小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源63

2015年02月02日 23時35分19秒 | 哲学
倫理の起源63


【結語】 

 本稿は、良心と呼ばれる作用がどのようにして発生するのかという問いから出発した。私は、個体発達と人類史のそれぞれの黎明期に視線をめぐらせることによって、その問いに応えようとした。良心は、愛や共同性の喪失に対する不安に根源を置いているというのがここでの回答である。この回答は、人間を孤立した個人としてではなく、徹底的に関係存在としてとらえる立場に基づいている。
 次に、「善」という概念は、哲学者がこれまで考えてきたように、何か形而上学的な原理によって規定されるのではなく、日常生活における秩序と平和が保たれている状態を指すのだという認識が示された。宗教的・哲学的な「善」の規定は、この状態が観念化されたものであって、天上から降ってきたり、ア・プリオリなかたちで経験世界から自立して存在したりするものではない。
 この先験主義は、プラトンのイデア思想やカントの道徳形而上学に典型的に見られるが、それは、西洋の倫理学的思考が長い間陥ってきた倒錯である。そうしてこの倒錯は、論理的な言語というものの特質に必然的に付きまとう倒錯なのである。ニーチェやミルなど、近代の思想家たちは、これと闘って善戦したが、彼らを取り巻く文化環境の制約の中で完全に相対化し克服するまでには至らなかった。そこにはカントと共通の、個体主義的な人間把握が残存している。
 和辻哲郎は、おそらくヘーゲル批判から出発したマルクスの社会哲学の影響を強く受けて、人間存在を「実践的行為的連関」というキーワードのもとに関係論的に把握し、卓抜な倫理学を築き上げた。日ごろの挨拶、礼節、語り合い、愛情交換、経済交渉など、さまざまな人間交通の現場に、彼は人倫が顕現するなまの姿を見た。その功績は世界に誇るべきものである。しかし彼の倫理学には、より小さな人倫組織とより大きな人倫組織との間に介在する矛盾への視点が欠落しており、そのため各組織はそれぞれ固有の自立した倫理的原理を持つようにも、また逆に、すべてが予定調和的な弁証法で連続しているかのようにも印象される。これは人間観察として甘いのではないか。また時間によく堪え得ないのではないか。
 この難点を克服するには、各組織(共同体)という実体的な概念に過剰に人倫性を背負わせないようにすればよいと私は考えた。時空を超えたより普遍的な人間関係のあり方そのものに注目し、それぞれがはらむ倫理性の特質を記述し、かつ互いの相克のありさまからけっして目を背けないこと。第35回目以降の論述は、この方法を具体的に展開した試みである。読者諸氏のご批判を仰ぎたい。
 
 すでに何か所かで触れてきたが、人間が倫理的存在としてこの世を生きなくてはならない根拠は、彼が共同存在としての本質を持ちつつ、しかし、個体としてはたがいに別離せざるを得ない宿命の下に置かれているというところに求められる。
 あなたという人間の存在のふるさとは、関係性であり共同性である。和辻が説いたように、人は生の活動において、常にこのふるさとに還帰しようとする。しかし人はまた、自らの身体が、この存在のふるさとのうちに永遠に抱擁されるのではないことを知っている。人間は死すべき存在であることを意識してやまない唯一の動物だからである。死は日常生活のいたるところに入り込んでいる。それは部分化され、小片化され、希薄化され、拡散しているが、それらのどの局面に出会うときにも、私たちは本体としての死の影に触れることになる。だからどんなに絆を誓い合った存在でも、やがていつかは別離していくという事実をだれもが身に沁みてわきまえているのだ。
 この事実は、人間の孤独や哀しみの感情を基礎づけるが、しかし単にそうした「感情」を基礎づけるだけなのではない。じつに別離という事実の自覚こそが、「人倫」を基礎づける究極の条件でもあるのだ。なぜなら、人は人と共に生き、愛や憎しみを知り、ある時は不幸に打ちひしがれ、ある時は幸福に浸るが、これらの経験を通じて、完全に一体とはなりえなかったという心の負債を必ず抱えるからである。
 この心の負債、言い換えると「相手への心残り」は、それぞれの身体の有限性からして、もともと弁済不可能である。その取り返しのつかなさをだれもが暗黙の裡に知っている。この暗黙の知に支えられてこそ、基本的な人倫精神が涵養されるのである。その基本精神とは、せめて生きている間だけはお互いの日々のかかわり方をかくかくのごとく仕立て上げるべきだという構えのことである。
 別離の事実こそが倫理を根底的に基礎づけるというこの考えは、愛や共同性の喪失に対する不安が良心の発生を説明するという初めに述べた考えと精確に呼応するのである。いっぽうは人間的な生へ向かう入り口の部分で出会う心的な事象であり、他方は人間的な死へ向かう出口の部分を暗示する心的な事象であるという「持ち場」の違いはあるのだが。
 人倫とは、生を成り立たせるための「よそおいの姿」である。そうして、このよそおいの姿は、どこか天上のうちに絶対的な理想として聳えているのではなく、私たちの日常生活感覚のさなかにいつも降りてきており、さりげなく実践されているのである。


*「倫理の起源」は、今回で終了します。こんなにくたびれる論考を長い間読んでくださった方、本当にありがとうございます。
当ブログは、さいわい固定読者の方も少しずつ増えつつあるようです。これからも、長編を中心に時局ネタ、折々感じたことなどを織り交ぜながら続けていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
次の長編は、長いこと中断していました「日本語を哲学する」を再開する予定です。再開までに少し時間を要しますが、必ずお約束を果たします。ご期待ください。