天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

高市早苗議員に諫言する

2022-06-26 20:32:42 | エッセイ

山谷えり子議院候補と、いささか縁の会うものです。候補の、日本国の家族への家族、ひいては、伝統、文化の継承に、そしてそれを下支えする、日本国の安心・安全を守る戦いに、つよく共感します。
友人に頼み込んで、繁忙交差点近くに、看板立てました。
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私は、今、自民党安倍晋三氏に近い、山谷えり子議員候補の応援をしています。
そうです。あなたの総裁選の、最初の推薦者になられた方です。
当時、私は入院中でしたが、長年雌伏されていた、あなたが、止むもやめられない、ご自身の真情で、総裁選に出馬されたことをよく覚えています。
当時、私は年相応に保守になりはしましたが、小選挙区制度のもとで、地方区のほとんどの自民党議員が世襲制になり、政策論議も、相互競争もない、自民党の腐った政治状況に絶望していました。
典型的な世襲候補、河野候補、岸田候補は別にして、自己の政治理念として、国家、国民をまずおもい、出馬を決めた、あなたの決断は見事であり、このジジイも体が震えるような思いをしたことも、また、事実です。
その後、岸田文雄内閣の、総務会長に就任され、広範な知識と、当為即妙の受け答え、優れた視点で、敵対的な相手ですら、総務会長として、やりこめる、あなたの雄姿をよく覚えています。
岸田内閣はどれほど、あなたの恩恵を受けたことでしょう。
 
男の嫉妬は醜いので、あの男は、決してそれを認めませんが。裏で、自己の矮小感や、安倍晋三氏に対する、劣等感を、噛み締めている筈です。

しかしながら、人間、常時、無謬な存在であることはできません。
先の、れいわ新選組との、対談で、見ている方々が失望したのは、次のことだと私は思います。
れいわ新選組の、山本太郎は、腰の据わらない、何を考えているかわからない男ですが、彼が、最初から一度も外さなかったのは、消費税の廃止という、政策です。
これは、ごもっともな政策で、デフレ不況下に、消費税増税をすればどうなるか、前の民主党政権は、明らかに劣等の政権でしたが、無思考で、財政の健全化のため、消費税を引き上げたい、と、財務省の性悪官僚と組んでやっていました。
それが、安倍政権になって、引き上げを、してしまったのは、アベノミクスという経済政策の汚点だと思います。
野田某というあの男が、あまりに政治的にダメだったので、あっさり、引き上げは、国会をとおりましたが、これは失敗でした。
デフレは続き、まともな経済学者は、減税と、経済政策を提案しましたが、そんな気は毛頭ない腐った財務省官僚は(いわば新自由主義の自分の出世のために)、国民のために何もしませんでした。
その中で、日本国のデフレは、いよいよ病状が悪化していったばかりです。

しかしながら、現在の、日本国の大多数大衆は、自分たちで、ちゃんと勉強して、消費税はデフレ時に、景気浮揚の足かせになり、いかに危険な税制か、という正しい、認識を身につけた、訳です。
国外でも、シンガポールなど同様の政策を採ったはずです。
何度も言いますが、代表の山本太郎は、消費税廃止政策を除けば、自分の出自も明らかにせず、電波な反日政策を言い出すやら、訳の分からない男です。そんな、男が代表を務める政党がまともなはずはない。
しかし、消費税は、廃止すべきである。
それが、景気回復と、自己の経済的向上(派遣からフルタイムへ、できなければ賃金上昇を)を目指す、国民の真実の叫びなのです。
凡庸で、浅薄な岸田にその理屈がわかるとは、とても思えない。
怜悧で、思考能力がある、あなたに、その理論を、国民の悲鳴を、理解して欲しい、と思います。

また、ご承知おきのことかも知れませんが、税は財源にはなりません。
国税は、財源を確保するため国家が課するものではない。
もともと、あんな、しょぼい金では、何もできない。「財源はどうするんだ」という理屈で、今まで、財務省は、国民も、政治家もだましてきた。
必要な時でも、出すものは、舌も出さない、という、うちの妻のように、バカな政策で、新自由主義者(アメリカの経済学者の主流、さすがに現在は駆逐されつつあるらしい。)たちは、すべき時に何もしなかった(国家及び国民に対する背信行為ですね。)。そうすれば、出世できるそうです。
国家の政策をまともに実現するなら、じゃぶじゃぶ、起債して財源を確保すべきです。
経済産業省には、世界に誇れる、経済学者、中野剛志氏がいるではありませんか、彼の説明を、一度も聞かなかったというのであれば、随分な話です。殊に、「富国と強兵」は、政治家必読の書です。

ここは、長年、財務省が国民及び政治家をだましてきました。そのことにより、利得を得た政治家はいくらもいますが。
経営学部出身のあなたには、釈迦に説法かもしれません。
今後の、防衛費と一緒で、起債で、景気浮揚と、イノベーションを惹起し(私は悲しい法学部出身です。)、日本国民の安心安全と何より未来への投資のために、じゃぶじゃぶと、使いましょう。国家の秩序安定を阻害する、未熟練の、移民を受け入れるよりよっぽど、いい。
消費税、無期限停止は、立派な経済政策です。
それこそ、世界の詐術、フレームアップコロナのために、岸田首相のように、外国ワクチンを購入するより、よっほど、いい。
誰にも文句も言わせない。
きちんと、投資後は、日本国に社会資本が残るからです。

私たち日本人は、30年続いたデフレ(経済の病)のために、心底疲れています。
いずれにせよ、夢の持てない未来に、誰にも耐えきれないのです。
今後、コストプッシュインフレが、庶民の生活を締め上げる時、あなたは、どういって説明するのですか。
黙って耐えろ、耐えて死ね、とでも、岸田首相のように、言うのですか。政治家は、言外に、そういうことも可能です。
それこそ、中国の支配地、ジェノサイド、ウイグル人たちよりましじゃないか、とでもいうのでしょうか。

そうです、岸田首相と日本国民の大多数とは、すでに、それだけ、修復できない溝が出来上がっているのです。

私は、あなたを支持しています。
しかし、同様に、デフレと、賃金低下に苦しむ、国民同胞に夢をあたえることも、重要な政策とは思いませんか。


岸田首相は変節したのか又は本当に愚かで日本国民の敵なのか?

2022-06-26 09:35:13 | エッセイ

2021年当時の、総裁選の写真です。皆、私より、年少なのが気になりますが。
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 このたび、2022年参議院議員選挙投票日を目前に上記について考察したい。
 自分では、結論が出ているような気がするが、再度、岸田文雄という首相を検証してみたい。
 それが、今後の、民族国家、国民国家である、日本国の浮沈を賭けた闘いの序章になるように思えるからだ。
 たとえ、岸田首相がダメだろうと、私たち、日本国民は、生きていかなくてはならない。それがどんなに厳しい道行きであろうともである。
 したがって、個人的に、ダメになる政治家と、今後、心中するつもりもさらさらない。
 ダメになるなら、ご自分と売国グループと悪名高い宏池会だけでどうぞ、というしかない。
 世事に疎い私が、岸田首相を始めてみたのは、安倍内閣の、外務大臣を務めた時だ。
 吉田談話が虚偽とされ、したがって強制連行も虚偽、朝日新聞社長が、反日朝日新聞の読者だけに謝罪した、猿芝居が終わった後だ。
だれに指嗾されたのか、一千万円払って、韓国政府と示談をしたい。
そんな、経緯で、場もちのために、ないものをあると認め、韓国政府に土下座した。
おまけに、解決金(ゆすり金)を一億円に増額されたうえでのことである。
日本人として、普通の知能を持つ人間が、この結末がどう利用されるか、理解できない筈はない。そうだろう、大韓民国との外交折衝で、敵対国の虚偽を真実と追認したのだ。
虚偽の協定を作り上げ、同時代の日本人、太平洋戦争で祖国の義のために、倒れた、私たちの父祖、兵士大衆にどう謝罪するのだ。
私の一時の人気取りのため、つい人気取りのために、嘘をついてしまいました。
韓国人が、あれほど、ゆすりたかりに、強いとは知りませんでした。
私の、一時の気の迷いでした。
欧米のメディアが、あれほど、厳しい反応をするとは思いませんでした。
それも、私の気の迷いでした。
そうして、安倍首相に泣きつき、ふところの深い、首相に許されたのだろう、政治家として、延命した。

その結果、私たちは、欧米から、腐った他国からせめられ、中国になめられ、韓国人からなめられ、非常に腹立たしい、思いをした。
我慢せよというのか、とても、我慢できない。
これから、一生、バカな浅慮男のスタンドプレイで、バカな経験を「させられた」ことを、決して忘れない。
それよりも、太平洋戦争の英霊にどう詫びるのか?
韓国人のプロスティチュート(娼婦である。)を、軍人の強制誘拐とされ、非難された、英霊にあの世で、あんたはどのように詫びるのか?
おれはあの世など信じない、のかも知れないが。
この辺りは、ブログに書いたのでそれ以上書かない。
しかし、よくわかったことがある、岸田氏は、自分の都合や、野望のためには、平気でうそがつける人間であるということだ。このことは、決して忘れない。
その岸田氏が、昨年9月の総裁選に出るという。
どんいう、料簡なのか、とても気になった。
その結果、非常に愚かで、反日主義の、日本国民の国家利益を容易に放棄する、どうしようない政治家であったことがよくわかった(つい結論を言ってしまった。)。

① 経済政策の意識的不作為
前任の首相の経済政策が、反動財務省と結託した、新自由主義(市場の自立性に任せ国家は市場に一切介入しない。)と心中するような、愚かしい政策だったわけだが、岸田首相は、もっとダメだった。
つまり、何もしなかった。
デフレの際の対応策、経済政策を、何一つしなかった(愚かしいコロナワクチンの外国からの購入だけはした。)、すなわち、新しい部門への資本投資、既存企業への真水融資、大規模国土土木事業(国土強靭化事業というあれだ。うちの近所の県道工事で見たが、良いネーミングだと思った。)、国策事業、何もやらなかった。
デフレには、巨額新規投資をして、イノベーションを引き起こすまで、起債でじゃぶじゃぶ、金を投資しなければならない。
ということで、イノベーションは起こらない、見事なほどに。
代わりに何をやったか。外国人未熟練労働者を、じゃぶじゃぶ入れた。犯罪人までいたらしい。
EUの経済難民導入の失敗と破綻に、懲りずに、社会安定の秩序を覆すまで入れた。社会の安心安全を覆す程度にまでである。
本来、彼らは、国内労働で必要な人材で、日本国で、低賃金の汚れ仕事をやっていて、満足するmはずがない、自己の賃金に対する不満と、日本人に対する憎しみがのころだけである。首魁、岸が首相だけを憎んでくれればいいが、人間はそううまくは、出来ていない。
その後何をしたか。不合理な原発停止で、日本国企業、日本国民に不必要な損害を与えた、原発停止を再開し、莫大な貿易損失、LNG輸入をやめるかと思ったが、また、それも、やめてしまったということだ。
それも、反核、脱原発の反日団体、広島パヨクの要求を汲んでという、いつもの、卑怯ないいわけである。
理由は、もちろん、日本国外の敵が、それを望まない、ということだ。
こんな首相など、歴史にもまれなことだ。
相変わらず、私たちは、この男ももとで、コストプッシュインフレと、増税に耐えなければならないのか、思うだに、いらだたしいことだ。

②  「非核三原則」の無限肯定(自国防衛放棄)の愚かしさ
ウクライナの内戦をみて、危機意識を募らせた、まともな国民の大多数が、抑止力としての核をわが国も、祖国防衛に必要ではないか、という世論が盛り上がった。
安倍晋三元首相も、政治的な方便として、同盟国による核シェアリングを提案した。これは民意を理解したまともな見解であると思う。
岸田は、それが気に食わない、核を保持しない、持ち込ませない、昭和の末期の政策ではないか。それが、大嘘であったことはすでに、アメリカ軍によって暴露されている。
日本の賢い大衆は、いくらプーチンでも、核の使用が安易にできないことをよく理解している。
ウクライナ内戦における、アメリカ兵器産業の利権代表バイデンでも同様だ。
今もし使えば、「人道に対する犯罪」として、世界中の敵にも味方にも非難される。
私は、アメリかによる、東京大空襲、二度にのぼる、原爆投下は、「人道に対する犯罪」として、東京裁判で裁かれるべきであった、と思っているが。
少なくとも、原爆投下の結果を、日本人の怒りを、アメリカ軍も、DSも忘れてはいない。
勝者による敗者裁判で、そんなことが起きるとはありえない話だが。

だいたい、今回のウクライナ内戦での日本国の保守の頑迷さとミスリード振りは、実に恥ずかしいものだった。
ウクライナにも、ロシアにも言い分もあれば、正義もある。当然のことである。
彼らは、ロシア憎しの感情論のみで、ウクライナに一方的に加担し、ウクライナ募金までしたではないか。
もしあの金が、戦費の銃弾になり、ウクライナの市民大衆を傷つけたとすれば、それは、言い訳をすれば、欧米のNATO支持国の国民がおこなっている戦費負担も同様であるが、
「人道に反する犯罪」になりはしないか。
いずれにせよ、ナイーブな人間は、政治に向かない。
唯一の体験、それは、国民国家は自国防衛ができなければ、他国から蹂躙されるという、ことだ。
それが、日本人の大多数に認識されなければ、今回の教訓に何の意味もない。
弱い犬がけんかをうり、日本国のそばに、強大な敵国を作り上げてしまい、いざとなれば、ウクライナと同様に、日本国を戦場にする、手筈まで作ったのは、岸田文雄の大功績だが。

話を、戻そう、日本国には、先祖伝来、非核三原則というものがあるので、国民、国会での議論はしない。
都合の悪い、岸田は、早々と決めつけた。協議、国民、国会をバカにしている。
また、この議論は、岸田の地元、パヨク労組、パヨク市民団体(すなわち日本国に敵対的な反社会的集団)、反核、脱原発、憲法改正反対、彼らの大喝采を受けた。
要は、自分の権力維持と、駆け引きのためには、なんでもやるのだ。
間違っても、岸田氏に、政治信条があると思ってはならない。

③ ロシアとの関係悪化
何を考えたのか、バイデンに恫喝されたのか。
岸田氏は、異常にウクライナに執着した。
まともな日本人なら、内戦、対立軸が不明なときに、戦争に介入するのは、自国が巻き込まれ、それこそ、紛争国と同様な問題にまで食い込まれることを、認識している。
それでなくとも、我が国には、覇権国家中国が、侵略の手を伸ばしているし、反日国家韓国が、竹島を不法占拠し、実行支配している。
どちらも、機会を求め、虎視眈々と、日本国の政治支配をねらっている。
これでは、日本国の周囲は敵だらけである。
安倍元首相は、ロシアとの関係改善に努めた。
政治家として、当然の努力である。外務大臣時代に、大失点した、岸田氏と対極にある。
したがって、内戦・紛争時などは、旗幟を鮮明にせず、他国の出方をみつつ、態度留保をするのが、常識である。果断さとは違う。押しとどめ、観察する勇気が要る。
このたび、その中で、アメリカバイデンの真意と、NATOの思惑を分析することもなく、アメリカDS及び兵器産業の指嗾に騙され、自由主義陣営の一員として世界で最初に、ロシアにけんかを売った。
思慮のない男ほど、とっさにバカな行動をする。
われわれ、一般国民ですら、紛争の解決は複雑怪奇であり、戦争時に、まず、老人、女性、子供が犠牲になるという、厳しい、認識を持っているのに、また、日本国は、ウクライナに、利権も、経済的利害も取り立ててない筈なのに、過剰に加担し、塗炭の苦しみを味い合わせている。
本来、ウクライナは、軍事国家であり、北朝鮮に、核ミサイル技術を提供し、中国の空母建造にも多大な貢献をしている、反日国家ではないか。
おまけに、人でなしのゼレンスキーは、どこかに隠れつつ、国民に、闘え、死ねと指示しているのが、現実ではないか。
きれいな戦争などない、いずれ、彼らは、戦争犯罪人として裁かれるだろう。
頼まれもせず、バイデンに指示され、中央アジアから亡命移民まで受け入れた、岸田文雄の軽挙妄動は、未来の日本人になじられるだろう。
その過程で、考えの足りない政治家として、決定的にロシアと対立した。
この背後に、今後、中国との、不可避のたたかいを制し、利するため、ロシアとの関係修復に多大の努力を費やした、安倍晋三氏に対する、強い対抗意識wと、深い憎悪がある。自己の利害と、自己の地立の温存のために、この男はなんでもやるのだ。
このたびの、ロシアとの、関係断絶が、ロシアのナショナリスト、プーチンと、勢力拡大を図る、NATO軍、アメリカのDSの利害とが、厳しく対立したことは、よく理解できる。
 バイデンは、自己の属国とみなす、日本国に、ロシアとの断絶を強く迫った。
それに対して、抵抗できなかったいことは、太平洋戦争後に、無条件降伏をして、東京裁判により、裁かれ、肝を抜かれた、日本国と、現代の岸田文雄は、待ったく、同様に行動した。
違いは、祖国を憂う、気持ちが、岸田文雄に、まったく感じられないことだ。
「耐えがたきを耐え、忍び難きをしのんだ」、日本人の心根はどこにいったのだ。
敗戦以来、日本国民はあれほど努力し、日本国の地位向上と、国際的な地位向上と、政治的信用を創出した。
要は、岸田文雄氏が、それから、四分の三世紀を経た、今になって、しかし。このたび、岸田首相は、敗戦後押し付けられた、米国の言いたい放題の政策にまったく、抵抗しなかった。
とんでもない話だ、我が国は、自主自立を守る気概と、誇りを持つ独立国なのか。
こんな男に、国政を任せていいのか。
 反共(この場合敵国はロシア。)国には、国交を切れ、太平洋を戦争の勝者(中国及び韓国)には決して逆らうな。自主防衛は放棄せよ。今の。占領軍憲法の起草とまったく同じだ。
 誇りある日本人として、日本国民の利害をバイデンに主張するのかと、思ったが、そんな様子は全くない。
 岸田氏には、日本人としての誇りはないのか。
 私たち国民は、アメリカの手下ではない。覇権国家中国に従い、反日国家韓国に従い、肝心な専守防衛としての、核装備すら認めらえない。
 この人は、それが理不尽と思わないのだろうか?
 日本人として、自主自立を果たした世界の平和国家として、自負心も、自恃の心も、すなわち日本人として、アメリカに対し、自主自立すら主張できないのだろうな、どうも、それを愧じる気持ちもない。
 どうも、何も、感じないし、思わないのだろうな。
 要は、この方は、まともな世界観も、国家感も、ないようにおもえる。どうも。日本国家と日本国民に対する帰属意識も希薄である。
そのあたりは、野党(?)、立憲民主などとよく似ている。彼らは、もとより、日本国民に興味はない、在日や、韓国、中国人にしか、思い入れがないように、思える。
すなわち、「日本国の歴史と伝統に無関心だ。自己の保身と、地位の維持、権力の保持しか興味がない。
  フェイスブックの投稿で、まったく、同様な投稿があり、思わずわらってしまったが、「あなたは自分が首相であれば、それだけでよいのだろう」、まったく同感である。
 しかし、安倍晋三氏はちょっと違う、他人に対し鷹揚で、寛容であるし、政治家としての安倍氏を取り去ったとしても、人間としての安倍氏が残る。
 よくしたもので、外国人にもそれがわかる。結局、指導者として尊敬を受けるのは、安倍晋三氏の方である。


④ 中国・韓国、国内在日、反日勢力との不適切な関係
このたびの政局で、素人の私がびっくりしたのは、在日朝鮮人、中国人、またそれらのシンパが、いかに政治権力の中枢に近く、あるいは、中枢で力をふるっているかが、わかったことだ。
岸田氏は、就任以来、父子二代で、ODA利権に関与した(すなわち日中友好議員連盟の会長である。)、林芳正氏を自己派閥の継承者として、外務大臣に任命した。得意の、人事コントロールである。
人間、昨日までやってきたことを、にわかにやめることは難しい。
すなわち、親中政策はつづくことになる。
また、韓国とのフィクサーとして有名であった、河村健夫氏は引退し、その息子が、このたびの参議院選に比例区で立候補する。
私は、その、経緯自体、疑わしく、思っている。
山口県は、岸田氏の政敵、安倍晋三氏、岸信夫氏の地元であるからだ。
他のブログで挙げさせてもらったが、山口県岩国市の由宇地区に、すでにあの上海電力の、広大な太陽光発電(?)用地が設置された。米軍基地の、すぐそばである。
また、山口県防府市の自衛隊航空基地の真そばにも、地元の学校法人が所有する広大な土地が、中国人に売られたと聞いた。
それに引き続き、県内の市町でも、中国人及び中国人仮想企業から、どんどん、国土が買われている。
私のブログで、昔の勤務先の女性市長は平気なのか、市議会議員は、市民のため、調査せよと、主張し、激を飛ばしたが、誰も何もしやしない。危機意識がないもの。
先日遭った、前の友人に、外国人の国保加入について聞いてみた。実務上、そんなことをしていたかと、その通りだと彼は言っていた。
そもそも、お人好しで、バカな日本人は、利得だけは受ける、文句は人並み以上に主張するという、外国人の主張も、その行為が不当利得(法律上の原因なしに不法に利益を受ける)ことに、まったく無頓着だった。
そんな悪精度は、早急に改善されなくてはならない。

要は、政府は、本気で、国土保全の危機や、灰国からの侵略を糺すつもりもない、自分の権力維持以外に、ウナギのように身をかわす岸田首相しか、私は見たことがない。
岸田さん、本気でやってくださいよ、国が、本気でないと、地方が本気で取り組むわけがない。
喫緊の問題であるので、実効ある、スパイ防止法、国土取得規制法を、公明党の妨害を排し、制定して欲しい。
中国覇権国家の政治的圧力の中で、日本国を、ウイグル化、チベット化、に絶対しない、くらいは言って欲しいわけである。

それにつけても、高名な政治家たちが、あれだけ、在日二世、三世、あるいは、帰化した在日日本人だとは思わなかった。
評論家、竹中平蔵氏が、なぜあれだけ金に汚く、自己利害に執着するのかよくわかった。
東京放送の幹部職員など、一流企業の役員についても同様である。
民放職員集団退職などという事件もあったが、正義を糺す職員たちによる、それも一つの表れなのか。
私に言わせれば、政治権力、社会権力の保有者が、私たち日本人と利害を異にするらしい、人たちであるのは、極めて遺憾なことである。
マルクスによれば、「存在は意識を規定する」という。
外国系日本人として、日本国で暮らすには屈辱的な体験だったかも知れない、しかし、自己の体験だけに執着するのは、間違っている。
私はヘーゲルが好きだが、他人の体験や、理念を媒介しない、心の動きはどこかほころび、つよくはなれない。
少なくとも、日本人は自省する。自己の生まれた場所や環境を憎むのは間違っている、と思える。

現実の、立憲民主党や社民党をみていれば、こんな立派な話ではないのかもしれない。
彼らは、自己利害と重なる、韓国や中国への利権擁護を、不作為を含め、何度も繰り返してきたからだ。
それにはそれで、日本人として困る。
彼らが、多種多様、LGBTに基づき、少数上等日本人とされ、私たちが、二等日本人となるからだ。
彼らは、本国に逃げ帰ることができるかもしれない、しかし、私たちに逃げる場所などない、ウクライナ人より、もっと、逃げ場のない国民なのだ。

びっくりしたのは、宰相経験者のH氏である。
彼が、韓国に行くたび、坊主懺悔するのに非常に違和感を覚えた。
向こうは、誰にでも謝ってくれもらうのが好きな国家である。
このたび、それが、彼の出自の秘密に関連しているらしい、ことがわかった。

私のやっている信仰では、まず、父祖にお詫びし、自分の悪いところを直すことになる。他人を責めるより、まず、自分を問うという話だ。
結構、それは、効果的だと思う。
自分や、周囲と和解することは心地良いことだ。
おすすめしたい。

しかしながら、これを政治的な文脈で読んでもらっては困る(笑い)。

⑤ 今後の自民党について
私は、以上のような経緯で、自民党及び岸田文雄総裁に、失望したので、この参議院選の結果をぬきに、自民党の支持をやめます。
そのような方は、多いようです。
岸田文雄氏は、政治家以前に、その人間的な信用や、人間性に、国民は動かされることを失念しています。人間は、文化や伝統だけでなく、利害でいきると、日本の大衆の存在をなめ切っています。
あなたは、さきの総裁選で勝利したあと、日本国の大多数大衆のために何もしてきませんでした。誤った、ワクチン政策以外にです。
逆に、大多数国民大衆の利害に反することだけやってきました。
まだまだ、言い足りないことはたくさんあるので、引き続き、おのれの分も知らず、書き続けます。
早く、引退されることを望みます。



香月康男美術館来訪記 その1

2022-06-14 11:00:09 | エッセイ

うちの孫の、アゲハ、最初の狩猟成果です。
器用に、あみを振ります。
この前から、オニヤンマが獲りたい、獲りたいといってましたが、真夏じゃないとだめだよと、じじ(昆虫博士)は言ってましたが、目の前に留まるのを見つけ、孫と現認し、率直に謝罪しました。私にとって、孫と一緒に、オニヤンマの、ホバリングを観たのは、中幸福くらいです。
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山口県の宿泊施設振興に係る、県民割のクーポンが利用できるのは、当初、本年三月末であり、それで完了するものと、考えていました。
しかしながら、私たちにとって、うれしいことに、当該クーポンの給付が延長となり、段階的に、5月末までに延長され、このたび、6月末までに再度延伸されたようです。
私は、引退後、待っていたような闘病生活に入って以来、さすがに、うっくつする日も続き、移動に負担がかかりにくい、県内に、容易に旅行ができるのは、私たち夫婦にとって、まことに喜ばしい事です。
また、その利用が、昨年一昨年と続いた、ゴー・ツー・トラベルのキャンペーンが、ともすれば高級(?)旅館利用に、偏っていたのに対し、安直で、気の置けないホテルまで、利用が拡大されたのは、県民全体にとっても、喜ばしい、ことです。
妻に任せれば、様々な興味深い優良旅館を見つけてくれるのですが、私、今、食味障害があるので、何を食っても、あまり、快、不快もない。
無味でないのが、幸せくらいです。
もともと、旅館など、形式的には、かんずめになるので、本来、あまり好きではない。
超高級リゾートなどであれば、それなりに内部見学で工夫が見え、興味深いかも知れないが、コロナファシズム隆盛の、このご時世に、そんなものがあるとは思えない。
やはり、私にとっては、それぞれの地区地区の歴史や文化など、出歩くたびに、個人的な見聞や、腑に落ちること、好奇心を満足させる方が、望ましい。
ということなら、時には、県外にも出たいのですが、バカな隣県、広島県は、6月以降、県外クーポンを利用するのに、無意味なPCR検査、ワクチン接種証明を義務付けると、言っています。
広島県民がバカで、性格が悪いのではない、要は、岸田文雄がバカなのです。
これは、広島だけかと思えば、どうも、中四国、九州と、ガイドラインになったようです。
観光業者たちにとっては、現場の対応は地獄みたいなものか知れないが(電話してみてそう思った。)、生きていくことは、本当につらいことです。

それにつけても、重ねてバカな話ですね。
バカにも、意地悪をする、クソ意地があるということでしょう。
最近、広島に行くのも、嫌で、億劫になり、選挙区だけで、広島に帰ったこともないであろう、岸田文雄に決して会わないのは、小幸福ですが。
従前は、広島市というところは、「仁義なき戦い」という映画で見たように、理不尽で、暴力的な人ばかり住んでいる(笑い)(そちらの方がわかりやすく望ましい。)と、勝手に予断していました。
 しかし、決して、そうではない。広島県民の大多数は、岸田文雄の理不尽な、コロナファシズムに対しても、年末から始まった反観光キャンペーンにも、地元観光に対する反動政策にも、黙って耐えた。
 これは、よんどころない事情で、昨年来、ずっと広島市に通っていた私には、よくわかります。
 殊に、宮島観光など、ようやく景気が回復するだろう時期・過程で、岸田氏に水を差されて、こちらが、気の毒になるようにみて取れました。
 あれをみていれば、歴史ある宮島にわたる意欲も何も、なえてしまう。
 今後は、以前宮島で出会った、下衆な中国人たちが、いずれ今後、闊歩するのでしょう。
 以前、さる温泉旅館で、中国人観光客を優遇し、今まで日本国民に許していた、日帰り観光客の入湯を、予告なしに断ったので、そのことに対し、抗議もしました。
 当然、コロナ以前の出来事です。
 頑迷な、フロントのデブ親父は、頑として受け付けませんでした(腹いせに抗議する私をハゲ、と心の中でののしるのはあんたの勝手)。
嫌な、苦い思い出です。
 そのホテルですが、実名は挙げませが、営業はしているようだが、今も、その無礼な付けを払っているもかもしれない。私の知ったことじゃないが。

 広島市において、例えば、市内を運転していても、ことさらに粗暴な運転者がいるわけでもない。
 しかしながら、市内商店街は着実に、明らかに衰退している。
 広島市民にとっては、随分、理不尽な話です。
 私が定宿にしていた、伝統ある老朽化ホテルも、この3月末で廃業しました。
 ようよう三月初旬、そのことを、フロントの心ある女性が私に教えてくれました。
 今になって急に言われてもこっちも困るが、という、私の本音ですが。
 それ以降、もう広島市には泊まらない。
 その廃業原因を「コロナによる、客数減による」、と言っており、半官半民のホテルだったので、思い切ったことを言ったな、と、私には思われたところです。
 ここは、市内の一番の優良地に立ったホテルで、お人よしの私とすれば、広島県民の迷惑を鑑み、中国資本に買われなければよいがなと、本気で思っています。

 それはそうとして、広島の政治勢力は、非常に嫌なところで、広島市の高教組、労組、反核、反原発組織はまことに下衆な団体です。
 岩国米軍基地に反対するため、岩国基地の騒音にいちゃもんをつけたり、中電の、原発余剰電力など、広島市民くらいしか受益はないのに、安心安全な、地点から、山口県の原発予定地決定になんくせをつけたり、そのバカげたパヨク性と、反動性に定評があります。
 それ以前に、私には、許せない思い出があります。
 2011年の3.11,東北大震災の際にも、自然災害によって、2万人弱の自国同胞が理不尽にもなくなり、その被害の直後、地震の被害状況も、住民の苦衷、苦悩もわからない時期に、「原発があるからこんなことがあった」と、コメントをだし、彼らは、その、人でなしぶりを、存分に発揮したの
です。(科学兵器と、科学技術を、同意に論じる、彼らの低能ぶりを私は、決して許しませんが。)
 さすがに、人とも思えない、その所業に、私も心底怒りを覚え、要は、自然災害も、核兵器も、原発もおしなべて政治的に利用しようとする、腐った政治主義と、退廃した人間的な不道徳性に怒りを覚え、SNSを通じコメントを出し続けました(東京パヨクに遮られ無力ではあった。)。
 終いには、「もしあなたが人間であれば、私は人間ではない。もし、私が人間であれば、あなた方は人間ではない」、シベリア抑留で練り上げられた、石原吉郎の、無理解者、敵対者の「人間性」へ対する厳しい拒否を思い出したわけです。
 もっとも、この石原吉郎の場合は、強制収容所で、人民抑圧を繰り返す、ソビエトスターリニズムの役人と協力者に対してですが。
 それを言えば、この人たちは、もともと、ソビエトスターリニズム、極左中国毛沢東主義、いわゆる、個々の人間の家族尊重や、併せ持つ社会的親和性の存在を打ち消し、党への奉仕を強要し、その親族によって人前でつるし上げ、粛正するような恐ろしい共産主義イデオロギーの、いわば戦後共産主義の鬼っ子たちのシンパなので、さもあろう、ということです。
 すでに、日本人であろうということを、拒否しているのかも知れない。
 今も、ウイグル、チベットで、中国がまったく同じ、民族浄化を繰り返すことを、彼らは支持します(政治団体として何のコメントもしないということはそういうことだ。)。
 さすがに恥ずかしいのか、顔をよそに背けていますが、加担していることは、発言すらしないことをみれば明白です。
 要は、こんな人たちを、日本人と認定するのは間違っているということです。
 グローバリズムの手先、そして、破綻した、世界同時革命、世界永久革命の手先なのです。

 「非核三原則は、(広島パヨクのタブーなので)国民が考えなくていい」、と、日本人を無権利者・無能力者として判断し、とことん、バカにした、要は、国民の政治参加と、政治理念表明を、侮り虚仮した、いわゆる本来的な意味で、民主主義を否定した、岸田文雄と、まことに相性が良いわけです。
 内閣不信任案は、この時、提出すべきだったのです。
それを理解できない、立憲などのパヨク勢力はバカなもんだが、彼らは、同様に、国民を、常時、バカにしているので、何をいわれているのか、理解もできないのでしょう。

 自分たちにとって迷惑施設は、他県に押し付け、父祖の代の「原爆被害」体験を盾に取り、隣接県を脅迫する。
 もう飽きた。うちの、義父は、兵士大衆の一人として、原爆投下直後に、広島県に、その救援と、後片付けに、命を懸けて、従事した。人は命令だけで、その責務に従事するわけではない、それが、同胞としての責務であり、当然と思ったわけです。
 私の仄聞した限りでは、広島刑務所の囚人たちも、あと片付け(すなわち死者を回収し葬ることです。)、に従事し、服役者ではありながら、人間として、何と尊い姿と、感謝されたやに、聞きています。

 しかし、彼らは、東京の反核、脱原発運動の支持者と同様で、自己利害と、無考えのパヨク性だけで動いている。
 要は、彼らの活動は、戦後の由緒ある、どうしようもない、パヨクバカの、系譜をひくものなのです。
 したがって、芸術でも、「主題に反核がないものは文学的価値がない」、などと、恥知らずのスターリニズム芸術論を繰り返し、戦後のまともな思想家に、ひんしゅくを買い、批判され続けたところです。
 広島出身のわがサークルの先輩も、直接体験抜きに原民喜など何の意味もない、と言っていました(「失礼」)、彼は、学校をさぼって、あの「ヒバゴン」を探しに行った人ですが。

 ところで、最近では、中国政府の傘下、上海電力が、岸田首相の未必の故意(陰から意識的に優遇するということです。)により、山口県岩国市、由宇地区に、米軍ベースの監視のための、太陽光発電用地という名で、大規模土地を取得し、山口県にも、その悪影響を伸ばしています。囲障の中で何が行われているか、まったくわからない。
 そもそも、非常に非効率で、コストも高い、電力をなぜ、電気事業者は買い取らなくてはならないのか?
 私たちは中国の奴隷なのか?
 なぜ、国力を低下させる、非効率な再買電などを、政治家の都合でしなくてはならないのか?
 私は単純にそう思います。
 自国のライフラインを他国に売り渡す、オーストラリアでもどこでも既に行った歴史的誤謬を無批判で繰り返す、日本国政府に不信感を抱きます。

 防府市の航空自衛隊の近くにも、民間企業から中国が広大な土地を取得したという事実もあり、それを看過し、こちらは、黙示の承認(他県のことだから俺のけつに火はつかないだろう。中国はうるせーからな。)でしょう、何の手も打たない、岸田首相に、批判が集まっています。
 せめて、岩国地区は、防衛大臣岸信夫氏の地盤でもあり、山口県民のために、どうにかして、手を打って欲しいと思われます。
 山口県民は、本音では、林芳正とその追随者(利害関係者)を加え、岸田文夫と手を切りたいのです。

閑話休題、
 私の大学の同窓に、中村ウサギという人がいます。
 確か、本年62歳であり、私たち最後の政治の世代とは、少し、離れた年代(私より三歳下)の人です。
 私の受験時に、英文学科の偏差値は異様に高く、全国の英語好きのお嬢様たちが、本気で目指していたようです。ほかには、種ともこさんなどがいます(彼女の「出町柳」という歌には思わず、涙が出る。)。
 英文科の男どもの方は、うちのサークルに数名居たのですが、大したことはありません。
 彼女も、同志社出身者の御多分に漏れず、少し変わった人ですね。
 同様に変人の、外務省のラスプーチン佐藤優(彼女よりさらに3歳下だそうです。)と神学論争をしていましたが(著書から見れば、どうも創価学会擁護であるらしい佐藤優に興味がないので、買ってまで読みません。)、彼女は、マルクス主義と、同志社プロテスタントを安易につなげる、佐藤を批判していましたが、彼女は、案外まじめな信仰者なのかも知れません。
 しかし、彼女には、異様なラディカリズムがあり、どうも多分に意識的に、観念の力で、自分を抑え、自分の枠組み(良家の子女としての)を解体し、終いには自分の「人間的な」枠を壊そうとする強い指向があり、興味深いので、しばらく、彼女の本に付き合ったことがあります。
 様々な、経験、職歴を経て、現在は、難病と闘っているようです。
 その中のキャッチコピーに、「行き当たりばったり人性」というのがあり、私においても、最近感じるのは、そういえばそうだな、と思うようになりました。
 すなわち、私が、何が言いたいかというと、今回のブログも、とりとめなく、もっと長くなりそうなので、当面、「行き当たりばったりブログその1」、として終了します、ということになってしまいます。



日々是れ戦い

2022-05-31 21:37:51 | エッセイ

 画伯は、野草を描くのも好きなようで、左手は、素描「つゆ草」(水を張ったコップに入れているだけで成長します。)、右側は、溝蕎麦(溝蕎麦:ミゾソバ:油絵)二つとも、田んぼの畔に生えるような野草です。画伯は、こんな平凡なしかし自立した花が好きだったのでしょう。マチエールは、おなじみの、黒と茶の二重だと思われます。
*******************************
 この五月末、10年ぶりくらいに、長門市の香月泰男美術館に行きました。
 その内容については、再度、稿を改めたいと思います。
 画伯の主な画業は、シベリアシリーズとして、山口県立博物館に遺贈され、ここは、彼が愛した郷里(大津郡三隅村:現在は長門市三隅)に遺族の希望で作られた、公立の美術館です。
 田舎にある美術館は、展望台からの借景を含め、田植えどきの緑が本当に美しい。
 しかしながら、外壁に、シベリアシリーズのモチーフ(ラーゲリに運ばれる兵士の貌の群像)がデザインされ、うちの妻は、かつて、美術館に入るのを拒否した。当然、私には異論があった。
 シベリアシリーズは、山口県立美術館に遺贈されてここにはないと、理を説いても伝わらない。私だけで行くこととした。

 観覧を終わって、絵葉書を選んでいると、おばちゃんたちが、なだれ込んできた。
 しかし、いわゆる、女性団体の猛々しさも、過度のけたたましさもない。
 平日なので、忙しい人たちではないのだろう。
 窓口とのやり取りで、香月画伯の教え子の団体であることが判明した。
 画伯はシベリアからの復員後、1947(昭和22年)下関高等女学校に復籍し、翌年深川高等女学校に赴任しているので、憶測すれば、当時の彼女たちの推定年齢は15歳として、現在、サバ読みして、85歳くらいである。
 活力は不断にあるので、仲間たちの車いすを、ちゃっちゃと、手早く用意する。
 皆おしゃれで、元気がいい。
 久しぶりの、郷里での会合なのだろう。
 香月画伯はハンサムだったので、当時、美術教師として、大人気であったろう。
 彼女たちの内面では、あこがれの君だったかもしれない。
 いわゆる、新制高校前の、お嬢様たちのグループである。
 コロナ性うつ病の私とすれば、彼女たちは、うらやましい限りである。
 彼女たちは、残年数を数える努力などしていないかも知れない。
 「いいなあ」、と心底思った。
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 今回のブログは、スーパーの、一部レジババアとの、神経戦を扱います。
 最初に、よいおばあさんたちとの出会いを書けたので、うれしく思います。
 教養ある、したがって自省心があり、自己の感情に抑制のきく、おしゃれなおばあさん(きわめて優良に人間的な)女性たちを、私はとても好きです。
 若い娘も、昔ほど好きではないので、若くても、あたまの悪い、傲慢な彼女たちにも、あまり興味がなくなりました。
 それこそ、ロス・マクドナルド(邦訳:魔のプール)の、リュー・アーチャーではないですが、年を取れば、年齢の近い女性に惹かれるんです。

 私の男としての業の故でしょうか。

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 昨年三月末に完全退職(?)して以来、晴れてプータローの環境となった。
 嬉しいことに、意に反する、生活のための苦闘が、当面ないので(要は贅沢さえしなければどうにかやっていけるということだ。)、それは、小幸福である。
 ユーチューブ動画などを覗くと、女性により、年金・遺族年金などで足りず、アルバイト、投稿の放映料(報奨金)(?)を足しに、かつかつやっているという、投稿がいくつもある。
 生活費に補填するため、止むを得ず、ユーチューバー(投稿者)に転身したという。
彼女たちが扱うのは、こちとらも周知の、平凡で少ない種類の、決して上質でもない食材ではあるが、長年の家事スキルと教養で、手際よく夕食を作り上げる。
どうもその光景は、意味もなく反復される日常生活のように、視ているものを、沈静化させるような効果があり、こんなことでも、ひとは癒されるのかと、私には興味深いところでもある。
その過程で、彼女たちの個食の原因、離別、死別、夫婦、家族間のトラブルなり、彼女の抱える後悔や、屈託、ルサンチマン(怨念)などが、問わず語りで説明されていくわけである。
 こんな女性たちの生き方もある。
 多種多様を誇っているわけではない。生きるために、生活のために苦闘している。
 一方、男による、投稿は、身につまされ、なまなましく、慰藉にもなりにくいところがある。
 ときに、人によっては、男のきびしい状況をうれしがる人がいれば別だが、同性の私がみていて、非常にきつい場合もある。
 本人がどう思っているかは別にして、男の孤独と孤立は、奈落のように、際限がないような気がすることもある。
 その意味で、私の、ブログを読んでいただく人には、改めてお礼を申し上げなくてはならない。
 また、ブログの更新をしばらく怠っていることにも、お詫び申し上げます。

 「一遍くらいわらってみなさいよ」、妻によく言われることである。
 確かにそうだ、前向きな男として、苦しい時は笑って見せればいい、しかし、笑えない。
 ひとのせいにするわけではないが、私見とすれば、私の慢性うつの常態は、これは、どうも、コロナファシズムに因することだ。

 最近、日々、起きるたびに、毎日のルーティンワークに、イライラする。
 友人の妻が、「うちの夫は一日中テレビの前でじっとしている」という。彼女にとってそれが、とても嫌なのだ、おそらく。
 彼の気持ちはよくわかる。
しかし、妻の気持ちはもっとよくわかる(という気がする。)。
再度、しかし、皆がそんな、思いやりある妻と、恵まれた環境にいるわけでない。
 一般的に、男どもは、生活のために苦闘しているし、家族の中で、その役割を懸命に果たそうとはしている。
 おれが食わせてやっているという、前提も、主張ももう駄目なのだ。
 しかし、男としてのその努力は、常に足りない。
 自分が思うほど他者は評価しないし、寛容ではない。

 事情があって、かつて、私も、五年間くらい自炊したことがある。
 料理本も、料理ネット放送もあまり役に立たない。
 参考になったのは、かつて観た、妻の料理手順だけである。
 自分でやってみて身についた。
 もちろん、一流を目指さないからである。
 教養というものは、こういうものだと、素直に思った。

 田舎ならではの事情で、うちは、結婚は早かったし、妻が理系で、フルタイムで忙しい仕事はしていたが、こどもたちの自立が早かったので、夫婦二人だけの生活は結構長い。
 当時、近所のスーパーなどへの買いものは、妻の仕事もあって私がほとんど行っていた。
 それこそ、パリでの貧困時代のヘミングウェイがいう、自分はセーヌ左岸第一のポアロねぎの目利きである、ではないが(アリス・B・トクラス自伝)、JA下松売店の葉物野菜の目利きは私に任せて欲しい(笑い)。
 しかし、合理的に買い物すること(すなわち当面不必要なものを決して買わないこと)には、多大な時間と努力を要した。
 要は、家族で食するおかずの構想力と、計画性、不時の必要、その応用ができないものは、買い物をすべきではなかったのだ。
 それは、今でもそう思う。

 閑話休題、私は、普段、市内二箇所の、アルクというスーパーを利用する。
 なぜ、利用するかについては、いろいろ理由があるが、通常、それ以外に、行くことはない。
 うちの近所には、イーオングループというスーパーがある。
 店舗の場所によって、施設に発電パネルを設置する、あそこである。

 そこには決して行かない。
 中国系の商品が多く、自社系列の商品しか置いていない、からである。
 その徹底は見事なものだ。
 しかし、客に、商品選択の自由をあたえない、というのは、商人として、見下げはてた行為である。

 私が行くアルクというスーパーは、へきすう地(失礼)、山間等、周辺地に、サンマートという、小規模スーパーを展開している。
 かつて、山登りをしていた時に、たまたま、そこに立ち寄ったら、アルクとまったく同様な商品を、その目玉商品をまったく同様な価格で販売している。
 商人が、どのような商品を、どのような価格で売るかは、勝手である。
 しかし、その地区に在住する、経済的弱者、すなわち、老人たち、あるいは運転免許を持たぬものにとって、どれだけ、この商店施設が有益であるかは、よく理解できた。ここは、へきすう地のライフラインなのだ。
 スーパーの地域密着型というけれども、その実現はむつかしい。
 採算の採れない地区では、移動販売車を派遣した方が、はるかに合理的である。
 このスーパー展開は、これは私企業として、善の仕事である。
 どれだけの人間が恩恵を受けているか、いわゆる、不自由な自己の、選択の自由を拡大し、その恩恵を受けているかは、計り知れない。

 閑話休題、私は、中央部にあるアルクと、少し、離れたところにある、別支店と、交互におとづれる。
 それぞれ、私にとってメリットがある。
 一方の駐車場が、売り場にやや近い。利用料無料のキャッシュディスペンサーがある。コピーサービスが使い易い。商品種類が多い。様々な理由がある。
 なかんずく、キャッシュディスペンサーについては、地元の性悪の地銀山口銀行が、手数料無料の機械を次々廃止してしまった。したがって、当該機械の存在は、今では、この地区で、非常に貴重なものである。
 また、二店あれば、客としても商品価格も比較しやすい。
 顧客にとって非常に合理的なのだ。

 しかし、片方の店舗(生野屋という別支店)については、従前(かれこれ10年くらい前から)何度も嫌な思いをしている。
 要は、二店のレジカウンターサービスのおばちゃんの顧客対応の差が厳としてあるのだ。
 中央店の、レジカウンターの対応は、とても良い。親切で、人による配慮を試みる。
 どちらの店舗も、スタッフは「笑顔で応対」という、ネームプレートを下げている。
 中央店で、今まで、嫌な思いをしたことはあまりない。
 いらっしゃいませ、という言葉を欠かされたこともない。
 世の中にはいろいろな人間がいるもので、中央店で歌うようにレジを打つ(おばちゃん)を私は知っている。それが、彼女の天職なのか、愉しいのだろうな、とこちらも想像する。
 生野屋の店舗にも、客に対し丁寧な扱いを好む、レジのおばちゃんを何人も知っている。

 要は、あらゆる窓口において、私たち日本人は、人間的な付き合いを求める。
 そして、どうもそれは、日本人だけではないと思われる。
 英語のイディオムに、「クイックバック・セールスマン」という用法があるという。
 契約(販売)がおわりしだい、無駄話もせずに逃走する合理的思考セールスマンは、嫌われ、次がないという。
 西欧も同様に、商売に、人間的な付き合いを重んじる。
 ロシアは知らない、しかし、共産主義国家、中国では、いかにもありそうな話ではないか。自分以外はすべて敵という、国家では、こんな話はいくらもあるだろう。
 あの、お笑い、北京オリンピックをみていれば、思い上がった中国人の利己主義と、他国民に対する、理由のない優越と反感が、隙さえあれば、ずるを決め込むその国民性が、私たちによく理解できたではないか。
 中国は、異質な国家である。

 要は、言葉を惜しみ、愛想(?)すらもないようなサービスに、本来、日本人は慣れていないのだ。
「思いやりと察し」という言葉は、そのものの発露であり、画一性をすべてに押し付けるグローバリズムに正反対の、日本国の誇るべき伝統文化ではないか。
 コロナ下で、常時不快の状態で、口数も惜しむようなじじいにも、そのレジ対応の良さは伝わる。
 何度もいうが、マスクの常時着用で、被害者意識と伝わらない思いに、苦り切った親父にも、きちんと伝わるのだ。

 私は、晩年の仕事場で、窓口を担当したが、来客者に対し、常時、いらっしゃいませ、くらいは言った。
 サービス業で、至極当たり前のことである。

 しかし、コロナ下で、日本国民のこの良習がどんどん失われる。
 人を見ればコロナと思えという、相互不信と、いわれのない、他人に対する偏見や敵意は、悪意と、利己主義の容易な温床となる。
 マスク越しに、くぐもった声で、プレート越しにやり取りをしていると、話が伝わらず、それに対する、スタッフの配慮がないと、終いには、我慢できず、客が切れる。

 片一方の、アルク生野屋店には、それが欠落している。
 あるとき、最初から一言も言わない、レジのおばさんに、とうとう私は切れてしまった。
 「なぜ、いらしゃいませ、と言わないのか」、と注意した。
 そのババアは、「ちゃんと言った」と言い張り、私を質の悪いクレイマーをみるように、にらみつけた。
 「客に、聞こえなかったら、何の意味もないだろうが」と、私は言ったが、ババアは引き下がらない。
 仕方がないので、「聞こえなかったら、何度も注意するよ」、と、その場を収め、引き下がった。
 そのババアは、しばらく、私の顔を憎々しげに見送った。
 なかなか、ガッツのある、ババアである。
 私は夫婦げんかで負けたことはないと、自慢しそうな女である。
 お前の亭主の貌が見たい、こちらも捨て台詞でも言いたいような雰囲気である。

 次に、行った時も常習者のほかのババアが、まったく、同じことを繰り返したので、止むを得ず、まったく、同じ注意をした。
 なかなか、彼らは、目の前で行われるショーをみて、教訓に学ぶとか、客の意見を職場でフィードバックするつもりはないらしい。
 そうなれば、次は、精神消耗戦である。
 また、別の日に、レジに並んでも、同じババアが何も言わないので、「あいさつ!」というと、しぶしぶ、「いらっしゃいませ」と言った。
 「よし!」と褒めてやった。
 まさしく、ポンチ画である。
 もう一人、以前から、質の悪い窓口がいたので、「私は、アルクの中央店でこんなあしらいを受けたことはない」、と言ったら、「うちはそんな悪い対応はありません」と居直る。
 さがった方が負けである。
 こんな女の生き方もある。

 仕方がないので、このまま、今後は、レジの悪いおばさんを選んで、百年戦争を繰り返そうと、思っていた。
 現場のまずい対応のつけを、直ちに上司に苦情を言うのは、本来、私は嫌いである。

 しかし、あるとき、繁忙時の際に、レジに立つ、男の店員に出会った。
 この男は、パートタイムではないだろう、しかし、最初から最後まで、見事に何も言わない、ひょっとしたら、これが、窓口主任かも知れない。
ようやく、ことの一件が、腑に落ちた。
 こりゃダメだ、と思った。
 この腐った男が、傘下のおばはんに注意できるはずはない。
 逆に、対応のいいおばさんは、自己の良い資質と自分個人の人間性と、経験則で、愚かな正社員主任のそのうえを、モラルの向上を実現していたのだ。
 私は、自分の仕事に手を抜く人間は、大嫌いである。
 自分次第で、どうでも解決できることについて、改善の努力をしない人間は、心底クズだと思う。
 ちょっと前の話になるが、橋爪大三郎が、中国にゼミ旅行に行った際、中国のエレベータガールは、勤務中に、機械の操作もせずに、ゲーム機を使いまくり遊んでいるという。それを指摘すれば、逆上する。
 どうも、つまらない、権力者とコネがあるのだ。

 イデオロギーというものは、そこまで、人間を退廃し、堕落させる。
 おなじ給料をもらい、参加する組織の中で、努力する人間と、努力をしない人間を同等に扱うのは、共産主義と同様である。
 どうも、世の中には矯正できない人間はいくらもいるということである。
 他店できちんと対応しているのに、自己店で改革できないのは、その店のモラルと、やる気のなさの表れである。
 私は、買い物客として、経営店舗に侮られるつもりはない。
 私が、買い物に来るたび、なぜ、不快な思いをしなければならない。
 それこそ生きているだけで、私たち大衆の大多数は、不快な思いをし、それに耐えながら生きぬいているというのに。
 どうも、これは、政府のコロナ対策の不備が、遠因なのは確かだろう。
 しかし、私は、10年以上、窓口のババアの理不尽に耐えてきた。
 自分本位で考え、老人などの弱者をあなどり、人間としての親切心も配慮にもかけ、言葉も尽くさない無礼に耐えてきた、弱者のため注意しようとも思った。
 今更、引き下がるつもりはない。
 善処を要求する。
 なぜ、現場が、社是のように現場が対応しない。
「笑顔で対応」その通りではないか。

 次に、アルク中央店、アルク生野屋店に共通する悪癖がある。
 場内放送が不適切ということだ。
 「○○主任、〇番に」、場内呼び出しをそこでやめる。
 これは、良くない、客の方が、私たちも、こんなに粗略に扱われているのか、とおもう。
 丁寧語がなぜ使えない。どれだけ、時間がかかる。
 仕事上の対等なチームで、粗略な言葉のやり取りは、必ず、人間関係に悪い結果をもたらす。
 是非、改めるべきだ。
 せっかく、良いスーパーに立ち寄っても、悪い印象など抱くのは、お互いに損失である。

 というように、私の怒りと、日々の戦いは、今日も続く。
 コロナという、悪状況は、悪循環を何度も繰り返す。
 岸田首相、ワクチンが医療事故を繰り返すとなぜ言えない。
 小学生になぜ、医療事故が起きる。ワクチン接種から始まった以上、原因はワクチンに決まっているではないか。
 いい加減、あなたの優柔不断で、アメリカ、中国、韓国など、他国民随順、国民不在の政策に飽いたが、最期に、岸田よいい加減にしろ、おれはお前を決して許さないという、結論となる。
 
 閑話休題、アルク両店は、現場の改善を行って欲しい。
 現場の自浄努力を期待する。
 私は、イーオングループに行くつもりはない。在日経済人の推奨する、ペイペイを使う気もまったくない。
 地域に貢献する、企業を支援したい。





ねこ騒動てんまつ、併せ、ものの美醜を問う

2020-10-15 18:10:44 | エッセイ
ひょんなことから、我が家に、のら(だと思う。)ネコが居ついたが、家族の反対により、エサやりだけやっている。
どうも、人間以上に、ペットも、その面貌(アウトルッキングというやつです。)が、やはり、その性格より、外見で判断されるようだ。

ねこ嫌いのうちの妻ですら、かわいい幼猫は構いたがる。
「かわいくないねこ」には、気の毒といえば気の毒であるが、そこはそれ、われわれと同様に、ねこにとっても「運命」というものですね。

お定まりの脱線だが、例のLGBT運動や人権擁護運動に、醜女と醜男の支援という項の新設はないのだろうか、と思った。
人はその生まれに責任を持たない、したがってもって生まれた当該醜貌の優劣(?) により差別を受けるのは、どうも社会的に許されない、したがって、ブス又はぶ男の人権を守れ、と。
性的し好の尊重なら、ぶさいくな人間にも、救済の必要がありはしないかと思ったわけである。
もし、当該不公正を補償する、補償金でもあれば、私はそうであるというカミングアウトが生じ、社会的不公正を是正する、登録者も生じるかもしれない。
しかし、人間の心理は微妙なもので、もし、個々において、「私はブスではない、ぶ男ではない」、という個々に自負心や自恃の心あるいは思い違いでもあれば、そんな項の新設は必要ないのかもしれない。
前向きな精神以上に、うぬぼれ・虚栄心の存在や、現状認識の甘さというネガティブな心性・劣性は、個々に救いをもたらすものかもしれないからである。

それでも、「見た目が第一」と考えるなら、美容整形大国、南鮮で手術を受ければよい、金の力でそれなりに自由は獲得できるのだ。
いずれにせよ、自己の直接責任はないにせよ、自己のマイナス面と思われるものを外部の責任に転嫁して、際限のない補償(同情・憐憫など)を求めるのは間違っている。政治的にも、人倫的にも。

 それから、敷衍して見れば、男女共同参画もLGBT運動も相当いかがわしい。
 それこそ、まず理由のない賃金格差、とか、国民国家としての自国民ファーストとか、他国の政治の失敗・退廃とか、感情以外に別の社会的な媒介項を入れずに、あおられた露骨な政治的な引き回しに肩入れし、ナイーブ(つまりバカ)な大衆を引き回している。
 お人よしの善意(?) に付け込み、脅迫するような手段と募金の強要と同様、個々の国家の政治的な失敗や、人権抑圧、自分たちに都合の悪い事実を隠蔽し、国籍を問わず他国のそれなりに貧しくお人よしの大衆たちまでを騙す、ユネスコやアムネスティなどと同様であり、下劣で、いやな奴だ。

 また、我が国の行政機関がまるでグローバリズムの先兵のように、LGBT運動・男女共同参画問題取り上げるのは、政策的な意図があるのだろう。少数者(?) の外国人と問題をすり替え、外国資本・外国人による侵略を抵抗なく導入する手段である。あわよくば、国境も、国民国家の仕組みをも解体しようという、強固な主張(いや陰謀)がある。

 そもそも、LGBTも、男女共同参画も、前提として、それを保証する、健全な国民国家が背後に控えているという前提があってのことである。まず、「自国民、いや日本国民ファースト」となぜ言えない。
 それを主張することすら禁忌にする、覇権国家、反日国家、それに加担する国内パヨク・売国奴勢力など、敵は、いくらもいる。

 ということで、私は、太宰治流に言えば「あかぐろいぶおとこ」であり、かつ老境(前期高齢者)に入り人並みにハゲ(うちの妻が嫌がらせに頭頂部の写真を撮ってくれる。汝自身をしれ、ということであろう。ありがたい話である。)で、糖尿で、高脂血である。
 自慢ではないが、加齢臭もありつつ、見た目がすべてという世間知からすれば、性的にも社会的にも禁忌・阻害される被差別対象に該当する。

 しようがねえなということである。諦観は友達である。

 ところで、外見第一ということでいえば、もちろん、ポピュリズム政治家が最も敏感である。外見の差は、まさしく票に響くのである。

 かつて、うちの妻に、「学歴詐称は政治家欠格だけど、あのかつらをかぶった政治家は、選挙民をだましてるんじゃないのかね、むしろ学歴詐称より、罪が重いんじゃ」と尋ねると、彼女は「人間、外見がすべてなのよ、その努力を誉めるべきよ」と答える。
 ジェンダーの差による、政治的感覚の差異に納得した。
 
 やむを得ないので、「こちとら醜男(ぶおとこ)だが、整形もしてねえし、かつらもかぶっちゃねえよ」、「ボロは着てても心は錦(それほどでもないが)」と、私は尻をまくることにしよう。

  ひょんなことに戻る。
 私は、うちに時々やってくる、黒毛多めの三毛猫にえさを与えることになった。

 その前置きとして、それより前に、野良猫たちが、我が家のバックヤードに、子づれでやってきていた。
 たぶん、それは猫にすれば、この家で支援があるのかどうか、瀬踏みの状態であったに違いない。
 見ていて、私がこらえきれずに、えさをやろうとすると子猫は逃げる、そのうち来なくなり、最後に、さして、美しくない、少し年かさの三毛が残ったわけである。
 三毛の配色で、黒が強いのは、見栄えがよくない、かわいくない。
 そのうち、甘い家だと思ったか、大きなオスのキジねこまでがやってきたが、ふてぶてしい態度であり(私見) 追い払ってやった。それは私の気分と感情である。

 外孫たちが、我が家に来るようになってから、どうも、私は、幼猫や、飢えた雌猫に弱い。
 ねこが嫌いな妻にののしられても、孫のアレルギーを恐れる娘に決めつけられても、やっぱり餌をやるのはやめられない。

 三毛はほぼ雌猫であるということであるのだが、私の幼年時代に、我が家にもメスの三毛猫がいた。
 祖父母がかわいがっており、いわば、家に常時猫がいるのが、普通の生活だった。
 しかし、農家であったので、祖母なども甘いかわいがり方はしていない。
 ときに、縁側で、私が撫でたりひっぱったりなどして構えば、じっと我慢していた。
 祖母は、子猫が生まれれば、大雨が降った後など、家のそばの大川に流していた。
 私もそんなものだと思っていた。

 妻は、ねこの代わりに犬を飼え、という。じゃあ、散歩は誰が行くの、というと黙る。
 昔、犬を飼っていたことがあり、いい奴だったが、ひとめを忍んで出かける、毎日の散歩には心底くたびれた。
 しかし、座敷犬は好まない、猫かわいがりの犬を、私は好まない。

 以前に「斎藤洋の面白さについて論じること」というブログで、斎藤洋の童話を扱ったことがある。
 うちの子が小さいころ、斎藤洋の「ルドルフとイッパイアッテナ」という、子猫の一人語りで進む、師匠(トラねこ)の指導で、文字を覚えた猫の修行・成長物語を読み聞かせた。
 こどもたちも夢中になったし、この読み聞かせは、私の家庭へのわずかな貢献であるかもしれない。幼年向け(小学校低学年)童話であるが、「吾輩は猫である」と同様に、猫の文明批評や人間批評が面白い。
 斎藤洋氏の童話というのは、読み聞かせをするうちに、親が夢中になってしまうところがある。
 斎藤氏の著書を知ったのは良い体験であった。

 その後、最近になって、この童話が再度劇場用にアニメ化されているということを知り、試しに録画し、当時3歳の孫に見せてやると、ところどころ煩悶(?) しながらも、懸命に見入っていた。
 結局、何度も見返すこととなった。

 原作の中で、作者が、「(のら)ねこにえさを与えるのは絶対的に正しい」と力説する場面があり、なるほどそうかなあ、と考えたことがある。
 さすがに、私も、一時の感情で、野良犬にえさを与えるなどの、反社会的(反地域社会的)な行為に組することはない。
 しかし、それこそ、野良の状態で決して長くは生きられない(ねこ好き吉本隆明家の長女、ハルノ宵子さんの著書にそんな記載があった。)野良猫に対し、えさをやるのは、人倫に反することとは私には思えない。
 社会的責任とかいう前に、長くは生きられない害の少ない弱いものに対し、限度を超えずに、無償で贈与することは咎める必要があろうかと思われる、のである。
 世の中には、捨て猫をほっておけない人がいて、私が知る人は、公園近くのかん木林に、隠れているねこに対して、通いで、たぶん毎日えさをやっている。
 私はそこまでできないし、しかし、隠れるようにやってくる彼女を咎める気もない。
 ぼろぼろのネコを見かけたら、妻は止めるが、私は、何かしら手持ちの食べ物を探す。

 ねこが畑にふんをする、植えた種苗を台無しにする、とか知り合いからよく聞いた。
 彼のねこが、私の、大事なワケギの植え込みを荒らしたら、さすがに私も憤激するかもしれない。

 しかし、試しに聞いてみると、島しょ部に住む私のおばは、畑を荒らされたとしても、やはりえさは引き続き与えるという。
 身びいきというか、好きなものに肩入れしたい気持ちはよくわかる。
 「愛憎」や執着には何らかの理由があるものである。
 先に、畑を荒らす土鳩に、ねこいらずを食べさした、という話を聞いた。まあ、そんなものであろう。

 アニメに触発されたかどうか、うちの孫は、彼のねこに、「ねこちゃん」、「ねこちゃん」と付きまとう。幼児として、小さいもの、かわいいものは好きらしく、下の孫も同じように付きまとう。
 迷惑なねこは逃げていくばかりである。

 しかし、おばの住む、架橋された島では、もともとの漁師かたぎなのか、ねこたちは住民に優遇される。
 そういえば、NHKBSの「世界ねこ識」を見ていても、一見怖そうで武骨な外国の島の漁師たちも、ねこに魚を与える。多くの人にとって、身近なねこをかわいがることは、自然なことなのか、と思う。
 島のねこは、始終、住民たちに給餌されるのか、人をあまり嫌がらない、孫どもが、ねこちゃん、ねこちゃんと触っても、じっと我慢している。思う存分、ねこに触れて彼らは幸せである。
 しかし、ねこどもは、魚肉ソーセージで吊ろうとしても寄ってこない、ねこ用の、嗜好食品でも取り出さないと、自らはやってはこない、そんなものである。

 そういえば、「どろぼうねこ」という言葉は女性の呼称である。
 ねこを好む人に、男性も多いことも、とても納得がいくところである。

 なぜ、無責任(妻に言われる。)にもねこに給餌するのか考えてみる。
 昔、うちの飼い猫も、私が撫でてやると我慢していた。今思えば、器量の良いねこであった。長命だったので、私が結婚したとき、まだ実家に住んでいて、うちの妻が、そっと寄ってきたねこの尻尾にさわられ、「キャット」叫んだというのは笑い話である。
 実家にねこがいなかった妻は、それ以降ねこが嫌いになった、と力説する。
 それはさておき、なぜ、うちの実家が嫌いだったかは、別の原因があったと思うのだが、うちの祖父母が存命のころは、よく実家に通っていた。動物は好きなものにはなつく。私も同様である。いささか、薄情な性質(たち)ではあるが。

 閑話休題、彼の三毛猫は、愚かではないような気がする。
 私が本当に嫌うことは、どうも彼の方から避けている、ように思える。
 そのうち、よくある孤独な老人のように、つい、ねこに話しかけてしまう。

 いつも、ドライフードを給餌しているが、私が「今日はこれでおしまい」というと、どこかへ帰っていく。

 斎藤洋氏の著書の主人公ルドルフ(大きなトラねこ)ように、彼らはいくつかの給餌場と関係性を確保し、それぞれで違う名前をもっているのかもしれない。どうもそういう生活を送ることも多いらしい。

 秘密のある、自立した存在は魅力のあるものである。
 ねこを見ると、彼がいることで、どこかに、我が家の調和(?) があるように思える。
 今になって亡き祖父母と暮らせないことでもあり、非常に勝手なやり方であるが、三毛を見守りたい、と思う。

 いずれ、それ見たことかと、妻にそしられるかもしれないが、当面、成り行きを見ていくつもりである。

 夏目漱石の「行人」だったか、「この世の中には片付くことなど一つもないんだよ」という、主人公の述懐があったが、ねこに関しても、私はそう思う。