天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その3)(あらゆるところで猛威を振るうコロナファシズムとどう戦うのか。)

2020-06-27 11:59:20 | 時事・風俗・情況
さしものわけぎも根あがりし、プランターに妻が、青じそを植えました。田舎者ですが、私は青じそを、からむしと見間違えてなりません。とんでもない、田舎者です。
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わが郷里、下松市(「くだまつし」と読みます。)の公立図書館も、コロナ下のもとで永く閉館し、5月末から、ようやく開館しました。しかしながら、開館営業時間は縮減されたままであり、10時半から17時半までです(現在、検索してみると、現在(R2.6.23現在)は、正常どおり、営業しているようです。)。
ただし、利用者に対し、マスクの着用は厳しく定められています。

いなかでは何もかも終了時間が早く、近隣の他市の図書館は、通常17時半で終わります。
下松市は、例外的に、従前から18時半に終了することとなっており、非正規ながら勤め人の私とすればとても重宝していました。
私は、下松市に居住しているのは、水道下水道料が安いことと、公立図書館のアクセスが便利であるためと公言しておりましたので、うれしいことです。

しかしながら、市内大企業H製作所で、5月にコロナの、り患者が出たせいなのか、その後の小・中学校の授業再開、公共施設の利用については、極めて厳しい適用がされ、長い間、その付帯施設とともに閉館していました。
 これは、来たる都知事選挙のように、このコロナ過剰防衛を人気まきかえしの手段として、今年の下松市長選挙の人気取りをするためなのかと勘繰っていましたが、このたびは無投票で、市長選が終わった後も、戒厳令は続きます。
 下松市のコロナ啓発情宣車が、どうも、恥ずかしいのか、高速で走っていく。

 しかし、図書館併設の公民館は、今も、依然として「コロナ特殊営業」を続けており、なかなか、煩わしいことです。
 せめて、顧客サービスが優良な民間企業のように、利用者に対してマスク着用を義務づけるより、個々人に任せ、飛沫感染の注意などにとどめるべきです。
 山口県は久しく感染者が出ておらず、行政として、無意味で不合理な手順はやめましょうよ、という、当方の率直な感想であります。

 民間企業とすれば、風評被害が極めて怖いので、自社従業員に、毎朝の厳しい健康チェックと、勤務中・勤務外の自己管理を科していることであり、また、利用者、顧客にまで、マスクの着用、ソシアル・ディスタンシングの勧奨(強制)、マスク未着用者への冷たい視線(ここはジョーク)を、厳しく課していることはよく理解できます。
 それが、従業員を守るはずの企業の破綻にまでつながりかねないわけですから、その当否は別として、当該企業の恐怖や判断の根拠は理解できます。

 先に、歯医者に行った際、(歯医者の)隣の美容院で、北九州市小倉区から来た客から、美容師さんに感染があり、結果的に美容院全体が休業においこまれたといっていました。
 当該歯科医院も、危機意識からなのか、客が手に取る、雑誌から全部処分して、開け放った待合室の椅子以外に何もない状況です。
 懇意(?)にしている歯医者なので、「先生はジムにもいけないね」、というと、私の担当者(当該奥さん)にとっては、それは冗談にもならない様子です。

 後日、機会を改め、私もコロナ渦でうんざりしていたので、どうも死亡者が1,000人にも満たないし、ほぼ老人の死者しかないのに、毎年のウイルス感染死亡者は、二万人弱に比べて少ない数であり、すぐにでも平常に戻した方がいいじゃないか、というと、うちの先生も同じことを言っています、との回答である。
 しかし、彼女は、平常業務に戻すとは、決して言わない。言えない。
 ついでに、私は、もし私がコロナになって死んでも、あるいはがんになって死んでも、私の天命と思って頓着しないといったが、スルーされた(そういうものかもしれない。)わけです。

 私の通院履歴は、ほぼ一月につき一日であり、私がその間にどのような行動をとっているか、彼女は知らない、県内に一人も発症者がいない中で、私がジムに通おうと、プールに通おうと彼女は関知しないのである。
 私も、私の一月間の行動を彼女に話さない。妻にさえ、そんなことは言わない(時にトラブルになるが)。
 これが高じれば、心理ゲームになる。互いに疑心暗鬼になり、今まで培ってきた相互の信頼関係を破壊する。
 これも、コロナ全体主義がもたらす重大な災禍なのだ。
 かつて、彼女は、率直で、自分の専門以外のことでもいろいろ思うことを語ってくれるので、私にとって好ましい人であった。
 彼女に対し、ひと月のうちに、私が何をしたか、何を感じたか、しゃべれないのは、私の狭い交友範囲のうちで、苦痛である。
 相互に感情のやり取り、思いやり、共感を示せない会話とは、社会生活とは、かくもつまらないものなのか。

 先に、友人の図書館員と話した際(別の市の職員である。)、彼女が、しばらく閉館となる、というので、じゃあ、閉架式で、貸付を始めたらどうなのか、と提案したら、そんなことは無理だとの回答である。
 まともな行政職なら、それくらいのことを検討すべきではないかと、私がいうと、怒られた。
 上述した、わが下松市では、コロナ災禍のもとでも、ネット予約と、当該図書の窓口引き渡しだけはしていた。
 足りないが、工夫した対応ではある。

 閑話休題、友人の彼女はコロナを憎んでおり、彼女のコロナ過剰防衛に対する意図と気持ちは、どうも、彼女は、父母と同居しており、その体調と、り患の可能性をおもんばかっているように思えた。
 十分に理解できることである。したがって、彼女の声も大きくなる。

 しかし、個の問題と全体の問題をはき違えてはいけない。
 日本社会の全体の問題として、現在のコロナ災禍が、政府の無策を助長する、一般大衆のそれこそ「弱者を思いやる」とか、「人に嫌われることはしない」などの、それだけでは安い善意や無思慮な正義によってあと押しされ、それが、強力な同調圧力や、間接強制として、国家経済の正常復帰を妨げ、若者たちの雇用を追い詰めている窮状、公立教育・国民の医療さえ妨げとている、この現実のもとで、何の意味があるのか。
 また、当該現象を危機としてとらえず、本来採るべき適正な経済・財政政策に着手せず(まず最小限として消費税の停止・事業者の粗利補償)、コロナ騒ぎを停止しない中央政府に何の価値があるのか。

 笑い話ではない、このままいけば、この冬のインフルエンザウイルスまで、際限なくコロナ全体主義のもとで、戒厳令は続くであろう。
 その中で、日本経済はとどめをさされ、なお一層、敵国中共に食い物にされる状況となり、日本国は、あのファシスト国家の属国(経済的に、パナソニックなど、いつでも国民の知的財産を売り渡す準備に入っているではないか。ファシスト国家に加担し体制強化に直接加担する売国行為である。商売人が商売だけを目的にするとどうなるかと、警世家・実践家であった、創業者に恥ずかしくないのか。)と化し、若者たちには、絶望と無気力がまん延するであろう。
 そこは、老人であっても、例外はない。ああ、なんと恥ずべき企業に成り下がったかと、思うOBも少なくない筈である。

 そうなれば、それこそ今後の社会は、無秩序と犯罪が頻発するようになるかもしれない。
 礼儀正しく、他者への思いやりと察しを大事にする、日本国の伝統も、文化も死に絶えるかもしれない。
 そんな、暗い救いのない未来を、私たち老人は望まない。

 再度申し上げる。
 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか?

 死ねと言っているわけではない。若さに執着しても、寿命に執着しても、あまり意味はない。私たちの多くはそのようにできている。
 社会の中で普通に、できれば楽しく暮らし、運が悪ければ死んでいく。それだけのことである。
 また、その方が、普通の人性として「自然」である。
 私たちは将来に希望を残して、幸福に死んでいきたい。

 うちのおば(82歳)に聞いてみると、彼女も在宅の一人暮らしであるが、何もかも制約されて、私もうんざりしたのは同様だが、もし、運悪く、り患したら私はいつ死んでもいいと思う、といっている(いざとなれば、お互いに多少あがくかもしれないが)。
 それが、多くの、今世に、在宅で暮らす、老人たちのそれが平常時の良識(コモンセンス)で、本音でありはしないか。

 つくづく、私たちは、3.11東日本大震災の教訓を、早々と忘れていたのではないかと思われる。
 当時、り災、被災した人がまず必要であったのは、それぞれが、速やかに自立した日常生活に復帰することを望み、それを支援することが第一義だった。
 しかし、中央政府による、その対応に、時間がかかればかかるほど、被災者は日々に生活に困窮し、苦しみ、復興と、被災者の速やかな社会復帰に大きな禍根を残した。
 なぜあの時に、組織的な早期支援ができなかったのか、というのは、政府・地方・市民たちの中の、それぞれの局面で、心ある関係者大衆の反省ではなかったかと思う。
 (自然災害が、パヨクによって、反原発運動にすり替えられたのは、非常にくやしい思いがする。)
 大規模な自然災害に対して、「がんばろう日本」だけでは済まなかったのである。
 あの時は、2万人弱の犠牲者を出したが、この度の犠牲者は、コロナが直接の引き金になったかわからないところで、まだ、1,000人に達していない。
 数の問題ではないというかもしれないが、社会全体に与える損害と、今後の私たちの孫子(まごこ)たちに与える影響は、この度のコロナ災禍の方がもっと大きく、国民に甚大な被害を与えるものかもしれない。

 わが県でも、岩国市では、5月の連休明けから公立小中学校が再開され、独自の取り組みを始めた。
 それで支障が生じたとは聞いていない。
 相対的に英明な首長である。

 わが市では、5月下旬にようやく学校が再開された。それぞれの学校で、学ぶ権利、教える権利を奪われた、日常生活を送る権利をうばわれた、生徒たちや、心ある教師たちの、苦衷と無念を私は思う。
 小学校の校庭のそばを、車で通るたび、楽しく遊んでいる生徒たちが、熱い中で、友達ともみ合いながら遊びつつ、マスクを強いられるのは、本当にかわいそうである。
 それを強制せざるを得ない、教職員たちもお気の毒なことである。

 それこそ、私たちは、その社会生活を支障なく過ごせることをずっと、かれこれ半年間の間も、コロナファシズムによって阻害されてきた。

 言ってしまえば、中央政府がバカでも、地方自治体までバカである必要はない。
 かつて、地方自治体の、能力ある指導者は、過日、国を承服させる「正しい」選択を行ったことも記憶にある。

 地方からでも、今すぐ、コロナ規制をやめましょうよ。
 それは、十分可能と私は思います。

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。(その2)(NHKのコロナ取り組みについて)

2020-06-16 20:31:51 | 時事・風俗・情況
6月14日、先ごろ(5月と言っていた。)から中断していた、NHKEテレの、NHK杯将棋早指し選手権を見た。

従前から、コロナ戒厳令のもとで、日常生活の娯楽さえ奪われた、国民大衆のため、なぜ、NHKは、せめて社会的引きこもり(?) である視聴者の無聊を慰める(?) 良質な番組を、なぜ、追加作成しないのか、と思っていた。
それこそ、肉体のぶつかり合いどころか、究極のボードゲームである日本将棋の放映をなぜやめたのか、と不審に思っていたのである。
そもそも、限られた人数しか存しない、スタジオ録画で、出演者・スタッフ相互で感染が生じるかどうか疑わしいにも拘わらず、勝手に放映を休止し、国民の意欲低下に、また、将棋ファンへの裏切り行為に、なぜ、公共放送として、加担するのか、不思議にも思っていた。
公益社団法人日本将棋連盟の思惑もあり、調整するのであろうが、一時のタイトル戦のように、寺社の広間を借りるなどとか、大スタジオで行うなど、なぜ、対応ができなかったのか。
最近の将棋ブームのもとではあるが、コロナ騒動で、若手棋士たちに対局の機会が与えられないのであれば、彼らの収入は対局料と聞いていたので、対局料なしにいかに生計を立てるのであろうと、私も心配していた。

その一方で、NHKは、コロナの原因国である中共を扱う番組を、最近とみに過大に報道し、その歴史・文化、少数民族の歴史、中華人の歴史・史跡などを好んで放映している。
あたかも、中共が歴史ある平和な文化国家であるかのように。
NHKは、報道機関として、なぜ、ウイグル・チベットの少数民族の政治的抑圧、中共ファシスト国家の現在の内部矛盾問題と、台湾・東南アジア諸国、日本国に対する軍国侵略体制、コロナ下で彼らが使嗾する、世界平和に対する国境を越えた反動・敵対体制についてなぜ放映しない。

これはどうも、パヨクマスコミの常套手段であるが、「国民の皆さんお怒りはごもっともですが、冷静に対応しましょう。彼らは、資本主義の矛盾の中から、歴史上稀に生じた、サヨク国家なのですから・・、おまけに国力が増し、批判報道すればどんな支障が生じるかわからないので、反中共などという怖いことはできません。」、いつものバイアスのかかった迎合主義である。

NHKは、なぜ、そんな、腐った、サヨク迎合商業主義に追随・加担するのか。
国民の、反中共感情を和らげるため、インテリ放送局として冷静に国論のバランスをとっているとでも考えたら、とんだおかど違いである。

何度も言うが、公共放送NHKの運営費は、ブローバリズムの暴威の中においても、日本に住むしかない、外国にも逃げ出せない、貧しい大多数国民大衆の受信料によって賄われている。
私たち大衆の立場に立たない、またその利害を自らの番組の理念に繰り込まない、また、それをすっかり忘れた、公共放送を標榜して、何の意味があるのだ。

私は、早くに、政治的な引き回しを受けず、健全な国民国家を肯定し、大多数国民大衆に加担するナショナリストとして、転向した。

しかしながら、その宿痾が、死んでも治らない馬鹿左翼は延命し、いまだに、毒気を振りまいている。
いまだにとどめをさされない、パヨク信仰を、米欧の偏ったマスコミに倣うことはないではないか。

私たち国民は、そんなバカの抑圧擁護や根拠のないサヨク信仰に忖度せず、現在、一様に、不快な思いで、いやな世相を暮らしている。
一部の奇矯な支持者(私の偏見) もあるだろうが、せめてNHKは、コロナ戒厳令のもとでは、韓流ドラマの放映をやめて欲しい。あれは、娯楽ではない、ストレスになる。

だいたい、例のソシアル・ディスタンティング、ではないが、なぜ、NHKは、対人間隔が、2メートルなどという迷妄言説に加担し、毎日・毎回、反復放映するのか。

いつものように脱線するが、私は、かつての名作アニメ、「人造人間エヴァンゲリオン」の作中に出てくる、ATフィールド(対人の距離感というのか、人間関係に基づく桎梏(しっこく)と愛憎の矛盾)に似ているものと、思わず笑ってしまった。
まさしく、精神の病は、「人間(じんかん)」の病である、というテーゼに従えば、これは、NHKが悪乗り・加担した、コロナ戒厳令下の、精神の病ではある。

 先に、NHKBS放送で、この度、新作映画が公開されるという「人造人間エヴァンゲリオン」のオマージュ番組が放送された。
それは、オタクの味方、NHKの知性派かつ美人の杉浦友紀アナウンサーのMC(司会)で始まった。
しかし、それは、コロナ下におけるNHKの苦肉の策かもしれないが、熱い思いを語るはずの各出演者は、全員、個別・映像参加であり、したがって、対話を通じた相互の意見対立も共感も、いわゆるそれを通じた相互共感・理解も、盛り上がりようもなく、杉浦アナウンサーの努力にもかかわらず、しまいにはこちらの興味もとだえてしまい、まことに残念な結果になった。
せめて、彼女がMCを勤める「英雄たちの選択」の時のように、丸い、大テーブルででも、皆を集めて実行すべきであったでしょうに、と感じた。
更に脱線するが、先の番組で、杉浦アナウンサーが、城址の現場にロケに行くこととなり、口を滑らせたらしい、磯田道史氏が、「あなたがもし現場へ行くというなら、世のおやじどもは喜んでついていきますよ」と発言した。
彼の友人たちの多くはそう思っていたかもしれず(多分彼女は人気者です。)、思わず笑ってしまった。

予てから、公序良俗を体現するかのようなNHKのアナウンサーでありながら、突っ込みが鋭く、下世話にも通じ、知性豊かな杉浦アナウンサーは、有能な人であり、私もひそかなファンであったのであるが・・・・。
というのが、かつてこの番組で古代史を扱い、縄文の妊婦を模したと思われるあの女性土偶をみた杉浦アナウンサーが、「私この像を見ると泣きそうになる」と言明したことがあり、それは出産が、古代においていかに命がけの仕事(使命)であったか、女性として身につまされる、と思ったのだろうと思うが、私は、彼女の豊かな想像力と情感に感動した。
 久しぶりに、NHKの良質なアナウンサーを見たと思った。

 かえすがえすも、この度の失敗はとても残念です。後日、リメイクがあればよいと思います。
 閑話休題、この失敗は、対人距離と、同時存在性というものが、いかに人にとって重要であるかを、如実に証明することとなった。
 いまさら言うまでもなく、相互の対話とか、面と面を合わす、コミュニケーションというのは大変重要で本質的な問題でもあり、人間の歴史の深層・基底に根差しているものです。

 それに対して、それこそ、この度の騒動で、その人間的な営みの中で、「コロナにより、一人も犠牲者を出さない」などと、安易に集団を排除し、安い正義で、人の自然な営みに踏み込んでいいものとは思えない。なぜ、こんな理不尽な規制をするのか。

 何度も繰り返すが、私たち老人は死んでいくのが仕事である。
 今世にいれば、娑婆で暮らせば、いずれ病気・事故で死んでいく、それこそ普通に日常生活を繰り返す中で、若者たちの希望ある未来のために、笑って死んでいこうではないか。

 最初に戻って、どのように、将棋対局をするのか、とみていると、このたびの対局者は、若手の中村太地七段と、大ベテランの谷川浩二九段の対局となり、抱負の言明ということとなり、中村棋士が、「長いこと対局できない状況が続いたが、本当にうれしい、一手一手心を込めて指したい」と言っていた、感動した。
 引き続き、谷川浩二九段が、日本・世界の大きな危機の中で、ここに至るまで、ご手配ご協力いただいた、関係者に感謝すると述べ、常識と深みのあるあいさつであった。デビュー以来、「光速の寄せ」という天才的な棋士であったが、長く棋士であることで、人間的な成長を遂げた人であろう。

 対局は、囲い付きの座卓に面した椅子で行われることで、将棋盤の中央が、木枠の中央に例の塩ビの仕切りが設置されている。双方ともマスク着用対戦である。
 伝統的に、畳・正座対局であるという、将棋において大きな変換である。やむを得ないものであろうが、棋士諸氏には、驚天動地のことであろう。

 勝負の結果は、谷川九段の勝ちになったが、二人とも、順位戦(例のA組とか、B組とかいうあれです。)B級2組というあれなので、それぞれ実力的には伯仲していると思われる。

 読み上げ係も、計測の係りも、離れて一人で賄い、極力、人を減らす努力をしていた。
 そのためなのか、終了後、感想戦も何も行われず、終了とほぼ同時に、番組は終わってしまった。
 駒指しが、素手で、薄い手袋を使ってとはされず、さされたのはせめてと思うが、マスクと、塩ビの仕切り越しに行われる、真剣勝負、殺し合いは、当事者にとってまことに、まどろっこしく、悔しいものであったろうと、推察される。

 お気の毒なことである。もし、それが実力を出されるために支障であれば、相互の任意で、取っ払えばいいのではないか、と、私は思う。
 それを言明すること自体、自分自身のみならず、所属の将棋連盟、傘下の友人棋士一同を、困った立場に追い込むことは、想像の範囲である。

 今後も、このような体裁で番組を継続するのであれば仕方がない、しかし、死者も増えない、軽微なウイルス防護を至上のものとして、あらゆる「人間的活動」を妨害・阻害する、悪の根源、コロナファシズムを、私たちは、自ら追放しようではないか。
 NHKの番組作成者、もう少し見識なり、識見を持ってよ、という言説になる。

 私の信条、
 マスク着用を義務づける店舗・商店には入らない。
 協力をお願いする店舗には入る、そして、時に、えずくことなどがあれば、自己の飛沫を防護・処理する手段は講じる。
 コロナファシズムに抗するため、自己欲望(大したものではないが)は追及する。もし、周囲といさかいになった場合は、私自身の知性と、倫理によって、判断する。

 うちの英会話の教師が、自己のコモンセンスで判断するといったことは正しい、と思う。
 きちんと自分の意見を持ち表明することについて、西欧人は一日の長があると思うが、私は、日本人も、あなた任せのバカばかりではないのでは、と考えている。

若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか

2020-06-11 10:34:15 | 時事・風俗・情況
 
 今年もJAの直販店で、ラズベリー(私は色や艶からブラックべりーではないのかと思っている。)を見つけた。心なしか、今年はちょっと酸っぱいと思える。世相のせいだろうか。
 先に、下の孫に、近所の空き地に生えていたキイチゴをたらふく食べさせてやれた。赤いイチゴも、黄色いイチゴもたくさんあった。
 腹を壊した、とか言っていたが、じじの知ったことではない。
 身の回りに、受けいれ、楽しむ自然があるのは、大変重要なことである。
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 先に、文芸評論家浜崎洋介氏の「「過剰自粛」の不条理と戦うために――敵は「コロナ」ではない「過剰自粛」である」(2020.5.6)を読んだ ( https://the-criterion.jp/category/mail-magazine/)。
 いなか暮しの、私自身にしても、本年2月以降、長期間において、引きこもりを強いられるような、閉塞した状況と、雰囲気、気分を抱えた、鬱屈した状況にあります。
 しかし、実際のところは、従前から、殊に都会部で暮らす若者たちの、厳しい、また、悲惨な状況に、思いを馳せていたところです。
 このたび、著者が告発する、過剰なコロナ対応、同調圧力、間接強制により、自らの生活手段すら奪われ、また、食いつぶすたくわえすらもない若者たちの厳しい状況を、改めて認識しました。
 一日も早く、彼らが、歴史上でも、最も道徳的な方法(すなわち速やかに、彼らが、独力で、自力で働くべく職場の確保と事業の再開への粗利補償などの金銭補助)で、まともな経済活動が再開し、自立の手段を獲得することを望みます。

 私は、さすがに、当面、給与の未払いも、レイオフの境遇でもないのが前提ですが、私なりに、身の丈、境遇に応じた、このコロナ下の情況のもとで、私たちにとって何が問題なのか考えます。

 私たちの、「社会的な活動」という言葉を言い換えれば、個々が行う「日常的(共同的)な活動」と言い換えられると思われます。
 私たちの日々の仕事(務め)は、社会的活動であるのは間違いないわけです。
 また、それは、その生業による収入を得る手段、人としての義務(?) であるというのみならず、なにがしか独自の自分の仕事や責任を達成することにより、他者の評価や承認がないと、それは仕事の甲斐がないということとなる。
 そして、どうも、その結果が伴わないと、私たち個々は反復継続する意欲がなえてしまう。
 それこそ、「金だけやるから好きにしていろ」というのは、人間の本質性をなめた浅薄な理屈である。
 どうも、それは、社会生活においては、きわめて互酬的な行為であり、深い根拠をもっている。
 また、その時、組織(人的な集まり)として、同じ目的を果たすことによる、喜びの共有など、相互の「共同受感性」も当然にあると思われます。

 私たちに、互酬や共感の気持ちが欠けると、それぞれの生活の中で、自立した対等の人間としての自負心や、相互の信頼が失われ、長期的な人的な関係は成り立っていかないようだ。
 それこそ、家族内においてさえ、乳母日傘(おんばひがさ)の身分、一方的な贈与は極端であり、言葉や物による相互の交流がないと、一方的な人間関係は、ゆがみが生じ長続きしない。
 
 そうとすれば、私たちは、まず、自己の義務と責任とある仕事を遂行し、どうもその後に、家族の生活、そして、最後に、私たちが希求する、個々の娯楽や、気晴らしの世界である。

 人はみな、自己の生まれに責任を持たない、また、私たちが生まれた社会は、極めて理不尽で、不平等な境遇である。
 しかし、多くのまともな生活者は、その中で、自らの境遇に無理やり適合し、懸命に、我慢して耐えて、生きている。
 しかし、やはり、なにがしかの理由でそのサイクルが、長期間にわたり欠け続け、外部と自己のそのバランスが崩れると、その本来の社会生活に支障をきたしてしまう。

 具体的に、現在の私の境遇とすれば、年金の不足分を、再任用の給与で補っている。かつかつ、やっていけるわけである。その身分に格別の苦情はない(それはまず、なにがしかの前提を選んで述べている。景気・経済対策を怠り、大多数国民に塗炭の苦しみを与える、政府・財務省を私は決して許さない。)。 

 晴れて、前期高齢者になった、私の「仕事」とは何であろうか。
 それこそ、退職以来、際限のない、モラトリアム(待命)時間に陥り、この度の、コロナ災厄でつくづく、たとえとすれば、閉塞した箱の中で思考するようなことを強いられた。
 それは、外的な時間の流れと無理やり切断され、「貧すれば鈍する」ならぬ、「(社会的な)接点を失えば鈍する」という状況であり、毎日、はがゆく、滅入りこむような気分であり、その気持ちも、いつの間にか投げやりに拡散化してしまう。
 どうも不愉快で仕方がない。
 本当に、現在の私も、行きどころのない「ニヒリズム」の雰囲気の中にある。

 その中で、私が、思ったのは、私たち老人は、「死を待つ常態にある」ということであった。
 老人の仕事は、「幸せに死ぬ」ことである。
 それは、今後とも、近未来において、私たちの孫や子が格別の支援なくして、自立して生きていけることであり、現在の、若者たちが、彼らの担い難い労苦によって、絶望しない社会であることである。
 それに、比すれば、コロナ災厄による死など何の意味も問題もない。
先に、生まれたものとして、老人が、先に私たち老人が憂いなく、希望をもって死んでいけばよい話である。

 私たちに、そのような覚悟を強いない人性に、何の意味もないと思える。
 私たちの人性は、それこそ開闢以来(?) 、理不尽な戦災や、抵抗できない、伝染病に幾度となく、破滅に直面してきたからである(この度のコロナという原因者が明確な不法行為は別の話である。被害者日本国民としてきっちり落とし前はつけてもらおう。)。

 私の現在の生活のどこかでコロナにり患しようと、前向きに私は自分の人性を肯定する。

 私たち老人たちが、そのとめどのない時間の中で、自分の際限のない延命と、アンチエイジングで老醜をさらして、どうするというのか。
 私は、どのようにしても、自己欲望に際限なく執着して、一日でも長く生きていたいとは望まない。
 しかし、そのような人を醜いとは言わない。
 それは、当面、個々の恣意であるしかない問題なのである。

 コロナが怖くて、外出できないということであれば、工夫をして、外出の頻度を下げるしかない。
 それが、自己に委ねられたの「自由」の選択であるからである。
 自己の決定権を他人にゆだねるのは卑怯である。死を選ぶ自由と同様で、それは選ぶ自由として、個々に委ねるしかない。それが、つましい昼食において、カレーとラーメンのどちらかの選択であっても、やはりそれは選択の自由ではある。
 
 自分の世話もできず、自己決定のできない人は、すでに閉鎖的な施設で監護を受けているかもしれない。それは、すでに、押しなべて、病院、介護施設で行われている、筈である。

 それよりは、強いられた生活、働かなければ生きていけない人、職場を奪われ、生きるすべもない人、自己の生業が維持・継続できない人にはどうすればいいのか。
貧しい若者や、生活に困窮する一般の人には、余力も預金もない、同調圧力の強要という「安い(形式的・通俗的な)正義」に拠らず、それを救済するのが、まず、何よりも最初である。
 早急に私たちの生活を正常な経済状態に引き戻すこと、私はそれをまず目指す。

 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないのか。

 殊に、若者たちは、年齢柄(?) 自己欲望が強い。彼らは、現在の、理不尽な同調圧力と、安い公序良俗の間接強制のもとで、必死に耐えている。それは、高齢者として、今になって、苦く思い当たるところである。
 デフレ・コロナの併存する厳しい状況であるが、せめて、自己の若い時(第一次オイルショックからバブルの末期の混沌)のつたなさ、いい加減さを思って、それを肯定してやりたい。彼らは、自己の人性を楽しみかつ健全な社会と折り合いの付く欲望を、全肯定する義務がある。
 それが、本来、私たちの人性の道行きではなかったか。

 もう一度思う。
 若者たちの未来のために死んでいくのは、私たち老人の本懐ではないか。

 コロナに便乗し政治的な利用を目指す、一部特権者の政治家、企業経営者など、際限のない自己欲望、自己利権を厚かましく主張する老人たちにはうんざりする。
 早く死ねばいいのに、と、強く思う。