小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

こんな無意味・有害なことやめろ(3)

2013年11月10日 12時45分40秒 | 社会評論

こんな無意味・有害なことやめろ(3)



公立高校での英語による英語授業



 今年度から、文科省の新学習指導要領にのっとり、公立高校での英語授業をオール・イングリッシュで行うことになったそうです。
 この問題は、すでに2008年くらいからその是非が論じられてきたようですが、議論生煮えのまま、ついに実施に踏み切ったというわけです。
 議論参加者たちの言い分をいくつか読んでみましたが、総じて、賛同派も反対派も慎重派も、それぞれにもっともな部分はあるものの、ことの本質がいまいち見えていないように思われます。もとより私はこんなアイデアに大反対なので、このアイデアの無意味・有害さがどこにあるかを「本質的に」指摘することになります。
 議論参加者は、英語教育に多少ともかかわりのある人が多い。そうすると、どうしても議論の基本の枠組みそのものが、これまでの日本の英語教育の「使い物にならなさ」をどうするかという方向に大きく規定されてしまいます。たしかに日本の英語公教育は、6年から8年やっても、国際舞台でほとんど使い物にならないという事実は、これまで何度も指摘されてきました。しかし、この問題を英語教育をどうすべきかという方法論的な方向性で考えることそのものが、本質を見えなくさせている元なのです。
 たとえばある人は、受験英語で文法知識などに偏った教育が行われてきたので、使い物にならなかった、だから日常的に使われる英語や英語文化に親しませることが重要なのだ、英語文化圏以外の諸外国でも、英語で授業をすることは今日当たり前になっていると言います。(1)
 別の人は、いやいや、きちんとした文法知識を身につけてこそ応用が利くのだから、いい加減な会話重視などに走って文法をおろそかにすることは、かえって本当の実力を身につけることにならないと言います。(2)
 また別の人は、こうした教育方法の二元論に対して、そもそも公立校のごく限られた時間数で英語を使いこなせるようになると考える方がどうかしているので、そんなことを期待すること自体が虚しいのだと言います。(3)
 またまた別の人は、いったい、いまの日本人英語教師の中で、英語によるコミュニケーションが自在にできる人がどれだけいるというのか、まして、日本語でさえ英語の文法規則やシンタックスを教えるのがむずかしいのに、それを英語で理解させようとしてもできるわけがないと言います。(4)
 またまたまた別の人は、英語が国際通用語になっている事実は認めざるを得ないが、何もその事実に踊らされて英語早期教育、会話教育などに軽薄にシフトする必要はない、その前に、しっかりと国語教育を施すことのほうがはるかに大事なのだ、と言います。(5)
 だいたいこれで議論は出尽くしたでしょうかね。私自身の感じからすると、この中で比較的説得力があるのは、まあ、(3)と(4)でしょうか。しかし、これらはいわば「あきらめ論」なので、じゃあ、どうすればいいのだという反問に答えなくてはなりません。それについては、私なりの答え方を用意していますが、それは、この問題に対する自分の基本姿勢を述べたあとにしたいと思います。ちょっとニヒリスティックに聞こえると思いますが、じつはきわめて現実主義的であって、建設的です。もったいぶっていてごめんなさい。
(3)と(4)にしても、先述のように、英語教育方法論の内部で話をしているので、公立校の英語教育現場実態の指摘としては当を得ていても、そこから先、いまの教育現場全体の実態に対する視野の広さと感受性、人間論的なものの見方が不足しています。そのために、ここで議論を終わらせずに、もう少しその先まで進める必要があるのです。
 
 さて議論を先に進めるには、次の二つの前提をぜひとも皆さんと共有しなくてはなりません。この前提を共有できない人は、先をお読みにならなくて結構です。
①人間にはもともとはなはだしい能力格差があり、ほぼ全員入学が果たされている現在の高校では、この能力格差が学校間格差として歴然と反映する。
②近代の成立・発展とともに浸透していった「学校」制度は、かつて出世・成功のための唯一の「聖なる物語」を提供してくれたが、この物語は、近代の完成とともに色あせ、現在では子どもに対して、そこに通うための内からのモチベーションを提供してくれない。 

 後者の点については、精神科医・滝川一廣氏の近著『学校へ行く意味・休む意味』(日本図書センター)、また、評論家・由紀草一氏のブログ「一読三陳」(http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011)がとても参考になります。
 ①についてですが、これは誰もが知っている当たり前の事実なのに、公式的にはけっして明示されたためしがありません。まあ、文科省や教育委員会や日教組がこういうことを露骨に言うわけにはいかないのはある程度まではわかります。公立教育はなんてったって「平等」がたてまえで、生徒の能力や学力に雲泥の差があることを公然と認めることは戦後教育のタブーになっていますからね。でもはっきり言ってバカみたい。
 ちなみにこのたび報道された自民党の教育再生実行本部の第2次提言案には、遠回しにではありますが、この当たり前の事実をきちんと踏まえようとした形跡が認められます。「飛び級、高校早期卒業、学び直し」という項目がそれです(産経新聞5月17日付)。明言すれば、これは、優秀な生徒にはどんどん英才教育を施し、できない生徒には昔で言う「落第」を甘受してもらうということです。「小・中の区切りを柔軟に決められる小中一貫校制度の創設」というのも、考え方によっては、同じ含みがあると言えます。四・四・四制(あるいは五・四・四制)の提唱も含めて、私はこの自民党案を支持します。とはいえ戦後教育論には「バカの壁」が幅を利かせていますので、実現はなかなか難しいでしょうな。
 それはともかく、むしろいちばん問題なのは、「英語の授業を英語で」という提案に対してその是非を論じる識者たちの議論がこの当たり前の事実に触れようとしない点です。彼らは公務員のように窮屈な枷をはめられているわけではなく、自由な言論を駆使できる立場にいるはずです。それなのに、この点に言い及ぼうとしないのは、そういう現実感覚をはじめから持っていないか、あるいは教育の「戦後レジーム」にマインドコントロールされているために、無意識のうちに自ら口に戸を立てているかどちらかなのでしょうね。
 思うに、そもそも英語教育のあるべき姿などを論じることができる論者たち自身がエリートに決まっているので、自分がこれまで社会から得てきた評価の中にすっかり取り込まれていて、そのために自分の身辺で問題にされている議論のあり方が一般的・普遍的な意味を持つと勘違いしてしまうのでしょう。エリート集団の中で活躍しているうち、いつしか、この世にはできない子がわんさかいるという実態に想像力が及ばなくなるのです。こういう論者には、一度でいいですから、底辺校や私塾に通ってくるできない子たちとの接触体験を持ってほしいものです。経験を笠に着るのは本意ではないですが、はばかりながら私は永年小さな塾を経営してきた経験があるので、浮き上がった議論に対しては、「おいおい、それは一般の子どもの生活実感と乖離しているよ」とすぐ言いたくなるのですね。
 先ごろ、大学のレベル低下、大学が就職の通過点としかみなされていない現状を憂えて、「大学に古典教育の復活を」などという議論が論壇の一部を賑わせたようですが、こういう議論がいまの大衆化した大学一般に当てはまると考えたら大間違い。いま大学は、ブランドさえ選ばなければ誰でもどこかに入学できて就学率が6割近くです。平均レベルが下がるのは当たり前で、平均的な学生諸君が、大学に行っておいた方が後々少しでも有利だろうし青春できるから楽しそうだし経済が許すならまあ通っておこうと考えるのも当然です。「学問の府」なんて、ほんの一握りでたくさんなんですよ。ですから、この種の議論がいくらかでも効力を持つのは、一部のエリート大学関係者の範囲内だけです。まずこの当たり前を認めて、どういう大学ならこの種の議論が適用できるのかを見定めたうえで論じてほしいものです。
 さてこうした大衆平等主義社会の現状を、いまの公立高校の教育現場の実態の中に探ってみると(わざわざ探るまでもないのですが)、いわゆる「高校教育」を受けるに値しない生徒がごろごろいます。ことに英語や数学に関してはこの事態は歴然としていて、中学校時代から授業についていけなくなったまま高校に上がるので、レベルの低い高校ではアルファベットや四則計算などの基礎からやり直し。最近ある底辺校の先生から聞いた話では、bとdの書き分けもできないそうです。公教育における英語の授業はどうあるべきか、などの純粋方法論に耽っている人たち、こういう生徒を教えなくてはならない先生の苦労がわかりますか?
 英語授業を英語でできる教師がいるかいないかも問題ですが、まずその前に、そんなことをしてついてこれる(ついてくる気のある)生徒がそもそもどれくらいいるのかが問題です。だって、教育は本質的に受け手がそれによって恩恵を感じられることを目指したサービス業ですよ。お金の使い方を知らない子にお金を与えたって喜ぶはずがないのと同じで、英語でコミュニケーションするためには、受け取る方が基礎英語を理解していなければサービスを享受できないでしょう。
 しかし、悲しいかな、公立校というのは、平等主義の建前に縛られていますから、「わかる子のいる学校に限って英語で授業」というような差別化をはっきり打ち出すわけにはいかないのですね。なのにグローバリゼーションの大波にさらされて、日本人の英語能力はダメだ、ダメだと周囲から脅迫されているので、文科省は血迷ったあげくにこんな珍策を思いついたという次第。
 ざっくり言って、偏差値50以下の高校で、こんな珍策が実行できるはずがないでしょうな。ですから実際には、売春防止法と同じで、「ザル指導要領」ということになるに決まっています。
 そこで先に述べた②「学校の聖性の終わり」という前提が絡んできます。
 近代学校制度は、徴兵制と同じく、中央集権的近代国家の国民としての意思統一をはかるために強力に推進されました。これは、我が国における産業資本主義の発展過程に見合っていました。国民全員に共通の教育を施して「読み書きそろばん」の能力獲得を徹底させる。時間はかかりましたが、この目標は、戦前においてほぼ達成されたと言えます。戦後、新制高校への進学率はうなぎのぼりに高まり、1970年代に9割を超えます。高校準義務教育化が達成されたというわけですね。
 さて皮肉なことに、このころからほどなくして、不登校、いじめ、校内暴力、細かすぎる校則、学級運営の困難などの現象が目立ってきます。最近ではモンスター・ペアレンツなども騒がれましたね。それぞれの問題にはそれぞれの要因があり、一概にひと括りにはできないのですが、こうした学校現象が目立ってくる根底には、近代学校の目標が達成され、豊かな社会が実現されたために、多くのふつうの子どもたちにとって「学ぶ意味」を体で納得することができなくなったという先進国共通の問題が横たわっています。インセンティヴの喪失ですね。
 英語教育も例外ではありません。現代社会の要求として、義務教育レベルの基礎的な英語能力を習得するという条件は、だれにとってもまあ満たすに越したことはないのですが、いくらグローバリゼーションが進んだからと言って、マジョリティの日本人にとって、それ以上の高度な英語能力が必要かと言えば、首をかしげざるを得ません。職業にかかわるかぎりで、また国際競争に負けない限りで、必要に応じて学んでいけばいい問題でしょう。何よりも、学ぶ気のない子どもたち、外国語などが苦手な子どもたち自身に、どうすればインセンティヴを植え付けたらよいのかが、最も重要なハードルなのです。「これからは英語ができなくちゃだめだ!」といくら尻を叩いても、子どもたちがその必要性を深く納得するのでなければ、効果は望めません。
 bとdが書き分けられない高校生(まあ、これは極端な例でしょうが)に、彼にとってどういう意味があるのかを納得させられないまま、英語を学べ、学べと尻を叩くことは、教える側にとっても教えられる側にとってもまさに「苦役」にほかなりません。
 一般的に言って、日本人が英語習得を苦手とするのには、この問題以外に二つの要因が考えられます。ひとつは、欧米語と日本語とでは、文法構造がまったく異なること(中国語のほうがはるかに欧米語に近いですね)、もう一つは、日本は島国のせいもあって、長い間、生活や文化面での固有の伝統を維持してきたため、きわめて内部的な同一性の高い国民であること。
 いまでも国内でふつうに暮らしていれば、英語を話す能力なんて、そんなに必需品にはなりませんよね。必要がある人、語学が好きな人、世界に羽ばたきたい人は大いに勉強すればよいので、民間にはその機会もふんだんに用意されているはずです。無理をしてまで馬に水を飲ませるのは、やめた方がいいでしょう。
 しかしそうは言っても、義務教育のシステムが実質的に高校レベルにまで高まってしまった今日、この「学ぶ機会の平等性」をひっくり返すわけにもいきません。英語を学ばせない子どもを強制的に作ることはできませんね。ではどうすればよいか。
 これについては、すでに私自身、15年も前に一つのアイデアを出したことがあります(『子どもは親が教育しろ!』草思社・現在でも入手可能)。

 ちなみに、自慢のように聞こえるかもしれませんが、四・四・四制(あるいは五・四・四制)も、「落第制」の復活(これはネガティヴな意味で、すごく勉強へのインセンティヴになりますよ)も、この本で提唱しています。
 要するにことは簡単で、成熟社会では、学ぶ意味の喪失感とそこから生じる倦怠とをできるだけ取り除くために、高校教育にもっと多様性を盛り込めばよいのです。みんなが年限を規定されて同じことを一斉に教わる普通高校に通うのではなく、基礎教育としての共通部分を残しつつ、何を重視した学校か、それぞれが旗印を鮮明に打ち出す。語学、福祉、IT、科学、文化芸術、商業、工業、農業、一般教養その他。中学生は親とじっくり相談しながら、自分が得意と思える分野を選ぶ。こうすれば、語学の得意な子はますますその能力を伸ばせるし、苦手な子は「苦役」を忍ばなくてすみます。
 まだ幼いですから、この年齢から教育を職業選択に結びつけるのは早すぎるという意見があるでしょうね。もっともです。そこで、選択を誤ったと思った場合のために、敗者復活の機会もじゅうぶん用意しておく。平均寿命も延びて先はまだまだ長い。急ぐ必要はありません。その意味でも高校三年は短すぎます。
 いかがでしょうか。横並び一斉競争の時代はとっくに終わっています。これからの親御さんは、自分の子どもは何に向いているのか、何には向いていないのかをよくよく見抜く必要があります。そうしてそれにふさわしい助言と支援をしていく必要があります。抽象的な学力競争に子どもを駆り立てるべきではありません。もちろん、学力優秀な子には競争させてかまわないのですが。

 また、教育行政は、こういう多様性を許容するようなシステムをきちんと整えるのでなくてはなりません。それにつけても、教育関係者が、子どもの能力・学力にはたいへんな格差がある、という事実をまず直視することが前提です。
 ご一考ください。





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2 コメント

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「英語」「英語」の昨今ですね (ランピアン)
2014-03-24 23:47:03
学校制度の、ことに公教育の実態を踏まえない教育論が不毛であることは、小浜先生の年来の主張ですが、ことに英語教育に関しては、実情を無視した議論がまかり通る傾向が著しいですね。

「できない生徒」の問題はむろんご指摘のとおりですが、そもそも教授法を少々いじったところで、日本人の英語のレベルが急上昇するとは思えませんね。

日常生活で英語を喋る機会が少ないことに加え、外国人と相対しても「変な英語と笑われたら」という心配が先に立って、思い切って会話できないというのが実際のところではないでしょうか。

そういう意味では、よく書店で見かける「日本人の英語のここがダメ」とか「ネイティブはそんな英語は話しません」とかいった類のお節介な商法は、止めさせたほうがいいのではないかと思います。余計に喋れなくなりますから(笑)。

私にも来年大学受験の息子がおります。メディアで「これからのビジネスには英語が必要」などと聞かされると、「英会話でも習わせたほうが…」と考えたこともありましたが、結局は本人の意志の問題で、必要なら自分でやるだろうと割り切りました。

こうした教育現場の混乱を考えると、やはり教育の複線化以外に解決策はないと強く感じます。

私自身、息子が中学校あたりで「料理人になりたい」とでも言ってくれれば、どんなに気が楽だったかと思うのですが、結局本人にも将来の希望らしいものはなく、大学へでも行くしかない状態になっております(笑)。
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ランピアンさんへ (kohamaitsuo)
2014-03-26 22:39:41
いつも、誠実なコメント、ありがとうございます。

おっしゃる通りで、公教育での英語教授法をいじったくらいで日本人の英語力が向上するとは思えません。

必要は発明の母と言いますね。英語に限らず、言葉の習得は、本人がある生活環境の中で生きていかざるを得ないという条件を身に染みて感得した時に初めてそのモチベーションが立ち上がります。中卒のすし職人がロスで寿司屋を経営しなくてはならなくなったら、いやでも英語をマスターするでしょう。

英語とITは、もう長い間、日本人の強迫観念になっていますね。何でも欧米先進国に向かって開かれることはいいことだ、みたいな近代以来のコンプレックスから、もう少し自由になるといいと思います。異文化に対しては必要に応じて適当に付き合っておけばよい、といった余裕の構えがそろそろほしいものです。
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