天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「火葬場の少年」をめぐり、今年も考える。   その3

2017-08-15 22:13:22 | 時事・風俗・情況

( 8月です。お盆の月ですので、いつものように、皆で死者について考えましょう。 )

例年のことになりますが、毎年テレビを見るのが苦痛になるのが、今の時期です。
私は、「何の前提もない正義」というのが心底嫌いで、それを唱えることに何の疑いを持たない人間はもっと嫌いです。
この時期、テレビを見ていると、NHKから民放にいたるまで、ニュースもドラマも総動員して、「戦争はいけない」、「戦争を二度としてはいけない(巻き込まれてはいけない)」と繰り返すばかりで、「つまらない番組はやめろ」と、うんざりすることとなります。例えば、「平和、平和、平和」とお題目を唱えることができない、現在国内の内戦や、他国からの干渉による戦乱の中で、日々おびえ、暮らしている国家及びそこに在る国民はどうすればいいのかという問題に派生していくところです。その、展開がないようなら、それは、お盆の供養のお経と同じですね。心の入らぬ空疎なお経になる。
 ところで、日本国は本当に「平和」なんでしょうか?

 NHKも、「敗戦記念日」近くの時宜を選んだのか、「昭和の選択」という番組(8月9日)を再放送していました。MC(番組進行者)の歴史家磯田道史氏の適切な司会のもとに、「噫(ああ)横川国民学校」という作品をモデルにした番組の再放映をしていました。大東亜戦争の末期に、昭和20年3月10日の東京大空襲(その犠牲者の総数は50万とも60万人ともいわれます。)の際に、下町に存し、当時としては、堅牢と思われたコンクリート造の横川国民学校に容赦のない空爆が加えられ、その構造が仇をなしたのか、逃げる間もなく、老人から婦女子、幼児・胎児にいたるまで、無残に全滅し、その痛ましい死が作者にいわせれば「炭化した黒焦げのサルのように」と描かれた、多くの無辜の国民が無残に焼殺された悲劇です。磯田氏が、「これはいかなる時代でも、いかなる状況でも、国家が、(普遍的に)人間が他国民を含めて、決してやってはいけない行為である」、と述べた(私もまったく同感ですが)、そのままの酸鼻な事件です。それを、現場で立会い、偶然にも運よく(?) 生き延びた国民学校の教師、後年に優れた芸術家として自己を高め、高名な書家になられた井上有一氏が、老年期に入ったころ、満を持して、自らを強いるように描いた、その悲劇の衝撃と、生涯にわたり、教え子たちの無念の死に対して無力であった自分を責め続けた慟哭の書(群馬県立近代美術館所蔵)、です。
 この事件は、いくら戦争期といえども、戦争末期の大量虐殺というべき原子爆弾投下と同様に、米軍によりおこなわれた、無辜の非戦闘員に対するいわば「人道に対する犯罪」のような攻撃です。
 恥ずかしながら、私は、天才画家ピカソの「ゲルニカ」に匹敵する作品といわれるこの作品のことを、前述したとおり、講談社の書道を扱った漫画「とめ、はねっ!」(河合克敏著)によってはじめて知りました。西日本在住の人間として、東京大空襲の中でのこの悲惨な事件についてまったく知らなかったことを含め、大きな衝撃を受けました。先の放映で観た際考えたのが、作者の書家井上氏が、敗戦後も教職を続け、直接体験としての被災体験によるものなのか、戦後、自己体験や芸術家としての葛藤の中でと思われますが、書の解体に赴くかのような前衛書道に打ち込むなど、書道を超える芸術家として、国際的にも、名を成した人です(「とめ、はねっ!」にもきちんと描かれています。)。
 その後も、芸術家として自己の内部で創作への意欲が熟成するのをじっと待ったのでしょう、定年後、満を持していたかのように、一気呵成に、危険な場所に連れ帰ってきた自分の責任と、教え子を奪われた悲しみと怒りを、死者への愛惜と慟哭を、異様な迫力のある破調の書に結実した、恐るべき作品です。私も実物をみたい、と思っていながら、機会をつかめず、いまだに果たせていません。
 この番組に拠れば、当時、井上氏は、疎開先の国民学校で、かの訓導というのか、毎朝詩吟で「正気の歌(しょうきのうた)」(水戸学派の藤田東湖作)を、生徒と一緒に吟じていた、という教師であり、軍国教育に染まった教師だったのでしょう。当時、国民学校の6年生を指導していたそうです。彼らのその疎開が終わる時期(卒業式)となり、都下の危険な状態を知りつつも、卒業式は、(長い別離を経て)地元でやってやりたい、という父兄たちの願望により、帰郷してまもなく、まったく運悪くこの災禍に遭遇しています。
 写真を見れば、頑固そうな先生です、愛想がいいとはお世辞でもいえない、しかし、実際に彼が、この作品が書けたのは、戦後教育者としての人性を全うし、その長いなりわいを通じて、芸術家として熟成し、退職後、ようやく、「内なる思い」、「痛恨」、「悲しみ」に対峙する勇気が出たのであろう、と想像されます。最後の「親子断末魔の声 終生忘るなし」という独白は、芸術家であるよりは、「人間としての」絶叫のようにも聞こえます。

 先のかの誇り高い「火葬場の少年」、そして、このたびの「噫横川国民学校」を経て、私は以下のとおり、稚拙な、しかし私にとって切実な考察をします。

①日本国が戦場になった場合は、最初に、婦女子、老人、社会的弱者が犠牲になる(それは他国でもまったく同様である。)。
②現在の日本国の地勢的、歴史的背景を見れば、日本国家及び日本国民に脅威となるのは、独裁軍事国家、北朝鮮及び覇権国家かつ「強兵富国」国家中共であり、両国は、同時に世界規模での軍事的脅威となる危険な国家である。また、南朝鮮も、その主流が、「竹島不法占拠」問題に代表される、反日運動を推進する、中共に組する国家である。
③今国民国家日本が、バカな理念(グローバリズム)に基づき、国境障壁を低くし、安易に他国民の流入を許し、経済的、科学技術的、軍事的な、あるいは歴史的な理念対立に後手をとり続けるなら(すでに他国の圧力に屈し靖国参拝をやめたではないか。それぞれの国家にはそれぞれの言い分がある、当然のことである、他国になにを言われる必要もない。)、離島住民大衆や、大多数の日本国の弱者たちを、みすみす他国の侵略の前に最初に差し出すことになる(シモーヌ・ヴェイユもそういっているではないか。)。
④われわれの若き時代の巨大な詐術は、マルクス主義による、資本主義の矛盾を経由した後、究極において階級対立を揚棄した国家の解体であった。その後、歴史的に誤びゅうを証明された、このでたらめが、現代では実質的に特定特権層(わずか数パーセントの人間による)全体支配体制であるグローバリズムに引き継がれており、それは国境を越え、利害と目的を同一にした、少数の狡猾な人間に利用されている。この理念は、バカ左翼の継承者の宿あとも相性がいい(ドイツでは「国境のない世界」とか馬鹿な理念で、経済難民を無原則に受け入れ、社会的弱者はひどい目に会っているではないか、それはドイツ帝国の自業自得ではあるが。ところで、鬼籍に入ったかもしれないが、丸メガネのジョン・レノンよ、あなたは罪作りですね。イマジンは、今、とても皮肉に聞こえますよ。)。
⑤日本国の同盟国家であるアメリカ(USA)も、自国を離れた極東アジアの秩序維持に積極的に介入する余裕も、実力も、意欲も失いつつある。また、一方で、何より、戦後のGHQの支配時代より、敗戦国日本が、戦勝国中共、北鮮、南鮮に対して、日本国政府が、日本国の利害、防衛のための準備をしたり行動したりすることを望まず、折に触れ阻止妨害する。
⑥日本政府、日本国民は、重要な国家防衛を、日米同盟に丸投げしていたので、日本国が、現在、大変危険な厳しい状況にあることに無自覚であり、現在の状態がそのまま破たんなく続くと根拠なく信じている。日本国民が、私たちの生き残った父祖たちが、戦後富国のためにあれだけ努力したのに、日本国の歴代政府は、敵に対する備えをまったくしてこなかったことに対し、自民党の大多数及び全野党は、無自覚で無責任である。
⑦安倍首相がいうように、アメリカ軍は、本来的に、他国の紛争に血を流すことは避ける、と考えらえる。また、日本国には、自国防衛の機関としての自衛隊を、愚かにも貶めることが正しいような一部腐ったマスコミ又は知識人層があり、まったく愚かしいことながらにもその根源は、戦後のGHQの支配時代に、敗者日本国は被害者アジア周辺国に何をされても逆らうなという、その思想統制の起源があるように思われる。また、そのデマゴギーは、バカ左翼や、バカ市民主義者たちと通底する。そして、彼らは、危機に際しては、「安保条約がある」、「自衛隊がある」、「義務を果たせ」と恥知らずに扇動する。
⑧現在の、あらゆる民族国家は、その本質として、「富国強兵」を目指し、経済的分配の向上、国民の安心・安全を目標としており(日本国のような例外はあるが)、愚かな外交政策の失点で他国に付け込まれたり、本来責任のない他国に自国防衛を期待するような、あきれたかつ恥知らずな国家運営や国家外交は目指していない。
⑨世界的に徴兵制を採用している国は極めて少数であり、現在の高度な電子戦略に、素人あがりが適応することはまず無理である。どの国でもある、自国防衛軍、として、あるいは災害時の支援機関としての自衛隊には、国民がきちんとその存在を法的に位置づけ、その功績(殉職された方もいる。)に対してはせめて同じ国民として応分の敬意を払うべきである。それは、自衛隊員の士気(モラル)の高揚と、彼らの誇りと自恃の心の涵養に大いに役立つはずである。
⑩いずれにせよ、中共も北朝も内部矛盾の解決としては、覇権主義、軍事国家化しかすべがない段階にきている、このような時期に、自国防衛、経済復興、周辺国との危険国家に対する連携の強化、自国利害の確保への冷静な戦略なしには、われわれの子孫に未来はない。私たちは、応分の備えを持った「平和国家」を目指さなくては、300万人といわれる敗戦時の犠牲者たち、厳しい明治以降の近代国家を創設した先人たち、また何より犠牲になった父祖たちに顔向けができない。まさしく「義」も「誇り」も振り捨て、自国民の危機に際し、安心・安全の確保もできないような、民族国家には未来はない。
⑪「火葬場の少年」の絶望に、あるいは「横川国民学校」の犠牲者の無念に対し、私たちは、自力で何をすべきか、再度覚悟を決めるべきである。
⑫ところで、私は山口県に在住し、岩国基地の近辺に居住するものである。ここは、北鮮が当面の標的にするには、絶好の場所である。私は、もうすぐ、不正確な射程で、何の弾頭が装備されているかもしれない北鮮ミサイルで巻き添えになるかもしれない(実にバカらしいが)。
 もしその可能性を考えれば、個人的には、日本国の脅威中共に対する、媚中共派といわれ、一般国民に対する同胞意識や国家的危機意識が欠如した鳥取県の石破某の家に落ちればいいと思うが、彼は住民票だけ郷里におき、実際は東京に住んでいるのか。もし、山口県の私や私の家族が犠牲になっても、彼は平気なのだろうか、彼の選挙民でなければ(選挙民であっても気にしないかもしれぬが)。
⑬ 私は、日本国から逃げられない大多数の日本国民のために、当面、日米同盟を支持し、岩国基地の拡充を支持する、しかしながら、本音は「火葬場の少年」あるいは「横川国民学校」の悲劇を繰り返さないため、日本国民の総意で働く、自国防衛軍の正式な位置づけを早急に望むものである。


特別編集 思い出すことなど(昭和42年度花岡小同窓会・卒業後文集)H29.8.12

2017-08-14 20:27:50 | 日記

先ごろ、T.T子さんより、追加投稿いただきました。
 長文にわたるため以下に掲載します。
 私の足りない部分を補っていただき幸せます。
 併せ、追加コメントさせていただきます。

   小学校の同窓会を終えて思うこと    T.T子
 今年の夏、小学校を卒業して半世紀という節目の同窓会が実現し、ずっと疎遠になっていた方々と本当に久しぶりにお会いし、昔を思い出し懐かしむ機会を得ることができました。長い年月の間にそれぞれ波乱万丈な生活があったことでしょう。(私を含め)でも、小学校の頃に戻り、楽しいひと時を過ごすことができました。
 改めて私の小学校時代を振り返ってみると、私は二年生の始めに、防府市立富海小より転入、低・中学年の頃の記憶はほとんど残ってないのですが、四年生の時にできた合奏クラブに入ったのが、大きな思い出です。指導者は林惇先生、NHK学校音楽コンクールに出るために、夏休みも毎日のように練習していたのですが、林先生が、こともあろうに日本脳炎にかかられて入院され、その年の出場は叶いませんでした。
 実は私の父が釣り好きで先生に島田川での鮎かけを教えてさしあげ、それがきっかけなのか、先生も炎天下の中度々釣りに行っておられた様子、それが原因の一つではなのではと、我が家で話題になったように覚えています(日射病ではないから、関係ないかもしれませんが。)。
 先日、林先生のお宅に伺った時、「私はあの、日本脳炎にかかった時から少し頭がおかしくなってね。」と言われ、びっくりしてしまいました。回復されるまで、大変だったかも知れませんね(岩国市周東町在住、82歳、我が家から近いのに初めて伺い、薄情な私を反省しました。)。
 私が合奏クラブに入ったのは、下手ながらピアノを習っていたことと、やはり音楽が好きだったのでしょう。私はソプラノアコーデオン、五年生の時は「インドの女王」、六年生の時は「カルメン序曲」を演奏し、件大会で最優秀校に選ばれ、中国大会では優秀校でした。夏休みもほとんど毎日練習がありましたが苦にならず、お母さん方が交替でお茶を用意してくれたり、先生が度々アイスクリームを奢ってくださったりしたのが、懐かしい思い出です(林先生はハンサムで若く、お母さん方はみなファンだったのでは?私は子供ながらに、いつもアイスを買ってくださる先生はお金持ちだなあと思っていました。)。今でもカルメンのメロディを右手が覚えています。実は林先生には山大の教育学部3年の時の光付属小での教育実習で、音楽の指導教官でお世話になりました。
 前に述べましたが、同窓会前に林先生がお元気でいらっしゃるか是非お会いし、ご様子を皆さんにお伝えしなければと思いお電話をしてみたら、とても喜んでくださり、お宅を探してお邪魔しました。ご高齢になられたものの、とてもダンディで、昔とあまりお変わりない様子にびっくりしました。持病はおありのようで、余り遠出はできなくなったとおっしゃっていましたが、「ミュージックカフェ」と名付けられたご自分の部屋に嬉しそうに案内してくださり、ハイドンを聴き、独学のピアノで今もショパンを弾いておられる生活には驚くばかりです。本箱には、先生が編曲して書かれた合奏用の楽譜がびっしり、先生にとって音楽は歴史であり、人生そのものなのだなあと改めて感じました。帰りに、ご自慢の畑や木工室も見せていただき、充実した老後を送っておられるお姿に触れ、とても感動し勉強になりました。
 今年4月に、6年1組の担任だった富田先生が急にお亡くなりになりました。先生には同窓会に出席していただく予定でしたので、とても残念です。林先生には、まだまだお元気でいていただきたいものです。これからも、時々伺わせていただこうと思います。
 小学校の同窓会の幹事をやらせていただいたことで、何十年と疎遠になっていた同窓生との繋がりが復活し、私の老後の楽しみが一つ増えました。これからも、小学校時代の思い出を共有し、懐かしみながら、長くお付き合いしていただければ嬉しいです。お互いに刺激しあいながら、残りの人生を豊かなものにしていければと思うこのごろです。


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「卒業後文集」に係る趣旨説明
 このたび、小学校の同窓会を行うということで、私にとってその目的としたのは、「当時の自分自身を知りたい」、という強い思いがあったのは確かでした。
 それは当時嫌であったこと(うれしかったことはあまり記憶に残っていません。)に対しては、その後何度も(悩み)考え、今ではほぼ説明がついて、自分自身を納得させることができた、という達成感のようなものがあります。また、それ以外に悩みの種はいくつもあったかも知れないが、それは、現在の「自己」(意識でいいです。)と、当時の「自己」のすり合わせの努力によってその解決が可能ではなかったのか、と今は思えるところです。そうであれば、その認識を、当時の「自己体験」(自分がそうであったと考えるもの)を相対化して考えてみたい、再度客観視(正しいものかどうか判定したい)したい、とこうなります。
 しかしながら、このたび、同窓会の準備の過程で、同志の方々と話していて、自分の記憶や思い出が実に不確かであり、いつの間にか、自分自身が自己の記憶をずいぶんと改ざんしていたことに思い当たり、憮然としたこともありました。
 また、同時に、その記憶の追及が同時に当時の同級の相手を交えて行えば、きわめて楽しい、ことにも気づきました。どうも学童期の記憶は、その後の友人との親和力より、もっと強いところがあります。たぶん、みな、そのあたりを目指して、同窓会とか試みるわけですね。
 実のところは、私は、その後の自己意識における記憶の操作で、半ば神聖化するように、クラス担任の先生がたも、そのよいイメージを付加したかも知れません。
 それは、このたび、先生たちに関する女性たちの厳しい批評も聞いたうえで、なるほどと思い、いわば私の記憶がこのたび修正・相対化できたようなところもあります。しかしながら、人性において、他者の無償の親切など、尊く美しい姿は瞬間のものであり、決して永続化するものではないのも、確かなことでもあります。同時にその「無償の」親切を決して軽んじていいものではないわけですが。
 このたびの、参加者の問わず語りで、少なくとも、悪かった先生より、よかった先生の思い出が上まわったのは、われわれがその後、人並みの苦難を経て、それぞれ人格の陶冶(とうや)を経て、品格を向上(?) した結果であることなのか、そうであれば幸せなことです。

 また、どうも、みなの先生にかかわるその話を聞いていると、(私が思った)出来の悪い生徒ほど、後々から、先生方の目が届いていたらしい、というのは、関西弁で「アホな子ほどかわいい」(失礼)というか、私たちが今思えば理解できる「なるほどな」という、人性の機微というか醍醐味ではあります。
 また、もう一つ、少なからぬ時間を一緒に過ごした同級生(長くは幼稚園から高校まで一緒に過ごした)彼らに死ぬまでに一度あいさつをしたい、というのはひとつの目的でありましたので、お互い先行きを知らない身ですが、このたび、みなの記憶をたどり、あらたに「なるほどな」とか、みなの当時のそれぞれや、その後の決して楽でなかった状況に思い至り、感慨深い楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがたいことではありました。

 どうぞ、皆様、「卒業後文集」に投稿してください。


卒業後文集           (H29.8.12)        
◎始めに
まず、私たちの卒業アルバムを前に、卒業当時の小学校の現状(?) を振り返ってみたいと思います。
私たちは、昭和42年度の下松市立花岡小学校の卒業生です。したがって、昭和43年3月に花岡小学校を去ったこととなります。当時の友人にお借りした「思い出」というアルバムをひも解いていきますと、最初に卒業記念の時計台の写真が貼ってあり、どうもあのアルバム作成に間に合わなかったようで、糊で貼付してあります。当時、塔の造作まで負担できたとも思えず、設置した時計の裏面に昭和42年度卒業記念との記載があるのかもしれません。
アルバムに戻ります。
最初に、職員室棟と、講堂の左方向から見た写真が載り、花壇とあの懐かしいソテツの植え込みが見えます。遠景ですが、新築間もないあの輝ける学校プールが見えます。職員室棟は、木造モルタルの二階建てで、決して新しい建物ではありませんが、授業の合間に職員室に呼ばれたことなど、その際の不安と期待のないまぜになった、当時の自分の気持ちにいつでも戻れるような気がします。
かの棟の二階には、当時は学校方針として努力してその充実を目指したのでしょう、小学校にはもったいないほどの規模の図書室がありました。その校舎の写真の右上には、すかした(私の主観)K校長の写真が載っています。
続いて、当時の教職員の集合写真となります。
教職員全体で23人です。当時私の学年だけでも、2クラス100人弱くらいであり、単純に考えて全校600名弱として、この人数で学校経営をしていたのですね。30人クラスなど夢のまた夢です。6学年、各2クラスとして、最低12人の先生が必要になるとして、また、23名のうち、校長、教頭を含め、男職員が8名しかいない、というのにはびっくりしました。現在と比べれば相対的な評価にしかならないかも知れませんが、人数配分を見ると当時の小学校も激務だったのですね。先生方の顔ぶれを見ていれば、当時の同窓の皆様には、それぞれの先生方にまつわる、それぞれの数だけ思い出があるものかもしれません。
続いて、6年1組の集合写真です。総員で43名です。
さすがに懐かしい顔が並びますが、幼稚園以来ずっと顔ぶれが変わらない同級生たちも多く、学童期の顏つきを見ていると懐かしい思いです。我々の担任学年2人と特殊学級(当時の呼称)の担任、校長、教頭が付き添います。児童たちのなんとそのかわいいことか、卒業後、中学校・高校と引き続き相まみえることとなりますが、ここまで時間が流れ、今の私たちと年齢がかい離すると、「おー、偉い、偉い」と、抱き上げたくなるようなところですね(嫌がるでしょうが)。
続いて6年2組の集合写真です。総員が46名であり、私にとってやはり、より懐かしい友人たちです。
思えば、良いことも、悪いこともあった。今思えば、それ以降に膨大な時間が去り、それぞれの距離が近かった分だけ、愛憎が多い様で、より、懐かしい思い出です。

私たちの、小学校の在籍の担任の先生方を下記のように列記します。実は私の記憶が定かでなく、問い聞きで作成しましたので、誤記載、錯誤はご容赦ください。
 1年生  K野先生    Y野井先生
 2年生   YT先生  I先生
 3・4年  M永先生    F岡先生
 5・6年  T村先生    T田先生

 それぞれ、かけがえのない懐かしい先生方ですね。

◎富田賢士先生に係るインタビュー
先生おひさしぶりです。
 昭和42年度花岡小学校卒業の、天道公平といいます。
 先に同窓会をして以来、また、20数年も経過してしまいました。
 長年の無沙汰をお詫びしますとともに、このたびお会いできる機会をいただいてありがとうございました。
 つきましては、これから、いくつかご質問させていただきたいと思います。
 私たちも還暦を過ぎ、この試みを考えたわけですが、先生と行き来があるということでT田(旧姓U)T子さん(以下「Tさん」と略称します。)に同行をお願いしたところです。男の年齢曲線とすれば、多くは、仕事を引退し、過去の総括と、自分の今後の残時間(死
ぬまでの時間です。)を計算し、体勢をたてなおす猶予時間(甘いといわれても実感というものは後でやってくるものですよ。)であるような段階になっています。
また、多くの女性たちは夫の引退を経て、(これは個人的な見解ですが、)夫はうざいと思いつつ、老親の監護は別にして、子育ての方では一段落してほっとされた時期とも思われます。
そんな時期であり、先生にお会いしたいという気持ちをにわかに思いつき、誠に勝手ながら、われわれの前思春期を知る、先生とお会いし、当時のお話を聞かせていただきたいと思います。
先生同様、私たちにとって思い出深いT村K子先生は残念ながら先にお亡くなりになったということです。

残念ながら、私は、先生とずっと一緒のクラスというわけにはいきませんでした。その分、当時6年2組担任の同僚、T村K子先生について多めに語っていただければ、私たちもうれしいところです。
また、今日は、始末の良い、Tさんのおかげで、当時の卒業アルバムも用意しております。私たちと一緒に、記憶をよみがえらせていただければと思います。
 それでは、始めます。

Q 私たちは、昭和43年(1968年)3月に(昭和42年度)下松市の花岡小学校を卒業させていただいた、6年2組の生徒ですが、私たちの記憶とすれば、クラス替えが少なく、持ち上がり(5年、6年)だったため、先生と児童(私たちの)関係がとても密であったように思います。そういったところで、何か印象に残っていることがおありですか。
また、私たちの卒業当時の先生の年齢を教えてください。
A 昭和9年生まれで、ちょうど33歳くらいですね(現在は満年齢で82歳となる。)。
(ということであれば、T村桂子先生は、10歳年長と聞いているので、43歳くらいとなります。そのお二人の当時の年齢を聞いて、改めて現在の私たちは、胸を突かれるような思いでした。)
Q 先生は確か我々が6年間在学中に一度Y川小学校へ異動され、また復帰されたように思います。当時の思い出(もう時効ですからいい思い出でも、悪い思い出でもどちらもOKと思いますが)があれば、カミングアウトされてもいかがですか。私たちとすれば、特にもう一人のT村桂子先生と、ダンディで音楽指導について定評があり、女子児童とお母さんがたにもきわめて人気の高かった、音楽のH先生が、強く印象に残っていますが。
A 下松市米川小への異動については、当時K校長が、異動内示があったがどうするか、高森か米川だ、という話があり、高森は嫌だったので、米川にしてもらいました。
 また、当時の私の在任中に事故で亡くなられたM校長先生も印象深いですね。
Q 当時通勤については、花岡小時代は岩徳線で花岡駅まで通勤し、米川時代は、その後花岡駅からバス通勤していました。
(人事異動についてはもう少し生臭い話を予想していましたが・・・。Tさんたちは、後述のH先生の指導のもとで、猛練習の末、合奏コンクールに出場され、見事、県大会で優勝されたそうです。音楽が好きだったK校長先生は、夏休み中の練習中にも、よく、後ろの方で、皆の練習を見守ってくれたそうです。
K校長の前任のM校長については、国道二号開通の間もないころで、スクーターでの交通事故で亡くなられ、私は当時「先生だって死ぬんだ」、と強烈に思ったことを覚えています。)
Q T村K子先生については、
A 熱心な先生だったという覚えがあります。
  当時、学年主任としておられたと思います。
(私とTさんは、5年、6年と田村先生に教わり、Tさんに至っては、後年、下松小学校の新任教員時代に、一緒に勤務し、先輩として指導を賜ったそうです。生涯、現場を選ばれ、最後まで、子供たちと向き合い担任として生き方を貫かれたようです。なかなか厳しく、狷介なところもありましたが、個人的には、「読書」への意欲を教えていただき、それについてほめられ、とてもうれしかった記憶があります。私のように、運動神経も鈍く、学校の勉強もあまりできなかった子でも伸びるところは伸ばす方針だったのでしょう。
長く教わり実際のところ「恩師」といえばこの方かなと思いますが、常に、きちっとスーツを着こなされ、背筋を伸ばした方でした。そういえば、このたび私たちの卒業アルバムの寄せ書きに、「本を読む生活を」と書かれていたことをこのたび現認し、「やっぱりな」とほほえましくも納得しました。(ちなみに、T田先生の寄せ書きは、「誠実」(アルバムを虫眼鏡でみて見ます。となっています。)
Tさんが言っていましたが、T村先生は、後年、大活字の書道を始められたそうであり、そういえば、市美展出展や、私も広報で見たような覚えがあります。自己の目標とそれに向かう努力を怠らなかった方であり、かえすがえすも、何故、20数年前の「美沢(みさわ)」同窓会で、なぜもっと長くお話しできなかったか、と、今でも後悔しています。「T村先生」と聞けば、今でも、背筋を正す思いがします。同窓会会場に広報に扱われた先生の記事を掲示します。)
A H淳先生については、
 H先生は、下松の米川から養子に行かれた方と聞いています。
 光付属小で音楽専科として後進の指導、その後岩国市の小学校の校長として勤められましたが、早期に教職を退職され、周東町で家業のガソリンスタンド経営や、不動産業に携われたようです。
(Tさんは、光付属小での教育実習で、H先生に巡り合い、合奏部以来、厳しくも懇切丁寧な指導を受けたといいます。二度も指導を受けられた幸運な方です。
私自身、一時家業であった、薬局屋のおやじをやっていた時、買い物に来られたことを思い出します。本当はあらかじめ、知っておられたのか、こちらから、「先生、お久しぶりです」と話しかけたら、ニコッと笑われました。もし、私が分かるなら認めようと思われたんでしょうね、どこかで見守っていただける先生とは有り難いものです。
Tさんは、H先生は校長にまでなられ、順調な教員生活をされていたのに、なぜ、辞められたのかね、と話していました。)
A その他の先生については、
 K口虎雄先生((注)伝説の教師でした。)から、私自身はまったく泳げないのに、花岡小にプールが設置された年に、水泳部の副担当に指名され、陸トレやなんやらに動員され大変でした(とても苦痛だったという言外の意味あり。)。

Q 小学校の先生であるので、当時まだ専科というのはなかったと思いますが、先生が最も好きであり、あるいは最も得意であった、また逆に、嫌いで、苦手とした学科を教えてください。
A 社会科でしたね(即答)(苦手については言及なし。)。(そういえば、T田先生は、「歴史クラブ」の顧問でした。
 高学年では、直接指導は受けませんでしたが、中学年時に、T田先生の授業は、社会科が最も楽しかった覚えがあります。
当時は、熱血青年教師でしたが、宗教文学者「宮澤賢治」に傾倒され、学芸会で、「シュプレヒコール「人間の手」」というのを上演され、「手、手、人間の手」と、舞台から身振りを加え、全員で客席に叫ぶ、前衛劇のようなそれは、私にとって今も強い印象があります(後年、宮沢賢治全集などを探したのですが結局見つけることができませんでした。)。
20数年前料亭「M沢」(KNさん経営)で再会を果たした際に、「宮澤賢治がお好きなんですか」と私が聞いたとき、富田先生は「なぜだかわかりますか、彼は、農民文学者だからですよ、私も農民ですから」というのが、その時の答えでした。その後、私も、宮澤賢治フリークを続け、実際に花巻市主催の「宮澤賢治祭」まで行ったこともあり、やっぱりこの先生にも、多くを負っている、とこのたび思いました。)(今では、好きな賢治と、そうでもない賢治とわかれてしまいましたが。)
Q 花岡小学校以後の、その後の先生の勤務地など、差支えなかったら教えてください。
A まず米川小に赴任し、周東町内の小学校、それから周東町教育委員会に勤務しました
(玖珂小学校の校長で退職され、最終的には、周東町の教育長を長く勤められたそうです。このたび会場掲載写真の教育功労の叙勲に奥様と一緒に出席されていました。)。
Q 皆が気にするかもしれませんので、先生のご家族と、先生の現在の状況を教えてください。
A 男2人と女一人の子供たちがいます。長女は広島で、息子たちは、熊毛(清光台と思われます。)と、光に住んでいます。一遍、行ったけど、団地の中で、良く所在がわからなくなったですね。
( 実は、先生は、数年前に奥様をなくされたそうであり、思えば大変な時期にお邪魔してしまったわけです。これは申し訳ないところです。
しかし、なぜ、あの20数年前に、まだ玖珂小の校長をされていた現役の教育者であり、退職間もないころのT村K子先生を含めて、元気であった、両先生に、もっとよく、話が聞けなかったかと、悔ゆるばかりです。)
Q 先生について、私の最も大きな思い出は、小学校低学年時に、クラス全員で自転車に乗って、米川高垣(こうかけ)地区の秘境、白雲(しらくも)の滝を観に行き、その後滝つぼのそばで、皆で飯盒炊さんをしてとてもうれしかったことですが、そのほかのことでも、先生何か記憶がありますか(当該白雲の滝は、現在末武川ダムに取り込まれています。希望があれば案内します。)。
A そのことはよく覚えています。
( 私は、当時、忙しい親に一緒に遊んでもらった記憶がほとんどなく、大変うれしかったことを、今も忘れられません。先生も、まだ、30歳前の熱血教師でしたが、たぶん周囲の反対を押しきって実行されたであろう、その恩義とか、人としての親切のようなものは今も忘れられません。やはり、先生はありがたくも、一生先生なんですね。

 たぶん、わが同窓たちも同様に、またほかにもさまざまで、異なった良い思い出がたくさんあると思います。是非、個々に語っていただきたいところです。)

◎おわりに
このたび、当該原稿を書くのに、花岡小学校へ行ってみました。
下手の法静寺側の市道から、正門をおそるおそる入ってみると、全校活動日らしく体操服姿の子供たちがグラウンドで遊んでいます。見とがめられずそのまま進むと、講堂のそばを流れる小川があり、その後の土木工事の成果、水辺への遊歩道が作られています。かつては、あの川でアヒルを飼い、夏休みもアヒル当番というのありましたが。
校内をあちこち徘徊することは、先生方の目もあり断念しましたが、現在の「コミュニティスクール」という方針なのか、一時期よりは、外来者に寛容なのがありがたいところです。
グラウンドには、まだ、あの藤棚が残っています。
時間を経て、変わるものと、変わらないものがあるのは確かなことですが、それはそれぞれの時間の流れに差があるためなのかもしれません。私の通学路である校庭の西門のそばに植わっていた、むくの木(本当のところ樹種がよくわかりません。)の巨木はすでになく、さみしいところです。思えば、花岡八幡宮、重要文化財多宝塔や、中がうろになったせんだんの大樹もあった花岡公園と、寺社に囲まれ、花岡小学校は、本当に良い環境に、存置したのですね。
低学年時、石垣によってグラウンドに沿接する、法静寺及び同級生のK君の家のそばまで、石垣を乗り越え、近道をしていましたが、あれほど高いと思っていたあの石垣が、今下側から見ると、私の目の高さで校庭内が容易にのぞけるのは、拍子抜けです。グラウンド側から、間を縫って(槇の植え込みがあったと思う。)、何度も法静寺側へ飛び降りたことがあり、今思えば迷惑なことでしたね。そのあたりは、見逃していただいた先代の住職さんに感謝するところですが、思えば私の人性も、幼稚園から小学校へと、引き続き隣接する場所で過ごせて、ありがたいことでありました。
もし、卒業後、私が、近所に住んでいれば、私のこどもを連れて立ち寄ったかもしれませんが、そのような機会がなかったことも今思えば残念なことです。
しかし、私たちがいなくなっても、連綿と、花岡小学校は続いていたし、また、続いていくだろうということで、なんとなく納得してしまいます。
 
◎追記
ところで、大変残念ながら、さる4月中旬にT田先生が、突然に逝去されました。
私が、通夜に参列いたしましたが、当日は大雨洪水警報が発令され、さながら、なみだ雨という状態でありましたが、100人以上も列席者があり、盛大なものでした。
奥様に先立たれ、やはり気落ちされたことがあったのでしょう・・・・。
三月に、肝臓の病巣を発見され、早すぎるご逝去でありましたが、長患いとならなかったのは、幸いであったと申し上げるべきでしょうか。
在りし日の先生が、地元の教育長退任後、大賀ハスを育てる地元活動に尽力されたことや、平成20年に叙勲されたことなど、会場に設置された写真スライドで見せていただきました。お二人で、大変晴れがましく、また、楽しそうな表情でした
(この写真は、当日会場でご覧ください。)。
このたびのわれわれの同窓会に、先生をお呼びできなかったことは大変残念ですが、T村K子先生と同様に、このたび、胸に手をあて、在りし日の先生の姿と思い出をしのびたいと思います。

今思えば、この文章は明らかに「T村K子先生」仕込の「読書ノート」であると納得しますが、私は、現在ブログ「天道公平の「社会的」参加」(blog.goo.ne.jp)というものをやっております。その中(「思い出すことなど(小学校の卒業アルバムをのぞいて)」)において、両先生についてふれさせていただいております。
せっかくなので、このたび、(特別篇「思い出すことなど(2017小学校同窓会始末)」)を、アップしますので、今後、皆様方のうちで意欲のある方は、お二人の先生方に対する切実な思い出をコメントしていただければ大変幸せます。閲覧もよろしくお願いします。
先の中学校の同窓会以来、小学校同窓会の検討に入り、その際一緒にやっていただく幹事の方々の、小学校時のさまざまな思い出を聞くにつれ、ますます、そのありがたさ、とか懐かしさとか、記憶のあいまいさや錯誤などいくらも出てきて、これらを是非共有したいと思ったところです。(文責 T・K)


「植田正治写真美術館」来訪併せ山陰の文化その他について言及し、最後に石破茂氏罵倒

2017-08-03 22:04:47 | 罵倒シリーズ

うちの息子が大学生時代(今もすんでいますが)を、鳥取県の鳥取市と米子市で過ごして以来、数多く鳥取県をおとずれ、すっかり、なれ親しんだなじみの県になってしまいました。娘がすごした、現在の東広島市、広島県は、何度おとずれたとしても、同じ山陽地区に属しながら、疎遠な感じがするのに比べて、奇妙な気持ちがするところです。
このたび、久しぶりに鳥取県米子近郊、島根県、松江、出雲も訪ねてみて、私は、むしろ、島根・鳥取と、山口県の西部・北部を含め、山陰文化圏というようなものに惹かれているのではないか、と思ったところです。更にことばを重ねると、歴史を重ねた「敗者の歴史」に惹かれるのではないか、となんとなく思ってしまうのです。まず、前提として、私、中国地方民の一部として言わせてもらえば、中国地方は、山陰・山陽と、くっきりと線引きが可能です。
 なかなか、主流になれない文化圏、といえば、反発を食らうでしょうが、山陰地区といえば、古来は、大陸との行き来が盛んな先進国であり、大和朝廷に対峙、敗北した出雲族の拠点でもあり、古代では、比類のない先進国であった、といわれており(私が仕事で出た研修で地元大学の講師が力説された)、かつて決して、「山陰地区」ではなかった、といわれるところです。しかしながら、うちの息子に言わせれば、地区民の気質は、陰気で、うちにこもりがちであり、容易に他人に心を明かさない、冬は冬で、陰鬱な天気で、雪が降れば家に閉じこもる、と、述べており、それは私に言わせれば、まるで京都人のようであり((井上何某さんの指摘は別にして)、私は、かつて、京都人に対しては、「権威ばっかりあてに寄りかかる、こいつらは心底田舎者である」と深く思ったことがあります。鳥取県民についても、県民性とか、それは一見さんにはわからない、よかれ悪しかれ、「いなか者」であるしかないのは確かであるのかもしれません。もちろん、私の直感が、山陽地区の田舎者の感覚の派生形態であることも確かなことですが。
 京都での大学時代(1970年代後半)に、鳥取から来たサークルの後輩が居ましたが、京大に落ちたのでやむを得ず、ここに来た、といっており、彼は同時に家庭音楽教育崩れのジャズピアノの奏者でありました。当時、彼が言うには、少しばかり、はめを外した高校時代の仲間内の行動が、地元で「共産党」といわれた、と述懐しており、いなか出身の私としても、「すげー、いなか(田舎者及び田舎気風)」と思ったことがあります。彼は、地元の名門高校出身であり、大学とは、「京大である」ということとなっていたそうです。私が現認した際(2000年初頭)も、今も、地元予備校のキャッチコピーは、「京大進学会」とか「京大進学コース」とか、街角で見ればそうなっており、ここは京都を目指す文化圏なんだ、と思ってしまいます。田舎者は、おしなべて京都に上洛するのです。
 それはそうと、彼の言説によっても、かつて、ジャズは鳥取できわめて人気があり、彼の時代から、いなかでは、ジャズは、当時、日常・月並みに対する反逆と、旧弊を嫌う新しい文化のおとずれであったようです。このあたりのなんとなく同時代的な雰囲気は、山陽地区側での、当時のわれわれの地域の実情と通低するところがあります。
 当時、ジャズとは、アメリカ黒人などの社会的な疎外者、非白人の被収奪者による自前の音楽というような「共同幻想」に裏打ちされ、1970年代の学生運動時代にも膾炙(とてもよくわかります。)され、実際のところどこにもジャズ喫茶店などいくらもあったのですが、しかし、山陽地区(ことに山口)では、80年代ころにはとどめをさされています。
同様に、学生ばかり多い京都ですら、昔、通ったようなジャズ喫茶など、その後再訪しても、いつの間にか見なくなりました。しかしながら、米子市や松江市など、平成大合併の前では人口はそれぞれ、15万、20万程度の地方都市ではありましたが、うちの息子の学生時代、2000年代の最初のころにおいてさえも、ジャズライブの飲食店があるのにはびっくりしました。そうそうに有名なプロがくるわけでなく、普段は大学や地元のジャズ愛好者が、ノーギャラに近いように演奏していたようですが、複数の立派なビッグバンドもあり、愛好者も数多くあるようでした。松江には、老舗のライブハウスもあったそうです。それぞれ、動員人数が少ないとしても、これらの施設は、主催者の心意気のように開場・運営していたのですね。都会文化への過剰な迎合といってしまえば身もふたもない話ですが、田舎の少数派の先鋭化しがちな傾向はよくわかります。
私たちが、時に滞在した米子市は、駅そばには、田舎では珍しいような、高層の商工会議所ビルがそびえ、後で聞けば、米子は「山陰信販」の発祥の地であり、流通の拠点と繁栄の歴史があり、北前船の経済にどのように組み込まれていたかは調べておりませんが、中海から、船で米などを運ぶ水路が古い商家の連なりの中を人造運河などが設営されており、縁接する旧商家の蔵の景色とあいまって、往時の繁栄が思い浮かべられる、雰囲気のあるところです。米子は、都市形態は、商業都市というべきか、デパートもあり、近在からの買い物客も多く、衣食住の拠点のようで、他にも皆生温泉や、大山の遠景が望める弓ヶ浜など、観光地や名所に恵まれた美しい場所です。また、砂洲のような道路を境港に向かえば、日本海有数の漁業水揚げ基地(例の松葉ガニや生マグロが有名ですが)境港に繫がっていきます。
 ところで、米子市にも、松江市にも、空港が整備され、首都、東京から、一時間程度の所要時間で、日帰りで往復が可能になりました。これは大きいですね、交通関係の進展は、人の流れも、意識をも変えていくのですね。
私の知っている料理屋さんも、東京出店という運びとなり、どうぞお願いします、といっていたので、東京志向に転換していったのかもしれません。そういえば、「米子鬼太郎空港」も整備され、あれは(私も60年代の鬼太郎シリーズは大好きですが)根強く、資質的に惹かれるというか、こどもたちを含めた熱心なファンも多いと思われ、東京圏などから新たな人の流れが形成されているのかも知れない、ところです。現在のNHK朝ドラ「ひよっこ」を見ていても、昭和30年、40年代の関東圏の茨城県民でさえ、東京にあこがれ、その愛憎の的にもなり、無原則に都会を受け入れるのですね、ましては、当時、東京までどのように行けばいいのか、山陽側(岡山)まで遠征しなければならなかった、山陰住民であれが、もっとその感情の振幅が大きかったかもしれない、ところです。
現在、わが山口県と東京間は、新幹線で4時間半くらいの時間がかかりますが、考えてみれば、あの、70年代後半など、誰もが大学に行くようになった時代に、同級生にしても、みな東京に行きたがり、「京都へ行きたい」などというのは異端だったように思われます。改めて、交通関係というか、人や文化の流れ(感覚や意識の流れを含め)は、こうもわれわれの観念というか、思考や、感情を刺激し、拘束するものかと思われるところです。
かつて、米子に行こうと思えば、山口から新幹線で岡山に行き、特急列車で米子に行き着くしかありませんでした。乗り換えもあり(ジーゼルカーでした。)、時間もかかり、大変でした。
車での移動ということとなれば、まず、山陽自動車道から、広島で中国自動車道に乗り換え、岡山県の新見インターで下車し、例の後醍醐天皇が隠岐に流刑になった通路といわれる国道180号明知(あけち)峠を経由して、米子へ抜ける道であり、片道で5時間くらい要しました。古代からある古い道沿いというのは、趣があり、沿線の景色も、縁接するよしず張りの商売屋の物売りなどでは、見たこともない産物もあり、大変興味深いところです。沿線の観光施設では、包丁や、鎌、なたなど、製鉄文化に根ざした特産品を売っています。びっくりしたのは、どうも古代のものと思われる英雄の面が売ってあり、出雲神の国譲りの大国主命のみならず、やまと朝廷にまつろわぬ(戦いを挑み破れた)出雲神も同時に陳列されてあり、この地区の方々の内なる複雑なる思いを察するところです。
また、山陰地区は、水量が豊富で、斐伊川や、日野川など日本海に注ぐ、一級河川などの大きな河が多く、大山(だいせん)などの中国山地の裾野を流れる大きな清流に沿って走る道路を走るのは、実際、気持ちのよいものです。冬季の、降雪時は、状況は一変しますが、山陽側ではみられない、豊かな自然ではあります。その意味で、とても懐かしいような景観と風土です。

さて、ここから、主題です。
前から、大山への連絡路を走るたびに、表記の写真美術館(以下「写真館」と称します。)を目にしていました。ものを知らない私は、彼がどんな写真家なのかまったく知りませんでした。
たまたま、NHKEテレの、日曜美術館を見ていたとき、佐野元春氏がゲストで、この写真館を案内されながら、植田正治の写真に対する思い入れを語っていました。
その際に見たのが、砂漠を舞台にした演出写真でした。あ、これは知っている、ということで、このたび、当該写真館に寄ってみたところです。
この写真館は、米子市の隣接の伯耆町(ほうきちょう)に在り、中心地から10kmくらいの大山の裾野の草地の中に建ったコンクリート打ち放しのモダンな建物であり、その展示は、遠景の大山を借景にする彼の代表作の演出など、さまざまに工夫を凝らしています。
鳥取といえば砂漠でなり、われわれもかつて、修学旅行などで行った覚えがあるのですが、なにぶん、遠い上に、交通の便が悪いところで、最近はあまり行くことはありません。鳥取県の都市(?)は、二極化しているようで、西部の米子(松江)文化圏、東部の鳥取市文化圏と仮に名づけますが、鳥取市は、どうも官庁街であるようで、少し気取ったそのあり方が鼻につき、また外国人の居住があるせいなのかやたらに焼肉屋が多く、加齢によって、あまり食指が動かなくなった私とすれば、滞在等は好みません。しかし、鳥取砂丘は、その名に恥ずることのない、驚嘆する自然の美しさと、また立派な観光地であり、こどものころ、あるいは高校生のとき友人と語らって立ち寄った際(あれは三島由紀夫の割腹自殺の年であった。)、奇妙で、不思議な光景と、だだっ広くいくつも起伏のある砂丘を見たときに、大海に接したときのように大きな明るい開放感がありました。刻々と変化する砂地の風紋や、水色の海との対比を見ると、人の心を解きほぐすような光景に思えます。
日本海側の、海浜の白砂青松の美しさについては別のブログ(「清流で泳ぐことの快感」)で触れましたが、鳥取県の海浜も、島根県に勝るとも劣らず、砂丘以外の場所でも、目の細かい美しい砂と、美しい浜辺が広く見られます。
ところで、戦前から、植田氏は、砂丘を舞台にした、企画演出写真をたくさん撮っており、戦後になって、本格的に、その砂丘で、家族を並べたり、モデルを使ったりして、家族像や、人間や、かさや杖、帽子などを使った演出写真を作っています。どれもに、ユーモアがあり、砂漠にある奇妙な人間の開放感とあいまって、見るものに開放感を与え、同時に時間の流れに抗するような永遠性を与えてくれるような光景があります。
ことに、着物姿の植田氏の細君や、学生服の二人の男の子、一人は三角巾で肩を吊り、片方は自転車に乗っています、白い晴れ着のワンピースを着て一輪の花を持った女の子(和子さん、家族から「カコ」と愛称された一人娘のようです。)たちの、砂丘上で横一列の集合写真など、被写体とカメラ側との気持ちのやり取りまで伝わるようで、大変興味深い写真です。彼は、この主題を何度も何度も繰り返しています。彼は、後年フランスから勲章をもらっているようですが、その写真は、知的で、シュールで、日本的でないようでありながら、実は日本的であるという面白い写真となっており、砂丘という風土が、被写体の彼ら全体に大きな影響を与えているように思えます。昔の写真ですから、写真機の性能に応じ現場で長時間拘束(暑かったろうなー)されたでしょうが、彼の家族一同、喜んで協力したようです。
彼は、もともと洋画家志望でしたが家族の反対で挫折し、地元で写真館をやる傍ら、写真芸術家の道を選んだようですが、終生、鳥取を離れなかったようです。
歳のせいか(また言ってしまったが)、近代以降の忘れられたような日本の風景や日本人の姿の写真にとても感興がわき、ことに、私はいなか育ちというバイアスがかかっており、古い時代の周辺地区の街角の光景に心が動いてしまいますが、私が未生か、ものごころもつかないころの、いなかの風景に(境港出身の漫画家水木しげるの「のんのんばあ」で描かれた彼の幼年期の記憶も興味深いところですが)、わがふるさとより更にいなかの光景に、心底惹かれるのを覚えます(ああ昭和)。

標記の写真は、彼の後年の「童暦」という写真集の一つであり、彼の代表作とはいえないかも知れませんが、村の鎮守のお祭りに、一軒だけやってきた行商の露天商に小銭を握り締めて並ぶこどもたちの生態が、活写されています。魔法の箱のような、大きな茶櫃に何が入っているのでしょう。異族のような露天のおやじは、うまいこと言って、こどもをさらって、箱つめにして、サーカスか何かに売り飛ばすやもしれません。背景の鎮守の森と、地区民全員の畏怖と敬意を以て扱われる社殿が背後にそびえ、いなかの景色は固定されています。私にとって、懐かしく、寂しいようで、また敬うべき光景です。
ところで、かつて、北朝鮮工作員によって佐渡島から、拉致、誘拐され、一生を棒に振るような体験をした、曽我ひとみさんは、大きなリュックサックに、声を出せないように逆さに突っ込まれて拉致されたと聞いている(彼女の少女期においてさぞ恐かったろう)、それはまるで私が幼年期さんざん脅かされたひとさらいの仕打ちであり、あたかも「共同幻想論」の中での山人によるかどわかしにも思えるこのような行為の現実が、他国独裁国家による一般住民大衆に対する恥知らずの仕打ちが、ついこの前でもあったわけであり、なかなか、昭和も遠くにならないわけです。

ここから、変調します。
ここ鳥取は、自民党の有力政治家、石破茂氏の選挙区です。
自民党の領袖といわれ、ポスト安倍候補といわれる、鳥取県を選挙区にする、石破茂さん、あなたを最初にテレビで見たとき、あなたは、少しなまっており、東北出身の代議士か何かなのと思っておりました。また、そのとつとつとした話しぶりが、都会人に受け、人気がある、とも聞いて、都会人とはそんな甘いものかと思っていました。
また、あなたは、どうも、私の出身大学より偏差値の高い名門私大の法学部の出身と聞き及び、きっと優秀な方なのでしょう。
取材に応じ、とわずがたりに話される中で、庶民感覚の発露のためでしょうか、キャンディーズのファンだったと聞きました。また私より、2歳若いと聞き、そうですね、彼女たちは、当時は大変な人気でした。あまり、目立たなかったミキちゃんが好きだったというのはなかなか渋い好みです。殊に、「私たち、普通の女の子に帰りたいんです」との彼女たちの意向で、解散コンサートを大々的にした際は、老若問わず男ども大熱狂の時期でした。
しかし、私は、最期の「政治の世代」に属する人間であり、手放しで、アイドルに熱狂する非政治的大学生も、党派に入った政治的大学生と同様に、どうしても好きになれませんでした。私より2歳若いあなたの、K大時代には、「政治の時代」は終焉していたかもしれない、しかし、第二次オイルショックから、右肩上がりの時代に移行する時期に、あなたはどのような「政治的」体験をされたのでしょうか。クリスチャンになられたとは聞いていますが、どうも父祖の時代から、政治家の家系であり、由緒正しい党人政治家として、家庭でも英才教育を受けられたのかもしれません。
しかしながら、現在のあなたの防衛問題に対する見解や、経済問題に関する見解は決して同意できません。
先般の南シナ海域の覇権国家中共によって行われている南アジア及び日本の地域の安全を脅かす行為にも危機意識が欠如したうえで、なんら有効な手段を採ることをことを怠り、なんせ「媚中派」と称され、現在「強兵富国」政策をとり、アメリカの太平洋艦隊すらなめ切ったような危険な覇権国家に対して、国民の安心安全について、きわめて無自覚ではありませんか。このたび、私は、松江市によりましたが、島根県は、「竹島問題」ついて、県民の安心安全、ひいては日本国の安心安全に努めるため、懸命な努力と対応をしています。領土問題を端緒に、他国に、なめられると、ろくな結果にならないのは、かつての愚宰相、菅直人の教訓を見れば明らかではないでしょうか。野党時代にあなたはそれを見ていなかったのか。あなたの、選挙区は、北朝鮮にきわめて近いわけでしょう、もし「あなたに組する」選挙民の頭上になんの弾頭かわからないが、大陸間弾道弾も発射可能という、ミサイル攻撃をされたら、どんな言い訳をするのですか。
引き続き、あなたは、財務省になめ切られ、財政政策にも、デフレ対策の常道の景気浮揚の公共事業にも無頓着で、TPP大賛成、無原則な消費税増税承認、あなたが、東京で醜悪なグローバリズムに荷担・推進している間に、あなたの選挙区は、疲弊し、あなたの選挙民も、あなたの選挙区も、干上がってしまいはしないのか、このたび、山陰自動車道も、松江自動車道も通行したが、まことに利用勝手が悪い、なぜ早急に複線化しないのか、山陽側にあんな半端な社会資本はないぞ、直ちに建設国債を発行し、地方の弱点を克服し再生をするのが、鳥取に地盤を持つあなたの喫緊の課題ではないのか、日本国を出て行けず、地方を出て行けず、地方で、僻すう地で、農業や林業で細々と国土の保全と、安心・安全を守っている、あなたの選挙民に対し、悪いことをしていると思っていないのか、「景気は回復している」と、財務省の詐術にくみして、消費税増税に荷担するなど、派閥の領袖として恥ずかしくないのか、いいことなど少しもないではないですか。
少なくとも、財政政策は別にして、防衛問題については、安倍晋三氏は逃げていない。
やっぱり、山陽側は、間違いなく山陰側に勝っている、少なくとも人材的に。
あなたが、怠っているうちに、私の好きな山陰側の自然や文化や歴史が干上がってしまうことを、私は恐れている。