小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「空気」の支配こそ全体主義への道(SSKシリーズ21)

2015年08月10日 18時04分33秒 | エッセイ



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2015年6月発表】
 かつて作家の石田衣良氏が、日本は政治もエンタメも右傾化して危険な世の中になっているとして「右傾エンタメ」というレッテルを貼りました。これに対して評論家の古谷経衡氏が、実例を詳しく挙げてそのレッテル貼りは当たらないとし、さらにずっと過去の「宇宙戦艦ヤマト」などの方が明らかに軍国主義的だが、そのような非難はされたことがないと指摘しています。

「要するに、アニメや漫画、映画やゲームといったカルチャー全般に疎い者が、このような雑然とした右傾エンタメ論を展開しているのがことの真相なのである。作品を観ない・触れないで、『なんとなく』のイメージのもとに語られるのが『右傾エンタメ』の真相だ。」(産経新聞6月5日付)

 私はアニメには詳しくありませんが、目からウロコの思いです。
 少し前に加藤典洋氏という文芸批評家が、百田尚樹氏の『永遠の0』を、彼が保守的発言をしているというだけの理由で、巧妙に仕組まれた右翼的作品と決めつけていました(『特攻体験と戦後』中公文庫解説。http://asread.info/archives/1423参照)。
 加藤氏の場合は、作品に触れた上で、小難しい理屈を作り上げてそうしているのだから、もっとタチが悪い。しかも彼は文芸批評の専門家のはずです。文学作品をその外側のイデオロギーによって裁断する。これは批評家がけっしてやってはいけないことです。
 石田氏にしろ加藤氏にしろ、文学畑の人は、えてしてこの種の軽はずみな政治的発言をするものですが(たとえば大江健三郎氏や村上春樹氏)、それは自分の本来の仕事に自信が持てなくなってきた証拠だと思います。
 また、古谷氏の指摘は、何もアニメやゲームに限ったことではありません。
 原発問題や集団的自衛権問題など、それらが国民生活にとって持つ総合的な意味をよく調べもせず考えもしないで、漠然とした印象だけで、ただ反対、反対と叫んでいる例があまりに多い。
 これらの「空気」による世論形成は昔からお馴染みですが、今日のような高度大衆社会になると、その傾向はますます助長されます。こうした「空気」の支配のほうが、いわゆる「右傾エンタメ」の流行などよりはるかに危険です。というのは、こうした怠惰な傾向が増していくと、いくら真実を訴えても聞く耳を持たない全体主義的な社会が生まれるからです。
 たとえば先ごろ橋下徹大阪市長が提唱した「大阪都構想」がそのよい例で、これに賛成した人たちは、その構想の意図や実態をよく調べもせずに、ただ地盤沈下に対する不満のはけ口を、何かやってくれそうな「改革」のイメージに求めただけなのです。これはたいへん危険な局面でした。
 また安保法制化の国会論戦での反対野党の態度は、この法案がどんな国際環境の変化に対応したものか、どういう具体的な局面での自衛隊の活動を規定したものかを丁寧に議論せず、ただ「戦争への道を許すな」という左翼的ムードを利用しただけの、お粗末でヒステリックなものでした。
 今日、必要な知識・情報はネットのおかげでいくらでも得られます。それは功罪相半ばなのですが、少なくとも何か発言する時には、観ない・触れない・調べないを決め込まずに、功の部分を大いに利用してからにしようではありませんか。