天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

東京オリンピックを成功させよう(東京オリンピック開催は日本国にとって非常に重要な戦いである。)

2021-05-24 19:01:43 | 時事・風俗・情況
 
 ここ、ここにきて、売国奴・パヨクメディアのオリンピック妨害工作が、本格化しています。
 朝日、毎日は、言うにおよばず、楽天など、総動員で、中共に使そうされた、あるいは、グローバリズム及び中華帝国・中共と、利害の合一と、目的を同一にする勢力が、コロナ利用をその象徴として、あらゆる手段を講じ、日本国の凋落をめざして、総攻撃をしています。

 私は、運動神経もなく、妻には、神経そのものがないと、酷評されますが、しかし、スポーツを見るのは好きです。
 しかしながら、プロ野球あるいはサッカーなど、ほとんど興味がありません。
 なぜなのかなあ、と考えてみれば、近頃の私は、日本人が活躍する、国際的なスポーツが好きなのであることが、判明しました。
 まあ、そういいつつも、ひと昔も前、プロテニスの、フレンチオープンなどの、全盛期のナダルと、天才フェデラーの試合には、強く惹かれたのは確かですが。
 テニスなど知りもしないのに、ナダルの強打とそのストロークの威力(それだけではないでしょうが)、それを技術と、素晴らしい才能、センスでしのぐフェデラーの姿は、竜虎並ぶというような、大変感動的でした。
 ついでに脱線しますが、彼ら二人とも、身長は、180センチ台であり、2メートルを超える、欧米系の外国人のプロテニスプレイヤーに比べれば、平凡な体格です。
 素人が要らないことですが、サーブの威力がものをいう、殊にテニスでは、身長があるのが圧倒的に有利です。
 それは、階級制がない、野球や、プロレスなどでも同様かもしれない、ところです。
 かの全盛期の、錦織君が、ナダルと対戦した時、錦織君にもう10センチ身長があれば、世界の、せめて、一桁ランクの成績がとれたのに、と思ったことがあります。
 それは、基礎体力がないと、まず体格がよくないと、なかなか、世界の壁を破ることがむつかしいことを、如実にしめしています。
 調子のよかったころの、錦織君には、日本人として、胸のすくような好試合もあり、昔は、楽しく観戦(WOWWOWでですが)したところです。
 その頃は、自己のナショナリティ(日本人で体格に恵まれないこと)を、その負性も、きちんと意識化し、懸命に適応しようとしていた、と思われます。
 それこそ、体格に恵まれない錦織君が、その敏捷性と、センスで、トーナメントを勝ち抜いていくのを観ていました。
 その中で、彼に、もう少し、後10センチ身長があれば、ナダルや、フェデラー、ジョコビッチと互角に戦えたかもしれないと、残念に思いました。
 しかしながら、非力の日本人としての、戦い方はあるはずです。
 スポーツが戦闘行為のシミュレーションであるのはもちろんです。

 しかし、実際に、武力を行使し、他国を軍隊で侵略・抑圧している覇権国家を、国連が放置しているなら、我が国のアスリートたちが、スポーツを通じて、当該国家の特権公務員・選手を打ち負かすのも、正しい戦いであり、歴史的に意味があることではないでしょうか。

 それはそうとして、かつて観た、プロテニスの暦年の最初に行われる、オーストラリアオープンの、優勝杯の贈呈者として、中共人が出てきたのに、びっくりし、同時に非常に強い違和感を感じたのを、覚えています。
 それは、どうも、中共の南進侵略政策、「一衣帯水」主義が、ガードの甘い西欧(名著「サイレントインヴェージョン」にそのように記載されていたと思う。)オーストラリアの水面下で活発に動いていたころです。
 それを、日本国に類比してみると、国技大相撲の、優勝式の贈呈者が、外国人でいいのか、と、思うような感覚です。
 国技のような、オーストラリアンオープンも、ビジネスの一環なのか、というのが、私の感覚ですが、他人種が賞を贈るのか、そんなことを声高に言えば、それは、例のポリティカルコレクトネスに抵触し問題がある、というつまらない話です。
 また、それを言えば、わたくしのケースでは、常勝、福岡ホークスの、優勝セレモニーも、在日のビジネスマン、孫氏がオーナーではないかといわれますが、それも、親中オーナーが経営する楽天も嫌で、プロ野球はみません、というオチです。

 日系アメリカ人の、プロテニスプレイヤー大阪なおみちゃんも、近頃、言動が、無考えで、粗野になったのは残念なことです。
 また、錦織君が、「オリンピックと命のどちらが大切なのか」、という言葉で、日本国のコロナ防疫体制を批判し、議論を呼びましたが、これも、不用意な発言と思われます。
 日本に居住する、日本人として、新型コロナが死病とか、パンデミックが起きているとは、とても思えないから、です。
 しいて、感覚的に言えば、私には、インフルエンザの一種と思われるのです。
 したがって、個人的にワクチンの接種を感じません。
 再度、したがって他人にも強要しません。
 私が、悪性インフルにり患して、死んだとしても、運が悪かった、としてあきらめます。

 私が疑うのは、錦織君は、生活の根拠を外国におき、世界を転戦しているうちに、だんだん、「グローバルスタンダード」などという、虚妄のイデオロギーのとりこになったのではないか、という危惧です。
 限られた世界で思考していると、「日本人大多数国民大衆」と、生活実感がかい離しますよ、ということです。
自己の競技以外に、自己の祖国への常識の配慮や、一般の人々の「現実」に思いを馳せるのは大事なことです。自国アスリートを、損得抜きで、応援、支持するのは、その層しかいないからです。
 絶頂期に至るまでの錦織君は、篤志家によって実現された自己のテニス留学も含めて、自己のナショナリティになにがしかの配慮をしていたと思われます。
 彼が、また、高位の選手になるのを願って止みません。
 残念ながら、WOWWOWのテニス放映は最近見なくなりました。

 閑話休題、大衆の一人である、私が、ほぼ唯一、地上波民放で見るのは、朝の東京テレビ、安住アナウンサーの、オリンピック特番(東京ビクトリー)です。
 この番組は、オリンピックに出場した、出場予定のアスリートをゲストで呼んで、その競技内容や、裏話を語らせます。大変興味深いところです。
 彼は、人あたりがよく、人をいじるのが非常に巧みであり、この人とどんな話をするんだろうと思っても、毎回、上手に話題を引き出します。やはり、彼は、NHKにはいないタイプです。
 この番組で、東京オリンピックが、繰り延べされたことで、国内のアマチュアアスリートたちが、どんな被害を受けたのか、よく理解できました。
 自らの競技者としての絶頂期を、2020年に合わせてきた彼らが、目標が延伸されたことで、予選の勝ち抜き、代表への道行きで、いかに理不尽に競技生命を揺さぶられたか、こちらに、直截に、素直に伝わるのです。
 彼らが、本番を迎えられないことは、本当にお気の毒なことです。

 この番組の中でも、白眉の特集は、女子バレー、ロンドン大会の銅メダルをめぐる戦いでした。
 評判が良かったのか、スタッフがノリノリだったのか、三回分の収録でした。
 ロンドン派遣のフルメンバーの女性選手たちと、中途から眞鍋監督まで出演し、かしましくも楽しい話が、聞けました。
 名セッター竹下の、予選前の指の骨折、今まで勝ったことのない強豪中共との対決、フルセットで死闘する、それこそ、全員が、神がかっていたようだ、という、彼らの話に思わず引き込まれ、強く感動しました。
 隣国の反日国家、朝鮮との、銅メダルをめぐる戦い、監督スタッフと、選手と一丸となってというしかない、状態で、勝利を手にしたところです。
 これは、まさしく、国家を挙げての戦いで、交渉時に、容易に国益や、原則を放棄する、日本の政治家に見せてやりたい、と思うほどの、苛烈なたたかいと勝利です。
 その裏で、選手と監督との相互信頼、それぞれが自らの役目をきちんと果たすという、団体競技の心得、その達成は、たかが、スポーツとは思えない、尊いような戦いです。
 彼らは、日本の政治家、官僚以上の、刃の上を渡るような、厳しい苦しい戦いを勝利したと思われます。
 しかし、彼らの勝利も、中共のように、賞金も、将来の保障もない、名誉も、時がたつにつれ、忘れられていくでしょう。
 監督提案で、「欧米系の選手は日本人の顔の判別ができない、みんな、髪形を統一して欲しい。」という、戦略は、竹下セッターたちの猛反発で、白紙になったそうです。笑わせます。
 勝利のために何をするべきか、皆で、それぞれ真摯に考えます。

 私は、スポーツを政治の手段にするな、とか、スポーツに政治を持ち込むな、とかいう、言説をまったく、信用していません。
 これまで、政治的でなかった、オリンピックなど、一度もない。
 ボイコットされたオリンピックもいくらもある。
 しかし、東京オリンピックはチャンスです。
 おそらく、今後、こんなチャンスはもうめぐってこないだろう。

 私が若者(馬鹿者)で、あったころ、オリンピックに全く興味がない、と公言していました。といいつつも、横目で見ていましたが。
 近頃、友人の若い衆と話していて、彼も、まったく、当時の私と同様なスタンスであることが理解できました。
若者(馬鹿者)の特権、無意識の反骨精神と反通俗精神です。
 しかし、現在の、少数者の利害と、覇権国家の横暴に支配される、グローバリズムの嵐の中で、それぞれが、健全な国民国家を維持、守ることは大事なことです。
 外国で戦う、アスリートたちは、そのことを、まず意識し、理解しているように思われます。
 例の「〇〇と戦争にルールはない」といいますが、スポーツは、ルールにのっとった戦いですから。

 その点を、よく理解できるのは、隣国南鮮の過去のあまりにひどいオリンピックの競技者の醜い姿を見た、日本人であろうか、と思われます。
 アマチュアリズムで、ルールを守り、勝利は大切である、そして勝利以上に大切なものもある、という、日本人の長所と美徳を、見せてやりましょう。

 健全な、国民のナショナリティを鼓舞するためにも、オリンピックを応援しましょう。
 
 現在、日本国は、残念なことに、政治の無策と、グローバリズム迎合政策によって凋落し、今の我が国の周囲は、反日国家と、侵略をたくらむ覇権国家ばかりです。
 この際、環太平洋の、覇権国の被害国が、結集し、政治的なオリンピックを実施する機会は、今回だけです。
 併せて、中共包囲網の実力をしらしめ、中華帝国に、団結を示す時です。
 新コロナで、つまずく、あるいは、躊躇する国々は、仕方がないことです。
 この際、大事な同盟者、台湾、オーストラリア、だけでもいいではないでしょうか、是非、オリンピックを成功させよう。
 大きなイベントには、国民の心を高揚させ、夢を持てる契機となります。
 デフレとコロナに痛めつけられた中でも、ガンバロー、という気持ちも起きる。
 新コロナの中でも、困難な状況でもやるべきことはやる、という、日本人の決意と、覚悟を、まず、環太平洋地域に、示そうではなかろうか、と思います。

 中野剛志氏の著書ではないですが、日本国をはじめ、あらゆる国民国家は、現時点で、グローバリズム勢力に侮られることなく、悪質な他国と様々にたたかい、「富国強兵」を目指すしかないのです。
 それが、他の、グローバリズムと戦う、自立した、国民国家を助ける、手段にもなるのです。

 とはいえ、国内に内患を抱えている国は、参加はむりかもしれません。
 建前は別にして、当該参加は各国民国家の判断に任せるべきです。

 間違っても、グローバリズム勢力、パヨク、売国奴に、主導権を渡してはなりません。
 斜に構える若者たちも、オリンピックという重大な政治的な行事に、反日国家、覇権国家に負けないように、国民の一人として戦わなくてはなりません。

 こんなことを主張しても、ごまめの歯ぎしりですが、国民の一人として、IOC会長と、日本政府の奮闘に期待しています。

シン・エヴァンゲリオン私見(中二病の発展的終焉)

2021-05-09 15:11:18 | 映画・テレビドラマなど
テレビ版の、最終回からです。シンジの回想(夢想)シーンですが、私が世界の中心であったら、なんと幸せだろうということでしょうか。彼の気持ちはよくわかります。
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新世紀エヴァンゲリオンの完結編が完成し、封切られると聞いたのはずいぶん以前のことのように思います。
 その後のコロナパニックで、それこそ、オタク、中二病文化の担い手たちが、社会的活動を制約された中(国民皆制約されたというかもしれないが)で、封切られるのは、興行的には、大変お気の毒な話である。
 しかしながら、コアなファンはありがたいもので、「この時期に」と危ぶまれたにもかかわらず、映画館は盛況だった(4月11日までで、74億以上売り上げ、観客484万以上、シリーズ新記録)(5月6日で、82.8億以上売り上げ、観客542万以上)、と、年若い友人は言っていた。

 したがって、コロナ性うつ病により、現実的に「社会的」参加を怠っているわが身とすれば、是非に行ってみたいと思ったわけである。
 私が行ったのは、4月6日(水曜日)であり、私が見たのは12時5分の二回目の上映であったが、入場者の数は、一時の狂騒状態は終わったのか、20,30人くらいの観客だった。
 私のそばに、30代くらいのカップルがおり、二人とも、「エヴァ」(以下こう称する。)の上映に入るのかと思うと、短髪の男のみ、エヴァの方に入り、シネマコンプレックスというやつで、女の方は別のところへ行ってしまった。
 どうも、男の方は、まなじりを決して、妻の意に反し、完結編といわれるエヴァを見て、少年時代から続く、エヴァ幻想にけじめをつけるのだろうか、あっぱれなものである。
彼らの間で「なんで私のいうことを聞かないの」、「あんな暗いアニメはいやよ」というやり取りはあったかもしれない、そして、今回だけは、男は折れなかったのかもしれない。
ま、皆、私の想像であるが。

映画館での観客は、中段から、上部の2、3列に集中して並ぶ。
私は、中段から上に三列目の左端の席である。
平日であるからなのか、一人の客が多い。2、3列空けて、私の左隣にお姉さんが座る。一人だけである。私の上段の中央に例の短髪のお兄ちゃんが座っている。
少しして、下の女二人カップルがペチャクチャやりだした。
幕間なのでやむを得ない、とめどなく続く会話に我慢していた。
そのうち、予告上映が始まった。
シン・仮面ライダーとか、シン・ウルトラマンなどの予告もある(興味があるのは私だけかもしれないが。)。
瞬間的に、シン・ウルトラマンのカットにひやりとした。
ぞくぞくという感覚である。
これは、見に行かずにはおれまい。
その間も、女二人のカップルは止まらない、年おいて短気な私は、「うるさい、静かにしろ」と一喝した。

それで静かになったのは、重畳である。
あれらは、それぞれの家庭で、オヤジに注意されたこともないに違いない。
不幸な生い立ちである。

それから、後は快適に映画を見ることができた。
 
友人が言うには、ほぼ三時間あるので、中途でトイレに行かなくてはもたない。
「一病息災」の私とすれば、その言葉を実証した。なんせ、ほぼ三時間である。
しかし、皆、席を立たない。集中して、まるで修行の場にいるようだ。
エンドロールを見ながら、確かにこれは完結編だ、と思った。

どうもこの映画は、「謎」の完結というより、錯そうした「人間関係」の完結なのだ。
誰もが、自己の人性を、社会的存在としての自己、につなげられるのは幸せであると、思う。
 この映画の主調音は、まさしく、そこを目指していた。
それは、厨二病の終焉と、その帰結か、といわれれば身もふたもないかもしれない。
しかし、それは、試みとして、決して悪い出来ではないと思う。それこそこのドラマは、最初のテレビ放映から起算すると、ほぼ四半世紀が経過している。

 思い起こせば、東京テレビの深夜アニメ(1995年)で始まったこのアニメも、うちのこどもたちが、小学生のころ(現在30代後半)であり、ある意味、国民的アニメであろうと思う。
今でも、NHK、BSの深夜アニメで、当初の作品が放映されている。何度も、繰り返し、繰り返しである。
ほぼ、主調音(?) は、テレビシリーズで出尽くしていると思われるので、世代を超えた、新しい世代のファンも出てきたのかもしれない。
その後、作られた、序・破・急の劇場版シリーズにおいては、際立った印象は、私には少ない。
それを抜きにして、テレビシリーズから、この、完結編につながったとしても、特に違和はない。
エヴァというドラマは、大河小説というべきもののような、長い長い長編であるが長編であるが、この映画では、最初からの、ドラマの流れをなぞってくれる。
 わかる奴は解れ、と、難解で、突き放したように、なぞはなぞとして、ガイドブックも幾通りも出た、従前までのつくりに比べ、親切なつくりである。

 今、テレビシリーズのエヴァを何度も再放送している、NHKのスタッフにもアニメオタクは多いらしく、特番などもつくられ、結構なことであると私は思う。

 今見ても、これはとてもよくできたアニメである。
 それこそ、神話・オカルト、ドイツ語の使用、政治状況、家族の問題、戦争・軍事、ロボット、アドレッセンス(発情期)の男の子の問題、思春期のあらゆる過剰が一堂に会している。
 私たち中二病患者としては、なんと豊かな題材だろうか。

私の居所は、なにぶんいなかなので、直営放送局がなく、九州キーの深夜アニメで、発見して以来、はまってしまい、よく映らないテレビはあきらめて、ビデオ化されたあと、レンタルビデオ屋に日参した。
製作者(庵野氏など)のオカルト趣味なども十分に発揮され、それこそ厨二シンドロームの大合作であった。したがって、演出、キャラ、アニメ画、あらゆる部分がとがっていた。
エンド部分の裏の主題歌、「FLY ME TO THE MOON」も、私の頭の中に深く刻まれてしまい、シナトラヴァージョン、女性歌手バージョン、様々なものを、猟集した。
私のカラオケナンバーになったのも、果せるかな、ということである。

男女の性愛を巧妙に描いたようなこの曲を、若き中二病患者たちはどのようにとらえたか。

このシリーズは、テレビアニメ、劇場版アニメ、漫画とみな違った展開をする。
 私には、「みんな違ってみんないい」としか言いようがない。
金子みすずと同様に、多少無責任にではあるが。

 テレビシリーズは当初に、物語性が単独で完結していた。
 最後は物語性すら解体し、アニメのセルまでに、戻してしまい、これでもアニメ表現なのかと、野心的な作風をこれでもかと、展開して見せた。
物語は、なぞを含んだ有機的ロボット(実は有機的な新人類ということなのだろう)アニメで、操縦する、思春期(発情期)の、少年、少女の葛藤と、それを取り囲む、開発者との軋轢、さらに彼らを指嗾する社会の支配層との闘争など、盛りだくさんの内容だった。
 
 しかしながら、登場人物のすべてが、家族や親子、男女間に欠損や、きずを抱え、愛する者への執着と憎しみの間で葛藤しているという、実に暗いアニメであった。
 このくらさは、私のような中年男(当時)にも、ちゃんと、届いたのだ。

 これが、よくぞ、学童にまで支持されたものだと思う。
 解けない謎や、解釈が様々に生じ、今作まで引っ張ったということなのだろうか。

 子を愛せない大人と、したがって、親を愛せないこども、生まれながらの資質だけで、社会の安寧と存続のために、戦士になる、戦士にならなければならないこどもたち、また、親とすれば、こどもよりは、男・女の葛藤が大事、なかなか、厳しい主題である。

 今回の展開も、基本的に、男どもは、みなマザコンである、というところにある。
 主人公の、碇(いかり)親子は、お互いに、妻と母親という対立軸をめぐり、対立し、葛藤する。
「妻がすべて」という碇ゲンドウ指令のなんとみっともないことか。やだねえ、男は、と私も思う。
綾波レイという、母親の遺伝子から作られたクローン(人工的に誕生させられた)少女に、一歩的に愛され、骨抜きにされ、甘えるしかない、碇シンジ、これもみっともない、こと、この上ない。
 母親に愛されず、目の前で自殺された、惣流・アスカ・ラングレー(以下「アスカ」という。)、母との葛藤を克服し、自己への自負心をばねに、孤独な戦士の道を歩む姿、こちらの方が、社会人(大人)としてはるかにましに描かれている。

 裏話をひとつ、彼女は、劇場版アニメシリーズから、常時、左目にアイパッチをしており、あれは何だろうと、皆、疑問に思っていた。
 このたび、最終決戦で、アイパッチを開放し、邪気眼のエネルギーを開放し、彼女の攻撃を不退転のものにすることと、なった。まさしく、彼女も、中二病であった。

 今作では、皆、高校生だった登場人物が、それぞれ、大人になり、結婚して、劣等生だった彼らが、医師になり、あるいはエンジニアになり、ぼろぼろになった、生き残った地域社会で懸命に戦っている設定である。
 一人、碇シンジ君だけが、自分が、かつて、引き起こした、サードインパクト(市民が数多く死んだ大災害)にこだわり、めそめそ、落ち込んでいる。

 一人、綾波レイだけが、いまだに、シンジを見捨てず、シンジに付きまとい、かまう。
 彼女は、クローンなので、幼児体験も、生活体験もなく、社会的な生活もへていない。
 「私には何もないもの」ということである。
 今回、生き残った社会で、無理やり、農作業や、親子や、同胞たちの共同生活を経験し、社会的存在としての、人の生き方を学び、なにがしか充足し、そして消滅する。
 これが、綾波レイの、社会的な「人間として」の救済の物語である。

 そして、かつては頼りのなかった、シンジの友人たちは、災害後の欠損と不自由の中で、大人としての社会的な役割をきちんとこなしながら、「仕方がないよ」、「待ってやろうよ」、と、最初から最後まで、シンジを徹頭徹尾、かばうのである。

 映画のイメージでは、エヴァンゲリオンたちが戦っている世界は、生き残った人たちが生きている社会と、アクリルボードのような境界で隔てられている。
 したがって、彼らは、少々の戦闘による影響くらいでは、日常に影響は受けない。
 なるほど、究極には、大規模戦闘の影響を受けるかもしれないが、アスカやシンジが属する、戦闘世界は、いうなれば、中二病患者の夢の中のようなものか。
 戦闘シーンの、見事な映像と描写は相変わらず際立っているが、戦闘の意味が少し変わってきた。
 戦闘者として生きるのと、無力ながら生活者として精一杯生きるのと、どちらが大切なことのかという、庵野秀明監督の問いかけである。

 若者たちは、時間の経過(うまくいけば成熟)とともに、青春のそのつまらない思惟や失敗さえ、ずるいけれどそれは後知恵になるが、時間と距離をとってみれば、たとえそれが貧しく、恥ずかしい取り組みであったとしても、それなりに評価することができるのではないか、という、現在の庵野氏の認識が、かいま見えるような気がした(外したかもしれないが)。
 私たち個々の思考は究極、個の思考でしかなく、いずれ現実に打ち砕かれる。
これは不可避の道行きであり、個々の思惑や思考とは別に、たとえそれがすぐれた思考だとしても、それをも飲み込み、総体関係存在としての、人間の思惟や社会、歴史は継続、進展していく。
 私たちの、挫折体験など、たかだか、その程度のものなのかもしれない。
 君たちはよく戦った、と。
 やっぱり、本作は、救済の物語なのだろう。

 シンジは、綾波レイの消滅を契機に、戦士としての、自らの社会的役割を果たそうとする。
 それは、彼にとって都合のよかった「母親的なもの」への感謝と、併せて温和な決別、父親との、本来的な対決である。
 先に息子の方が、マザコンから立ち直り、父母を相対化する視点を持ったわけである。
 そして、いまだにマザコンや、男親としての自らの立場を意識下できず、行動できない、碇ゲンドウ指令と戦うことになる。
 母親や、父親を、距離を置いて見れるようになった、シンジは、強い。
 自らの傾向性(思想性)と計画・行動で、多くの人々を死に追いやった、碇ゲンドウは、自己の蹉跌(主にマザコン性)を認識したうえで、死んでいくしかない。
それも、若者たちの未来のために。としか言いようがない。

シンジの理解者であり、唯一の味方だった、葛城ミサト指令も、恋人加持を失いながらも、最終決戦から生き残る。
 同様に、アスカも、赤木リツコ副指令も、その他の仲間たちも、皆、生還する。

 そして、成熟した(?) 青年となった、シンジは、初恋(?) の相手、アスカと決別し、アスカの保護者であり、エヴァの新搭乗者であった、メガネ女子、真希波マリ(マキナミマリ)に、男として認められるのである。
 よくある、初恋の人との別れと、成年者としての選択ということだろう。

 最後は、山口県内の、JR宇部線、宇部新川駅から、二人が手をつなぎ、走り出すシーンでエンディングとなる。
 あの駅は、宇部マテリアルの本拠地であり、宇部市は、もともと炭鉱都市であるので、雑然としていて、決してきれいでない、疲れたような地方都市である(また、それは庵野氏の出身地でもある。)。
 しかしそれは、若者たちの出発に希望を添える。どのような時代でも、どのような場所でも、若者たちには未来がなくてはならない。
 自分で、意識的に選択したと思える未来であれば、それは何よりだ。
 私には、この結末がとてもよかった、と思う。

 私たちの思春期は、もともと、いわば閉ざされた屋根裏部屋の思考であり、「いつか世界的な〇〇を成し遂げる」という夢想から始まる。
厨二病は治まらない。
 しかし、その後の試練や挫折はお決まりであり、最後に思うのは、「私はこのような仕事をしてきた」という、自ら社会人としての成した自己の仕事の肯定とその評価である。
 すなわち「私はこのように、(社会が求める)自分の職責をきちんと果たした」、と証明することしか、私たちには残すものも誇るものもないのではないかと思う。
 これは、今になれば、とてもよくわかる思考である。
 エヴァから出発した、庵野氏は、前作「シン・ゴジラ」で、素晴らしい達成を見せたと思う(ブログにも書いた。)。
 今後も、彼は、シン・ウルトラマンや、シン・仮面ライダーと、自らの、生涯を賭けた、大事なアイコンを賦活させる準備にあるようだ。
 私には、彼が、自らの社会的達成を果たし続けることを、できれば高い水準で達成することを、願って止まない。 

「周ニャン市騒動」てん末及び地方「政治」の危さ(地方私学徳山大学公立化という愚挙)(その1)

2021-05-02 15:59:39 | 時事・風俗・情況

 上記の、令和3年5月1日号の、周南市広報を見ていると、藤井律子市長が、徳山大学公立化をまったく、あきらめて、いないことがよくわかりました。
真摯に、「おやめなさい」、と報告してくれた、「徳山大学公立化有識者検討会議」の忠告を、まったく、無駄にしています。
殊に悪質なのは、報告の、危険性や、デメリットについてのまっとうな助言に、何も言及もせず、まったく無視していることです。
それについて何も触れないのは、彼らの努力をおとしめ、ないがしろにしているとしか、言いようがありません。広報の書き方では、当該報告が、市長の背を押す、報告であったとすり替えています。
報告は報告で、「諮問」ではない、遵守も、拘束もない、居直るのかもしれません。
鉄面皮とは、こんな人をいうのでしょう。
市長及びそれに組する行政職員たちが、これだけ、恥知らずとは思いませんでした。長く生きてみるものです。
記事中の、「大学を生かしたまちづくりの方向性」は、空疎な作文です。
実態を無視した絵空事です。今さら、有用な人材の活用など、実態と明らかに違います。
ありていに言うと、公費を出して、レベルの低い地方の大学を支援しても、何のメリットもないのです。

この作文についてコメントすると、少なくとも、私は、現職中に、こんなアホな文章は書かなかったぞ。

市長は、今後、形式的に、説明会を開いて、市民の支援を得たとでもいうのでしょう。
手順さえ、踏めば、大衆の懐柔なんてわけはないとでも、述懐するのでしょうか。

私は、すでに、退職した身なので、他市の行政や議会に具体的に口をはさむことはしません。
しかし、ここまで、市長及び一部行政職が、徒党を組んで、周南市及び大多数周南市民の利害に敵対するつもりがあるなら、ポピュリズム行政(大衆迎合に見せかけた自己利害優先行政)(東京都、大阪府でも大阪市でもさんざん見てきた。)の典型として、私がブログで扱う意義があろうかというものではないでしょうか。
このたび、そのような意義をも見つけることができました。
周南市民が、自らの責任と、自分たちの将来への多大な負担を、きちんと理解する必要があります。地元に、ほとんど人材がいつかない現実に、早く気付くべきなのです。
  

 令和3年3月18日、かねてよりの、市長の諮問によって設置され作業を進めてきた、「徳山大学公立化有識者検討会議」(会長(山大教授)、副会長(山口県立大学教授)各一名、委員8名(教育関係者及び商工会議所代表等3名)の計10名)から、報告書が出されました。
この会議は、令和2年9月から、あわただしく、計5回の検討会議が行われたようです。

 第4回目(令和3年2月2日)の検討会で、その経過が、地方テレビに一斉に流されて、下記に記した、経営方針の不明確、財源算定の甘さや、多大な人件費に対する批判が、委員の間から噴出しました。
 公開といいながら、市民は忙しいし、市職員も忙しい。そのようなものにかかずらう暇はない。

 そんなことより、デフレ不況、コロナ不況で、明日食えるかどうかわからないのに、景気対策どころか、事業の反復継続すらできず、過剰反応で、小商いの営業(失礼) まで縛るなら、喫緊の問題として、適正な損失補償政策をしてくれよ、というのはまことに、ごもっともなことです。

 そして、私にしても、このたびの報道を契機に、「報告書」を検討し、当該計画が、どれほど愚かしく、危険なことなのか、初めて知りました。
 
 そうなれば、それこそ、半年そこそこで、この重大な問題について、軽々に議論・審議を終わっていいのかという話です。

どうも、市・執行部とすれば、さすがに、市長の思いつきと、最初から結論ありきの机上の空論で、重要案件を決定するわけにもいかず、外部にゆだねれば、さすがに厳しい意見が噴出し、市長が、理性(?) などという上等なものでなく、普通人の常識に目覚めるかもしれないと切望し、「有識者」代表を選任することとして、このような手続きを踏んだのでしょうか。
そこに、この政策に対して、個人的に憂慮や葛藤がなければ、行政職員として、恥ずかしい限りです。
それとも、徳山大学出身の市幹部が、市有力者が、裏で暗躍しているのでしょうか?
それこそ、アメリカの大統領選で、不正選挙に関与したという、DS(ディープステート)が、周南市にも市長の背後にあるのではないかと、勘繰りたくなるところです(市域や地方行政を超えた動きが本当にあるのかもしれない。)。

きっと、市職員の大多数は、いくら市長の命令とはいえ、そこまで、私たちは無考えで、無能でない、と、心中にジレンマ(当然、それは市長の思い付きと周南市及び周南市民との利害の相克です。)を抱えて、苦悩しているのでしょう。よくあることです。

 この資料は、周南市のホームページで容易に検索できますので、関心のある方は、どうぞ、ご覧になってください。

それまでの市の検討資料は、牽強付会というか、最後には、強引に公立化誘導への作文になっていました。
しかし、このたびの報告書は、市長及び周南市との間で直接の利害を負わない委員によって検討され、国内の教育機関の状況や、卒業生の雇用・就職状況など、専門家、有識者としての考察には一応の信がおけます。
 私には、最初から最後まで、その基調は、「本当に、(現在の厳しい時期に)公立化に踏み出すんですか?」という、委員の総意による、疑義の表明にしか読めませんでした。

 末尾に記された、「市民への説明責任、透明性の確保は重要であり、市による丁寧な説明と対話が求められる。」と、再度、念押しされています。
それは、当該検討で初めて、事情を知った市民たちに、反対する声が出ないことを前提にするとして、市民の大多数が、無関心や、黙認するようであれば、周南市及び周南市民の将来大きな禍根を残しますよ、ということです。

このたびの報告等を読み、私の結論としては、公立化のメリットは、まったく、一つもありませんでした。
要は、デメリットしかない、ということです。

それは、あたかも「(戦争は)やってみなくちゃわからない」、という、大戦初期(もちろん太平洋戦争です。)の、陸軍・大本営の甘い見通しによく似ています。

私には無考えの市長(その動機はまた後日探ります。)と、箱モノを作って、人間を集めれば、何とかなるかもしれない、あるいは箱モノ解体・建設で、もうけたい、という公立化推進賛成派の市議会議員、便乗商工者たちなどの利害関係者たちによって、周南市及び周南市民が食い物にされる未来しか見えてきません。
市民の大多数の利害より、自己、少数者の利害を追及する人たちも、少なくはないということです。

まず、市長は、今のような、怖い、危険な時代に、大きな新規事業に踏み出すには、事前に市民にデメリットを十分に説明する、道義的な責任があります。
それが、できない市長は、私に言わせれば、中野剛志氏が指摘するように、政治家として「人間性を欠いている」(大多数市民の切実な利害に無頓着で無責任だ。)としか、言いようがありません。
それこそ、政治家として、「責任倫理」が欠如しているのです。

市長には無理かもしれませんが、市の職員には、末尾の参考書籍は読んでほしいところです。
かつての、一村一品運動で有名になった大分県の平松知事(個人)が提唱した、「Think Globally, Act Locally 」(世界状況を正しく自己に媒介にして地方行政に生かせ)という心得は、まったく変わっていないと思う。
それを心得ていないとすれば、それは行政職としての、退廃(不勉強と責任放棄)であると思います。

わたくしは、かつて、放漫経営の果て、財政破綻した下松市の出身ですが、それは、まだ、右肩上がりの時代においての破綻であり、その後の安定した時代の幸運をも含めて、運よく、どうやら、今のようにまで、復帰しました。

しかし、現在という、グローバリゼーション全盛の時代で、言い換えれば、国家ですら、どうなるかわからない時代に、経営を間違えた、あるいは変化に対応できなかった地方自治体はどんな悲惨な運命をたどったのでしょう。
疲弊した地方都市が、中共及び中共資本の食い物になった、北海道の夕張やニセコなどの各地などを見ていると、周南市の将来が気にかかります。
ガードが甘く、問題がある、地方自治は、新自由主義などの、グローバリズム推進政策をとる、政府によって、中共、米欧などの巨大企業に差し出され、食い物にされたのです。
それこそ、今になってみれば、市民の多くが、語るように、下松市が周南合併に組しなかったことは、先見性があったということもできます。
 
 まず、この、報告書を踏まえ、なぜ、ダメなのか、について、検討していきます。
 当該項目と、係数資料は、当該報告を下敷きとします。分析及び意見も同様です。
 項立ては、原本にほぼ一致しますが、詮のない部分は割愛します。
私が承服できない部分は、別途、記述します。
           記

「徳山大学公立化有識者検討会議報告書」((以下「報告書」と略称します。)本文2ページ)

1 18歳人口と大学への進学率
報告は、最初に、18歳人口の減少を認識しなさい、とある。
日本国のピークの2017年の18歳人口120万(大学進学人口63万)が、2040年には88万(大学進学人口51万)、人口比で、27%減、大学進学人口で20%減になる。
この分析に付加して、進学率の問題においては、デフレ、コロナで痛めつけられ、将来の教育投資も、当該費用を負担する国民たちが希望を抱けなければ、もっと下がっていくしかないと、私は思う。
これはもう、どうしようもない問題で、かつて、寝食を削ってでも、教育費をねん出してくれた日本の親たちは、現在、非常に厳しい経済状況にあり、親も子も、大学教育を受けることに、夢も希望も失いつつあることを意味する。

周南広域地区(周南市、下松市、光市)の18歳人口は、2033年には、2020年に比べて、22%減少すると指摘している。
そういう状況であるのに、市長は、自分の思い付きや暴挙が恥ずかしいのか、議会からの質問に対し、いまだもって、県内他市に大学公立化に関する共催や、協力要請はしていないという。
まったくもって、事業管理者として、恥ずべきことである。
当該計画の将来の見込みのなさと、その無責任ぶりが恥ずかしくないのだろうか?
そんな出発をした、公立化計画を今さら、議会のいうように、他市に頼む経路はないだろうが、周南合併の際と同様に、逆ねじを再度食わされることを恐怖しているのではないか。
また、そんな勇気が、今の市長にあるのか?

そうなれば、国レベルでの18歳人口の減少は、すなわち、県内や、他県から、地方大学に、わざわざ来る学生は、少ない(いない)、ということである。
そうであれば、外国人でも引っ張ってくるのか、それは大変危険なことである。
それは、別に述べる。
2 大学全体の状況(報告書本文3ページ)
国立、公立、私立の比率は、国立のピークは2003年の100校2019年で86校(14%減)、同年で比較すると、公立は2003年76校2019年93校(22%増)、私立2003年526校2019年607校(15%増)となっている。
報告書の特筆部分では、1989年から比較すると、2019年では2倍以上になっていると指摘される。
すなわち、18歳人口1989年から比較すると、2019年では40%減となり、その4年制大学の進学率を、国、公、私学で食い合いをしているということである。私学の経営は極めて厳しい。
おまけに、山口県内の進学率は、2019年で全国平均の50%をはるかに下回り、37%で、全国で下から4番目であるという。
高校新卒者は、自県進学は、25%(全国平均は44%)、高校新卒者の七割以上、いや、75%は県外に進学している、ということである(自己の生活史をふりかえればよく理解できる数値である。若者たちは、ここ周南市に住み続ける魅力がないのだ。)。
要は、公立化しても、やはり、徳山大学に来る県内出身者は少ないよ、ということである。

3徳山大学の現状について(報告書本文5ページ)
ア 沿革・概要
徳山大学は、昭和44年11月、大学誘致(学校法人中央学院)により開設された。
この報告では触れられていないが、当該敷地の提供など、誘致の条件で徳山市は多大な贈与をしている。
当時、私は中学生だったが、工業高生だったうちの兄は、親から、大学に入らないかと、打診されたという。
弟が大学に行くかもしれないので、親の負担を考え断ったと、うちの兄は、私に言っていたが、彼は勉強嫌いだったので、真偽は定かでない。工業高卒で、地元の、大手化学会社に就職した。まだ、大学進学率も低い時代だった。
当時は、開設ばかりで、ほぼ無試験だったらしく、ずいぶん年長の学生も数多かったらしい。
当時、日本国の経済もまだ健全で、私たちの親もそれなりの余裕と夢があったのだ。

昭和49年、分離独立し、自前の大学となり、経済学部が二学科制となった。
経営母体は、徳山教育財団(現在のメンバーは、徳山大学関係4名、地元大企業代表6名など13名で構成)
昭和62年徳山女子短期大が設立された(役目を終わり平成16年廃止)。
平成15年(奇しくも周南合併の年である。)福祉情報学部が設立、2学部体制となっている。
教職員は、教授20名、准教授16名、講師8名、非常勤52名、事務職員41名、計137名(令和2年実績)

イ志願者、入学者、在学生、就職状況
志願者の9割以上が合格している。開学時と、ほぼ同様である。
2015年以降、入学定員は充足(280名)(学費免除の、奨学生で穴埋めしていると思われる。
学生構成は、周南広域圏出身者が24名(全体の8%)うち市内出身者が8名(全体の3%)、
県外出身者が153名(全体の53%)、留学生が47名(全体の16%)
県外出身者と留学生が全体の70%を占める。
    
あきれるほど、末期の、地方私立大学である。
試験は易しく、ほとんどが推薦のため学力水準は低い、70%の県外出身者が周南市の人材供給に役立つとは到底思えない。
なぜ、他市や他国の学生のために、市費を使って教育贈与をするの、という話となる。
後便で、委員から触れられたが、徳山大学は、中退者が非常に多い、それも、4回生の退学者が多く(2019年38名)、それは他大学ではありえない現象らしい。
どうも、それだけ、教育を受ける学生の、意欲は低く、自分のキャリアと教育、そして就職する自分の人性に対する、絶望が背後にある。
これも、後便で触れられるが、公立化されると、一般的に(どこでもそれが起こったということだ。)他県・他市からの入学者が非常に多くなり、競争に負ける地元の学生は淘汰される(すなわち本来の学力競争に負けて入れなくなる。)。
これでは、公立化は、何の意味もないではないか(まさしくないのだ。)。
そして、外国人留学生の問題はさらに多くの問題を抱えている。

学部別にみれば、現在、福祉情報学部は定員割れという(すなわち就職がない。)。
学生数が一番多いビジネス戦略学科は、留学生・体育奨学生がその74%を占める(すなわち、どう考えてもちょっとそれは人材育成とは言えない。)。
就職者(卒業しての就職である。)は、市内で毎年20名程度となっており、就職者全体の10%前後という。

ウ学生納付金・奨学金(報告書本文7ページ)
徳山大学の初年度納入金は、120万程度(公立レベルでは100万円、国立レベルで80万円程度という)(その内訳は、授業料、入学金、実験実習料、施設設備費)
しかし、信じられないことに、徳山大学独自で、体育奨学生(478人)・留学生(155人)
支援制度で、合計633人 彼らは当該経費を100%免除される(毎年約3億円支出)
ほかの奨学金受給者(経済的困窮、父子・母子世帯など)が、わずか122人に比べると、その人数、金額が突出している。

 徳大生諸君よ怒れ、大学当局は、大学の売名行為と、グローバリズムに媚びるという、無考えにも、現在では、大変危険なイデオロギーに奉仕するため、君たちにこんなに多大な負担を押し付けているぞ。
 その対象が日本人であればまだわかる。
 しかし、外国人枠を見ていると、内部資料によると、それは、合計41人であり、韓国人16人、中国人、モンゴル人、ベトナム人とほぼアジア人である。
 そのアジアも、言いたくはないが、反日国家や、アジアの覇権国家から来た学生に対し、なぜ、奨学金を給付し無ければならないのか。
 それこそ、現在の厳しい世界状況の中で、今後、反日行為や、スパイ行為を行うかもしれない彼らのために、一般学生の学費を使い、徳山教育財団(地元企業の経営者は反対もしなかったのか。)は直接支援をするのか。

4経営状況及び保有資産の状況(報告書本文7ページ)
大学の経常収入は、約15億円(学生生徒等納付金10億円)、経常支出は16億円となり、毎年一億円の逆ザヤである。
それを圧迫しているのは、「奨学金合が30%以上と財政を圧迫させる大きな原因となっている」と告発されている。
「最も大きい支出費目は人件費となっており約7億円、次いで奨学費の約3億円」とにべもない。
むしろ、私には、委員たちが義憤にかられ、この理不尽を、告発しているように思えた。
奨学金を止めれば、差し引き、2億余剰金が生じ、きちんと自力経営ができるのだ。
周南市に泣きつく必要もない。

 学費を払っている学生諸君よ、怒れ、君たちの払った、貴重な学費は、外国人優遇という、腐ったグローバリズムや、体育専門学生(彼らはまだ日本人だ、国威の発揚に役立つかもしれない。)たちに安易に徒消されているぞ、怒れ。
 大学の運営母体の、徳山教育財団では、こんな安直で、理不尽な愚策が、理事会で、是認されてきたのか(先の理事の名簿を想起して欲しい。)。
 このたびの、公立化原案でも、まったく同様ではないか、学費を払う学生を集めないと、バカな伝統、いや政策は継承されるのである。さすがに、ため息が出る。

現在(2019年)、徳山大学の負債は7億円、運用資産(預金、特定資産、有価証券など)が、52億円、差し引き余裕資金が45億円と報告されている。
しかし、建物は1980年以前に建てられたもので、経過年数は40年を過ぎている。
その建て替え、新規学部で、どれだけ建設費用がかかるかは、後述する。
   
地域貢献活動については、程度がひくく(ボランティア清掃とか、そんなものだ。)、バカらしいので省く。
それが、いかなるものかは、市民がよく知っている。


 注目される意見に、下記のようなものがあった。(報告書本文10ページ以降)
ア入学定員は充足しているが体育奨学生や留学生に依存している面もあり、奨学費負担により経営が非常に苦しくなっている状況や地域進学率はかなり低い(私に言わせれば、天ぷら学生により、地域人材を養成する本来の地域大学となりえていない。)。
イ大学の退学率が他大学に比べて圧倒的に高く、その原因を探る必要がある(自分のキャリアアップを目指し、あるいは親に勧められて進学したが、学費の過重と、自己の将来に対する夢が描けずやめてしまう。私の大学時代は、学費値上げ反対で、一般学生がデモをするのが頻繁であり、そんな政治の世代に生まれなかった彼らをお気の毒とも思う。また、自負心を持ち正義を行おうとすることができない環境にある学生たちは同様にお気の毒と思う。)。
ウ公立化する場合は、市の方の覚悟がどれだけあるのか、ということが現実的にはこれから非常に大事になってくる(ありていに言えば、周南市・周南市民が無責任な投資のつけを払うことになりますよ、その時に藤井律子市長はもういませんよ、ということである。)。
 
 以上、真摯な報告に対し、私なりにそれを検討してきたが、心底いやになった。
 ここまで、読んでいただいた方も同様であると思う。
 あとは、問題点を、指摘する。
 
5新たな学部・学科の検討(報告書では本文16ページ)
殊に看護学科の創設など、国・県・他市の支援なしに、なぜ周南市が、割を食わなければならないのか。
政治家は、自分の理念に殉ずる存在である。昔、井戸塀(いどべい)議員(政治家を真摯に勤めれば個人資産など残らないというたとえ)という言葉もあったが、そのとおりであると私は思う。
公の支出や、市民の負担を担保にして、自己利害で、無責任で恥知らずなことをするな、といっているだけである。

あなたが、もともと、前職でどの程度の看護師であったのか私は知らないが、自分の夢を実現するためには、あなた、藤井律子市長が、味方を募って、自分で開設されればいいではないか、それが偉人というものである。
次回、なぜこんな事業に血道を上げるのか、その動機を考察する。
しかし、間違っても、せこい手段を駆使して、周南市や周南市民を巻き添えにすべきでない、としか、コメントしようがない。バカらしい。

こんな立派な投資は、せめて、あなたが、公選挙で県知事になって、実現して欲しい。当然、それは県内各市の協力を得たうえだ。
 
その時は、周南市が財政負担を求められたら、周南市新市長が設置に反対するかもしれないが、それは許してほしい。

最後に、今後市及び市民が将来、負うべき、無用な、箱もの債権について言及したい。

6施設改修、整備に係る経費の見通し(報告書では本文16ページ)
看護学科の新設工事積算 25億200万円
スポーツ健康学科積算  1億8,600万円
その他新設3学科積算  9億4,000万円  計 36億2,800万円

7(大学の)支出の設定(報告書では本文16ページ)
私立大学時代 人件費49% 教育研究経費17% 奨学費23% 管理経費12% 計14億3,500万円
公立後    人件費74% 教育研究経費18% 奨学費0% 管理経費8% 計18億8,900万円
その中で、人件費が49% 10億470万から、75%、13億9,700万円に跳ね上がる、のことの比較はしないが、公立化すれば、スポーツ特待生や、南鮮、中共特待生を辞めるというのか、それは、本当なのか(疑わしい。)?

8将来の大規模更新工事(報告書では本文38ページ)(疲弊した建物の解体経費、築49年から築34年までの老朽校舎の建て替え費用です。)

解体費用積算 7億8,700万円
新築費積算  80億260万円   計 87億8,960万円(約88億円)

箱ものだけで、124億は優に超える。
誰が払うのでしょうか?
市長でしょうか、違います。
周南市及び周南市民です。

少なくとも、道路、橋りょうなどの社会資本であれば、それは先行投資だ。
それは、周南市の将来の市民に対し、建設国債が可能なら、財政政策として、デフレ、コロナ不況に抗した景気浮揚に役立つ。
国政において、国民を見殺しにする、売国奴財務省に対抗する、正しい景気浮揚策である。地方レベルではなかなか大変である。
しかし、大多数市民の安心安全の確保・維持のため、必要なものは必要なのだ。

昔(私が若いころである。)、財政担当は、道路、橋りょう、調整池、ため池などの、新設どころか、保守修繕事業にすら、なかなか予算をつけなかった。
予算をつけても、宅造に係り帰属した調整池維持など、100万円ぽっきりだった(市内全域の構造物全体で年間100万円だけです。)。
財政当局は、まず、単市事業に決してするな、財源をとってこい、といっていた。ある意味、市民の安心・安全は二の次だった(おそらくどの市町も同様だったのだろう。合併して財政状況がよくなったとはだれにも聞かない。)。

時代が変わって、街角で私が見た工事看板には、「国土強じん化事業」などという、老朽橋りょう維持工事などの事業名が記されており、考え方も少し変わってきたのかもしれない。
そうであれば、国が、地方の、危険な老朽社会資本の充実に財政支援を考慮しはじめたということなのか(どうもありそうもないが)。

市庁舎も同様だ。
昭和30年代に建てられた建物は機能不全だ。当然、建て替えが必要である。市民の安心安全を確保するためのセンターである。
しかし、一部市民の無考えで、庁舎床面積が極端にけずられてしまい、そのうえで、田舎者の見栄で、貴重なスペースを使って、庁舎の吹き抜け構造が付加・温存されてしまった。
そんなものが必要であったかどうかは知らないが。

それにしても、新庁舎は、このたび、是非もなく、必要だったのだ。

何の苦労もせずに、新庁舎に入った藤井市長は幸せでしたね。

しかし、必要かどうかわからない地方大学の校舎など、こんな箱モノを、入学するかどうかもわからない学生と教師以外に誰が使う?
まさしく、世紀の愚挙である。
徳山大学は、余剰資金が、45億円あると豪語している、らしいが、箱ものだけ、124億円の前に消し飛んでしまうではないか。
それこそ、背丈にあった、大学経営をお勧めする。
不要な、巨額の奨学金(毎年3億円)を廃止すればいいのだから。
それこそ、つくひく、健全経営が実現する。

ましては、周南市の市職員の数と、人件費をあれだけ削った市当局は、不必要な、大学公立化後の、試算によれば、当初はほぼ14億円、次年度から7、8億円と聞いた、人件費を、なんの躊躇もなく、本当に負担するのか?

これは、行政改革(?) に協力して、給与、手当、駐車場まで奪われながら、サービス残業によって、市当局に協力してきた、現在の市職員全体に対する、重大な背信行為ではないのか?

たかだか、あなたの思い付きで、周南市、周南市民、周南市職員に多大な被害と苦痛を与える、あなたの政治信条とは何なのか? 

まさしく、世紀の愚策である。
そもそも、かつての行政改革は、「民間でできることは民間で」というのが、国民に納得できる唯一のスローガンだった。
立派な、官学共同にも協力的である、企業の人的要請にも合致する、国立徳山高専があるのに、なぜ、私立大学を、公営化する。
市民の、率直な疑問である。
「民間でできなくなったこと」のうち、不必要なことは、決してやらないことが、行政の最善手なのだ。

閑話休題、本来、退職した私ごときが、この問題について、批評すべきことではないですが、周南市民から、あるいは市職員から正面切った、批判の声明は出ていないと思いますので、このたび申し述べます。
このような意見を述べたことによる結果により、私が負う、周南市OBとしての、孤立と、孤独は私が引き受けます。
その前に、まず、私は周南市及び大多数周南市民の味方であり、愚劣な政策を推進する、藤井律子市長の味方でないことを申し上げます。
その一方で、市職員、心ある市民の間で、すくなくとも、この「歴史的な」愚挙について、批判軸があることを、それを根拠に、正しい義を実現されることを、元職員として、請い願うところです。
次回に続きます。

参考図書
 「TPP 亡国論」 中野剛志 集英社新書
 「富国と強兵 地勢経済学序説」 中野剛志 東洋経済新報社
 「西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム」 ダグラス・マレー 東洋経済新報社
 「目に見えぬ侵略(サイレント・インヴェージョン)」 クライブ・ハミルトン 飛鳥新社
 「デタラメが世界を動かしている」 小浜逸郎 PHP研究所
 「日本はすでに侵略されている」 平野秀樹 新潮新書
 「ウイグル人に何が起きているのか 民族迫害の起源と現在」 福島香織 PHP新書
 「公共事業が日本を救う」 藤井聡 文春新書