小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「同姓制度は合憲」判決について(その2)

2015年12月19日 16時29分13秒 | 社会評論

      





Ⅱ.別姓問題の世論調査は人々の心をつかんでいるか

 さて、この判決が出た12月16日の夕刻、NHKラジオがこの問題を取り上げていました。早稲田大学法科大学院教授の何とか言う人が、この判決に対する不満を述べ立てていましたが、NHKは、公正中立を装いながら、なぜ判決支持者のゲストも呼ばないのか。例によって、得意の偏向企画です。
 それはともかく、もっと大事なのは、NHKが夫婦別姓に賛成か反対かについて行った最近の世論調査の結果によると、反対51%、賛成49%で拮抗していると報じていた点です。世代別では、年長者に反対が多く、若い人には賛成が多かったとも。
 この報道のどこが問題かと言うと、これは少しも「拮抗」を示しているのではないということです。というのは、「賛成」と答えた人の中には、「選択制なら一般的には容認してもいい」と考えて票を投じた人が少なからずいたに違いないからです。私は何年も前に、朝日新聞が「別姓賛成が反対を上回る」という見出しのもとに、狡猾な世論操作を行っているのを批判したことがありますので、そのことがよくわかるのです。
 今回の場合は、賛成者の内情がよくわかりませんから、NHKも朝日と同じような世論操作を行っていたとは思いませんが、賛成者の中に、「制度としての選択制なら容認してもいい」と考えた人が多くいたことは確実に思われます。何を言いたいかと言うと、この人たち(特に未婚の若い人たち)が、「ではあなたは別姓を選びますか」と問われたら、おそらく「私は同姓にするでしょうね」とか、「うーん、ちょっと考えちゃいますね」とか答える人が大多数を占めるだろうということです。確信的に「私は別姓にします」という人などほとんどいないのではないでしょうか。また、そう答えた人でも、仮に結婚時に選択的別姓制度が許されていたとして、実際に結婚する段になれば、相手と相談しながら親の意向、周囲の目、子どもの問題など、いろいろなことを顧慮しなくてはなりませんから、本当に踏み切るかどうか怪しいものだと私は思っています。
 つまり、一般的にある法制度を容認できるかどうかという問題と、自分がそれを選ぶかどうかという問題とはまったく別だということです。だから調査として公正を期すなら、法制度として否認するか容認するかを問うと同時に、「別姓が容認されていたらあなたの生き方としてどうするか」という問いを付け加えなければ意味がないのです。婚姻は当の両性の合意に基づいて成立するのですから。
 ある問題提起に賛成か反対かを表明する時に、その問題がさしあたり自分の人生や生活に切実な影響を与えないなら、多くの人々は、冷静さや公正さを気取りたがって、深く考えもせずに無責任な一票を投ずるものです。
 ところで、次のような話はよく聞くところです。好きになった相手の姓を名乗ることで、その人との一体感を実感できるし、また実家からの自立を確認できる。ああ、自分は人生の重要な一歩を踏み出したんだなあ、という感慨が得られる、と。つまりこの場合は、アイデンティティの変容が、かえって女性としての成熟へ向かっての歩みを意味するわけです。
 こうしたところに、日本近代が定着させた独特な国民性があらわれているので、その国民性とは、エロスの結びつき、またそこから生まれてくる家族関係というものの重要性に対する深い感知力ではないかと思います。同姓制度は、日本近代が定着させた独特な国民性にもとづくと書きましたが、もしかすると、法的制度的表現としては現れなかったものの、この感知力の深さは、情緒を重んじるわが国の、ずっと古くからの伝統だったのかもしれません。そういえば、古代神話もイザナキ、イザナミの二柱の神による出産を国造りの重要なメタファーとしていますね。
 こういう情緒的な感知力の部分に探りを入れずに、ただ一般的に「賛成か、反対か」と問うようなデジタル式世論調査の方法は、人々の心に迫りえていないというべきでしょう。
 もともと別姓問題は、ごく少数の政治的意図を持った人たち(主としてフェミニスト)が主張して社会問題として提起されるに至ったもので、それまでは普通の人々(女性)はこんな問題にそれほど関心を持っていませんでした。いまでも大して持っていないでしょう。別姓論者たちは、日本の社会常識に簡単には受け入れられないと見るや、すぐに西洋の例などを持ち出して、マスコミや司法を動かし、問題を大げさに仕立て上げます。世論調査の結果は、そうして提起された「問題」に、ただ受動的に反応しただけだと言えます。別に西洋など見習う必要はなく(別の問題では見習う点ももちろんありますが)、特に問題がないなら、日本は日本なりの慣習を続ければよいのです。

Ⅲ.判決に反対した最高裁判事は、論理的におかしい

 最後になりましたが、じつは今回、一番指摘したかったのは、この点です。
 このたびの判決では、裁判官15人のうち、女性3人を含む5人が同姓制度合憲の判決に反対の立場を示し、3人の女性裁判官が反対意見を述べました。産経新聞12月17日付によりますと、その意見は次のようになっています。

 一方、反対意見を述べた3人の女性裁判官は、婚姻した夫婦の96%が夫の姓を名乗る現状を問題視。「女性の社会的経済的立場の弱さなどがあり、意思決定の過程に現実的な不平等がある」と言及した。

 これは司法判断として、論理的に間違っています。先にも述べたように、96%が夫の姓を名乗ることそのものは、憲法第24条の「婚姻は両性の合意のみに基づく」という規定に叶うものであって、それ自体、何ら「現実的な不平等」を表すものではありません。夫が妻に「俺の姓を名乗れ」と強要したものではないからです。両性の合意の結果、自然と(これまでの慣習によって)そうなっているのです。ですから、これは合憲以外の何ものでもありません。ちなみに私自身は、この24条は、憲法としては国民の私生活に踏み込んでいるという意味で、近代法の精神に適合せず、よって不要であると考えていますが。
 違憲立法審査は、特定事案が違憲か合憲かをめぐって行われます。この裁判は、夫婦同姓制度(のみ)がその事案に当たるのであって、現実に何%が夫の姓を名乗っているか妻の姓を名乗っているかは司法判断として問題にならないはずです。当判決に反対したということは、とりもなおさずこの3人の裁判官は、同姓制度そのものを違憲と考えているということになります。
 ところでその理由として、96%の現状を問題視してそこに女性の社会的経済的立場の弱さの存在を持ち出しているということは、違憲判断とは関係のない現状批判を行ったわけです。これは違憲立法審査権を著しく逸脱しています。
「女性の社会的経済的立場の弱さ」が、96%の現状に反映していることを証明するためには、現に「これこれの立場の弱さのために私たちは不本意にも夫の姓を名乗ることになった」という一定の声が存在するのでなくてはなりません。しかしそんな声が上がったことがあるでしょうか。現実社会に存在する「女性の社会的経済的立場の弱さ」(とは抽象的であいまいな表現ですが)と、大部分の女性が夫方の姓を名乗ることとの間には、論理的な因果関係は認められません。稼ぎや地位が夫より高くても、夫方の姓を名乗る女性はいくらでもいるからです。
 ところで、ここから先は私の想像が混じりますが、こうした反対意見を述べる人たちは、たとえば先に国会を通過した安保法制に対しても反対意見を抱いているとみてまず間違いないでしょう。しかし、あの時、ほとんどの憲法学者は、安保法制(集団的自衛権の容認を含む)に対して違憲であるとの判断を下しました。私もあれは違憲であると思っていますが(だから憲法の方を変えるべきなのですが)、憲法学者・小林節氏がいみじくも述べたように、憲法学者は、現行憲法の条文と立法事案との間に齟齬がないかどうかを純学問的に判断するのみであって、現在の国政に関わる政治判断を含むものではないはずです(もっとも小林氏はかつて護憲派ではなかったと記憶しておりますが、いつの間に「節」を曲げたのか、その風見鶏的な姿勢には疑問を感じざるを得ません)。
 しかし現実にはその判断は、背後に左翼思想を背負っているので、政治判断に大きな影響力を及ぼします。けれどもこれは司法の独立性の観点からは、あってはならないことなのです。
 このたびの女性裁判官の反対意見は、司法の立場にありながら、そのあってはならないことをやっているのです。なぜならば、夫婦同姓制度が合憲か違憲かどうかを争う裁判に、論理的な脈絡のないあいまいな現状認識を持ち込んでいるからです。ここには、この裁判官たちが、当然の法理に従わず、特定のイデオロギー(フェミニズム・イデオロギー)に左右されている実態があらわです。彼女たちは、司法の独立性を貫いていないのです。今後、国民審査の機会が訪れた際に、この裁判官たちに×をつけることにしましょう。



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