小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

小保方問題と佐村河内問題

2014年04月03日 02時16分56秒 | 社会評論
小保方問題と佐村河内問題





 4月1日、理化学研究所の調査委員会が、小保方晴子氏をユニットリーダーとする「新型万能細胞・STAP細胞」研究論文の重要部分に捏造(ねつぞう)と改竄(かいざん)があったと断定しました。
 みなさんご存知の通り、この論文は、1月末に、英国ネイチャー誌に発表され、生命科学の常識を覆す快挙として喧伝されました。その後外部からいろいろな疑義が提出され、一転して理研によって撤回の検討が表明されました。
 ほんの少しさかのぼりますが、「現代のベートーヴェン」とまで言われた「全聾の作曲家」佐村河内守氏が、ゴーストライターの新垣隆氏に「真実」を暴かれ、やむなく謝罪記者会見を行いました。
 私は、ほぼ同時に起きたこの二つの騒動が、いろいろな点でとてもよく似ていると直感しました。といっても、佐村河内氏と小保方氏が、同じインチキ男(女)だと決めつけたいわけではありません。ここにはそうした特定の個人に対する倫理的な非難・譴責(けんせき)の問題を超えた現代社会に特有な共通の問題が横たわっていると指摘したいのです。そうしてこれは、それぞれ個別のスキャンダルとして聞き流すだけでは済まされないきわめて深刻な文明論的問題です。その問題を一言で言うと、現代のマス情報の公開プロセスの構造には、公開した主体の善意・悪意のいかんにかかわらず、もともと根本的にマユツバ性が含まれているのではないかということです。
 結論を急ぐ前に、この二つの騒動の共通点を洗い出してみましょう。

①すばらしい価値があると褒め称えられた人や物事がたちまち疑惑の奈落に突き落とされた。
②主人公がセンセーションを巻き起こすにふさわしい社会的「しるし」を濃厚に帯びていた――佐村河内氏は重度の聴覚障害を持つ作曲家、小保方氏はうら若きリケジョ・カワイコちゃん科学者。

③クラシック音楽という高度な芸術性が期待される領域と、再生医療科学という最先端の専門領域で起きた事件のため、どちらも普通の人がそこでの営みの真価を判定しにくい。

④「人に受けたい」「価値を認めてもらいたい」という人間本来の衝動が急速なピッチで露出した。

⑤共同作業と分業と模倣と継承によってしか成り立たない仕事(あらゆる仕事はそうです)が、あたかも特定の個人の仕業であるかのごとくに把握されて、その個人が称揚されたり、貶められたりする。

 繰り返しますが、私はここで、両事件の主役のどちらか一方あるいは両方を、倫理的に非難したり擁護したりする意図を持っていません。ちなみに佐村河内問題の場合は、不十分とはいえ、本人がすでにインチキを認めていますから、このサイトで非難の追い打ちをしてもあまり意味がないでしょう。また小保方問題の場合は、理研の「不正認定」に対して、彼女自身が徹底抗戦の構えを示して近く記者会見をするそうですし、今回の理研の報告にはSTAP細胞そのものの存在可能性について触れられていませんから、現時点では判断を保留せざるを得ません。
 考えてみたいのは、特定の悪者捜しではなく、こういう事態を引き起こす現代社会の条件とは何なのかということです。

 私たちはいま、すごいスピードで流れる大量の情報を、自覚的な取捨選択の余地もなく消化しては排出しています。これが常態として習慣化すると、知覚や情緒や意志の脈拍もその流れに合わせて急テンポとなり、体は動かさなくても頭の中は絶えずあちこち走りまわっているコマネズミのようになるでしょう。知らない間にセンセーショナリズムの影響を受けてしまうのです。
 みなさんは、IT社会という情報洪水の環境の中にどっぷり漬かっていて、こんなことでいいのだろうかと感じたことはありませんか。私などは、もともと世事に疎く、周囲の状況になかなか適応できないたちで、パソコンを始めたのも人よりずいぶん遅れました。おまけに団塊ジジイなので、新しい情報技術や、その技術を支えている発想にすんなりとはついていけません。商売柄必要やむを得ず、こうしてブログなどを運営してはいるものの、若い友人のサポートがあって初めて可能となっているので、じつは相当無理をしています。
 コンピュータは、あれですね、ヒューマン・スケールをはるかに超えたキャパを持ってしまいましたね。先日も必要があって旅行情報を調べたら、画面に出てくる選択肢がまあ、やたらと多くて、何をどういう順序で選んでいいのかほとほと迷ってしまいました。ちょっとうっかりクリックすると後戻りできないヘンな迷路にハマってしまいます。そんなのどっちでもいいからこっちが必要としている情報を早く提供してくれよ!、と画面に向かって怒鳴りたくなりました。相手が人間だったら絶対こんなことないのに。……いや、最近は、人間もけっこうコンピュータに感化されているか。
 閑話休題、現代文明を考えるうえで、もっと大切な点は、産業構造の高次化によって、自然を相手に作物をじっくり作り出すような仕事よりも、人と人との関わりが最も重要視され、いかに他者に向ってうまく表現するかという課題に多大なエネルギーが注がれるようになったということです。プレゼンテーション、うまく言いくるめる説得術、コミュニケーションスキル、相手を傷つけないような(相手に気に入られるような)心づかい――何に従事するにしてもこういうことが不可欠な課題としてのしかかってくるのですね。先進社会の住人は、みな多かれ少なかれ一種の表現中毒にかかっています。この中毒をうまく消化できない人は、表現恐怖症になって、些細なことで適応障害を発症します。
 17世紀イギリスの思想家・フランシス・ベーコンは、人間が抱きやすい先入見、臆断、幻影を「イドラ」と呼んで、種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラの四つを挙げました。ウィキペディアから、あとの二つについて引いてみましょう。

市場のイドラ(伝聞によるイドラ)…ベーコンが「人類相互の接触と交際」から生ずるイドラとしたもので、言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見のことである。社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を指し、噂などはこれに含まれる。

劇場のイドラ(権威によるイドラ)…ベーコンが「哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってきた」イドラとしたもので、思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見のことである。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまうこと。


 現代のマスコミやネット社会に飛び交う情報が、私たちのまともな価値判断力を剥奪する状況は、まさしくこの「市場のイドラ」と「劇場のイドラ」にぴたりと当てはまりますね。
 こうした生き馬の目を抜くように激しく転変する市場型社会、劇場型社会で生活していると、本人が仮にそれほど意識していなくても、いつの間にかウソかマコトかを問う暇もなく、ともかく急いで名優としての演技を演じて見せるように急かされます。
 しかも観客のほうも同じ目まぐるしいマス情報社会の流れの中にありますから、何が信じるに値する価値であるかを判断するだけのゆとりが与えられません。呆然としつつ、ただ面白い見世物を次々に求めるようになります。それを素早く見せることができた者が競争に勝つ。本当に価値があるかどうかは二の次という空気が醸成される。

 話を佐村河内問題と小保方問題に戻しましょう。佐村河内騒動の場合、人々は、「障害」と「ヒロシマ」と「震災」といういかにも情動を揺さぶる現代日本のマジックワードにまんまと乗せられました。彼(じつは新垣氏)の手になる音楽そのものが、そんなに感動に値するものなのか、だれもまともに評価の声を挙げません。付帯条件による先入観(イドラ)のために、多くの人が無自覚に感動したフリをする結果となる。一蓮托生、現代では、観客もまた俳優です。
 小保方問題の場合は、発表論文に数々のずさんさやパクリや間に合わせの跡が指摘されていますが、これもまた、表現中毒の一例です。世はまさにコピペ時代、私の勤務する大学で単位認定のためにレポート課題を出したら、相当多数の学生がネット丸写しでした。罪悪感なんて感じていないらしい。この感じていないというところがいかにも現代的です。感じろと叱りつけても無理でしょう。もちろん全員、落としましたけどね。
 いっぽうで「個の創造の素晴らしさ」がもてはやされながら、実態は俳優も観客もこぞってまがい物に近い見世物を共同制作しています。そういう時代なのです。だれもこの妖怪めいた力から逃れることはできない。ならば、この公開されたマス社会のマユツバ性という事実をひとまず受け入れるほかはない。誤解を恐れずに言えば、演技者はけっしてインチキを見破られないようなテクニックを磨けばよいのです。だれにも(自分自身にも)絶対にインチキを見破られないなら、論理的に言ってそれは「真実」なのです。真実とは、だれもが納得する物語の創造ということです。
 小保方問題に関して、公式の言論は、科学の信頼回復、信頼回復と叫び続けています。しかしこういうことを叫び続けて正義漢ぶっている人たちは、公開された社会表現のなかに、客観的な「事実」とか「真実」とかいったものがあらかじめ絶対に存在するという素朴な前提に立っているのです。この前提を疑わずに「信頼、信頼」とあまり言うと、この言葉自体がなんだかとても安っぽく聞こえてきます。「信頼」という大切な言葉は、秘められた内々の人間関係のためにとっておきましょう。