天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

わが闘病記(広島大学病院に入院して)その4

2022-03-31 13:57:28 | 時事・風俗・情況
 泊りがけの通院から帰ってくると、テーブルの上に、ぱっとしない色の折鶴が、二つおいてある。
 どうしたんだと、妻に尋ねたら、うちの孫(6歳)が、「じじのために」、どうも、じじの病気の、快癒のため、保育園で、先生に教わり、教わり、とうとう、折り上げたそうだ。

 私は、生来の不器用で、幼稚園の工作にも、なかなか、ついていけなかった。
 やっこさんは折れたが、鶴はとうとう、最後まで折れなかった。
 皆に侮られただろうし、できの良いこどもとして、先生にかわいがられたこともない。
 ましては、他人のために、鶴を折るなど、生まれてから、したこともない。
 このたび、孫が、折ってくれた、鶴を見て、こどもを持って本当に良かった、と、心から思った。

 うちのうえの孫は、結構むつかしい男である。
 ジジイによく似ている。自分の気の向かないことは、決してやらない。
 それは、保育園の先生に、使そうされたことなのかもしれない。男児にとって、好きな先生は、やっぱり、特別であるから。
 しかし、じじが、一度も、実行できなかったことを、彼は、やすやすと、飛び越えた。
 また、他者に無償の施しができた、私から見れば、それは、偉大な達成である(じじバカと思う人は笑って欲しい。)。

 私には、彼に、施す、金も財産も、手間をかける残年数もあまりない。
 今後も、彼らは、易々と、私のできなかったことを、乗り越えていくかも知れない。

 私は偏屈かつ貧困なので、彼らに、大きなギフトはできなかった。
 しかし、後は、私の余生を使って、彼らが、悩まずにすむよう、日本国の環境整備に、努力しようと思う。
 バカじゃないの、と、うちの妻はいう。
 しかし、迂遠なところから、他者のために、私たちの社会のために闘うことを、私は心がけている。
 利口なやつは笑えばいい、しかし、それが、義を通す、偏屈ジジの生き方なのだ、というしかない。
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 病気の病状は生きているというのは、事実である。
 こちとらも生きているからである。
 生きているからには、不快も、あれば、小幸福もある。
健康というのも、そもそも、小幸福なのか、大幸福なのか、人によって、位置づけが違うかもしれない。
 しかし、それが、ありがたいことであることは、小だろうと大だろうと、当人にとって、それは確かである。

 昨年の、9月から、検査入院を経て、10月から通勤治療を受け、ほぼ、半年、経過した。
 私の病気の特性により、私は、定期的(隔週二週)で、化学療法を受け続けていた。
 もともと、頑健だったのか(?)、治療の副作用(副反応ではない。)には耐えられている。

 それは、自分で、この程度の副作用など、皆が耐えている程度に比べれば何ほどなのか、考えたからだ。
 ひと月半にわたった、検査入院の際に、いろいろな患者さんの実態を観たからだ。
 重度の患者さんも、数多く見た。当初、皆、放射線治療かと思ったが、ほとんどが、化学療法の患者さんだった。
 皆、厳しい、つらい、闘病人性だった。
 こんなことを、本来、縁なきものが、恣意的に、他人に、強いるものではない。
 ましては、一般論を、人に、押し付けるものでもない。

 個人的な事情を言えば、当初から、化学療法を通算10回くらい続けていた。
 その重みを、実感したのは、化学療法の反動と負担が、だんだん、私にとって、大きいものとなってきたからだ。
 私の病状は、今後、動脈、リンパ腺からの転移は、少ないだろうと言われていた。
 したがって、私の化学療法とは、化学療法が使える患部の進行の阻止と、縮小した患部を、関連部分臓器などと一緒に、摘出することを、第一義としている。
 しかし、患者さんとすれば、化学療法による、副作用には、習熟したが、決して愉快なものではない、このたびの、ように、急に、発熱すれば、やはり、困る。
 しかし、二週間に一回のペースの治療だが、それを外せば、ほぼ、発症前の生活の質を保てている。

 患者さんは保守的なものである。
 現状維持を好み、別の、療法の良さをすぐには理解できない。

 唯一、患者さんと治療者の両者で、治療法が合致する大きな理由といえば、生存残年数の問題になるだろう。
 ただし、術後の生存年数は、無手術と、手術後と、それほど差がない、ということだった(私の調べた範囲である。)。
 そうなれば、患者さんとすれば、逡巡するのである。
 私は、先の発症のときから、自分で自分の未来をいろいろシミュレートしてみた。
 所詮、それは、シミュレートでしかないが、考えるだけは考えた。
 今の私にとっては、残年数自体よりは、残年数の生活の質(いわゆるQOL)しか、関心を惹かれない。
 初回入院のとき、いろいろ考え、ひとまず、私の死後の世話はつけたので、実のところ、後は、お他人様のこと、と思っている。

 前に書いたように、私に先立って、うちの妻も大けがをした。
 その後、後遺症が残らず、私たちは安堵した。
 しかし、私たちが思うよりは、ひどいけがだったらしく、寒い時は、ことさら、調子が悪いらしく、予想できない、症状が出て来る。お気の毒なことである。
 そうなれば、自分がかわいい。
 まずは、自分が健康でなければ、どうしようもない、と思うのだ。
 なかなか、亭主の介護など、望めない。

 私の場合はちょっと違う。
 化学療法を外せば、ほぼ、私は、常人のように動ける。
 そうなれば、私が動くしかない。

 そのような経緯で、お互いの意見の決定的な亀裂は、お互いに避けたのだが、それ病棟の待合室で、夫婦のやり取りを聞いていると、患者さんの妻の言い分に、さすがにこっちが切れそうになる。
 きれいな夫婦愛など、みじんもない。妻は、露骨に、自己利害と自己都合を全面的に押し出す。
 今の段階で、争うのは嫌だろうから(立場の強弱は明らかなので)、そのうち、人目を愧じ、男は黙る。

 女は、ひいたら負けの個所では、人前だろうと何だろうと、決してひかない。
 結論として、看護師が、「あなたのためを思ってもことだから」、なだめるが、「しようがないわね、しっかりしなさいよ」と言外で語っているのは、ありありである。

 ということで、患者さんにも、経済的にも、親族的にも、また、病魔とも闘う、解決すべき事はいろいろあるのだ。

 激烈な、間断のない痛みというのは、判断というか、選択の余地を狭めるというのは確かかも知れない。
 その境遇でないことを幸せに思う。

 しかし、ひとたび、現在のそれなりに耐えきれる状態と、架空の救いのないような状態を、比較して考えたら、耐えきれる状況を選ぶのが、患者さんの本音だと思う。

 私は、日本人なので、勇気ある生存というようなものを信じない。
 「辛抱、我慢」という発想も、寄り添い難い。
 今さら、「苦痛は証だ」、という境遇に行きたくない。
 日々、体験し、思考することは、尊いけれども、それがいつまでも続くとも、思えない。

 それならばと、退嬰的な考えに、人として、行きそうである。
 それこそ、現状肯定と、大きな変更を好まない。
 意識的な、選択を回避しようとする。
 いくらもあることである。

 私はなすべきことはした、ような気がする。
 後は、世間がいう遺徳のようなもので、余裕があれば、正義の側に組する、仕事をしたいと思う。

 閑話休題、私が、バタバタしているうちに、ロシアと、ウクライナの戦争が開始し、炎上した。
 どうも、釈然としない。
 各々において、義も、利害も、思惑も在るだろう。
 しかし、忘れてはならない。
 シモーヌ・ヴェイユが、戦争について、「戦争の遂行者(指導者)は、まず、老人、こども、婦人などの社会的弱者を、敵の前に差し出す」、と言あげたことである。この言葉は、吉本隆明に教わった。
 彼女は、彼女の思想的態度として、いつでも、紛争のただなかに、自分の身体と、思想をおく、用意はあっただろう。
 しかし、残ったのは、この、卓越した、認識と言葉である。
 自国での内戦は、決して行ってはならない、行われるように立ち回ってもならない。
 まさに、自国民を、戦争の道具にしてはならない。
 それは、政治家として恥知らずな所業である。
 今のところ、私たちに、視えて来るのはそれだけである。
 紛争が不可避である以上、抑止力としての、核武装、抑止力としての、自前の国土防衛軍を持つこと、国民国家としての日本国の富国強兵を図り、他国の紛争に安易に巻き込まれないこと、問題はそれに尽きている。
 うちの、孫たちの未来を守るために、まずそれを、実現しよう。
 大事な孫どもの、世代を、どうにかしてあげたい、それは、ジジイの切なる願いである。
 いつもながら、とんでもない結論だが。


「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」のバカバカしさ(学齢期ワクチン接種という愚挙)緊急提言

2022-03-03 06:36:44 | 時事・風俗・情況

周南市が、「こども部」を作った以上、私は、虐待問題、貧困問題を本気で取り組むことと思っていた。
県が、貧困所帯に対する食材提供を、貧困所帯に対する支援と、決して認めず、期限切れ食材の有効活用とすり替える以上、周南市として、勇気をもって、貧困所帯に対する支援体制を作り上げると思ったのだ。
しかし、それは、あてが外れた。
標記写真は、周南市鹿野地区の、社会福祉法人山口県共同募金会の、貧困家庭(決して認めない)への、ボランティア支援事業で、啓発のため、一般市民に配布されたものである。
デフレ、コロナの併存、日本政府の外国人労働者の恣意的な導入のもとで、日本国の中小企業労働者は、貧困にあえぎ、フルタイムの仕事どころか、自己のこどもに対する食事も十分に用意できない。貧困の中で、虐待が起きるのも、当然の帰結である。
啓発ビラはいただいて、カンパもしたが、ボランティアで済ませていいのかは大きな問題である。
少なくとも、周南市は、重点政策として、こども援護を目標にした。
貧困、欠食児童生徒に対し、市直営(市の直接委託契約で)で、責任をもって、給食事業を始めるべきである。
始める場所は、中学校、公民館、どこでも可能である。
地元団体との連携は重要だが、適正な衛生管理、責任の明確化、途切れなく続く、食事供給は、きちんと管理されなくてはならない。
なるほど、周南市は労働者の貧困について直接の責任はないかもしれない。
しかし、現在では、飢えたこどもに対する、間断のない給食の給付が、こども部の創設目標のひとつであり、まず、喫緊の課題ではないのか?
元実務者とすれば、こどもの医療費無料など、バカな政策である。
頭の悪い政治家が、無考えに試みる、安い、ポピュリズム(人気取り)政策である。
山口県の給付以上に単市の給付上乗せなど、愚の骨頂である。
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 先に、私立大学、徳山大学を公立化するため、いかに、バカバカしい、騒動が起こったか、書いてきた。
 それは、ショクドクトリン(緊急政治的事件の際、隠した重大な政治的案件が決められること)としてつかわれた、過剰なコロナ騒動の中で、市民に対する説明、デメリットの説明(市民にとってメリットはないので)すらなしで、利権を同様にする議会、建設業者、考えのない地元商工者の、圧倒的な支持のもとに、強行された。
 それは、事実であり、仕方がない。
 市長方針に対する反対勢力もなかったし、反対しなかった市民は、そのつけを自分たちで払うしかない。
 なぜ、問題だらけなのかは、別途、「「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」のバカバカしさ(徳大公立化の愚挙)」に書いたので書かない。
 しかし、あれだけ、市民アンケートが好きだった、周南市長、藤井律子市長が、旗色が悪いと、自己の利害を損なう、危険な手法(この場合、公立化アンケート)は、決して取らないことを、周南市民たちは、よく覚えていればよい、と思う。

 私は、行政職だったので、政治家とは見解が違う。
 ポピュリズム政治の中で、藤井市長は、やりたい放題をやっていた。
 いくらもあるが、今回は、「こども部」の設置について、記していきたい。
 足りない部分は、後日、記す。

 もともと、「こども関係の部」と総括すれば、福祉と教育と大まかに二つにわかれる。
 当然、双方とも重要な仕事である。
 しかし、さすがに、教育の実情(生徒・児童を直接教育場面で、監護・指導すること)は、いくら出しゃばりの市長でも、直接、口をはさむことはできない。それは、当然のことである。
 そうなれば、市当局とすれば、学校の、周囲環境の維持・整備、学校を離れたこどもたちの、社会的生活の支援・監護、必要があれば福祉支援を目指すところしかない。
 それなりに、限定的な、仕事である。
 しかし、場合によっては、社会的な存在でもある、こどもたちの、権利擁護、安心・安全を確保し、監護する重要な仕事である。

 このたび、文部科学省は、政府が強行する、学齢期から、ワクチン接種の義務化を、任意設置で実施する、ガイドラインを全国に通知した。
 同時に、ワクチンを大量発送したわけである。
 自己責任を前提で行われる、個々のワクチン接種を個々の親の判断にゆだねるという指導である。
 本来、ワクチン接種では、副作用は生じない。生じないのであるから。副作用が出たら、副反応と呼ばれる。救済はない。自分のリスク意識と判断で、ということになる。

 試しに、先に二回行われた、ワクチン接種の、実施資料で、厚生省職員のワクチン接種率(2回目までである。)が10%、国会議員が、30%弱、驚くべき達成率であった。
 どうも、ワクチン未接種は接種は危険であると、NHKその他のメディアがあおった80%から90%の国民接種達成率から比較して、官僚・政治家は、その安全性を疑い、自分は決して打たないと、その本音を隠していたわけである。
 60歳以降の、免疫低下の世代にインフル同様に犠牲者が出るのは、残念であるとしても、ウイルス被害で、ほぼ毎年2万人超の死者の数に比べ、著しい低下である。
 おまけに、PCR検査を経た人間が死ねば、皆、死因はコロナ死と判定されるという、とんでもない話だ。

 現在、壮年世代の、若い世代に死者が出ているのは、どうも、ワクチン接種の副作用(断じて副反応ではない。)と取りざたされているところである。
 私も、そんなものじゃないかと思っている。

 しかしながら、こどもに、コロナを原因にした死者はほぼいない。
 なぜ、犠牲者もいない世代に、ワクチン接種を強行するのか?

 藤井律子さん、昔の話をしよう。
 あなたの、夫君、藤井真氏とあなたは、大企業の労働者ではなく、また、変革を装うサヨク共産党の支持者でなく、青年団という、田舎に居住する中小企業労働者のボランティアを進める団体の出身だった。
 大企業で働き、会社の方針によって、地区ボランティアとしていやいや働くのではなく、また、政治主義の共産党オルグに取り込まれ、腐った政治運動をするのでなく(お人よしの、私の兄は党員になった。今は知らないが。)、自己の余暇と、楽しみの一部を、地域のため、地区住民に対して、返してあげたい、と、当時思っていたのではないか。

 青年団は、地縁・血縁に根差した団体だったので、名水を使ったそうめん流しや地元子供会と一緒にやった行事などに、はんぱに参加した私のような人間ですら、いろいろ思い出がある。
 先にも書いたが、青年団の心ある保育士さんたちと行った、「ストマイつんぼ」などの、薬害啓発映画にも行った。そして、憤慨した。
 後年、聴覚障害が、いかに厳しい障害であるか、仕事を通して知った。
 幼く発症した、聴覚障害は、親子の人間関係、信頼関係育成すら阻害する、重篤な障害なのだ。
 藤井律子さん、あなたが目指した、医療従事者としての職責の、良心にも、やりがいにも、こんな団体の、地域活動は、充分に益のあったはずだ。

 私は、あなたの夫君が、青年団活動を通じ、市議会議員として、政治的に利用しつつ、リアルポリティシャンとして、組織を利用してのし上がったとは思わない。
それなりに、学歴に負けない自負心も、政治家としての良心もあったに違いない。

 夫君、没後、衣鉢を継いで、政治家になったとしても、市内の周辺地出身であり、看護師というあなたの出身母体を、今、軽んじているとは信じたくない。
 私たちは、皆、数多い中小企業労働者の子弟である。
 相対的安定期の、70年代後半に、親に無理をさせて、高等教育をうけさせてもらった。
 私たちは、特権的な大企業労働者でなく、政治的反動団体(日本共産党書記長は日中友好協会の副会長ではないか。)にも騙されず、中小企業労働者として、その良心、地縁・血縁の倫理観によって、生育され、自己形成したわけではないか。
 大多数大衆としての、良心と、大衆の利害のために生きようとする覚悟は、私たちの社会生活を通じて、実現してきた筈だ。
 私たちの究極の目標は決して、自己利害でも個人主義ではない。
 この地で職を得て、少なくとも、私は、そう振舞い、思考してきた。

 徳山大学公営化はもう仕方がない。
 周南市の未来に禍根を残す、世紀の愚策だが、利益の同一と、目的を合一にする、議会、建設業者、無考えの商工者の出来合いレースで仕方がない。
 今後、公立化すれば、答申のとおり、公試験に基づき、地元市民の子弟は、ほぼ、入学枠はなくなるだろうが、市民が、是認するなら仕方がない。未練だが、再度、書いてしまった。

 しかし、話は変わる。
 なぜ、国レベルで、学齢期児童のワクチン接種は、効果があるとは、疑わしい、と、指示があったのに、周南市も、学齢期接種を強行するのか。
それとも、全国でやっていることだから、うちも、やればいい、とでも思うのだろうか。
 私の倫理コードに照らしてみれば、私が社会生活を務めている間は、当局から強いられれば、ワクチン接種はやむを得ない、と思っていた。
所詮、私の個人の命である。
 直接介護にあたる医療従事者、国土・国民の安心安全を守る自衛隊員ですら、ワクチン接種が義務化されている現実である。
 まだ、パンデミックの実態がわからない段階で、窓口公務員の私が、市民のリスクを排し、職責を貫徹するためなら、信念を曲げ、ワクチン接種をすることも止むを得ない、と思った。
 後日、パンデミックは大嘘が判明し、在職中に、やらずに済んだのは、僥倖であった。

 ワクチン薬禍の中で、犠牲になった、医療従事者、自衛隊員などに、哀悼と、お礼の言葉を申し上げる。
 現在、強行される、安全性が極めて疑わしい、第三次接種など、現在、基礎疾患のある私は、接種する気持ちなど全くない。
 ウイルスの世界的な、伝播状況、日本国のり患状況、あるいはワクチン接種の副作用状況、勘案して、まったく、メリットがないという判断をしている。

 しかし、学齢期以降のこどもは違う。
 彼等には、自己決定権がない。
 しっかりしない、親が、望めば、今後、どんな健康被害が出るかもわからない。
 大多数の親たちは、忙しいので、情報収集もできない。
 今は、そう、中小企業に勤めるどころか、フルタイムの職員もおぼつかない様な、不安定な状況で、我が家の家族の命をつないでいる。
 そんな方々に、自己決定を強いるのは、間違っている。
 公言しているように、「こどもたちの未来のために死んでいくのは、われわれ老人の役目ではないのか」、と、私は、マジで、思っている。
 要は、あなたとか、私が、未来ある子供たちのために、先に死ぬ方が、人間の倫理として、間違っていない、そちらの方が価値がある、ということです。
 そうなれば、こども支援部を作る前に、こどもの生命、安心・安全、健やかな発達を支援するように、全力を尽くさなくてはならない。
 そのためには、政府の政治的な思惑を排し、まともな、文部科学省の官僚の意見を、誠実に、取り入れなくてはならない。
 圧力はかかるだろうな、しかし、それが、政治的な責任であるということだ。
 名もなき、貧しく、正しいことを行う、「青年団」の理念だ。

 この際、やめてしまいましょうよ。
 支障をきたした、彼らが、成長し、思春期にでも至ったら、私は、彼らの、目が、恥ずかしくて見れない。

 藤井律子さん、今後、ワクチン接種を引き金に、ストマイつんぼのような、薬害による重篤障害、運が悪くて、死亡事故でも出たらどうするんですか?
 あれは、国のやることだから、市は無罪だというのですか?
 どうも、あなたも、学齢期に当たる、孫がいるらしい。
 あなたの、孫も、ワクチン接種を受けるのですか?
 そもそも、市の執行部、議会議員のワクチン接種の実績の報告はされているのか。
 人づてに聞くと、同調圧力に耐えきれず、平の職員は、おしなべて、ワクチン接種を受けたらしいが、しかし、市幹部、議会職員が、国レベルの実施率であれば、それは、市民に対する背信行為ですよ。

 最後の倫理規定として、残年数も見えた、今の立場で、私は、自分に、国民国家日本国の国民としての倫理を問う。
 もし、自分の社会的義務と、上位からの命令の相克があれば、私は、自分の道徳律に従う。

 市職員の皆さん、それくらいなことは、人として考える義務はありますよ。
 私たちは出世するために、あるいは豊かな生活をするために公務員になったわけではない。
 私の場合は、正義を実現するためになったのですが。

 今年の、公務はじめ式に、藤井市長は、着物で出席されたそうだ。
 ご自身は、私も、まだまだ「いけてるわ」と思われたのかも知れない。
 私には、他人の気持ちはわからない。
 しかし、私には、あなたの姿は、さる廻しのサルのように思えた。
 あなたは、徳大公立化推進勢力の、利権代表の走狗のようになっているのだな、としか、言い様がない。
 それで、幸せなら、結構である。
 もし、来年、まだ、そこに、いらっしゃるなら、議場で、三番叟でも、踊られたらいい。

 しかし、お互いに、残年数は少ない身である。私の場合は、ブログで挙げたとおりである。
 今後とも、周南市の、社会的弱者のために戦いましょうよ。