小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する27

2015年09月24日 22時45分09秒 | 哲学




 また、言語主体の存在状態を、身体行動から論理的言語の表出までをも含む最広義の意味での個人の「行為=ふるまい」のあり方という角度からとらえ直せば、以下のような段階の違いとして整理することができる。あくまで便宜的な整理ではあるが。


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|行為の段階 | 1   | 2     | 3      | 4     |
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|原理    | 身体  | 情緒    |感情言語    |論理言語   |
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|現実的表現 | 行動  | 情動・表情 |直接表出的発語 |対象化的発語 |
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|例     |乳幼児のふ|泣く・怒る・小|やあ! えっ? | 命題・陳述 |
|      |るまい・暴|踊り・満面の笑|すてき! やだ!| 文章記述  |
|      |力・握手 |み      |いいね!    |       |
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 この整理にしたがって「沈黙」がどの行為(ふるまい)の段階をどのようにフォローするかについて重ね合わせを行ってみると――
 1の場合は、文字通り言葉はまったくか、ほとんど発せられない。言語表現としての沈黙が行動に置き換わっている状態ととらえられる。
 2の場合は、一般的には、感情の昂揚が言語の構成を困難にしている場合と考えられる。しかし単純にそう決めつけることもできない。これらの情動表現の結果として、沈黙が破られる場合もあれば、逆に饒舌な言葉を表出しているうちに、その流れの延長上で激しい情動の表現に移り行く場合もあるからである。
 3の場合は、とりあえず間投詞的な表現ばかりを例示した。これらの場合には、余計なことを言っていない、言う必要がないという発語主体の心境がまさに多くの「沈黙」を現出させているのだが、じつはこの範疇には、前に掲げた豊饒な文学的言語のほとんどが含まれることになる。そこではしたがって、実際に発語された言葉とその陰に当たる部分とがひっきりなしのせめぎ合いを演じているのである。
 4の場合は、一見「沈黙」の役割は後景に退いてしまっているように思える。しかし論理言語の場合でも、「沈黙」の効果というのはおおいに発揮されているのである
 それはまず、ある抽象レベルがどうしても必要とされるという意味においてそうである。論理的命題を述べるためには、そこで使われる語彙があらかじめ多くの外延(その語彙の概念に含まれる個々の物事)を含むので、その外延のひとつひとつにいちいち言及しているわけにはいかず、それらははじめから捨象されざるを得ない。またそれぞれの語彙の定義について、必ず一致した共通了解のもとに使われるとは限らない(むしろ人によって受け取り方が違うことの方が多い)ので、厳密に考えれば、一つ一つの語彙の定義から始めなくてはならないはずだが、論述が長くなれば、そんなことは事実上不可能である。つまり定義は、議論が混乱して袋小路に入った時にようやく呼び出されるが、ふだんはだいたい見捨てられている。それでも漠然たる理解が共有されていれば、語彙の連結のさせ方、文脈の構成の仕方によって、ほぼ誰にとっても納得のいくような論理命題に収斂させることは可能なのである。
 たとえば、三段論法の例として有名な次の論述を取り上げてみよう。

 すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死ぬ。

 まずこの論述では、使われている言葉について、少なくとも四つの語彙の概念が自明の前提とされている。すなわち、「すべて」、「人間」、「死」、「ソクラテス」がそれである。
 しかし「すべて」という概念は果たして自明だろうか。その対象となっているものが含まれるある範囲や境界を想定しなければ、「すべて」という概念は使えないのではないか。「この箱の中にあるすべてのモノ」「人間社会で起きるすべてのコト」というように。
 また、「人間」とはどういう存在を指しているのか。ごくありていに言って、この言葉は、生物としてのヒト、社会的政治的存在としての人間、ひとりひとりの個人というように、いくつにも使い分けられる。そうした使い分けはここでは意識的に捨象されている。そもそも人間とは何かというのは、私たちにとっての最大の謎である。
 また、「死」という言葉も、生物的な個体としての解体を意味するのか、共同存在としての人間の崩壊を意味するのか、もっと一般的に、諸物の解体・滅亡を指しているのか、必ずしも明らかでない。そもそも人間の死に限ったとしても、それをどう解釈すべきかには、いくつもの考え方があるだろう。
 さらに、「ソクラテス」とは誰のことか。その人は存在しているのか、したのか。歴史の知識を信じるのでない限り、その存在は保証されない。保証されなければ、論理言語の道具として使うことは出来ないだろう。あるいは、ある人にとっては、それは固有名を持った生身の個人を指すかもしれないし、別のある人にとっては、人間の一サンプルを指すだけかもしれない。また別のある人にとっては、「こういうことを言ったりしたりした人」を指すかもしれないし、またまた別のある人にとっては、特定の「思想」を指すかもしれないのである。
 こうした理屈を述べ立てているかぎり、上記の論理命題は成り立たなくなってしまう。という意味は、いくらでも疑義を申し立ててその言い分を混乱させる余地が残されているということである。
 だがそれではもちろん、論理言語は有効に作用しない。その中で使われている語彙の概念が、それを流通させる人々の間ですべて自明であるという前提が必要なのだ。しかしその事実はいちいち語られない。ある言葉についての知の一般性と、それぞれの言葉のもつ抽象の水準と、それらが一定の文脈のなかでどういうニュアンスや強意を込めて使われているかということについての共通了解がなければ、論理言語ははたらかないのである。そこには暗黙の了解が生き生きと動いている。つまりは「沈黙」が作用しているのである。
 加えて、もっと大事なことは、この論理の要をなす「ゆえに(だから)」という結合辞自体が、一つの大きな飛躍を含んでいるという事実である。
「ゆえに」という言葉はもともと、「水をまいたのでもないのに庭が濡れている。ゆえに雨が降ったに違いない」とか、「信号が青になった。ゆえに進んでよろしい」というように、過去の経験則から導き出された認識と判断であって、それ以上のものではない。「三角形の内角の和は二直角である。ゆえに直角三角形の直角以外の二角は鋭角である」というような数学的な論理の場合でも、これを聴いた人が、典型的な図形を思い描きつつ観念の中でその言明の進行をなぞる(行動する)のでなければ、けっして納得されないだろう。
 本来この言葉は、行動指針のために使われるようになった結合辞で、多くの人の共通の行動に役立つなら、時と場合に応じていくらでも呼び出されるし、またその結合される二つの材料はいくらでも恣意的に選択されうるのである。だからヒュームのような懐疑論者が皮肉たっぷりに「あれの後にこれが起きた。ゆえにあれがこれの原因である」という言葉を持ち出すこともできたのである。
 ソクラテスの例の場合も、もしかしたら死なないソクラテス(なる人物)がいるかもしれないという論理的可能性は、あらかじめ排除されている。ソクラテスが死ぬという結論を導くために、二つの前提が必要だったのだが、「ゆえに」がそれらを選び出して結合しなかったら、両者はそれぞれバラバラな命題として投げ出されていただけで、そもそも「前提」とはなりえず、論理的筋道の構成要件となることはなかった。したがって、ここには、二つのものの因果的総合という飛躍的な「言語行為」が沈黙のうちにひそんでいるのだ。
 以上のようにして、論理言語もまた「沈黙」によって大きく支えられていることがわかる。

 また、感情言語と論理言語という区分は、明瞭には成り立たない。感情が何もこもらない論理表現というのはないし、一定の形式さえ具えていれば逆もまた真で、論理が何もない感情表現というのもない。
 たとえばあなたは、「一足す一は二である」という論理命題には何の感情もこもっていないではないか、というかもしれない。
 しかし第Ⅰ章の「言語の本質」のところで述べたように、そもそも言語とは、関係の創造や維持や破壊を目指した自己投企なのであるから、「一足す一は二である」という発語そのもののうちに、それを知らない人を、その知を共有する人々の世界へといざなう意味、話の参加者をして次の論理へ進ませるための共通確認の意味、論理の自己確認を通して共同世界への参入が保証され、それによって自らを安心させる意味、等々が含まれているのである。これはじゅうぶん感情的なことである。感情が沈黙の様態を取って論理を支えているのである
 あるいはあなたは、「悲しくて悲しくてやりきれない」という感情表現にはどんな論理が含まれているのだと問うかもしれない。
 しかしここには、「私」の状態を対象化して、なるべく正確に把握しようという論理志向が立派にはたらいている。それは、「この生物は、モリアオガエルによく似ているが、赤い斑が入っているので新種かもしれない」という陳述と構造的に何ら変わるものではない。「悲しみ」という自己措定において「私」は客観的に照らし出され染め上げられているのだし、「やりきれない」という表現によって、さらにその様態が、未来への展望(のなさ)という行動(不)可能性を持つことが精確につかまえられているのである。だからこの場合には、先の場合とは逆に、論理が沈黙の様態を取って感情を支えているのである
 
(第Ⅱ章・了)


*今回で、「日本語を哲学する」の「第一部 総論」を終わります。この後、「第二部 各論」に進み、そこでいよいよ日本語の具体的なあり方を哲学的に論じていく予定ですが、現在まだ準備不足のため、しばらくこのシリーズは休載いたします。どうぞご容赦ください。