小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズ12――荻生徂徠(1666~1728)

2017年12月24日 09時58分06秒 | 思想




 荻生徂徠を「誤解された思想家たち」の仲間に入れるのはためらわれるところがあります。というのも、徂徠の思想は特に誤解されて広められているということがなく、その説はまことに明快で一貫しており、生前から将軍家や多くの弟子たちの信任・信望も厚く、後世に良い意味で大きな影響を与えているからです。
 朱子学を虚妄の説としてバッサリ切り、異論には容赦なく批判を加えていますから、反感を買う場面は多々あったでしょうが、彼と真っ向から対決してその欠陥や盲点を突くことができた人はいなかったようです。
 にもかかわらずここで取り上げるのは、伊藤仁斎と並んで、江戸前期の最も重要な思想家の一人として、彼をはずすわけにはいかないからです。

 ここでは徂徠思想がどこにその発生の原点を持つのか、そして彼の思想が現代にどんな意味を投げかけているかについて考えてみることにしましょう。
 徂徠は、後に将軍・綱吉の侍医を務めることになる父・方庵の下に江戸で生まれ育ちましたが、14歳の時、父が当時舘林藩主だった綱吉の怒りに触れて流罪となり、以後13年間、上総に流謫の境涯にあったことになっています。
 一見小さなことのように思われるかもしれませんが、この13年という数字には疑義をはさむ余地があります。
 というのは、第一に徂徠自身が『徂徠集』のなかで、江戸にもどったのは25歳の時だとたびたび語っており、こちらを取れば11年になるからです。
 第二に、方庵が江戸にもどったのはたしかに13年後の元禄五(一六九二)年六月ですが、同じ年に徂徠は芝増上寺付近に住み、塾を開いているからです。 
 江戸にもどったその年に父と同居せずいきなり塾を開くというのはどう見ても不自然です。
 落語で有名な「徂徠豆腐」はこのころを扱った話ですが、落語の真偽はともかく、一人で赤貧の暮らしを送っていたのはたしかでしょう。つまり徂徠は父に先立つ二年前にすでに江戸に出てきており、そこでさらに研鑽を積み開塾の準備を整えたと考えれば辻褄が合うのです。
 25歳といえば当時としてはすでに立派な壮年です。あの血気盛んで向学心旺盛な徂徠が、自立と青雲の志を抑制してうじうじと上総の草深い田舎(いまの茂原市付近)に蟄居していたとは考えにくい。きっと早くからその志を遂げるべく幕府に江戸居住許可を願い出ていたのではないか。
 罪のない息子のことではあるし、学問好きの綱吉も徂徠のずば抜けた才能をすでに聞き知っていたはずですから、その恩典によって許可を与えたものと思われます。勉学に必要な書物を得るためにずっと前から江戸に何度か来ていたかもしれません。

 このような些末なことになぜこだわるかというと、上総滞在中の徂徠の動静が謎だからです。
 彼は独学で朱子学を学んでいますが、いくら吸収力が優れていても多量の儒教文献がなくては学問を修めることはできますまい。
 彼は開塾した同じ年に、すでに門弟に口述させて、処女作『訳文荃蹄』の出版にこぎつけています。それだけの権威を勝ち得ていたのです。この書は漢文の同訓異義の文字についてのニュアンスを巧みに解説したもので、これによって徂徠の名声は一気に高まります。
 要するに、すでに学者として出来上がっていたわけで、謎の数年間は江戸との時折の交流をも肥やしとしつつ、学問に傾倒した時期であったと見るのが妥当でしょう。
 将軍・吉宗のブレーンを務めた記録『政談』のなかで、徂徠は、この数年間の田舎暮らしで民百姓の暮らしにじかに触れた具体的な経験について、たびたび語っています。民の生活と心を知らなければよい統治はできないという確信はこの数年の間に実感として培われたものでしょう。
 この確信は彼の儒教思想の根本理念の形成に与っていると同時に、理にばかり走る宋儒の空疎さや、ただだらだらと時流に流されて武家政治の確固たるポリシーを持たない官僚たちに対する厳しい批判となって表れてもいます。
 また『政談』や『答問書』には、当時としては、群を抜いて優れた考えが数々示されています。これらの多くは、少し変奏すれば、現代にも応用可能です。いわく――「人返し」によって武士を土着化させるべきである、経済に目を配ることが大切である、商業の肥大化による危険に対して警戒を怠るべきではない、身分に応じた生活の細かな点に至るまで制度をきちんと整える必要がある、下賤の者にも優れた人材はあるので、それを見破って抜擢することが重要だ、人の能力を見抜くには、時間をかけてその人に自由に何かやらせてみるのがよい、艱難辛苦によってこそ人材が磨かれるなどなど。
 これらは、みなこの数年間の経験を原点とするものと推察できます。

 つまり多感な時期の徂徠は、単に学問に専心していたわけではありません。その一方で、田舎の現実や時には江戸庶民の現実にじかに触れ、自らも苦労を重ねながら鋭い観察眼をはたらかせていました。それを通して、、「高尚な」学問と、一般人の現実生活がはらむ問題とを有機的に関連づける感覚を身につけたのだということができます。
 彼のいわゆる「学問」が、単なるスペシャリストのそれでも空理空論に走る形而上学でもなく、現実の政治実践に結びつく総合的かつ具体的な性格のものであったのも、この謎の数年間があったればこそでしょう。
 この時期に彼がどんな毎日を送り、何を考え、学問する自分と状況を生きる自分との間にどんな関連付けを施していたのか、博学の士にご教示いただきたいものです。ただ、私がいま試みたように、徂徠思想の独特な業績という結果から遡行して、その揺籃期を想像してみただけでも、そこに尽きない秘密が隠されていることが理解できると思います。

 さてでは、徂徠思想の独自性と画期性とは何か。彼の根本思想は次のようにまとめられます。

《古代の聖人たち、堯、舜、夏の禹王、殷の湯王、文王、周の武王、周公、および孔子らが、人間の「道」を制作した。道は老荘思想が言うように自然に存在したものではない。また宋儒が言うように、天地の理法のことでもない。このいったん作られた道は後世まで変わることなく人間生活を規定する。
 聖人はそれ以降現われたことがなく、後世の人々はこの事実をよく自覚して、聖人たちの敷いた道にはずれないように努めるべきである。その努めが「徳」である。
 一部の宋儒が説くように「聖人になる道」などというものはない。徳は道の一部であって、道が正しく行われるために身につけるべき方法である。
 徳のうち最も重要なものは「仁」である。仁とは、民を安らかにすることである。民を安らかにできるのは君子(選ばれた人)のみであり、小人(凡人)にはできない。孔子が仁を説いたのも君子に対してであって、小人に対してではない。
 この差別(区別)は侵しえない。しかし小人もまた聖人が示した仁の教えをよく理解して、これに従うことによって、国家全体の安寧に寄与することができる。
 人にはそれぞれ「性」(能力や個性)の違いがあり、これを変えることは決してできない。だから人はそれぞれの得意領域を活かして、農工商などの専門職につくことで、持ちつ持たれつの社会形成に参加すればよい。
 そしてこの社会連関の全体を統合するのが政治の役割であり、君子(指導者、統治者)に与えられた使命である。
 統治者は先王が示したように、「礼楽刑政」をもって民に当たるべきである。
 礼とは良きしきたりを守らせること、楽とは楽しい集い(古代的には音楽)を通して互いに調和して生きることの尊さを自然に悟らせること、「刑政」とは賞罰を含む法的な強制であるが、刑政だけでは仁政とはいえない。民が統治者を信頼し秩序と安寧を確保するためには必ず礼楽を尊重しなくてはならない。》


 ここでまず目を引くのは、道とは天道のように自然に定まったものではなく、古代の優れた人間が切り開いたものだという指摘です。
 次に、聖人の教えはけっして万人のためにあるのではなく(結果的にはそうなのですが)、国を統治する資格のある者のためだけにあるのだという厳しい規定です。
 第一の指摘は、「社会」は初めから存在するのではなく、我々と同じ人間が作ったものだという自己認識を与えます。この自己認識がないと、すべては天の定めによるもので、不幸や不運に対しては神仏に祈るしかすべがありません。
 これが、丸山眞男が『日本政治思想史研究』で説いた「自然」と「作為」の区別であって、日本における近代への内在的な一歩、つまり脱宗教、脱形而上学へと明確な一歩を踏み出したことを表しています。
 朱子学のようにすべては天の「理」と見なしてしまうと、解決可能なはずの問題、つまり政治的な問題がそうは見えなくなり、曖昧にぼかされてしまいます。

 西洋では、同じ人間による「作為」が「社会契約」というフィクションとして現れたのですが、徂徠のそれが社会契約と異なる点は、まさに二番目の指摘、即ち、「聖人の教えは国を統治する資格のある者だけのためにある」という規定にあります。
 徂徠は「聖人の教え」というフィクションを頑として守ることによって、西洋的な平等思想、人権思想とは相いれない人間観を提出しています。古臭い封建思想と切り捨てる向きもあるかもしれませんが、けっしてそうではありません。
 この違いは現代でも(むしろ現代でこそ)極めて重要な問題提起となっています。というのは、いま先進国の政治社会は、西洋的な人権思想と情報社会の影響とで大衆民主主義が極度に蔓延したために、賢いものも愚かなものも皆いっぱしの口をきくようになってしまいました。政治家たちはよく考えられてもいない感情的で愚かな意見にいちいち耳を傾けて、それに媚びなければ政策を打ち出せないようになっていますね。

 徂徠思想を現代風に解釈すれば一種のエリート主義ということになりますが、現在はびこっているようなエリート主義とは千里の径庭があります。
 現在のエリート官僚は、グローバリズムや新自由主義のような狭隘なイデオロギーに洗脳され、総合的な視野を喪失して、そのイデオロギーの許す範囲内の政策をそれぞれオタク的に追求しているだけだからです。単なる大学秀才でしかない彼らには、民のためというような目的意識の持ち合わせがなく、この政策を実行すればどういう結果をもたらすかといったことをきちんと考える頭の持ち合わせもありません。
 徂徠は、そういう視野狭窄を最も嫌ったのです。「仁とは民を安らかにすることである」という言葉に込めた彼の思いは、その目的をけっして忘れてはならないこと、および、目的に到達するための深謀遠慮をたえず怠らないことと不可分の関係に置かれていたのです。

 徂徠はまた、道徳だけでは国を治めるのに不十分であることをよく理解していました。それが前々回紹介した伊藤仁斎への批判となって表れたわけですが、政治という営みに重点を置いて考えるかぎり、時代が進んでいる分だけ徂徠のほうに一日の長があった(つまりより近代に近づいていた)と言うべきでしょう。
 ただ徂徠の仁斎批判には、自分がいったんは傾倒したからこそ、ひとたび自分との違いを感知すると今度は否定の情熱に憑かれてしまうといった感情的な面が見られます。それは宋儒への批判と同型をなしています。宋儒批判のあとにしつこく仁斎批判をもってきては、「仁斎の宋儒批判は、同じ枠の中の批判で五十歩百歩だ」とまで言い切っています(『弁道』、『弁名』)。
 しかし、これは後知恵ということになりますが、仁斎の場合は、朱子学の思弁の世界にいったん深く入り込み、それを引き受けて深刻に悩みつつ、その中から形而上学批判を引き出してきたというプロセスがあります。そのかぎりでは朱子学のスコラ性の土俵上での闘いでしたから、仕方のない面があるのです。
 これに対して、ポレミカルかつポリティカルな徂徠は、早くから宋儒に見切りをつけています。ですから、「聖人の立てた道の本質は、君子が仁政を敷くにはどうすればよいかという実践的な問題意識にこそあった」というテーゼを自ら立てた以上は、宋儒も仁斎も同じ穴の狢ということになってしまうのです。
 けれどもそのように宋儒と仁斎を同一視してしまうと、仁斎思想の特長、つまり普通の人々が日常的な交流を通して実践している「よきこと」のうちにこそ人倫の本質が宿っているという考え方に目がいかなくなってしまいます。仁斎はそういう仕方で朱子学の観念性を批判したのでした。
 両者の批判の仕方の違いには、仁斎が町人出身であり、徂徠が武家出身であったという出自の違いも反映しているでしょう。

 さて徂徠は、百姓(民)というものは愚かであると口癖のように言っており、一方でその民に平安をもたらすことこそ「仁」なのだとも言っています。矛盾しているではないかと思われる人もいるでしょう。
 でもけっして矛盾ではありません。これは現在でも「知識人と大衆」とか「政治エリートと大衆」といったテーマとして、最大の思想的課題なのです。
 一人一人の庶民は、それぞれの持ち場(家庭や職場)を大切にして一生懸命生きている限り、少しも愚かではありません。むしろバカな知識人などよりよっぽど賢い。しかし彼らが衆として社会の表面に現れ、何かに煽られたり洗脳されたりして政治に対してことばを発し行動し始めるや否や、「愚民」と化すのです。
 私たちが住む民主主義社会こそまさにそうした現象を際立たせて見せる社会です。
 政治は「観念」ですから、観念がいくらかでもマシなものとなるためには、広い視野と考えぬくだけの能力と余裕が必要とされます。庶民にそれを要求することは無理な話で、それをやると、たいていは安易なイデオロギーの釣り針に引っかかって吊り上げられ、バカな知識人や政治家と同じことになります。
 徂徠はこのことを見抜いていたのでした。矛盾しているではないかと詰問されたら、彼はきっとこう答えたでしょう――「民に仁を施すは君子の使命なり。然るに我、民を君子にせんと試みたることひとたびもなし。けだし民は小人のままにてその本分を尽くしたるが故なり。」