小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

福沢は完璧な表券主義者だった・その2

2018年04月07日 12時58分35秒 | 思想


福沢は、開国以降、国際的取引では金銀が本位通貨となるので、紙幣の発行に関して警戒すべきことを、実例を挙げて示しています。
まず国内での物価高は、不換紙幣の名目として高くなっているだけで、金銀との関係では、逆に低いこともありうると注意を促します。
もしそういう時期に輸出をすると、その輸出品は、より少ない量の金銀としか交換できないので、それで得た金銀は、国内で紙幣と両替すれば、値打ちの低い物品と同じということになります。
つまり損をしてしまうわけです。
現在の為替変動相場制における円高期(少ない額のドルとしか交換できない時期)の輸出と似ていますね。

福沢は、幕末期にこういうことになったのは、わが国で紙幣と同じ名目価値しか持たない一分銀を通用させ、金と銀との実質的な割合についておろそかだったからだと指摘します。
その上で、これを防ぐには、万国普通の相場に従って(つまり欧米の基準に合わせて)金と銀との価値の比率を定め、その貨幣の名目に準じて紙幣を発行するしかないという提案をします。
癪な話ではあるが、開国してしまった以上、通貨問題は国際標準に合わせざるを得ないというわけですね。

さらに彼は、国内での通貨の安定を保つ方法にも言及しています。
紙幣と同時に少し金貨銀貨を混ぜて通用させ、これを通用の目安とします。
そして絶えず通貨量に対する監視とコントロールを怠らないようにします。
金銀の一円と紙幣の一円とがだいたい同様に通用している時には通用している紙幣量は適切であると判断し、紙幣の相場が金銀に比べて下落した時には、紙幣過多とみて回収するというのです。
この場合、金銀は、物価の代表を意味することになり、ただの商品として扱われていることになります。
これは当時のインフレ対策としては、卓抜に思えます。

前回、福沢が金本位制度を飛び越して、現在は当然とされている管理通貨制度の考え方を先取りしていたと書きました。
ここで本位貨幣制度と管理通貨制度の違いについて簡単に説明を加えておきましょう。

金本位制とは、一国の金の保有量に従って通貨量を決める制度で、商品価値もこれによって決まります。
本来は金を通貨として流通させる建前ですが、実際には一国の経済活動にとって金の量が十分とは限らないので、金と交換可能な兌換紙幣や補助貨幣を発行して間に合わせる形を取ります。
そのため政府は常に相当量の金を準備しておかなくてはなりません。
それが政府に対する国民の信用を保証するからです。
紙幣は国際的には通用しませんから、国際取引は普通、金で行われます。
すると、金の保有高の多少が一国の経済力にとって決定的となり、それによって物価は常に不安定にさらされます。
稀少にしか存在しない金の争奪戦も起きます。
先に述べた金属主義とは、こうした貴金属に価値決定の基準を置く考え方で、人々の経済的価値観は、金銀という具体的な「モノ」に依存することになります。
どの国もずっと昔からこの社会心理に支配されてきましたが、これは、貨幣というものの本質(借用証書または預かり手形)を理解しない間違ったあり方です。
経済学者のケインズは、福沢がこの論考を書いてから約50年後に、金本位制復活を唱えたチャーチルを批判して、「金本位制度は未開の遺物だ」とようやく喝破しました。

これに対して、管理通貨制度は、「モノ」の保有にいっさい依存せず、通貨当局(政府及び中央銀行)が、物価、経済成長率、雇用状態、国際収支など、自国の経済情勢を常ににらみながら、それに応じて通貨の発行量を決める制度です。
この制度は、貨幣価値が貴金属などの「モノ」に拘束されるのではなく、経済活動をする人々(政府も含む)の相互信用にかかっているという考え(表券主義)を徹底させたものです。
この制度では、原則として通貨当局はいくらでも通貨を発行できます。
国民が政府・中央銀行を大筋で信用し、政府・中央銀行が極端なバカ政策に走らない限り、この制度が揺らぐことはありません。
つまりこれは、貨幣価値の源は「モノ」に宿るのではなく、人間どうしの関係のあり方に宿っているという正しい経済哲学が基本になっています。

福沢は、管理通貨制度の原理を周囲に先駆けて展開していたばかりではありません。
本当は金準備は必要ないのだが、長きにわたる習慣からくる民衆の人情を忖度すれば、若干の金準備は必要だとまでことわっているのです。
そのフォローの手厚さには舌を巻かざるを得ません。

こういう考え方を当時の政府の財政事情の苦しさに鑑みて、楽観主義と批判する経済学者もいるようですが、楽観主義かそうでないかといった政策論的な批評は問題になりません。
福沢がここでなしていることは、通貨とこれを管理する政府との関係に関する「原理」の展開であり、それゆえ、普遍的に当てはまる理論なのです。少し長くなりますが、ここはぜひ原文を味わっていただきましょう。

《かくのごとく内外の事情に注意して、紙幣と金銀貨との間に大なる差もなくしていよいよ安心の点にあれば、準備金はほとんど不用のものなり。元来通貨の行わるるゆえんは、前にも言えるごとく、開けたる世の中に欠くべらざるの効能あるによってしかるものなれば、今世間の商売に定めて入用なる数の紙幣を発行するときは、その通用は準備の有無に関係あるべからず。》

《しかりといえども、余は初めにほとんど不用なりと言えり。このほとんどの字は、ことさらにこれを用いたるものなれば、等閑に看過すべからず。準備の正金は、経済論において事実不用なれども、いかんせん今の不文なる通俗世界においては、千百年来理屈にかかわらずして金銀を重んずるの習慣を成し、ただ黄白の色を見て笑みを含むの人情なれば、いかなる政府にても、紙幣を発行して絶えて引き替えをなさざるのみならず、公然と布告して政府の金庫には一片の正金なし、この紙幣は百年も千年も金銀に替えることあるべからずと言わば、人民は必ず狼狽して、事実入用の紙幣を厄介のごとくに思い、様々にこれを用いんとして無用の品物を買入れ、物価これがために沸騰して紙幣もいわれなく地に落つることあるべし。これを西洋の言葉にてパニクと言う。根も無きことに驚き騒ぐという義にして、はなはだ恐るべき変動なり。ゆえに愚民の心を慰むる為には多少の準備金なかるべからず。これ即ちそのほとんど不用にして全く不用ならざる由縁なり。》

 このほかに準備金が必要なケースとして、福沢は、不時の災害や飢饉、戦争などのために物資が不足して輸入に頼らなければならない時を挙げています。
結局、政府が金銀をいくらか準備しておく必要は、①紙幣発行額の目安として市場に少し混入させるため、②金属主義に取りつかれた「愚民」の不安を鎮めるため、③不時の異変に遭遇した時の輸入のため、の三つということになります。

完全な管理通貨制度が定着している現在では、①は主として日銀の公開市場操作(公債の売り買いによる金利の調整)、②は不要、③は外貨(ドル)準備残高の維持によってそれぞれ保障されているわけです。
この段階では、金銀などの貴金属は、貨幣としての特権的地位を保てず、ただの「商品」に下落しています。

こうして、140年も前の日本で、経済の専門家でもない一人の思想家が、貨幣の本質と妥当な通貨制度のあり方について、ここまで考えていたのです。福沢は、経済に関しては、おそらくアダム・スミスとJ・S・ミルくらいしか読んでいなかったでしょう。
しかもこの二人はいずれも金属主義者でした。
「経済学」など学ばなくても、社会を正確に見る目さえあれば、経済についてこれだけのことができるのです。
まことに心強い限りではありませんか。