小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「万引き記録で自殺した中学生」事件と「保育園落ちた日本死ね」事件について――曽野綾子女史に物申す

2016年03月14日 15時43分05秒 | 経済

      






 報道によれば、広島県の中学三年生が、やってもいない万引きの記録のために志望高校への推薦を拒否され、それが理由で自殺したとのこと。世間は、学校側の責任を問う声ばかりでずいぶん沸き立っているようですが、肝心のことが問われないままになっている、とずっと思っていました。
 肝心のこととは、なぜこの生徒は、自殺を考える前に、「無実の罪」を晴らそうとしなかったのかという点です。成績もよく、屈託のない明るい生徒だったと言われていますから、そんな不当な処置に対して一片の抗議もできないというのは、どう考えてもおかしい。教師とは廊下での立ち話だったとはいえ、数回に及んだと報じられています。その数回の中で一度も「自分はやっていない」と言わなかったというのでしょうか。
ことは進路に関わる重大事です。もし教師の前で萎縮したのだったら、両親に訴えて家族ぐるみで立ち向かうことはいくらでもできたはずです。
 と、こう思っていたところ、産経新聞の、曽野綾子氏の連載コラム「小さな親切、大きなお世話」(二〇一六年三月十四日付)で、同じことが取り上げられていました。さすがは曽野氏、いつものように言いにくいことをずばりと突く、と感心しながら読んでいたのですが、途中から「こりゃいかん、こりゃダメだ」と頭を抱えました。この際きちんと批判しておきます。
まず、曽野氏はこう書いています。

 今回学校からその件に関する質問をされたとき、生徒は「そんなことはありません」と正面から否定しなかったようだ。万引が事実であったかのように思われたのは、「万引のことは家の人に言わないで。家の雰囲気が悪くなる」などと答えたものだから、教師も事実だと思ってしまったのだろう。

 ここまでは氏の文章に問題はありません。ただ、私は今回、中学生が「万引きのことは家の人に言わないで。」と答えていたことを初めて知りました。もしこれが本当とすれば、さらに言いにくいことですが、本当はこの中学生は、実際に万引きをした少年と何らかの形でかかわっていたのではないか、あるいは、別の場所、別の日に万引きをやったことがあったのではないかという疑いがきざしてきます。この疑いは今のところ封印しておきますが、それにしても、次の曽野氏の文章を読んで、びっくりしました。

 私は昔から万引をするような人間は、大学どころか、高校にもいかなくていい、と思ってきた。万引は「失敗」ではない。「確信犯」である。計画して盗みをするような人間には、高等教育などを受ける資格はない。
家庭にもそういう正義を重んじる空気があれば、子どもは万引などしないし、潔白なのに疑われた時には、顔色を変えて大騒ぎをするだろう。


 中学生や高校生の時期、万引程度の軽犯罪を犯す子はごまんといます。一流大学に合格するような秀才でもやっています。私も少々癖になってつかまったことがあります。保守派の領袖の一人、西部邁氏もご自身の著作の中で万引経験を告白されています。いまさら弁解のために言うのではありませんが、あの年ごろはアイデンティティ不安の塊なので、社会規範に反抗して小悪に手を染めるという、いくらか勇気を要する行為が結果的に自己の存在を確認させる心理的効果を持つのです。元服や徒弟奉公のような通過儀礼をなくした現代の間延びした思春期の少年たちにとって、それは一種の逆説的な通過儀礼の意味を持つといっても過言ではありません。だからやってよいと言っているわけではありませんが。
 曽野氏はカトリック教徒としての厳格さをここで表現しているのかもしれませんが、人間通で知られ、世界のたくさんの人々の生き様を目で見、肌で感じられてきたはずなのに、この偏狭ぶり、人間に対する無理解ぶりはどうでしょう。はっきり言ってあきれました。氏は、文学者でもあるのですから、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンが後に民衆の信頼を勝ち得て市長になったことをどう解釈するか、ご高説を賜りたいものです。
 昔だと、経済的貧困を理由に免罪されるという定番がありましたが、それは今では通用しません。ジャン・バルジャンの時代でさえ、最初のパンの盗みは貧しさからでしょうが、長年の囚人暮らしの後、教会で犯した燭台の盗みは、必ずしもその原因を貧困に帰せられるものではありません。
 貧困といえば、曽野氏は次に、例の「保育園落ちた日本死ね」のブログがあまねく拡散し、物議をかもした現象に言及しています。これについても氏は見当外れのことを言っています。

 このブログの薄汚さ、客観性のなさを見ていると、私は日本人の日本語力の衰えを感じる。言葉で表現することの不可能な世代を生んでしまったのは、教育の失敗だ。(中略)
 子どもたちに毎週作文を書かすと読むのがたいへんだからと、作文教育を怠ってきた面はないか。
 SNSに頼り、自分の思いの丈を長い文章で表す力をついに身につけなかった成人は、人間とは言えない。


 SNSでの表現の多くが、その即応性という安直さのためにまともな日本語になりえていないことは認めますが、氏はSNSの中にも立派な表現が数多くあることをご存じないらしい。それはまあ、ご高齢でもあるし、いいとしましょう。
 また、現在の国語教育が作文教育をおろそかにしていることも事実です。しかし超多忙に追われる(その多忙さの中には強制された無駄も多い)今の教師に、それを要求することは無理です。私もこの問題について一文を物したことがありますので、ご関心のある方は参照してください。http://asread.info/archives/1539
 それにしても、曽野氏は、「保育園落ちた日本死ね」というブログの背景にある経済問題、政治問題にまったく目をつむっています。先の万引問題と合わせて、ことをすべて家庭教育や学校教育や言語表現能力の問題にすり替えています。これが精神論者の最大の弱点です。
 家庭に正義を重んじる空気があれば子供は万引などしない? そんなバカなことはない。失礼ながらええとこ育ちのお嬢さんの甘さ丸出しです。ある年齢以上の子どもは家庭からの自立衝動に旺盛に突き動かされます。堅苦しい正義を重んじる空気の圧政が子どもを非行に走らせる例など数え切れないでしょう。また、この中学生と直接の関係はありませんが、経済的にゆとりのない家庭ほど、子どもの幼児期から公式的な倫理道徳をヒステリックに強要しようとする傾向が強く、それがかえって非行への引き金になることもあります。
 いま日本は不況のさなかにあるだけではなく、中間層が脱落し、貧富の格差が激しく広がりつつあります。しかもそれは、政府がとっている消費税増税政策や規制緩和政策、また必要な景気回復策を取らない不作為などに根本的な原因があります。これらの誤った政策は、低所得者層を直撃しています。このブログを書いた女性がどれくらいの年収を稼いでいるのかわかりませんが、その激しい憤りの様子から見て、子どもを保育園に預けて低賃金のきつい仕事に耐えなければ、生活の維持もままならない状態に置かれていることは確かだと想定されます。そうしてこのブログは、どこに怒りを向けるべきか、その矛先を正確に見抜いています。
 なおこのブログは共産党のやらせだったという説が一部に流れていますが、だからといって事の本質は変わりません。共産党ならいかにもそんなことをやりそうですが、ブログの表現内容そのものが間違っているわけではないのですから。
 曽野氏が表現の口汚さ、稚拙さに嫌悪を感じるのはまったくご自由ですが(私も好感は持ちませんが)、ある程度の経済的な豊かさがなければ満足な家庭教育もままならないこと、憤りの感情そのものは、取り巻く社会環境の悪化によって、学校の作文教育などと関係なく立ち昇りうることなど、当たり前の事実を氏はまったく見ようとしません。普通の庶民なら、この女性の声の意味するところをすぐに理解して共感を示すでしょう。氏は、二つの事件の背後にある具体的な事情を何ら想像してみようともせずに、すべてを道徳論で片づけようとしています。こうした精神主義が百害あって一利なしなのは、現実を見る目を曇らせる作用しか及ぼさないからです。
 最後に氏にお尋ねしてみたいのですが、「人間とは言えない」とまで決めつけられたこの女性を「人間」にするには、学校の作文教育以外に何が必要でしょうか。十分な作文教育さえあれば「人間」になれるのですか。