天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

続・今後の「農協」の問題について(私見) 

2016-10-26 21:20:03 | 時事・風俗・情況
(先日来より、アメリカ大統領選挙をにらみつつ、「農業協同組合」について、改めて所感を申し述べます。)
 先に、わが「歴哲研」では、三橋貴明氏の「亡国の農協改革」(2015.9.28出版)を皆で読みました。
 当該著書は、すぐれた経済学者三橋貴明氏が、「畢生(ひっせい;一生を終わるまでの期間で。一生涯で。終生の。)の」著作といい、出版当初、全国会議員に献本したとの話であり、心ある(国民の安心・安全を第一義に考える)国会議員からなにがしかの反応と、新たな動きがあろうかと思いましたが、私の観察した範囲では、国会議員には何の動きもありませんでした。
当該著書で扱われている、TPP条約締結前から、日本政府主導で、農協改革(改悪)法案を成立させ、米金融・寡占資本のお先棒を担ぎ、大多数の日本国民の利害に反する、政府自民党の、農業協同組合に関する一連の解体工作を憎み、大多数の日本国民の利益に反するのみならず、我々の孫、子にはなはだしい経済的損失、また日本人の気質にさえ、大きな被害を与えると思われる、当該愚挙に強く抗議し、反TPPを鮮明にするため、貧しいながら私の意見を述べさせていただきます。

今回は、私の祖父たちが作った「協同組合」について、祖父の記憶とともに申し述べたいと思います。
 先の「歴哲研」の議論の中で、若い参加者には、農協は理解できても実態としての「協同組合」(近代以降の歴史から及ぶ現在の姿)が理解しにくいらしいことがよくわかりました。おそらく、近代以降、資本主義の勃興してきた歴史の中で、他国の例もあるにせよ、著者の描く、なぜ協同組合が必要となったのか、資金力がなく社会的な権力に無縁で、自然に影響されやすい農業という自営業を営む小規模農業者にとって、いかに当該組合が味方になれたのか、についての理解がなかなかできにくいのだと思われました。また、日本においても、著者が「(1948年)当時全国で1万6千もの農協の設立がされた」と指摘されたように、昭和20年、30年代において、どのように多くの組合が作られ、整理・統合・消滅して行ったのか、理解したいと思いました。
かつて、私より少し年長の結構大規模の元農家の後継者の方が述懐しておりましたが、米・味噌・醤油などは自家製造できるけど、外から物を買う現金がなかった、との話であり、当時の農村の事情が推し量れるところです。
 当時(昭和10年代以降を指します。)、高利貸し(うちの近辺では酒造業者が多かったようです。弁済が遅滞すれば、容赦なく、代物弁済により田畑を取り上げた彼らのやり口に対し、祖父母から、地区民の悪評と怨嗟の声を聞きました。)は別にして、農業者に資金を貸すような金融機関はあるはずはなく、私にかすかに記憶があるのは、頼母子講(無尽)(「たのもしこう、 金銭の融通を目的とする民間互助組織。 一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。 鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行したという制度」)、ですが、無住の神社などを使い、日を定め、もっぱら夜行われていました。安全な庶民金融がない時代の互助の産物なのですね。
 戦後、農業協同組合法が施行されましたが、小規模自営農家では、新たな事業を興そうとする際にも、現金はなく、まとまった資金を調達するすべもないので、進取の気性に富む当時の営農者たちは、組合員の出資金に基づく、畜産協同組合を作ったようです。当時の地区農協からどれだけ勧奨や支援があったかどうかは、残念ながら祖父に聞いてはいません。祖父たちは、近隣の農業者と語りあい、最初に固定経費のかかる乳牛の協同飼育の畜舎を作り、当該搾乳施設などを協同管理として設置し、出荷や、飼料購入、肥育に至るまで、組合の施行でやろうとしました。
 しかし、その後当該収益は思うように上がらず、母方の祖父と異なり、経済・実務的な能力に欠けていた祖父は、当該追加運営経費について自分の農業所得と恩給(年金)以外、資金の当てもなく、しばらくして立ちいかなくなったようです。
 しかしながら、富の蓄積がない当時の農村で、貧しいながら、個々が出資金を出し、組合員が経済的に利得を得、協働の結果、出資に応じ当該利益を受け取り、自己及び家族の生活の向上に資する、自主自立の制度というのは、今思っても、当時の農業者にとっては、夢のような話であったでしょう。また、これは、戦後政府が画して共産化を恐れる進駐軍が後押しした自作農創設政策(農地解放)により自営農民が創出されたこと、戦後の混乱期に兵役解除による労働力はたくさんあったこと、農村に賃労働などの仕事は少なかったなども前提の話ですが。いわばこの「共存共栄」は、日本人の伝統的な精神や考え方によく合致していたのではないかと思います。
 私は、現在、都銀とも、山口県を基盤とするY地銀ともお付き合いはありませんが、当時から銀行が限られたもの特権的なもののための存在であったことはよく理解できます。
 現在でも、当地では、多くの住民が、自己の便益のためには多少遠くても農協や郵便局を利用します。
殊に高齢者など、感覚的(生活感性的)に、銀行を信用していないんですね。ご承知のとおり、銀行も、一部高額所得者を除き、高齢者とのお付き合いはしてくれませんが。
今後も、限界集落など、明らかに、高齢的、経済的弱者しかいない地区において、どうにかして、近傍の農協、郵便局に是非頑張ってもらいたいと思います。
外国金融資本への便宜供与、特定産業の保護と効率追求のみ求め、国民のライフラインとしての日本農業の将来と、日本独自の誇るべき組織農協を、平然と無慈悲な外国資本に差し出し、日本のよりよき伝統と互譲の精神を顧みず、弱者の存在すら認めず、国民国家の大多数の国民の利害に反する、農協解体、TPP条約批准、消費税増税等一連のわが日本政府の世紀の愚策と、その推進者、国会議員内の自民党のみならず、民進党その他の会派の、新自由主義者の主張に、強く反対します。

かのノーベル賞作家、ソルジェニーツィンの「マトリョーナの家」には、スターリンの犠牲となり彼が流刑にされたへき地で、下宿先として世話になる、世間的には愚かで迷信深く、馬鹿者のように扱われながら、しかし、いかなる他人にも親切で思いやりのある「義の人」マトリョーナ(なんと昔の日本人によく似てはいないか。また、ロシア・ラーゲリで抑圧されながらも、生来の人間の善良さを失わないイワン・デニーソヴィチとよく似てはいないか(「イワン・デニーソヴィチの一日」。ソルジェニーツィン著))の描写を通じて、ロシアのミ-ル(村落共同体)を破壊し、国民のよりよき善の心までを破壊したロシアスターリニズムに対する深く、静かな怒りが、見事に、またスターリン以前のロシアに対する追憶(このあたりは少し注意を要するが)が美しく描かれています。そして、その純なありのままの姿がスターリニズムに迫害され国内流刑になった当時のソルジェニーツィンにどれだけ響いたかもきちんと書かれています。

日本国政府及び推力の新自由主義のやつばらは、このたびの、その「世紀の愚策」の結果、日本人の大多数が、非寛容で同情心もなく自己利害しか考えない餓狼のようなあのアメリカの金融資本家(きやつらはそれが人間の本性というかも知れないが、私はそうは思わない。)のようになったらどうするのだ、それについて、国家の大計として、一度でも、熟慮したことがあるのか。このまま彼らの悪行を放置・推進すれば、文字どおり、グローバリズムが、日本の文化を、伝統、良俗を食いつぶし、住みよかったはずのこの「日本社会」を、また、他者に寛容で「思いやりと察しの文化」を、滅ぼすことにならないか?

今後も、私は、明治人わが祖父の遺訓に習い、どのようにして「人のお世話をするように(お役に立てるように)」=「正しい」義に加担できるように、冷静に観測・熟慮しつつ、誰かのように、加齢と思考停止のかたくなさによる心情倫理のとりこになり、愚かな政治的尻馬乗りにならないように、振る舞いつつ、当面は、日本の多くの国民大衆の利害に寄与する、現存する「農業協同組合」の側面支援に努めてまいります(私、現在のところ営農は好みませんが、現在、農協準組合員、共済会員、預金者を兼ねております。)。

それよりも、何よりも、国会議論もろくに行わず「TPP条約批准を急げ」とかの、無考えの国会議員たちの愚挙と、腹立たしいバカさ加減を認識し、きちんと批判するとともに、アメリカ大統領選の両候補が、公約とおりTPP条約を廃案にしてもらえるなどと、甘いことを考えるのではなく(そんなことは決してないことを「「小浜逸郎・ことばの闘い『第2回グローバリズムとメディアの犯罪①』blog.goo.ne.jp 」をよく、観ていただければよいです。 )、殊に、クリントン候補と、日本政府のやり取りを、十分に注視していかなくてはなりません。
少なくとも、「私たちは、歴史も伝統ある、独立した、国民国家、「日本国」の国民でしょ、(間接民主主義制度は尊重しますが)日本国にとって重要なことは、私たち自身で決めます。」と胸を張りたいものです。

思い出すことなど(今回は自然愛好から農業に及ぶ考察) その5

2016-10-18 21:20:25 | 日記
私が地元山口県(以下「Y県」と称します。)が主催する稀少動物種保護員活動に応募・参加して、かれこれ5、6年が経過しました。
 応募した当時、子育ても一段落して、遊ぶ相手が、いや遊んでいただく相手がいなくなり、無聊(ぶりょう)をかこつ日常となり、将来の転進への布石(?) のため、当該活動に参加させてもらうことにした。本音でいえば、老いても衰えぬ外界への「好奇心」とでもいうべきものでありますが。
 現在まで、任意の機関であるこの稀少動物種保護員の研修・実習を通じ、Y県の自然、地勢や、歴史を含め、なかなか大変興味深く得難い経験をさせていただいたところです。
そして、気づかせてもらったのは、植物についても、動物についても数多く市井の研究者が存在し、それぞれに、その取り組みの切り口があり、私自身この年になっても知らないことはいくらもあったということです。

殊に岩国地区の研修でお知り合いとなった、動物に寄生する冬虫夏草(とうちゅうかそう・フユムシナツクサ:蛾などの仲間の幼虫に寄生するキノコの一種)の研究者の、数多いその標本を見せていただき、まるで子供時代に戻ったような驚きと喜びを味わったところである。目立たぬが、そこいらに結構頻繁に発生し、現在では、島根県で、蛾の幼生を使い養殖しているとのことです。良質なタンパク質ではあろうと思われるが、味や、どのような効能、薬効があるかは不明なところです。そのコレクションは、小動物、蜂やクモなど大きいものも小さいものもありますが、被寄生体の分に応じた大きさであり、彼らの文字通り身中での戦いを思いなかなか興味深いところです。話される方は、フツーの主婦らしい方でしたが、同時にかつては理科少女であったろう彼女の人性をも思いやるところです。
かつて愛読した忍者漫画「サスケ」(白土三平著)で、遭難し衰弱した天涯孤独のこども(少年忍者)が冬虫夏草の寄生菌糸により、最後は巨大な人間冬虫夏草に変身するという哀切な話があり、これも深読みすれば異種変貌譚いうか、過酷な生を生きる人間の不思議な変身願望に行きつくようにも思われるところです。
このたび、直接に、目で見る作為なき自然の凄みと不思議に思わず納得したことです。

 また、天然記念物オオサンンショウウオの保護団体との研修で、清流錦川水系宇佐川で、オオサンショウウオの泳ぐ姿を見ました。こわごわと、垂直降下で、砂防ダムの15mなんなんとするコンクリート壁を降り、地元の高校生ボランティアたちと一緒に、堰堤下の深みに生息するところを現認したところです。そのまさに魁偉な姿と、赤っぽい花崗岩の斑入り模様に同致したその気味悪い肌合いと、上半身がほぼ口といわれる、口から生まれたようなその姿に感服しました。彼らは、結構数多く生息しており、アユとか渓流魚を食む(文字通りひとのみです。)鋭い歯を持つとのことですが、あの、「忍者武芸帳」(白土三平著)に出てきた特異な体質の忍者ハンザキ(オオサンショウオの異名;体が半分に裂かれても再生するほど生命力が強い、ということで命名、基幹部分は別にして実際体組織は再生するそうです。)が登場し、彼は水中で長時間にわたり自在に活動するというのがありました。ただし、敵の、甲賀忍者の九の一(女忍者)の毒流しによって、ハンザキを含め特異で強力な影丸忍者群はあっけなく全滅してしまうわけです。
オオサンショウウオは食用になるのか、というやり取りで、上半身の口及び内臓は取り除き、下半身は美味であり、地元で食す人(天然記念物を食えばどんな罪状になるのかね。)もいるような話です。ただ、近年、生息数の割に餌(主にアユ等の生魚)が減りつつあるようで、きわめて鈍重そうでおとなしげに見える彼らも、縄張りをめぐっては激しく戦うとのことです。また、錦川流域は時期となれば、わずらわしいほどのアユ釣りの竿が林立します。その天然アユにも、全国的な規模で、その姿、形、味を審査するコンクールがあるらしく、宇佐川のアユはそのブナなどが繁茂する山深く、また、清く豊かな流れのせいなのか、常にトップであるそうです。
広い清流に存する天然の穴の中や岩棚にひそみ、餌を待ち、ひたすら待っている彼らの存在は私たちに自然の奥深さとなにがしかの畏怖を伝えてくれるところです。昼間は、広島県出身のあの文豪井伏鱒二の小説(「山椒魚」)にあるように、自分の棲み家の中で、じっとして、温和(?) に暮らしているようです。しかしながら、自分の縄張り内に他個体が侵入すると、身命を賭けた戦いとなるそうです。部分的に、身体の一部も再生するらしいし、ハンザキといかずとも、生命力の強い特異な動物となります。講師が、言っていましたが、その体から、当然ぬめぬめとしていますが、食肉動物(?) に忌避を与える科学物質をしみださせるらしく、当該オオサンショウウオをかかえたあと、車に一緒に同乗していた犬が突如嘔吐しだし、大変往生した、という話をしていました。

 他にも、Y県S市、中須北地区において、常時、水を張った休耕田で開催された、水辺の動物観察会に参加し、Y県のカエル博士たちや、昆虫・小動物大好き少年たちに出会い、Y県のカエル博士たちや、ツチガエル(俗称「いぼ蛙」、素手で触るのは私もさすがに嫌です。いぼができる、という少年期の申し送りがあります。)を平然と握る蛙好き少年たちと一緒に、ついには素足で、今となれば気味悪く独特に臭う枯れ芦や様々な植物の泥濘の中を、ずぶずぶと沈み込む泥田を足を取られつつも愉快に駆け巡りました。最初は長靴で入っていましたが、動きの不自由さに耐えきれず、彼らに習い、素足で入り込み、そうなればもう何の支障もなく、こどもたちに対しても、お前、俺の口調になってしまい(対人的な感覚に問題があるのだろうか)、時間が立つのを忘れるようです。女の子でも、平気で蛙を握りこむ子もおり、好きというのは理屈ではないのですね。
同時に中須北地区で、身近で楽しい自然を子供たちに伝えたいという地区の受け入れ団体の有志の方々の気持ちにも深く賛同しました。

 当該地区は、全国レベルで「美の里コンクール」で選ばれた地区ですが、農村育ちの私とすれば、田植え時期も、収穫前期も、あるいは収穫後も、手入れの行き届いた(マルクスのひそみに倣っていうならば、いわゆる人間化された自然としての)田畑の景色を見ることはとても幸せなことです。ああ、健全なナショナリズム(地域を媒介にした愛郷・愛国心)よ、と私は思います。そして、この営みがどれほど継続するのかは、またどれだけの国民がそれに対して安定した気持ちと共にあること、またその風景に慰藉を受け、継承することができるかどうかは、今も今後も大きな政治の課題であると思います。 老いたもの、弱いものが、周辺の辺鄙(へんぴ)で不便であるが、静かで穏やかに過ごせる場所に自立して住めること(国土が荒廃しないこと)は我が国にとって極めて重要だと思われるからです。間違っても、グローバリズムや、農業協同組合の解体、日本の農業の死滅あるいは、冷酷な多国の農業資本ビジネスに加担するべきでないのです。
 このような、人間との相互の関連の中で営まれる自然への働きかけとその結果を含め、山も海も高原もある、それぞれの変化にとんだY県の良さを改めて想います。

 閑話休題
 安倍首相、あなたの防衛政策は、日本国の大多数の国民について必要であると思われ、若き日にとうに転向し、どこかの新聞のようにバカ左翼でないので、私はきちんと評価します。
 しかし、党内圧力のせいか、党内事情のせいか、グローバリズムにおける米欧金融資本の苛烈な策動と国内の同調勢力のせいなのか、制定された農協改革法や、TPP条約に前向きであるあなたの、心のルーツは油谷(山口県長門市)地区の棚田であるというではありませんか、地区住民がキチンと手間と労を惜しまず手入れされた棚田は、海の照り返しもあり息をのむほどの美しさです。当該中須北地区の棚田も山里の自然を背景に四季折々誠に美しいものです。私の知る限り、あなたと私の故郷このY県には、それぞれに異なったまだまだ荒廃しない美しい棚田はまだ残っています。安倍首相、あなたが当初標榜した、「美しい国」他国とは違う「みずほの国の」資本主義は、どうなったのですかね。農協を解体し、農業者の自主努力を解体し、本来の立ち行くはずの農業を解体し、やはり国土の荒廃は、人心の荒廃と私には思えます。耕作放棄地の荒れようを嘆くと同時に、今後自国民の消費するコメを自国民がまかなえないような状況は、やっぱりきわめて政治的(政治で解決できる)な問題だと思えませんか。
 安心・安全で美味しいコメの生産に要する手間ひま(皆、高齢の農業者は耕作放棄は先祖に済まないと老骨に鞭打ち懸命に生産しているのです。低額の国民年金だけではだれも生きていけません。)を考えれば、ある程度の金額になるのは当然です。先に、一部中共(コミューン・チャイナ)の富裕者層は、日本米を買いあさったではないですか。

 事情により本格的に自炊を始めた私は、この夏、地区農協主催の野菜市で、花き類を含め、新鮮で、おいしくまた安価な野菜、果物類を購入することで多大な恩恵を受けました(農協出展手数料が17%で、組合員生産者にとってとても有利だそうです。協同組合だからできるんですね。)。
 今夏の異常気象の影響でマーケットの野菜は暴騰しましたが、余分な支出をしなくて済んだのも、これも近隣の組合員農業者大衆と、私が、準組合員になった農業協同組合のおかげです(もちろん一般市民も市場で買い物ができます。販売開始時間の繁忙はすさまじいものです。)。今後、TPP条約が発効すれば、こんなのどかな光景は夢のまた夢でしょう。米国寡占農業資本による、市場支配の将来を思えば、暗澹たる思いがします。
 改めて「打倒TPP、打倒新自由主義」、と宣言したい。


 再度、閑話休題
 それ以降も、様々な行事で、「好きなものは好き」と目を輝かす真摯な「理科少年」たちにもたびたび出会うところです。自分のことはともかくも、私も「科学に対し少年たちが興味をなくせば、日本国の将来はない」と思う一人です。そのために、今後、私のできうる努力を粛々と行う決意です。

 また、自分を振り返ってつくづく思いますが、「好奇心」というものは、そのうち納まるとかいうことはないものですね。「死にいたる病」というべきか、「あしたに道を聞けば、夕べに死すとも可なり」というべきなのか、当面、まだまだおさまりがつかないところですが、決して放棄はいたしません。

「シン・ゴジラ」に係る感興と最後に罵倒(罵倒シリーズその3)

2016-10-15 20:31:06 | 罵倒シリーズ
このたび、周囲の推薦、あるいは普段あまり話すこともない方から、「「シン・ゴジラ」面白かったよ」、とか言われて、ついに、節を屈し、「シン・ゴジラ」を観に行きました。
 まず、その前に、何故ゴジラが嫌なのか考えてみました。
 先ごろから機会があって、わが故郷の奥深い山中の清流に住むオオサンショウウオを大量に、何十頭も見学させていただくことがあり、その魁偉な姿は、はなはだ興味深いものでした。それを見るのはいい、おそるおそる触るのはいい、これが地べたを這うのもいい、しかし大きいもので1.2メートルになるこれが立ち上がって、温和な性質が欧米化してしまい攻撃的になり、正面から立ち向かってくるなら、話は別です。やっぱり、両生類、は虫類系は鬼門です。虚構としてもあまり見たくありません。

 ゴジラ映画の最初は、やはり「東宝」映画の表示から始まります。「おお、ゴジラ」と懐かしいところです。
 しかし、この「シン・ゴジラ」は、その進行の過程で、日本国のゴジラ映画とはまったく関係がないことが明確にされます。関連するのは、アメリカ、ハリウッド映画の「ゴジーラ」(そのように発音しているように聞き取れました。)映画に追随する映画なのが、だんだんに明らかになります。海中投下された核廃棄物を食することにより深海生物が突然変異で生じた怪獣(?) という、アメリカ製の、政治的にバイアスのかかったゴジラの出自は、日本国製と同様でしたが、国境を越え、恣意的にグローバルに活動し、出現ごとに進化していく正体不明の生物という性質が付加されています。どうも、これは、米欧出自のろくでなしの高度金融資本の暗喩なんですかね。ほらあのグローバリズムですよ。アメリカ発という出自がそれを暗示します。最後には、個別の国民国家ではまったくコントロール不能という状況に至るまで同様です。
 団塊世代(たとえば、橋本治のエッセイによれば)は、アメリカの水爆実験で日本人が犠牲となった第五福竜丸の放射能被ばくの昏い記憶などから、同時に水爆実験でうまれたたという設定のゴジラを不気味で怖いという認識をしているらしく、再度核兵器の被害者となった当時の日本の世相は理解できますが、私には、このあたりの感覚はよく理解できません(アメリカの懲りない核実験に対する日本人の無力感と恐怖の象徴なんですかね。)。
 私とすれば、ゴジラは因果物の怪獣という認識しかなく、宇宙飛行士が打ち上げ国に遺棄されたため宇宙環境で個体変異を起こし怪獣に成り下がったというジャミラという怪獣(ウルトラマン)(これも暗い話ですね。)などと同列のものです。

 危機管理映画という見地で見れば、興味深い映画でしたが、アメリカ出自のゴジラが太平洋を越え襲来し、日本国への第二波(ですか?)のゴジラの来襲で、早々と政府首脳が全滅してしまい、暫定政府は、生き残った国務大臣を臨時総理とし、懸命に、アメリカという、自国の失策と責任を不問にし、国連(第二次世界大戦勝ち組の連合国)を巻き込み、いずれ自国が被害を受けないように、期限を勝手に定め、恥知らずに平然と日本国の首都圏でゴジラを核攻撃しようとするアメリカ、それと語らった中共、ロシアほかの強者連合国に対抗します。
 リーダーは、内閣官房副長官の若手政務次官(二世議員といいますが、頭もよさそうで各省庁に同窓もいるようで、多分キャリア出身の政治家なのでしょう。)で若手の各省庁の官僚たちを手足として、現実的に直接被害を受ける大多数の国民大衆の生命と財産を守るため、主導権を握り、身命を賭すように懸命に働き、自分たちの政治的・人的な影響力を駆使して、自衛隊と連携し、各省庁の利害を超え、傍流ではあるが各省庁の有能な各専門家を結集し、優秀な民間企業の協力も求め、また、国際政治的にも国連の常任理事国との駆け引きを含めて、日本国としての総力戦により、ついに独自でゴジラを退治することとなります。その描写は誠にテンポが速く痛快で、それぞれの局面でのやり取りが実に興味深く面白いところですが。

 ところで、ゴジラ危機管理対策は、心ある政務次官が、最前線に立ち、優秀な官僚たちを取り込み、自衛隊を掌握し、政治的影響力を駆使し、民間企業の技術力と生産力を活用し、特殊重機の特攻的な命がけの運転により血液凝固剤の注入により、ついにゴリラを駆逐するわけですが、それに抗する、抵抗勢力、反動勢力の描写がまったくありませんでした。彼らは、「憲法違反の自衛隊が、有害鳥獣に対し、なぜ軍事行動を行うのか」とか、先の福島原発の炉心融解事故に際し、半ば命がけでに原子炉上から水を散布した尊敬すべき自衛隊員に対しても、国民感情に反し、マスコミが賞賛したことは全くなかったことを考えると、このたびの英雄的な奮闘と努力についても、何の賞賛もしないでしょうね。

 私、政治家にも、官僚にもまったく知り合いはおりませんが、唯一著書を介して存じ上げる優れた経済学者中野剛志氏(「TPP亡国論」他多数)のように、大多数の国民の安全と利害に意識的な、本来の官僚の役割を果たすべき志ある官僚たちの存在を信じたい、と思うばかりです。
 フランスの社会学者エマニュエル・トッド氏が、自国の多くの大衆の危機に際し、その切実な直接利害のために戦えない、仏国のエリート官僚たちの退廃にいら立つように、私にも、わが日本国で、デフレに際し、財政政策を怠り、景気回復と賃金の引き上げを怠り、際限なく国民に塗炭の苦しみを与え続ける自由主義を信奉する財務省の官僚たちの不作為、不見識、いや国民に対する背信行為が憤ろしいところです。
 政治家といえば、先に、財務省の施策の悪乗りし、消費税12%、13%、15%引き上げを提案する石原某大臣、とか、正気を疑うような人が幾らもいるんですね。
 あなたたちは知っているのか、私が、毎晩買い物に行くたび、スーパーに売れ残り安売りを目指しおし寄せる主婦や老人、独り者がどれほどいるのか、食料品ですら高い商品は売れず、数量調節の試みや、原価は切られ、生産者と、流通業者、がどれほど疲弊しているか、恥ずかしながら、私も安売り品を目指すが、この状況が国民にとってあとどれだけ耐えられるだろうかと、私ですらその理屈はわかるぞ。
 小泉新次郎農林部長、あなたは父親を継ぎ、迷走、構造改革を目指しているが、全国会議員に献本配布されたという「亡国の農協改革」(三橋貴明著)をちゃんと読んだのか。過酷な資本主義に対抗する、利潤を直接目的にしない「農協」が、わが、みずほの国の農業に、地域社会に、あるいは安全な食料にどれだけ貢献しているか、認識したことはあるのか、今後TPP条約を通じ、国内法を改正してまで過剰に迎合し、飢狼のような外国農業資本に、わが国民の経済的利害と食の安全を売り渡すのか、間違った政策に荷担しておやじと二代にわたり、歴史に残る愚挙を繰り返すなよ、と告発します。

 この映画を見た方は、国家の危機に際しては、徳義の高い、優秀な政治家が、自己利害を離れ、リーダーシップを発揮し、われわれ大多数の貧しい普通の国民のために働いてくれるかどうかは、あてにならない、バカの民進党は別にして(何度も書いたので)も、自民党のリアルポリティシャン(現実の政治家)を見ていれば、それはきわめて疑わしい、誰がダメなのかよく観察し、肝に銘じ、今後も、ちゃんと監視していきましょう、と諫言いたします。

思い出すことなど(同窓会に出席しての所感、併せ「夕日を追いかけて」について) その4

2016-10-12 21:07:27 | 日記
 先の体育の日に、中学校卒業の同窓会がありました。
 多分、今回で参加が二回目であろうかと思いますが、世間一般の常識(でいいですが)から比べ、少ない(根拠はありませんが)ようにも思いますが、よくわかりません。
 当初、私は、就学のためY県を離れて時、「もう帰ってこない」と誓ったはずであり、その後、就職に失敗して帰郷して以来、できるだけ、地元の友人とは付き合わないようにしていました。このあたりの感覚は、財津和夫の、「夕日を追いかけて」の、一節であれば、「・・・切り捨てたはずの故郷だから・・・」という感覚に似ています。殊に高校時代は、若くして死んだやつもいるし、あまりいい思い出もないので(つい思い起こせば「赤面逆上狼狽」(せきめんぎゃくじょうろうばい)におちいってしまう。)、かつて高校の同窓会に出たこともないわけです。
 私の立場で言えば、「恥をさらして都落ち」ではないですが、卒業後、都会(京都)で就職できず、おめおめと、Y県に帰郷し、現在に至りますが、当時あたかも将来を見越したかのように、「自らをどのように(日常に)埋葬するか」(これで俺の人生は終わった。)などと青臭く考えていました。その後、数十年間の人性において、人並みに苦労はしたはずですが、振り返れば、当時から、とんでもない甘い男でした。一般的に、若者=馬鹿者、なんですね。
 ところで、私の出身中学校は、一クラス40人の7クラス、当時学年300人弱くらいの学校で、昭和45年卒業となります。今回は、学年合同で、女性が40人弱、男が50人弱の参加であり、その後の46年にわたる歳月を考えれば、むしろ多めの人数の出席であったのかもしれません。
 前回は20年前にクラス単位で実施されたと思いますが、このたび偏屈な私が出席したことでもあり、比較的参加者が多かったことにより、何故なのか考察してみました。①男どもは定年退職後初めての同窓会であったこと、②連休の中日であったこと、③女性たちにとっても大きな区切りであり、ただし、遠来の人たちはいなかったこと、などがあげられるところです。
 ①については、自分でとても思い当たるところがあり、20年前と比較していえば、誰が今何をしている、何の役職(社会的地位)についている、などというのは、多くの男にとって煩わしかったところでしょう、よっぽど仲の良かった友人同士は別にして、男は、個々に、押しなべてその限られた社会的関係の中で生きるのです。このたび、皆、一様に退職し、ひとまずニュートラルで対等の立場となったわけです。また、私は、多分今世でもうお会いすることはない、今生の別れとご厚誼にお礼を申し上げたい、と思っていました。あらかじめの自己葬儀へのあいさつです。実際のところ、遠くは関東圏からわざわざ来訪者があり、彼らは一泊するようです。代表者のあいさつの中で、明白ではありませんが、そのような意味の決意の表明が数多くありました。男どもは、一般的に、自分を含め、長年の労苦で、自己の人格を陶冶(とうや)し、思慮深く、思いやり深くなった筈ではありましょうが。時間の経過はありがたいところでもあります。女性たちは、多くが、その夫などがすでに定年を迎えていることであろうし、自己の現在と今後の生活も十分に再構築して、とても落ち着いているように見えました。もし批評を加えるとすれば、どこかの家庭のように、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に、夫を酷しているかどうかはあずかり知らぬところですが(失礼)。
 自己のキャリアについて、多く述べたのは女性でしたが、これも世の趨勢(すうせい)でありましょう。男は基本的に失言を避けます。また、クラスの女性でブログをやっている人もおり、話が盛り上がり、小幸福というべきものでした。

 ところで、このたび、同窓会に出たのは、同時に、わが生涯の「清算」の意味もあり、過去、大学時代、「思想的対立」(?)で、袂を分かった友人と再会を果たすためであり、その後の行方を知らぬ彼と再会を果たしたことです。彼は、浪人して名古屋のミッション系の学校に入りましたが、当時、ジョルジュ・バタイユを巡り大議論の末、決裂し、その後、なし崩し的に会わなくなった古い友人です。彼も、このたび参加しており、ほぼ40年後「恩讐の彼方」に、再会できたのは、うれしいところでした。今となれば、お互いに、ジョルジュ某などという人は、忘却の彼方でありますが・・・。

 再度認識しましたが、当時のマドンナ、あるいは学級委員は今もマドンナであるし、今も学級委員なんですね。
 どうも皆の頭の中に深く刻印されているようです。そのまま、過去に戻ったような感覚に陥ります。
 無謀な男たちが、出来上がってしまい当時のマドンナにカミングアウトし、自爆していました(男ってバカですね。)。彼女は、当時は、また今も実際いい子なんですが、「一年生の時、隣に座っていたよね」と、私も話しかけてみて、見事に忘れられていました(自爆参加)。

 私たちの世代は、広義にポスト団塊の世代で、その若き日といえば、まだ経済的にも右肩上がりの時代でした。先の財津和夫(1948年生まれ)の「夕日を追いかけて」(1978年発売)を聞いていると(私もちろん歌います。周囲はあまり喜びませんが)、彼の時代感覚がよくわかります。彼にとって小、中、高校時代を含めての故郷ですが、出身地、博多に対する愛憎の気持ちがよく伝わってきます。当時、「故郷を出て、世界に雄飛する」くらいの夢は、まだ、いなかの高校生は十分に信じていたんですね。

「夕日を追いかけて」(財津和夫作詞・作曲)

 しばらくぶりの故郷は 大きな街に 姿を変えていた
 からだをゆすって走ってた 路面電車はもういない
 
 悲しみこらえ佇んで 好きだった人 永く見送った
 後姿に似合ってた あの海辺の道 今は車の道

 でも海はまだ生きていた いつも勇気をくれた海だった
 空の星は今も昔のまま 指先に触れるほど近くに

 いつからだろう父は小言の たった一つもやめてしまったのは
 いつからだろう母が唇に さす紅をやめてしまったのは

 永生きしてねの一言さえも 照れくさくて言えず明日は出ていく日
 もどっちゃだめと自分に言った 切り捨てたはずの故郷だから
   ( 中  略 )
 いつだって真剣に 僕は生きてきた筈だけど
 でもいつもそこには 孤独だけが残されていた

 沈む夕日は止められないけど それでも僕は追いかけていく
 沈む夕日を追いかけて 死ぬまで僕は追いかけていく  *
   ( *のリフレインが続きます。 )

 とても良い歌ですが、「こんなのは時代遅れ」と言い切る勇気が私にはありません。
 幼年期以来自己の生活で経た自然と、生育した家族や地域などの社会的関係の総体が、私たちの「現在」を強く拘束することは今も変わってないと思われるからです。そして、故郷を離れ、見知らぬ土地を目指すことも、多かれ少なかれ男(女) どもにとって「自然」と思われるのです。
 1978年あたりは、チューリップの全盛期であろうかという時に、作られた歌ですが、自分たちの<表現>を、東京で追及するため、彼女と別れ、親を棄て、東京に移り住み、現実と渡り合い、残ったのは表現者としての<孤独>だけであった、という厳しい独白です。「沈む夕日」が何の暗喩(あんゆ)かは分かりにくいところですが、ひたすら、表現者は至上の価値に向けて歩まなくてはならないという運命というものなのかもしれません。

 比較すると、その後都会でしのいで生きていたのか、あるいは田舎で辛抱して生きてきたのか、まったく等価であると、私は今になれば言い切れますが、運否天賦(うんぷてんぷ)というか、人性は不公平で不平等であることも間違いないことですから、立場立場での、それぞれの苦闘を思いやるところです。

 この歌は、卒業時に、サークルの先輩に、カセットテープで編集した流行歌のBGMシリーズとして餞別のようにもらい、擦り切れるまで聴き込んだ曲だったのですが、どうしても曲名がわからず、ネットの普及で、歌詞を検索し、ようやくその題名を知りました。
 かの先輩の当時のご厚意をこのたび深く謝するところです。
 そしてこのたび、わが同窓たちにも、「君たちはよく戦った」、と祝辞と、謝辞(?) をささげたい思いです。

山口県の海岸線について言及すること及び清流で泳ぐことの快感(夏の終わりに)

2016-10-02 17:26:07 | スポーツその他


 私は、現在、山口県(以下「Y県」と略称します。)稀少動物保護員というのに、就任しており、会員は皆一般の市民で、義務はなく、会費・手数料もかからない、お気楽な会員ですが、折に触れ、研修や、友誼団体の行事に参加させていただき、大変楽しいひとときを過ごさせていただいています。
 わがY県は、二方向を瀬戸内海と日本海に挟まれ、古来より海上交通の拠点として有利で恵まれた環境にあり、またその中で山間部もないことはない、という自然豊かな環境にあります。その一方で、瀬戸内側においては、地勢的にも恵まれ戦前、また敗戦後からの右肩上がりの時代に石油コンビナートなどの一連の化学工業群の集積があり、雇用もそれなりに安定し、全国的に見ても県民所得もそれほど低くはないところです。

 自然はといえば、瀬戸内海側の海と、日本海側の海は明らかにその様相が異なっております。現在では、国土のほとんどに自然海浜はない、とも言いますが、瀬戸内海に張り出す岬の先端や、瀬戸内海の島しょ部には、いまだなお清んだ海の水と、潮の干満で顕われる磯の生物が数多く潜むタイドプールなどがあり、注意深く観察すれば砂浜や様々な小動物の営みと内海の穏やかな自然が、まだまだ残って居ます。
一方の日本海側の海岸といえば、かつて詩人の北川透が、早期退職(?) し、県内下関市の梅光女学院大学(当時)に赴任した際、地元新聞に山口県北浦の海岸を「信じられないほど美しい海」と書いていましたが、文字どおりそのとおりであって、白砂青松が今も現実に存在し、豊浦から長門、萩に至るまで存する日本海に面したいずれの海水浴場においても、島根県のあの鳴き砂に比べても引けを取らぬほどの目の細かい白色の美しい砂浜が続きます。日本海特有(浅瀬)の淡い青の海の色(文字どおり水色です。)とあいまって、夏の陽ざしの中で見る海辺の景色の美しさは確かに特筆すべきものです。殊に、土井ヶ浜あたりは、山陰側が企業用地になっていなくて、日本人として(?) 本当に良かったな、と思えるほど、長きにわたった、見ごたえのある美しい海岸が続きます。ほかにも、日本国の海岸ですから、それぞれの地勢に応じ自然の変化と差異のある興味深い景色が続くわけですが。私の個人的な好みであれば、ひたすら続く美しい砂浜海岸より、多少の岩礁を含めた変化の多い場所が好きです。海水は澄みわたり、十数メートル先まで十分に見通しが利き、岩礁の周囲や、点在する、波に削られた小規模な岩々の間でも、海中をのぞいてみれば、ウニがぎっちりとへばりついています。ところどころ繁茂する海藻の間を、様々な種類の小魚が群泳する中を、水中メガネを使って潜ってみるのは、実際、大変気持ちの良いことです。

 閑話休題
 Y県の最高峰は、県東山岳部に位置する岩国市の寂地山(標高1337m)ですが、この山は、なだらかな中国山地に位置します。ふもとから登れば、山頂まで片道3時間弱くらいかかりますが、夏場は広葉樹(ブナ林など)が繁茂し、おかげで日焼けを気にせずに登れる良い登山道となります。当該登山路は、渓流に沿った山道であり、ところどころ渓流から落下する滝や、山から下る小さな支流に行き当たります。さすがに、雪が積もってから登山は困難ですが、殊に夏の登山は涼しくて気持ちの良いところです。その川が寂地川、宇佐川にそそぎ、最後に錦川に合流します。上流には人家もなにもないので、水は飲用が可であり、澄んだ水が瀬音をたて流れています。
 今年は、7月下旬に、稀少動物保護員の会報で見た、錦川の支流を遡上する沢のぼりの研修に参加しました。これは、 基本的に、ザイルなど使うものでなく、夏休みの子供たちへの、自然ふれあい研修ですが、それ相応に、なかなか興味深いものでした。
 川のよどみには、様々な渓流魚の幼生メダカや、本当に針のように細いオタマジャクシが泳いでおり、それは、可憐な鳴き声で名高いかじか蛙の幼生だそうですが、それ以外にも水中に潜む、ヤマメ、ゴキ(サケ科のイワナに近いもの)、ハゼ科のよしのぼり、川虫の巣など発見し、成体のかじか蛙にも出会いました。その楽しさは、小学生たち、その保護者たちと共有しますが、皆気持ちがよいのでしょう、魚を追ったり、沢がにを捕まえたりと、こどもの好奇心や、貪欲さに、大人としても同様に喜びを覚えたところです。
 皆で、清流を、運動靴を履いたまま遡上してゆくわけですが、浅瀬もあれば、ところどころ、深さが3メートル以上の文字どおり碧色の深みがあり、変化にも富んでいます。

自分の少年期をたどれば(私、川のそばで生まれました。)、こども同士、川に素潜りでもぐり、石とり(目印のある石を決め、競争で取り合う遊び)をやったり、度胸ためしに、岩場から深みに飛び込んだりしましたが、無上の楽しさであり、現在も記憶を去らぬものでもあります(多くの年長者とその記憶を共有します。)。同時に、深みに何かが潜んでいないだろうかと漠然とした何者かに対する恐れや畏怖も同時に感じたように記憶します。

 このたび、子供たちと一緒に清流に足を踏み入れ、水中の石にすべりつつ、魚を追い、楽しい時間を過ごしましたが、その体験が大変楽しかったので、この夏何度も、渓流遊びを行いました。
 深みの中で、石をかかえ潜っていれば、あたかもこの流域に数多く棲むオオサンショウウオになったかのように、息をとめ、ひたすら周囲と同化して、<自己本質>について思いをはせます(大仰な)。川の上流に向かって、ひたすら息をこらえていると、流れに乗った枯葉や、小魚が周囲を通り過ぎてゆき、頭の中が空っぽになっていくようです。適度に冷たい清流であり、あたかも修行をしているようでもあります。感覚的に類比してみれば、なんとなく、滝行をしているような感覚かもしれません。
 今年は、7月の梅雨明けから、9月の初旬までほぼ雨が降らず、猛暑が続き、外界は耐え難いような、文字どおり酷暑でした。そんなおり、我が家から、当該錦川上流支流まで車で一時間半くらいはかかりますが、避暑に行くようであり、やはり、この夏の小幸福でありました。
 わが愛読書、文豪(?) 宮澤賢治の、「風の又三郎」では、二百十日(にひゃくとうか)(9月1日)にやってきて、二百二十日(にひゃくはつか)(9月10日)に去っていく異族 (?) の少年(又三郎)と、短い期間でありながら、奇妙で濃密な体験をするわけですが、未知なるもの、不思議なものに対する、少年期のこどもたちが感じる憧憬と恐怖またその畏怖の気持ちに、当時(今も)強く共感しました(市原悦子の朗読バージョンがとても良いです。)。
 
 願うらくは、渓流好き、動物好き又は自然好きのこどもたちが、魚や蛙を追ったり、棒っきれをふるったりというのはごく自然な行為と思いますが、また、同時に、自然に対する畏怖や、恐怖を抱くこと(実際にそのように感じていることかもしれないことも了解できますが)もあれば、と思うところです。いわゆる、「冒険」は、同時に、日常を広げる怖い体験でもあるのです。
 
 本日(10月2日)、今年の最後と思い、潜ってみましたが、水温と外気温の差があるためらしく、晴天なのに、終日、水面に、もやがかかっていたのは、興味深い光景でした。