというものではありません。
 第五に、「ともかく生命の誕生はすばらしい」という思想の蔓延です。本当に「ともかく生命の誕生はすばらしい」でしょうか? こんな単純でナイーヴな思想が隅々まで行きわたること自体、どこかおかしくはありませんか?
 この世に生を受けることはとてもつらく、悩み苦しみがつきものです。人間関係に大きくつまずいて、早い時期から死を考える人たちもたくさんいます。生きとし生けるものは永遠に煩悩から解脱できないという宗教思想もありますね。「一番良いのは、生まれてすぐに死ぬことだ」と言った偉人もいます。
 また生命至上主義は、たいへん抽象的な思想で、現実には私たちは、自分や自分にかかわりの深い人たちの生命を大切にしますが、縁の遠い人たちの生命はじつはどうでもよいと思っているところがあります。この種の実感を無理に隠蔽してはいけません。それというのも、自分や自分にとって大切な人たちの命を守るためなら、他人を殺さなくてはならないことだってあるからです。
 また、かかわりの深い人でも、超高齢者で認知症が進みほとんど何もわからなくなってしまった親を介護しなくてはならない子どもの立場からすれば、「早く死んでくれないか」と感じることもしばしばでしょう。こういう問題も、生命至上主義では解決がつきませんね。
 生命至上主義に対しては、常に懐疑的な姿勢を崩さず、いかに原理主義に走らないようにバランスを取るかがとても重要だと思います。
 第六に、ひところフェミニズムが鳴り物入りで先導した「ジェンダー・フリー」思想の影響が考えられます。これは一種の露出症的な思想で、「性を自由におおらかに」「正しい性知識を」「男女の違いは性差別の根源」などといったスローガンを掲げながら、小学校の教室でパパとママの人形を使って性交場面を演出したり、男女の更衣室を一緒にしたりする試みまで現われました。先に述べたように、豊かな文化や適正な社会秩序は、複雑なモードの違いによって保たれています。人間生活の光と陰、心の微妙な襞、おおやけの世界とひそかな世界の使い分け、ジェンダーフリーは、常識人ならだれでもわきまえているこうした現実を無視した、幼稚極まる思想ですね。
 パンダの交尾シーンを夕食時のお茶の間に平気で流す人たちの粗雑な感覚には、以上のような背景があると私は考えます。どうか二度とこんなことはしないでもらいたいものです。

ブログ開設のご挨拶

2013年11月10日 01時05分13秒 | エッセイ
初めまして。評論家の小浜逸郎と申します。このたびブログを開設することにいたしました。
このブログでは、主として次の三つのテーマに沿って、評論、エッセイなどを掲載していこうと思っています。

①時事ネタ
②言語論
③倫理学

少々固いテーマですが、なるべくわかりやすく書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。