兼好法師③(1283?~1352?)
翻って、初めの四つを世俗的な関心に由来するものと見てまとめれば、全体の六割近くを占めることになります。この書物の本領は、こうした世俗的、現世的な事柄について持ち前の批評精神をたくましく展開した点にあると言ってよいでしょう。明恵のように、堅苦しく純粋な僧の見本のような人をからかったとしか思えない段(一四四段)もあります。
さてその批評精神の主潮は、現世で生き抜くことに開き直った一種の「明るいニヒリズム」と、それに裏打ちされた合理主義、現実主義ともいうべきものです。それは、先に挙げた石清水八幡宮の話や出雲大社の獅子・狛犬の話のように、いわれなき権威主義に対する抗いや皮肉の表現としても現れています。
また、「心は必ず事に触れて来たる」と説いて、かりそめでもいいからまずは実践することが大事だという次の段などは、高尚ぶって空疎な観念に耽ることを否定したプラグマティズム、あるいは心理学的な行動主義といってもいいでしょう。
《心さらに起らずとも、仏前にありて数珠を取り経を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも、縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。》(一五七段)
また、牛が床に入り込んでしまったので人々が陰陽師に牛を渡して占ってもらおうと騒いでいるのを、徳大寺右大臣殿が「牛に分別などない。どこでも上がり込むさ」とさらりと片付け、「あやしみを見て、あらしまざる時は、あやしみかへりて破る」と言ってのけた記事(二〇六段)には、兼好の合理を尊ぶ面がよく出ています。さらにたとえば次の段などはどうでしょうか。
《文・武・医の道、まことに欠けてはあるべからず。(中略)次に、食は人の天なり。よく味はひをととのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に、細工、よろづに要多し。
この外の事ども、多能は君子の恥づるところなり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし。》(一二二段)
ここであえて「明るいニヒリズム」と呼んだのは、世間に伝わることの多くは嘘っぱちだと喝破した七三段、この世の中で頼むに値するものなど何もないと言い切った二一一段などにそれをうかがい知ることができるからです。
しかし何といっても、終わり近くに人間の心を鏡にたとえてそのうつろなさまを語った二三五段が、その思想の中核をなしています。これは厭世哲学ではなく、人はそのように現に生きているという事実をありのままに肯定する姿勢の表れでしょう。
《虚空よく物をいる。われらが心に念々のほしきままに来たり浮ぶも、心といふものなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、若干のことは入り来たらざらまし》
しかしまた兼好には、貴族趣味的なロマンティシスト(美学的生き方)の傾向もふんだんにあって、有名な一三七段では、「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情けふかし云々」とか、「逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が原に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。」などとあります。
また見合い結婚の味気なさを指摘した二四〇段、妻帯や家族生活を否定した六段、一九〇段などにもそれがあらわれているでしょう。
ちなみにこれらの段は、家族の恩愛の大切さを説いた一四二段と明瞭に矛盾しますが、おそらく兼好なら、自分の美意識に添った生き方の表明と、世の人倫がどうあるべきかを客観的に説いたくだりとはおのずから別だ、と答えたことでしょう。ここらに、当時の知識人の孤独を見る思いがします。
兼好の思想をあえてひとことでまとめよとならば、要するに、愚かな跳ね上がりを排して、寂かに伝統と向き合う健全な常識に還れということに尽きるでしょう。しかしそれを説くことの思わぬ難しさに気づいていた彼は、多くの矛盾をも顧ず、具体的なあの場面、この場面を持ち出しては、それにあくまでも即しつつ鋭い批判、批評を加えたのだと思います。
最後に一言。彼がこの作品を書くにあたって、『枕草子』を強く意識していたことは、そのズバズバと切っていくいさぎよい価値判断のスタイルからして明白です。しかし、清少納言がもっぱら女性的な美意識とセンスの良さを価値判断の基軸に置いていたのに対して、兼好の場合はそれだけではなく、人間の生き方全体を対象とした思考の道筋を切り開いて見せたところに特色があります。小林秀雄が「空前の批評家の魂が出現した」と評した所以でもありましょう。
(この項了)